ベッドの上、蒼助は魘されていた。

 額には興奮による体温の上昇から油汗が滲み、表情を苦痛を噛み潰すかのように歪められている。

 

「や、め……ろっ……」

 

 どーせやるならっ……、とギリギリ歯軋りが起こるその摩擦間から漏れたかと思えば、

 

 

 

―――――――っっ俺にヤらせろぉぉぉぉぉっっ!!!」

 

 

 

 異様に力の入った意味不明の絶叫と共に、蒼助は切羽詰った険しい顔つきで、ついに跳び起きた。

 全力で肺に残留する限りの酸素を使いきった為か、直後の息を詰まらせ激しい呼吸困難に陥りながら、

 

「げほっ……ぐぇっふ……ぅ、……ゆ、夢か……?」

 

 カーテンの退けられた窓から差し込む朝日と自身がいる部屋の光景を確認して、蒼助は今こそが現実であることを呼吸調整の片手間で理解した。

 ある程度息が整ってくると、大きく安堵の吐息を吐き出した。

 

「……よ、かったぁ………ん? い、いや……よかったんだよ……よかった、んだよな………? 」

 

 何、この複雑な気持ち、と先程まで渦中にあった夢の内容に対する気持ちを抱え、葛藤に嵌る。

 そこへ、

 

―――――――オイ」



「ぎゃぁぁっ!! す、すみませんっ本当はちょっと見ていたかったなんて出来心で本心なんかじゃありません本当ですマジですって!!」

「…………………何を言っている?」

 

 え、と耳に入り込んだ声に自我を取り戻す。

 落ち着きを取り戻した状態で向き直ると、開いた扉の前には既に制服に着替えた千夜がいた。それも呆れた様子で。

 

「……絶叫が聞こえてきたかと思えば…………寝ぼけていたのか。……悪い夢でも見たいのか?」

「え、いや………まぁ、別に悪くはなかった……んじゃないか、と」

「…………何故、目を合わせない。何故、泳がす」

「……………………あー、とりあえず謝らせてクダサイ。マジ、スミマセンでした」

 

 とても朝から口に出来る内容ではない。

 ここで口を割るわけにはいかなかった。

 胡乱げ見つける千夜の視線が起きたばかりの精神と身体に非常に悪かったが、ここはジッと耐えるしかなかった。

 

「……まぁ、いい。朝飯がもう少ししたら出来る。早く着替えて来い」

「あ、ああ……」

 

 耐えは報われたのか、追求はそれ以上及ばず、千夜は元から用意していたであろう用件だけを告げてあっさりと引いた。

 助かったはずなのに、その態度の素っ気無さは逆に蒼助に物足りなさを覚えさせた。

 

「あ、あれ……?」

 

 昨日の出来事とその後日である今の態度。

 イコールで結びつけるには、些か無理がある見えない落差を確かに感じた。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 昨日はあんなに可愛かったのに。



 二流小説や漫画の中で使い古された台詞を、蒼助はその作中の男達と同じような心境で心の中でぼやいた。

 

「やっべ……ちょっと、調子に乗りすぎたとか?」

 

 制服のズボンに足を通しながら、昨夜の最中の行いを振り返ってみる。

 そうしてみると、確かに些かノリ過ぎたと言えなくもない気がした。

 傷つけないように自分なりに精一杯理性を働かせたが、その制御下を欲望が逃れた瞬間も幾分あった。



 千夜も、本気で嫌がってはいなかった―――――――と思う。思いたい。

 

「………演技、だったとか……だったり、し、て………………―――――――ぐぁっっ」

 

 試しに言ってみた自分の言葉に、蒼助はかなり傷ついた。

 己の自爆行為から、蒼助の不安は加速する。

 

「……ちょっ、まて………夢って……何処までが、だっ?」

 

 朝、人間は低血圧だの眠気の名残などによって、精神的な安定がとれない状態にある。

 蒼助という男もまた例外ではなかった。

 そして、そのゲージが振り切った時、

 

―――――――っっ!!」

 

 いきり立った蒼助は上半身の着替えを済ませないまま、部屋を飛び出した。

 向かう先は一つしかなかった。

 不安に支配された蒼助は、一度落ち着くというコマンドはベッドの上に置き忘れてしまっていた。



 荒々しい足踏みで踏み込んだリビング。

 広いその空間にて混在するキッチンでは、千夜が朝食のソーセージをフライパンの上で踊らせていた。

 

「千夜っ!!」

「なんだ、早いな。これが焼けたら終わるから席、にっ……ぃ!?」

 

 千夜の朝の掛け声は、予想だにしない切迫した表情と勢いで掴みかかってきた蒼助の手によって、大いに引き攣ることとなった。

 しかし、そんな千夜の驚きも今の蒼助には全く入って来なかった。

 

「千夜っ、千夜ぁっ! 何処までだ、一体何処までが夢なんだ!?」

「ゆ、夢……? お前、まだそんなこと………」

「いや、寧ろ何処からか。暴露大会か、お前がボロ泣きしたところか、キスしたところか、それともお前が誘い文句かましたところかっ!?」

「はっ、はぁっ!? ………お前っそれ以上っ……いや、とりあえずはまず落ち着け! 何が……」

「はっ!! ってことは、首舐めたのも脱がしたのも胸揉んだり吸ったりしたんのも殺した文句も全部無しなのかっ!!?」

「落ちつ」

「だぁぁぁぁっっっ!!!! 嘘だろ!? 勘弁してくれよぉぉぉっ!!」

「……………」

「くっそ、こうなったらもう一回最初から………」

 

 戯言を走らせる蒼助は、気付かなかった。

 痺れを切らした千夜が次の行動に移る為のその予兆の動きに。



 肩を掴まれたまま、千夜の頭がぐらりと後ろに揺らめいた。

 捲し立てられる内容についていけなくなったことによる意識の失神、なんて逃避に走るような柔な精神構造を千夜は持ち合わせていない。

 千夜が選択した行動は至ってシンプルかつ、当初と変わっていなかった。

 ただ、それを実現させる手段を変えた。それだけだ。

 錯乱しまくった蒼助に対し、あくまで千夜は冷静に行動に移行する。

 穏やかな朝に、要らぬ爆弾を持ち込んだ愚か者を鎮める、否、"沈める"為に。



 狙いつけた目標に目掛けて―――――――想いっきり、打ち込んだ。

 

「っのぐぁ……っ、っ、っ!?」

 

 頭突き。

 衝撃と共に蒼助の視界を星が散った。

 脳を横に揺れ動かされた蒼助は悶絶しながら、後ろに倒れ込んだ。

 当然受け身などとれるわけもなく、追い打ちとばかりに床からもう一撃。



 意識がオチなかったのは、蒼助の頑丈さ故の幸いだった。

 

「………落ち着いたか」

「……………ハイ」

 

 互いに切れた額で流血沙汰を起こしながら、そこでようやく朝に平穏を取り戻したのだった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 額のど真ん中に四角い絆創膏を貼付けているのを長めの前髪の間から覗かせる千夜を見ながら、蒼助は物足りない感覚を依然と感じていた。

 というよりは、先程の暴走によって態度が一層硬化してしまった気がする。実際、そうであるに違いないのだが。

 

「……あの、ドレッシング取って」

「ん」

 

 差し出した手をスルーするようにドン、とその一歩手前に置かれる。

 少し固まった後、蒼助は静々とそれを手にした。

 

 ………あーあ、俺何してんだホント。

 

 個人差というものがあるのなら、成就して一夜明けた朝の態度の変化というものにもあるのだろう。

 冷静に考えてみれば、世間一般の定義上の恋人同士のじゃれ合いを千夜がするわけがない。寧ろ、いざ比較してみると、想像すら出来ない。

 振り返ると、求めていた空気は無い事は無かった。

 

 自分の奇声を聞きつけてのこととはいえ、朝起こしに来てくれた。

 リビングに行けば、自分の為に朝食を用意していた。

 

 ストイックな千夜は、あからさまな態度はなくても、ちゃんと行動で示してくれていたというのに。

 


 ………考えてみりゃ、全然イヤってわけじゃないし。

 

 ねぇ、起きて。

 頑張ったの、食べて。

 

 脳裏に甦るのは、自身が身体の関係を持っていた女達の言葉。

 思えば蒼助の望む割り切った関係を本当に受け入れた女は本当に一握りだった。

 境界を見失い出過ぎた真似ばかりして、だんだんと不快が募っていった相手の方が多かった。

 女達は自分が尽くす女であるとアピールして、だから愛せと言う。



 馬鹿馬鹿しい。

 押し付けがましいその行為に、どうして好感が持てるだろうか。

 そもそも自分は一言もそんなことを望んでいるなど、言っていない。

 尽くす代わりに愛を。

 等価交換という駆け引きを根底にしているのなら、彼女らは身体と引き換えに金をもらう娼婦と何ら変わりない。 

 打算めいた行為に吐き気すら覚えていた自分。

 

 なら、今は―――――――

 

「オイっ蒼助、何をしている!?」

「えっ………ってぇ、うわっ!」

 

 物思いに耽っている間も傾き続けていたドレッシングは取り分のサラダを盛った皿の中に並々と注がれており、その臨界点を越える寸前にまで達していた。

 ビシャビシャどころか、どっぷりとドレッシングの海に沈んだレタスが僅かに顔を覗かせているばかりだ。

 

「……あー、あ………悪い、ちょっとボーっとしてた」

 

 半分以上中身がなくなって手応えが一気に軽くなってしまったそれを置いて、フォークで汁の滴るレタスを拾い、口に押し込む。嫌いな青臭さはなかったが、

ひたすらしょっぱくて油っぽかった。

 誤魔化すように苦笑を浮かべる蒼助をどうとったのか、千夜は、

 

「………野菜は嫌い、だったな。すまない、いつも習慣で出してしまった」

「……あ、いや別に」

「無理はしなくていい。昨日、自分で俺にそう言っただろう………俺も同じだ」

「……んー、でも野菜全般ダメってわけじゃないんだよ。ただ、昔セフレが朝飯つくってくれてた頃、馬鹿の一つ覚えみたいにどいつもこいつもトマトとレタス盛ったの

出してさ。食わないとヒス起こされて揉めたりが散々で………ヤな思い出の一品というか、いつのかまにか嫌いになってた」

「……まぁ、それでは飽きるのも無理はないな。今日はいつもよりも時間がなかったこともあるから、妥協でこれを出してしまったんだが…………そういうことなら、

好きな要望を言ってくれ。食いやすいように作るから」

 

 俺もこれはあまり好きじゃない、と言いながら、千夜は義務的に瑞々しいトマトを口に含んだ。

 ぷちゅり、と一口サイズの真っ赤なそれが唇に包まれるのを見てしまった蒼助は、エロい、と口にした瞬間に全てを崩しかねない感想を抱きながら、思わず漏らした。

 

「………やっぱ、それでいいよ」

「……だから、無理は」

「いや、こっちの話」

 

 でへ、と思わず笑み零す。

 

「何だ、一体。…………きもちわるい」

「きっ………お前、ようやく成就して幸せに浸る恋人にそれはねぇだろ」

「こっ……」

 

 意識していなかったのかしないようにしていたのか、千夜は蒼助の発した単語に一気に動揺を露にした。

 それを目の当たりにした蒼助は、

 


 ………あれ、ひょっとして……。


 

 自覚はしていなかったのだろうか。

 あんなことにまでなった昨日の今日で。

 

「そんな心外だなんて顔しなくても………そりゃねぇぜー」

「別にそんなこと……」

「しかも昨日のことなんてなかったみたいに振舞うし………」

「あそこまでされて無かったことになんて出来るほど俺は寛大じゃない。つか待てふざけるなよ」

 

 突然、口調が荒れ出した。



 ヤバイまた地雷踏んだか、と蒼助の頭からサっと血の気が引く。

 完全に据わった目に睨まれて、蒼助は蛇に睨まれた蛙となった。

 

「……貴様、俺が何でこんな髪型でいるか当ててみろ」

「えっ……?」

 

 こんな髪型、と言葉にして強調されて、蒼助はようやく気付いた。

 いつもは邪魔にならないように一つに束ねられている髪が、着替えているにも関わらず流しっぱなしである。

 家にいる間は、外と内での区切りであるかのように髪を下ろしている姿を見慣れ始めていたので、あまり気にならなかった。

 

「……あれ、何でポニテにしてないの?」

「………っっ!!」

 

 眉間に皺がギュギュッと寄ると同時に、ダンっ!とテーブルの上にて打撃音が奏でられた。

 ゴゴゴ、と、千夜の背後に黒い暗雲が立ちあがっていくのを蒼助は幻視した。

 

「何で、だと……? 諸悪の根源が、言うに事欠いてそれかっ!」

「え? え?」

 

 諸悪の根源と指された当の蒼助には、千夜の憤慨ぶりが全く理解できなかった。

 

「……これに覚えがないとは言わせないぞ」

 

 一昔前の時代劇の主役の台詞を匂わすような口ぶりをしながら、千夜は首筋を覆い隠す部分の髪を除けるようにかき上げて見せた。

 見ろ、といわんばかりの仕草に促され、蒼助は身を乗り出してそこを覗き込んだ。

 

「………あ」

 

 それらしきものを発見と共に、蒼助は思い至った覚えを声にして洩らす。

 髪に隠れていた首筋のそこには、ぽつんと控えめながらも誇張された濃い色合いで存在する―――――――俗でいう『虫さされの痕』があった。

 

「今朝、鏡と向き合った時の俺の気持ちがわかるか……?」

「……あー、そりゃすまんかった。発言撤回させてイタダキマス」

 

 確かに、先程のあの発言は失言だったと蒼助は反省した。

 朝起きたら隣に自分がいただけならまだしも、鏡で自分の身体に昨日の名残がありありとしている様を見たら、何も無かったなんて思えるわけもない。

 さぞかし昨日蒼助がした行為や発言などが、脳裏に生々しくリピート再生されただろう。

 こうして下ろしている分では見えないような場所にあるが、髪を上げたら完全に見えてしまうのは確かだった。

 

「……あーらら、結構はっきり残ったな。そんなに強く吸ったかな」

「付けた本人が他人事みたいに、よくもまぁ言えたもんだな」

「そんなつもりねぇよ。……ただ、なんか今わかった気がする」

「何がだ」

「……セフレにやたら痕つけたがる女何人がいてさ。理由聞いたら、自分のものだっていう証だっていうんだよ」

「……それで」

「それ聞いてすぐに別れた」

「………………………」

 

 呆れたのか半目になる千夜。

 

「そんな目ぇすんなって。……だってさ、気持ち悪いだろ。別に好きでもなんでもない利害一致しただけの関係の相手にそんなもん付けられたら、さ……」

「女の種類をちゃんと見分けられないお前が悪い」

「かもなぁ………でもあの時はわかりたくもなかった気持ちが、今になってわかった。

 ―――――――好きな奴に自分の痕がつくのってなんかいいよなぁって感じで」

 

 ガタン、と椅子が煩く音を立てた。

 遮るような物音と共に席を立った千夜だ。

 俯いた顔がどんな表情をしているかは蒼助には見えなかった。

 

「………ご馳走様」

「って、お前まだ残ってる……」

「いらない。朝から不快な話ばかり聞かされて食欲なんぞ失せた。お前が責任とって食え。残すなよ」

「あ、オイっ」

「うるさい。さっさと食え」

 

 堅い口調が会話を断ち切り、蒼助は二の句を継げなくなった。

 小さく舌打ち、握り込んだフォークでソーセージを突く。

 


 ………またやっちまった。


 

 昔、関係を持っていた女との話を持ってくるなど、非常識極まりないことに今になって気付いた。遅ぇよ馬鹿、と己をメタクソに罵る。

 自分が浮かれすぎているだけだった。

 蒼助にとっての関係の変化は、千夜にとっては断ち切るはずだった関係を延長及び持続させることになっただけだ。

 温度差、というものに過去に不満を持たれたが、まさかそれが自分に降りかかることとなるとは蒼助は思いもしなかった。因果応報、という言葉が思わず過ぎる。

 身体の経験を積んでばかりでもダメであったという結果がこれであるというのか。

 


 ………なぁにやってんだ、俺は。


 

 念願の成就の翌日にコレでは、先が思いやられるばかりだ。

 不安が先立つ未来に、蒼助は縋るような視線を千夜の背に向けた。

 

「蒼助」

「へっ!?」

 

 突然、名前を呼ばれた蒼助は悪戯がバレた子供のようにビクついた。

 流しで行う後片付けを片手間に、顔だけこちらに傾けられた。

 それが何の意図を以ってなのか見当つかない蒼助は、妙な緊張感を持って何を言い出すのかを身構えて待つ。

 

 すると、

 

「………そういうことをする時は、一言言え」

「………………了解」

 

                                      

 可愛い恋人は、ひょっとしたら自分よりも遙かに懐の広い男前なのかもしれない。

 

 不安はなくなったが、男としての危機感が蒼助の中に新たに居座った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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