物足りない。
そう感じていたその『もう一つの正体』に気付いたのは、蒼助が朝食を全てに腹に詰め終えて食器を千夜に渡した時だった。
「あ、そうだ……あいつは?」
「何だ」
「ユキウサギだよ、ユキウサギ。なんか足らねぇと思ってたら………そっか、あいつがいないんだよな。なぁ、あいつは?」
食事時になると何かと起こる揉め事がない。
あの小さな子供がいなければ成り立たない行為の有無は、自然とその相手の有無に繋がった。
喧しい存在だと思っていても、その存在に慣れてしまうとやはりいなければ何処か落ち着かなくなる。
「朱里なら、お前が寝ている間に学校へ行った。朝食は、三途のところで食べると言っていた」
「………へぇ。……って、何」
千夜が見返り際に放つ珍獣でも見るかのような視線に、蒼助は含みを感じた。
「……いや、普段あれだけいざこざを起こしていても、気にかけてくれるんだなって」
「まぁ、いるといないじゃ違うっつー話で……」
気恥ずかしそうに顔を逸らしてゴニョゴニョとはっきりとしない蒼助を見て、千夜はクスリと微笑う。
「俺がいない間に随分仲良くなったみたいじゃないか」
「ばっ……そんなんじゃねぇよ。あいつと二人の間俺がどんだけ神経擦り減らしたか知らねぇくせにっ。あのガキ、お前が出て行ったの俺のせいだとか散々詰った挙句、
風呂掃除から飯の調達まで全部俺にさせやがったんだぜ!? 拒否ろうとすると、こっちの弱みを黄門様の紋所ヨロシクで盾にしやがるわ、コンビニの飯は嫌だとか抜かし
やがるわ……って、ナニ笑ってるんだよ」
思わず熱が入って鬱憤を語っているうちに千夜が、くすくすと笑い声を零していた。
悪い悪い、と笑い合間に謝罪を挟みながら、
「素直じゃないだけなんだよ。……我侭は、他人に甘える一番の表現だ。気を許していないと、出来ないことだよ。最初の頃の警戒心の剥き出した際の棘棘しい感じは
なかっただろう?」
「………んー、まぁ……言われてみればそういう風でもあるような……無いような」
あれで態度が軟化したと認めるのは些かしこりが残るが、出会った当初は鼻についたあの棘棘しさが無くなったのは確かにその通りかもしれない。
「生意気なことばかり言うかもしれないが、悪いようにとらないでくれ。子供扱いに反抗してきても、な。………年相応の扱いを受けるのに慣れていないだけなんだ。
子供は子供のうちに、ちゃんとそういう風に扱われて、子供らしく振舞えた方がいいから……遠慮なく子供扱いしてやってくれ」
そう語る千夜は限りなく妹を思う『姉』の顔をしていた。
表現が合っているか迷ったが、とりあえず今はそれで間違ってはいないだろう。
「……子供、ね」
千夜の台詞の中で幾度も繰り返された単語を感慨深げに蒼助は小さく呟いた。
そして、脳裏ではとある記憶が回想される。
昨夜の―――――――最愛の肉親の望みを精一杯演じ続ける大人びた子供とのやりとりを。
◆◆◆◆◆◆
深夜零時。
日付変更の境となる時刻が、最近の蒼助の帰宅時刻だった。
その帰宅は多大な疲労が付き物となっていたが、今宵は格別だ。
店に着くと、予想通り怒れる魔神となって烈火をバックに背負った上弦が待ち構えていた。
黒蘭が緩やかな対応で軽減はしてくれたものの、鍛錬が始まってしまえばそんなものほとんど関係なかった。
感情によって戦闘力が向上するタイプなのだろう。怒りのゲージを溜め込んだ男の体力と持久力は、まさに底無しだった。
今夜はほぼ一方的に嬲られて終わった。
内蔵がペースト状になるまで打撃を受け続け、動けなくなったら引き摺り回された。
肉体は修復されても、疲れだけは別であることを一つ覚えた。
これだけは鍛えて自身の体力を増強させる以外にどうにもならないらしい。
「………やべ、目ぇ霞んできた」
ガクガクの足を酷使してマンションまで来たところで、疲れは眠気に転換され始めた。
エレベーターに乗り込んで、ようやく一息つく。
「……ったく、ヒデェ目にあったぜ」
上弦はとにかく容赦無い。
元々の性分なのかもしれないが、そこに蒼助を嫌う感情が拍車をかけている。
一瞬の隙が、上弦にとって蒼助を肉の塊に変える十分な機会となる。
命が一つでは足りない鍛錬。
しかし、危険なそれは忘れかけていたことを思い出させてくれる。
「ハッ……つっても、昔と大して変わったことしてねぇか」
命懸けという点では、かつて受けた母親の鍛錬と大差はない。
永遠に失ったはずのあの最も生きていると感じた一時。
それに近しい感覚を味わえる上弦との殺し合いじみた鍛錬は、それを思えば決して悪くは無かった。
闘り合う相手が目の上のタンコブだとしても。
「………到着」
エレベーターの到着と共に、最後の力を振り絞って居候先の玄関を目指す。
「寝ちまったかな、あいつ……」
自分で先に寝てていい、と言っておきながらまだ起きていればいいなんてかなり勝手な期待を寄せる自分に、蒼助は苦笑いした。
到達した最終地点の扉の前に立ち、出かける前に交わした何気ない会話の一部を引っ張り出す。
先に寝るなら、鍵を開けておいて欲しい、と蒼助は言った。
もし、これが閉まっていたら―――――――
「……出来れば、後者で」
期待を力に変えてノブに手をかけた。
しかし、残念ながら解錠済みの手応えだった。
期待を打ち砕かれた蒼助は軽い失意と共にドアを開ける。
「返事ないのはわかってるけど、ただい―――――――」
「―――――――おかえり」
予想外の返事が蒼助の帰宅に応えた。
咄嗟にまさか、と一瞬だけ期待が再燃しかけたが、玄関の段の上にチョコンと座っている小さな存在を見て、それは脆く崩れた。
「………んだよ、お前かよ。ちょっと期待しちゃった俺の男心どうしてくれるよ」
「ばっかみたい」
情けなしの容赦無い切り捨て。
疲れていると慣れたこのムカつきも一塩ものだ。
「あーそうですね。………で、お子様は寝てるはずのこの時間まで起きてんのは、そんな馬鹿な俺の姿でも見物する為だったか?」
「まさか。朱里、そんな暇人でも物好きでもないもん」
ツーン、とそっぽを向いてそんな口を叩く始末。
ただでさえ沸点の低い蒼助は、疲労によってあっという間に限界を迎えた。
かといって、怒鳴るわけにはいかない。寝ている千夜に悪いし、何より体力的にそんな余裕は残っていない。
よって、
「………そうかよ。そんじゃ、俺も夜更かししてる子供の相手してるほど暇でも物好きでもないんでな………オヤスミ」
これ以上付き合ってられない、とばかりにさっさと睡眠欲に導かれるがままに、最近の寝床としているソファのあるリビングへと足を向ける。
千夜の匂いが名残りとして残っていれば、少しは気も晴れるだろう。
「ちょっと、待って」
「あぁ?」
この期に及んでまだ突っかかって来るつもりか、と声に明らかな不機嫌ぶりを露にして睨む。
相当凶悪な顔つきになっていたのか、朱里はさすがに身を震わせて怯んだが、
「………くんくん」
「……………………ナニしてんの」
チョコチョコと動き回って蒼助の身体に小さな鼻を寄せる朱里。
鼻をすんすん鳴らす音から、匂いを嗅いでいるのだと察し、
「………何なんだよ一体」
「ふんふん………鼻につく匂いはしない、と。お風呂は?」
「下崎さんとこのシャワー借りた………だから、何だよ」
鍛錬の後は、血と汗が混じり合って酷い異臭が全身にまとわりつく。
そんなものを漂わせたまま、夜道を歩けば血の臭いに誘われて魔性どもを引き寄せてしまう。
そんな面倒を避ける為に、蒼助は鍛錬後は念入りに身体を清めるようにしており、鍛錬の際に汚れたい衣服は全て処分してしまっている。
「………よし、合格」
「はぁ……」
パシ、と背中を軽い衝撃が叩いたかと思えば、満足するまで体臭チェックを済ませた朱里はそんなことを言う。
これでようやく子供の相手から解放されると一息つき、蒼助は再びリビングへと足を踏み出すが、
「ストップ」
「…………………」
ジージャンの裾をむんずと掴んで引き止める朱里に、いい加減にしろ、と怒鳴りつけてやりたい欲求を残された大人げを以て抑えながら、
「………今度は何だよ……俺ぁ明日も学校だし鍛錬も当然あるし、何より眠くて………」
「でしょ。だから―――――――ソファなんかよりずっとよく眠れるところを、朱里が蒼助に提供してあげる」
「あ?」
この家には、家主ある千夜とその家族である朱里の二人が使うベッド二つしかないはずだ。
客人など滅多に迎えないのか、予備の布団も置いていない。
だから、仕方無く間に合わせにソファを使わせてもらっていたはず、なのだが。
「こっち」
「……………こっち、っておまっ………そっちは」
数歩歩いて朱里が手をかけた扉。
それは、
「お前の姉ちゃんの部屋だろ……」
「………」
朱里は蒼助の声などまるで聞こえていないかのように、閉ざされていた扉を開いて、その室内に入る。開けたままにしておくということは、入って来いとの代弁なの
だろうか、と思っていると案の定であった。
「………入って」
「……何のつもりだ?」
「………」
また無言だ。
薄暗くてもはっきりと目にわかる血のように赤い二つの瞳の放つ視線だけが、ジッと蒼助を見据えて、来いと訴えて来る。
「……っ……わかったよ」
真っ直ぐなその眼差しに千夜の面影を見た蒼助は、絆され折れた。
ついこの間はつい悪戯心で入り込んでいたが、成就による欲求の解放を黒蘭の釘刺しによって抑えられるといった始末に、どうにも躊躇が湧いた。
しかし、もうヤケクソとばかりにその一歩を思い切って、今となっては不可侵の聖域にも思えるその部屋に蒼助も踏み込む。
朱里の後ろに立ち、彼女が見据えるものと同じモノに視線を釘づけとなる。
こちらに背を向けて広いベッドの上ですやすやと安眠に浸り込む千夜だ。
「……………パジャマ姿もたまらんな」
「………やっぱ、止めようかな」
蒼助の欲望さらけ出した素直な発言に、朱里は何かを迷うような言葉を嫌そうに歪めた顔で呟いた。
迷いを振り切るように頭を振ると、
「聞きなさい、蒼助………今から朱里があんたなんかには軽く百万年は早い上身の程に合わないちょー図が高い寝場所を譲ったげるっ」
ビッと刺す勢いで振り抜かれた人さし指がベッドの上の姉を指差した。
その行動の解釈に数秒を要した蒼助は、
「……オイオイ、いくら何でも今の俺に寝込み襲う体力は残ってないぞ」
「ちっがう、てゆーかある程度想定してたボケを律儀にかまさないでメンドクサイ!」
思わず荒げた甲高い朱里の怒鳴り声に、耳障りそうな呻きがベッドの上から発された。
ギクッと肩を震わせた朱里が咄嗟に口を押さえ、恐る恐る背後の千夜の様子を伺う。
観察対象は暫く身じろぎしたかと思えば、蒼助と朱里のいる側に向けて寝返りを打った。
ここで起きられるのは状況をどう説明かなどいろいろとまずい、と蒼助は緊張した心持ちで呼吸を潜める。腰あたりの位置にいる朱里も同じ心境であるのか、ピリピリと
した空気で身を堅くしていた。
「う、ん………―――――――」
その寝方に落ち着いたのか、再び一定の寝息が千夜の口から紡ぎ出され始める。
ホッと一息が両者から漏れ、力が抜けた。
「……いい? 一緒に寝るだけよ。胸はだけさせたり顔埋めたり、ズボン下ろして下まさぐるのもアウトだからねっ」
「お前そういうの絶対に姉貴の前で言ったりしてやんなよきっと泣くから。つーかマジで何がしたいんだよ。突飛過ぎて話が全く見えねぇんだけど」
「………別に、………ただ」
潤滑とは言い難い動きをしていた唇がそこで一度止まる。
一度堪えるように強く結ばされたかと思うと、
「……これをするのは、もう朱里よりも………蒼助の方がいいんだってわかったから。ただ、それだけのこと」
「オイオイ………」
そういわれても、やはりさっぱり意味がわからない。
「だからっ………朱里は、負けを認めたの! 蒼助は朱里に勝ったの! 朱里は未練たらしくなんかしないで、大好きな人の幸せを見守ることに決めたの!
そうだったら、そうなのっ」
「あのなぁ…………落ち着けって。んなデカい声出してっとまた起きちまうぞ」
うぐ、と口を噤む朱里。
落ち着きを得ようとしてか、頭に上った血の熱を冷ますかのように頭を垂れて俯いた。
まもなくして、
「………蒼助は、この前………姉さんのベッドに入り込んだんでしょ?」
「あ、ああ………」
今度は過去の前科を引っ張り出して文句でも言うつもりなのか。
そう身構えていたが、次の出た朱里の言葉は蒼助の予想していたものとは違った。
「姉さん、どんな風に寝てたか見た?」
「はぁ? ………何で、そんなこと」
「答えて。見たんでしょ?」
冗談ではない、と声の堅さが語らずとも教えてくる。
はぐらかしていい様子ではないことを、蒼助はわけがわからないまま察し、
「………見た、けど…………別に、普通に寝てたぞ?」
「…………そう」
答えに対し、朱里は特に反応を見せなかった。
冷めた短い応えを返すと、くるり、と体を反転させ、
「あ、オイ………」
「じゃあ、見なよ………今ここで」
静かな歩みでベッドの上眠る千夜の傍に近づく。
そして、その小さな手がその上に被さる掛け布団に伸びたかと思えば、
「姉さんは―――――――いつも、こんな風にして寝てるんだよ」
取り払われる覆い。
現れた中身は―――――――
「―――――――………っ」
両足を折り畳み、背中は身を屈めるように丸まっていた。
そして両腕は己の身を抱くかのように。
揺り籠の中で眠る赤ん坊というには、些か無防備さに欠けている。
卵だ。
卵の殻の中に閉じ篭るように眠る雛の姿に酷似して見えた。
或いは―――――――
「……一緒に暮らし始めた最初の頃はね、朱里を抱き締めて眠ってくれたの」
朱里が腰を下ろすと、キシリ、と軽量の付加にスプリングが小さく鳴いた。
傍らで眠る千夜を見つめる目に、蒼助は一瞬息を呑んだ。
目の前の子供は普段見せる無邪気さといった子供らしさを何処へやってしまったのか、それらに繋がる要素を一切取り去った達観した眼差しを紅の双眸に宿して、
そこにいた。
「姉さん腕はとっても温かかった………それまで朱里は寒くて凍えそうな場所で一人ぼっちだったから……寒くても温まる方法なんてなかった。姉さんは腕の中で朱里に
一人ぼっちじゃないんだって、もう大丈夫なんだって教えてくれてるんだって…………そう、思ってたよ」
「思って、た?」
今は違うのか、と暗喩して繰り返してみると、
「………一年くらい経ったくらい、だったかな。学校にも慣れて、こっち側の世界にも馴染み始めて……そろそろ一人で寝れるようになろうって姉さんに言われてさー。
でも、やっぱり寝付けなくて姉さんのベッドに潜り込もうとしたら………ね」
「…………」
「その時これを見てね、気付いたの。寒い場所で凍えそうな想いをしていたのは、朱里だけじゃなくて姉さんもそうだったって。誰かの温もりに縋りたかったのは、
姉さんの方だったの。………肝心の姉さんは、気付いていないけどね」
ずるいよね、と笑みを含んだ声が零れる。
そこに蒼助は微かに震えが生じているのを感じた。
「……一人で寝れるようにってなんて言って………姉さんは朱里が自分から離れても生きていけるようにしたがっていたの。朱里を日の当たる世界で生きていけるように
して、自分はまた一人だけで真っ暗なところに戻ろうとしていたの。ずるいよね………与えるだけ与えて……いつでもいなくなれるようにしてるの」
「……言えばいいじゃねぇか。お前がどうしたいかを、よ」
「何言ってんの………? 無理に決まってるじゃん………姉さんが頑固なの朱里がよく知ってるんだから……。姉さんは、朱里に子供は子供らしくして、無理しないで
甘えていいんだって言うの………朱里は、早く大人になって姉さんの支えになりたいのに、そんなこというんだよ、姉さん」
「…………っ」
つらつらと哀愁を漂わせて紡がれる語りを聞いていて、蒼助は通い合っていると思っていたこの姉妹は擦れ違い続けてきたことを理解した。
姉への思慕は、その対象の望みによって爪弾きにされてしまっている。
目の前のこれは、報われない愛というべきなのか。
「……蒼助は、姉さんを泣かせたでしょ?」
「えっ……あ、あれは………つか、お前起きてたのかっ」
「いいでしょ、別に。空気読んで寝た振りしてたんだから。……………………それと―――――――ありがとう」
「は?」
どういう繋がりで礼を言われる展開になるのか。
「あんなふうに泣いてる姉さん、初めてだよ。朱里の前じゃ、どんなに辛くても哀しくても……平気、だなんて言って辛そうに笑うだけだったから」
「…………そうかよ」
「ねえ、蒼助…………こっち、来て」
手招く朱里の言葉に従い、蒼助は言われるがままにする。
「手、出して」
差し出した手を手に取ると、朱里はその手を自身の肩を抱く千夜の手に触れさせる。
ぴくん、と反応を見せたその手は、ぎこちない鈍った動きで変化を見せた。
肩から外れた手は、蒼助の指をキュッと握った。
「えへへ、可愛いよね…………触れたら、ちゃんと握り返してくれるんだよ? こうして、応えてくれるのに………」
「馬鹿じゃねぇの、コイツってぇ!」
「馬鹿じゃない! 素直じゃないだけなのっ可愛いのっツンデレなのっ」
「そんでお前は姉馬鹿か……」
間髪なしで思いっきり叩かれた蒼助は、その反応速度に若干感心さえしてしながら、
「………で、お前は結局俺にどうしてほしいんだよ」
「言ったじゃん。……一緒に寝てあげて」
「いいのかよ。お前の特権だったんだろ」
「縋りつくなら、大きい体の方でしょ……包み込めるくらい」
だから朱里は早く大人になりたかったの、と朱里は済んだことを悔やむようにそう呟いて、ベッドから降りた。
出て行くのを感じさせる遠のく気配を背に感じながら、蒼助は振り向きもせず、
「………いいのか、お前はそれで」
「蒼助は願ったり叶ったりなんだから、そんなの別に関係ないでしょ……」
「俺はお前がいいのかを聞いてんだよ」
ひたひたと聞こえていた足音が止まる。
「………あんまよくない。てゆっか、ムカつく。でも……自分の我を通したところで、相手と全く噛み合わなかったら……そんなの虚しいだけだもん。
だから、朱里は……こうする。……これでいいの」
蒼助、と大きくはないものの強く響く声が朱里から投げられる。
「………ちゃんと気付かせてあげてね。姉さんも、温かいところにいてもいいって……生きていけるんだってこと。
―――――――ヘマしたら、承知しないから」
脅し文句を口にしながら振り返った顔は、それでも信頼を滲ませた確かな笑みを浮かべていた。
◆◆◆◆◆◆
大人になりたいと、あの子供らしくない生意気な少女は言った。
そう背伸びさせるのは、姉への過度の思慕だというのなら、蒼助が彼女に譲られた役割を果たすことで、朱里も本来の子供の型に気に病むことなくはまることできる。
………子供らしく、か。
千夜が朱里に対してそう念を押して要求するのは、自分がそう出来なかっただろう。
親が子供にする押し付けがましい願望、と片付けてしまうには切ない内容だ。
互いが互いを確かに想い合っている。
それにも関わらず、その歯車は少しも噛み合っていない。
………両想いなのに、か。
言いたいことがあるなら、迷わず言ってしまえばいいのに、あの子供は何を怯えて口にするのことを迷っていたのだろうか。
本音を口にしてしまえば楽になることは確かなはずなのに。
そうすることを躊躇してしまうほどのデメリットがあるのか。
………くそ、またっ。
せっかくおさまった不安が胸の奥で再燃し、もやもやと不快な感覚を燻し出す。
座っている体勢がどうにも落ち着かなくなってきた蒼助は、見つめていた千夜の背中に思わず、
「……かーずや」
「なんだ?」
振り向いた顔。
コッチ見たな、と認識した瞬間に口をついて出る言葉があった。
「好きだ」
「………はっ!?」
何だ突然っ、とあっという間に顔をトマトのように赤く熟す千夜を見て、不快感は嘘のように消化される。
入れ替わるようにふつふつと湧き出てくる満足感に、気をよくした蒼助は「言ってみたくなっただけ」とあしらった。
たった一言でも我慢せずに言えば、こんなに簡単に解決するというのに。
我慢し続けるあの子供が、今頃逃げ込んだ喫茶店で店長に愚痴をぶちまけているのを思い浮かべながら、抱えるその気持ちを理解しかねる蒼助だった。