生き方を決めて、それに相応する為に鍛え痛めつけた身体は、いつのまにか本当の意味で熟睡が出来なくなっていた。
だから―――――――
「ねぇ、今日もソファで寝るの?」
共に暮らし始めて一ヶ月ほど経ったある夜に、彼女は俺の就寝の仕方に疑問を抱いたのか、そろそろ寝ようかという時になってそんな事を聞いてきた。
疑問の中にある言葉通り、そのつもりでいた。
「……まだ何か不満があるのか」
以前、壁に寄りかかって寝ようとして頭を蹴られた。
『私の家は、野宿でするような寝方をしなければ寝れないとでも言いたいの?』とかなんとか言いながら、据わった目つきで見下ろして足が追撃の準備をしていたので、
仕方なく妥協案としてとりあえず【横になる寝方】はするという前提でソファを使用するようになった。
それでも完全に満足した様子ではなかったようだが、何も言わないでいてくれたからそれに甘んじていたのだが、
「……あれから何度も考えても、やっぱり出る答えは変わらなかったわ」
「そうか。………それであんたは、また同じ事を俺に言ってくれるのか?」
「言うわ。―――――――ベッドで寝なさい」
「断る」
ぴりっとした空気が、彼女との間に発生したのを感じる。
出会ったばかりの頃、最初にこの話題で揉めた時と同じものだ。
あの時は俺の妥協で妥協させ、なんとか今日まで話を打ち切ったが、再び挙がってしまった今日はどうなるのだろうか。
そんな勝負の行方を思いながらも、当の相手との睨み合いを押し負けないようにと続けた。
「理解できないわ。大して差は無いと思ってるみたいだけど、ソファって正直固くて腰とか肩とか痛いのよ。昼寝程度の短時間ならともかく夜を通すと後遺症が残るのに、
よく寝てられるわね」
「壁よりは遙かに柔らかい方だと思うがな、俺は」
「それはそもそも比較対象がおかしいわ。……大体、何でそこまでベッドを嫌がるの?」
そこから説明しなくてはならないのか、と千夜は少しだるくなった。
あの時と同様に「あんたには関係ない」と、拒絶してしまえばよかった。
しかし、一定の時間を共に過ごした今、依然は張り詰めていた琴線は気がつけば緩んでいた。
「ほら、【お母さん】に言ってみなさい」
お母さん。
その言葉を聴いて、なんてくだらない『関係』を結んでしまったのかと後悔が募る。
何もかもなげやりだった気分に任せてしまったのが失敗だった。
だが、既に済んでしまったことだ。後悔しても、どうにもならない。
「……………別に、ベッドで寝るのが嫌いなわけじゃない」
「なら、どうして」
「何処で寝ようが変わらないからだ。もたれかかろうが、横になろうが………俺の眠りはどうしても浅い。そういう習性が身についているんだ」
近づく気配を感じることもなく眠り続けたのはいつが最後だったかなど、もう覚えていない。きっと、そのくらいなくなって久しいのだ。
もしくは―――――――忘れたかったから、早々にその記憶を廃棄しただろう。
「それに、他人の匂いがついた場所では眠れない。ここに来たばかりの頃も……睡眠の平均時間は三十分あるか無いかだった」
「…………」
顔を見ずに捲くし立てると、彼女は沈黙で対応してきた。
さすがにこれだけ言えば、付け入る隙はあるまいと今度こそ言い負かした気配を、俺は感じていた。
親切心から言っていることはわかっていた。
だが、些か強引さが目立つ彼女のそれにはどうにも素直に応じてやれる気にはなれない。
切り捨てた罪悪感が徐々に内側で染み出してきたのを感じ、俺自身がこの沈黙に根負けして折れてしまう前にソファの上に逃げ込もうと背を向けた。
が。
「落ち着かないから眠れない、とでも言いたいわけね…………嘘つき、違うわ」
突然口を開いたかと思えば、出てきた言葉は実に遠慮のない攻撃的なものだった。
「―――――――怖いだけよ。貴方は、他人の領域で独りきりでいるのが怖いだけ」
「っな……!」
無遠慮を通り越して、失言の範疇にまで及んだ明らかな行き過ぎた発言。
聞き捨てならずに思わず振り返ってしまったのが、ここでの俺の最大の敗因だった。
「いい加減にしろよ、アンタ! 何もかもわかったような顔しやがって……たった一ヶ月足らず一緒にいただけで俺の何をわかった気でいるんだっ!」
「大袈裟ね。別にそんなつもりはないわ。……でも、貴方は今振り返ったわ」
「だからどうした!」
「わかったことは一つあるのよ。貴方は言いがかりに対しては一切無視するわ。……けれど、本当に言いがかりだったらどうして無視しなかったの?」
「っっ………」
返す言葉が出てこなかった。
認めない、と心は叫んでいるのに、その想いを形にする言葉が見つからない。
それが真実だった。悔しいことに。
「ち、がう……」
苦し紛れな言葉を零して、情けなさが一層増した。
こんな女に翻弄されている自分が、どうしようもなく情けなくて失望を覚えた。
一番認めなくないのは、こんな風にあっさりと突き崩されている自分だった。
「……―――――――来なさい」
「…………」
「……………おいで、かずや」
「―――――――っ」
絆すような優しい口調。
出会った時、そう呼ぶからと一方的に定められた自分への呼び名。
この二つが合わさったことで、意固地になって固まろうとしていた部分があっさり溶解するのを己の内側で感じた。
視線を彼女に戻せば、何処かに向う姿勢でいて片手で来い来いと招くような仕草をしている。
反抗心も今さっき一緒になって溶けてしまった。
彼女の後に続く足取りを阻む感情は、もはやなかった。
彼女はリビングを出ると、廊下の突き当たりにある二階へ続く階段へと足をかけた。
その先には、彼女が使用している寝室があるのを俺は知っていたが、何も聞かずにとにかくその後についていく。
「入って」
部屋の前についてドアを開けると、彼女は俺に入室を促す。
言われるがままに足を踏み込み、彼女のテリトリーの中にその身を投じた。
無駄なものは一切無い、こざっぱりとした部屋。
ただ一つ、視界を大きく占める家具がある。
寝台だ。
そこにだけはこだわりを感じる、大きくて上質なベッド。
一人で寝るには、サイズが大きい気もした。
パタン、と静かに退路が閉じる音がして間もなく彼女が俺の横に並び―――――――そして過ぎた。
俺の前でベッドに歩み寄ると、スプリングの効いた音を鳴らしながら上に乗り上げて、
「………カモン」
「…………」
レトロかつベタな『ベッドに誘う女』のポーズをとってみせた。
何かよくわからない白けた空気に諭された気がして、帰ろうと自然と身体が動こうとする。
「コラ」
「……………何だ、ふざけているなら俺は戻るぞ」
後ろの服の端を掴んで留めようとする彼女に言うと、
「一緒に寝ましょう」
「……………イ、やふぐぅっ!?」
律儀に言葉で応えずに振り払えばよかったのだ、と気づいたのは彼女の腕が首に引っ掛けられた直後だった。
強引な締め付けと共にベッドの上に引き倒される。
「っぐ……げほっ……なにす」
「いいからいいから」
苦しんでいる間にテキパキと俺の身体に掛け布団を被せて自身もその中にいそいそと潜りこむ。
普段は鼻をかむテッシュ箱を取りにいくのすら他人任せにするくせに、こんな時だけ異様に活発的になる上手際がいい。
「…………オイ」
「……二人一緒なら、平気でしょ」
「………他人の匂いは嫌いだ」
「そろそろ少しは慣れたでしょ? どうしてもダメなら………待つわ、あなたが私の匂いに慣れるまで」
辛抱強いのか、強情なのか。
いずれにせよ、彼女は俺を見放す気がないということだけは確かなことで、理解できた。
「…………わかったよ」
結局、俺が折れるしかないという結果を迎える。
不思議だ。いつだって、彼女を振り払えない。
振り払えていたら、俺は最初からここにいなかっただろう。
「そうだわ。子守唄を歌ってあげる」
「……………俺は子供じゃない」
「そんなことをいっているうちは子供よ」
もっとこっちに来て、と手招かれ、背中を丸めるように身を寄せる。
それ以上動かない俺に焦れたのか、彼女が自ら動いて密着する。
首筋に俺の顔が埋まるようにすると、自分は俺の頭に頬を付ける。
呼吸をすると彼女の匂いをまとった酸素が舞い込んだ。
その匂いに、何故か安堵と共に眠気を覚えた。
「ねーんねーん……」
頭の上で彼女が口ずさむ唄がふわふわと漂う。
ゆっくりと転がすような歌詞がするりするりと耳に入る。
初めて聞くはずなのに、何故か懐かしいと思った。
そんな感覚を覚えるのはそれだけではなかった。
彼女の匂いも。
彼女の唄う声も。
背中を撫でる手つきも。
服越しの温もりも。
それら全てに同じ感情を感じていた。
何故。
その疑問に対する解答を見つけられないまま、俺は彼女に眠りの中に落とされた。
◆◆◆◆◆◆
意識が落ちた一瞬の後、暗闇の中で再び意識が起きる。
そこで、今までが夢だったのだと千夜は認識した。
夢の中で眠ると同時に起きるなんて奇妙な感覚だと思いながら、千夜は体内時計が発する無音のベルに従って起床特有の怠さを宿す瞼を開ようと試みる。
「………ん、っ」
身じろぎして、いつもよりベッドが狭苦しいと感じた。
ここ暫くホテルで一人で広いベッドを使っていたせいだろうか。
しかし、それにしても朱里が潜り込んでいた時のそれよりも窮屈さが増しているように感じる。
それに加えて、身体の上に何かが乗っかっている。
これは一体なんだろう、という疑念と共に身動きの不自由さに不満に突き動かされ、その正体を知ろうと強引に視界を開く。
「………っ…………?」
壁。
そう思わせる堅くて厚みのあるものが鼻の先にあった。
黒くて薄い布の向こうには日に焼けた健康的な肌色が見えた。
それが人の肌であることにぼんやりと思い至り、ハッと我に返り動ける範囲が制限させた僅かな隙間で顔を上げると、
「………そ、うすけ?」
まだ起きる気配もなく寝付く蒼助の穏やかな寝顔が目に入った。
肩のあたりに乗っかっているのは、千夜の身体を抱き寄せる蒼助の腕だった。
「……な、何で………」
予想だにしない光景と状況に動揺し、思わず千夜は蒼助から逃れるように身体を起こした。
蒼助を帰りを待たずに寝たのは覚えている。
とりあえず、鍵は開けておいたので帰って来れるだろうと踏んで、自分は寝不足を訴える身体の要求をあっさり呑んで久しぶりの己のベッドに潜り込んだのだ。
あんなことがあった後で、蒼助とどう接すればいいかわからなくてとった一時的な逃避行動だった。
それに比べ蒼助は気まずさとか気恥ずかしさといったものとは無縁の神経の持ち主なのか、全く気にしていないのか、こんな行動に出て来る。
「……パジャマで寝てよかった」
想いを交わした後で、そんな気遣いは今更無意味だろうに、と蒼助が起きていたら呆れただろうが、当人はいまだ眠りの坩堝に落ちている最中だ。
何を思う事も無く、千夜はなんとなく蒼助の顔を見つめた。
蒼助の薄く開いた口からは、規則正しい寝息が聴き取れる。
無意識のうちにそこを一点集中して見つめてしまっていた千夜は、昨日そこが自分の身体の至るところに触れたことや、何をされたかに関する記憶を鮮明に思い出し、
「―――――――っっ!!」
ボッと火がついたように身体が熱くなる。
蒼助が出て行った後にシャワーを浴びて流しても尚、まだ身体には蒼助の痕跡がこびり付いているような錯覚と、それに対する羞恥心が一層と高まっていく。
「……ん………」
「っ!」
今ままで微動だにせず、惰眠を貪っていた蒼助が突然身じろぐ。
眉が僅かに顰められ、先程まで肩にかかっていた手は何かを探すように蠢いていた。
その手が手探りで腰辺りに辿り着くと、くいっと弱いながらも力を込めるのをそこで感じた。
「………今」
何時だ、と机の上の目覚まし時計を見ると、二つの長短の針は五時半を示していた。
通常の起床時間よりも早く目を覚ましてしまったようだ。
あんな夢を見たせいか。
それとも、隣に当然の如く潜り込んでいる人物のせいか。
いずれにせよ、まだ活動の時間には至っていないという事実だけは確かだった。
「ん……かず……」
名前を呼ばれ、ドキリと身を竦ませた。
このまま放っておくと起きてしまうのではないか、という危惧にも似た焦りを千夜は覚えた。
咄嗟に元の位置に身体を滑り込ませて横たわると、蒼助の腕が腰を抱くように回る。
胸に千夜の吐息が当たるまで密着すると、蒼助はようやく安心したのか再び落ち着いた寝息を繰り返し始めた。
「……抱き枕にされた」
ぽそりと呟いたが、それは不満ではなかった。
決して過度が力が込められているわけではなく、柔らかな抱擁は寧ろ心地がいい。
額を胸に押し付けると、一定の心音を聞こえ、それが蒼助という男が確かにここに存在していることを確信付けさせてくれて、胸の奥に深い安堵を生む。
ふと、先程の夢を思い出す。
「………ああ、だから」
懐かしい夢だった。
最近は、夢に【彼女】が異様に出張ってくる。
それが何故なのか、今ついに納得する理由を見つけた。
動きにくい中、なんとか顔を上げて頭の上にある男の顔を見た。
蒼助。
玖珂蒼助。
「お前の、せいか……」
よく考えてみれば、似ている。
あの時と。そして、彼女と。
もちろん、外見に似通うところなどありはしない。
しかし、無遠慮に踏み込まれて覚えた反発的な感情は同じものだった。
我が物顔で人の中にズカズカと上がり込んできて、それでいてこちらの不意を打つかのようなタイミングで優しくする。
ずるい奴。
ずるい奴らだ。
それなのに、一緒にいる時間は何にも代え難い温もりに満ちている。
「………温かい」
最初は、どちらかといえば先立って逝った彼らと同じ分類として見ていた。
何処へ行けばわからず、自分を道標と思い込み藁にも縋る気持ちで追いかけてきた者達。
しかし、自分は彼らを正しい道に導く光なのではなかった。蜘蛛の糸ですらなかった。
彼らを更なる深淵に誘い込み、堕とすだけの存在だったというのに。
何度目かの過ちを繰り返して理解して、せめて蒼助だけは絶対に助けたかった。
不幸か幸いか、澱に近い場所に生まれながらもそこに繋ぎ止める楔は緩く、彼はもっと明るい場所へ行ける可能性を持っていた。
自分と出会ってしまったことこそが本当の不幸で、それをわからせなければいけないと何度も拒絶した。
しかし、とんだ思い違いをしていたことに気づいた。
自分が考えていたよりもずっと、この男は強かった。
普通の人間が享受し切れるはずもない自身が抱える枷を知ろうと、少しも怯まなかった。
好きだと。
理由など無い、と言われた時―――――――蒼助の後ろに【彼女】が見えた。
『酷い自虐。……でも、私は貴方が好きよ』
いつか言った、彼女のさりげない告白。
何故、という問いに【彼女】は酷くくだらないことを聞いたと言わんばかりに、
『馬鹿ね。……好きという感情は、正確な理由なんて付かないものなのよ』
いつか貴方にもわかるわ、きっと―――――――。
『母親』のような優しい目つきで、彼女は諭すように言ったのだ。
強い人だった。
一人で立てる人。
自分の手を引き、導く存在。
蒼助は―――――――そんな【彼女】と同じ存在だった。
彼女のように細くも小さくも無い、ふしくれた男の手。
彼女のように柔らかく受け止めない、膨らみの無い厚く堅い胸板。
彼女のように、子供を寝付かせる子守唄は唄わない。
この男は、あの時失った『母の愛』を与えてはくれない。
そんなものは持っていないから。
では、何故自分はこの男は好きなのか。
失ったものを埋めてくれる同じものを持っていないこの男を、どうして好きになったのか。
何より、この男は【彼女】ではないのに。
「…………そうか」
すとん、と胸に落ちるものがあった。
落ちてきたそれの名は、理解といった。
この理解は、もう遅かったのだろうか。
それとも、まだ間に合うのだろうか。
「蒼助………俺は」
眠る蒼助が問答に応えるわけがなかった。
だが、代弁するかのように、温もりと共に蒼助はそこに在り続けている。
それだけは紛いでもなんでもない、確かな事実だった。