夜の九時を二分ほど過ぎた時刻。
蒼助は、現在住み着くマンションにて稼動するエレベーターという名がつく動く密室の中にいた。
その密室は終点である地上―――――――1Fを目指して下る。
四枚の内壁のうち一枚に背を任せて、到着を待つ蒼助の表情は何故か堅い。
彼は、先程幸せの絶頂に至った、はずだった。
それは予期せぬ水差しによって、本懐を遂げるまでには行かなかったが、想い人との成就は叶ったのだ。
しかし、蒼助の表情はそんな喜びを欠片も表していない。
まるで何かに耐えるようにぎゅっと唇を結び、目つきはいつに増しても悪い。
険悪な空気が狭い空間でその濃度を高めていくと共に、頭上の数字の表示は、5、4、と数を減らして、目的地点の近づきを報せる。
そして―――――――
「…………、」
エレベーターの動きが止まるのを、蒼助は身体で体感する。
悪魔で自動的に自分のペースで開くドアにもどかしさを感じつつも、僅かな停滞に耐えて、密室から外へ歩み出る。
高級マンションならではの広いエントランスを早足で通り抜けていく。
まずインターフォン前のガラス板の自動ドアを通り抜け、二枚目の外との仕切りとなるそこの前に立つ。
そして、そこから暗い夜に沈んだ外を見つめ―――――――探した。
脳裏に描く相手を。
「―――――――っ」
エントランスと玄関を明るくする光が届く僅かな範囲内に、その姿が闇から現れた。
黒い衣装に身を包んだ少女は、いつもの微笑を湛えたまま「やほー」と口を動かして手を振っていた。
その姿に、ひくり、とこめかみを引きつらせた蒼助は喉から何かがこみ上げてくるのを感じた。
こみ上げるもの。
それは―――――――
「こ、く、ら、ん………てめぇ、ぇっ」
憤りを開口し、蒼助は一枚の遮りがなくなると共に、
「―――――――KYにも程があるだろうが、この野郎ぉぉぉっ!!」
メールの主。
そして、窓を通して見たもの。
それらの共通の人物である黒蘭に溜め込んでいた不満を、時間帯も場所も考えずに全力で声帯を震わせてぶつけた。
対する黒蘭は、実に涼しげな態度のまま臆せず対応する。
「甘いわね。"AKY"―――――――あえて空気を読まない、よ」
「こ、の」
「大体、ルール違反したのはそっちよ? 親切にもわかりやすくイエローカード提示までして思い出させてあげた、慈悲深ーい私に……感謝は?」
「……っ、それは……つーか、待て……もし、仮にあの時……メール無視してあのまま続けてたら………」
「んん〜? そりゃぁ、ね」
中指と人差し指の間に挟んでいたイエローカードが、その二本のワンアクションで消えた。かと思えば、今度は二枚のカードがパッと入れ替わるように指の間に
挟まっていた。
その色は、黄と赤。
それが提示する意味は―――――――
「……た、退場って」
「言っておくけど、本気だったからね? 私、約束破られるのは嫌いだから」
命拾いしたわねぇ〜、と少しも崩すどころか歪み一つすらない完璧な笑みを向けられたが、その付け入る隙もなさが黒蘭の『本気』を物語っていた。
危なかった、と蒼助は急に活動速度を上げる心臓を宥めながら冷や汗をかいた。
「………ちなみにいつから見てたんだ?」
「何処からだと思うのかしら〜?」
質問を質問で返され、あしらわれる。
こんな時に俊敏に働いたの勘は、『最初からだ』と蒼助に告げた。
ああ、そうだな、とその声に同意し、
「………どーせ止めるなら、いっそのこともっと早くやってほしかったんですがね」
「あら、御褒美をそんな風に言われるだなんて思わなかったわ」
「御褒美ぃ……?」
蛇の生殺しの間違いだろ、と口にしかけるが、
「そうよ。貴方は期待以上のことをしてくれた。だから、御褒美に少しそっとしておいたの。無理に迫ったわけじゃないし、あのコからの申し出だったしね」
「………俺、期待以上のことしてたの?」
「ええ」
どのへんが、と更に聞きにかかろうかと思ったが、何しろ相手は黒蘭であることを、蒼助は冷静になって思い出した。
聞いてはぐらかされるなら、事実をそのまま受け止めておくだけにしよう、と蒼助は踏みとどまる。
「………それじゃぁ、行きましょうか」
「あ? ……ああ、ってオイ」
いつの間にか終わったらしい話を全く引きずる様子なく歩き出す黒蘭。
しかし、歩みは何故か、
「待てよ。行くってどこにだよ。下崎さんのところに行くんじゃ………」
蒼助が全て言い終えるまでもなく、黒蘭は立ち止まった。
「あら、いらないの? 御褒美は、まだもう一つあるのに」
「はぁ? ……まだその話続いて」
「―――――――見たくない? あのコの過去をその目で」
「………っ」
胸に突き入るような問いに、蒼助は続けようとした言葉を見失う。
「結果を出せたコには御褒美をあげなきゃ。……見せてあげる、あのコの過去を」
―――――――ついてきなさい。
魅惑的なその言葉に、蒼助の意識はすぐに貪欲な探究心に呑まれた。
◆◆◆◆◆◆
自分はこんな風に、何の疑いもなく他人の口車に乗る人間だっただろうか、と黒蘭の後をついて歩きながら蒼助は後になって湧いてくる若干の後悔と共に自己分析に
浸っていた。
頭はよろしくない。それは自分でもよくわかっている。
だが、その分本能的な勘には冴えているとも思っている。
他人に必要以上の施しを受けたい為にも、蒼助はそれに頼り、研ぎ澄ませる努力をしてきた。
そうして、誰であって最初の接触では疑うことから始めるようにした。
蒼助はそれを間違っているとも、悪いとも思っていない。
信用とは、そういうものを乗り越えて得たり与えたりするものだと考えている。
疑う中で、一瞬閃く勘。
蒼助はその左右によって対人関係を積み上げてきた。
なら、その実に頼もしい己の勘は今、黒蘭に対してどう囁きをくれたのか。
実になんとも言い難い御告げだった。
信用はしてはいけない。
だが、信頼はしていい、という。
………どういうこった。
一体、自分の本能はどういう判断を目の前の存在に下したというのか。
信じて、『利用』してはいけない。
信じて、『頼る』のはいい。
この二つの言葉のニュアンスの微妙な違いからして、こういうことになるのだろうか。
………まぁ、確かに一理あるわな。
黒蘭。
この小さな少女の外見で、人の目を欺く得体の知れない大きな存在。
二桁、ひょっとしたら三桁ほどの年月を積んでいるかもしれないこの大いなる存在は、たかだか生きて二十年にも満たない自分なんてちっぽけな輩が利用しようなんて、
明らかに己の分を越えている。
欠片でもそんな大それたことを考えたら、あっという間にボロ雑巾のように使い回されておしまいの未来が確定してしまうだろう。
しかし、頼るという選択には些か頷きかねるのだ。
理由なんて、単純明快―――――――謎が多すぎる、に尽きる。
何を考えているかもわからない。
何故、千夜にそこまで手を尽くそうとするかもわからない。
挙げればいくらでも疑念はあがる。
それに対して、わかっていることはたった一つしかない。
黒蘭は、千夜を―――――――想っている。
それも、蒼助と同じ形の感情で。
同類と称されて、本当にそういう共感意識が自分の中にあるかは、蒼助自身にもわからないことだったが、それだけは肯定であると告げる自分が内側の片隅にひっそりと
居座っている。
………まぁ、信用できるとか信頼できるとか……考えてもしょうがねぇことだけどよ。
結果と真実が何にせよ、今はこの女の掌の上で踊るしかないのだ。
なら、せいぜいこの女のいう期待以上とやらを実現するしかあるまい。
踊って踊って、踊り切る。
それ以外に、抗うことすら出来ないし、しない方がいい。
「―――――――着いたわ」
「あ? ………って、ここ……」
到着の報せによって、自分の世界から引き戻された蒼助は、黒蘭のいう目的地を視界一杯に映す、が―――――――
「………教、会?」
「そうよ。名前は聖・秋草教会」
そう称された到着場所は、確かに教会以外の何物でもない。
しかし、かなりの年月を積んでいるのかどうかしれないが、神聖さを感じるには少々寂れた建物だった。
敷地はそれなりに広いが、手入れがあまり行き届いていないことを表す雑草やら壁を這う蔦などが目立つ。
「……ボロイ、な」
「正直な感想だこと。そういってやらないで。一人で管理するには広すぎるもの」
「一人って……あ、待てよ」
勝手にスタスタと中へ入ってしまう黒蘭の後を蒼助は追う。
雑草に足をとられそうになりながらも、難なくさっさと前を行く黒蘭と距離を詰めようと足を進める。
そして、出入り口たる大きな扉の前に来た時、
「………、ん?」
建物の中から何かの音が蒼助の耳に聞こえた。
それは、単に音と言い切ってしまうには単調ではなくて、それは―――――――
「声、が……」
人が中にいることを証明する声。
それは何かを話すようなそれではなく、注意して耳を立てていると、
「……ここの管理者である修道女が歌っているのよ」
「シスターが一人で……道理で寂れるはずだぜ」
「それだけじゃないんだけどね」
「ん?」
「いいから行きましょう。……彼女が歌っているうちの方が、彼らに会える可能性が高いから。さぁ、この建物の裏よ」
進行が再開した。
◆◆◆◆◆◆
蒼助は病院が嫌いだ。
特に大きな病院で、人―――――――患者の出入りが激しいところは。
あの施設は見方によっては、人が死を待つ場所。
そして、最も死が溜まりやすい。
そして、そこに並ぶもう一つの同位の場所がある。
蒼助は失念していた。
一応は日本における"和"に囲まれて育った蒼助にとって、縁遠かった為、教会にも形が違うとはいえ、『それ』はあるのだ。
教会も、病院と同じように―――――――そういう一面を持つ場所であった。
「うっわ………こりゃまた、大量」
「そりゃぁ、―――――――墓地だもの」
至極当たり前のことを応えとして返す黒蘭は、やや引き気味の蒼助と違い、少しも臆することなく目の前の【絶景】を傍観する。
立ち並ぶ数えるには些か気が遠くなる無数の墓標。
そして、同じように漂い、彷徨う同じ数だけの霊魂。或いは墓よりも多いかもしれない。
幽玄にして、幻想的な何処までも現実離れをした光景。
これに対して取れる反応は、恐怖におののくか、思わず見蕩れるかだ。
蒼助はどちらかと言えば、背筋が少し寒く、前者に偏る方だった。
「薄気味悪ぃな………くそっ」
「あら、そう? ちょっと大きめの蛍が飛び交ってると思えば、なかなか風流を感じるけれどねぇ」
「そりゃ、どの季節の風流だよっ。………悪趣味め、これは幸せ気分の俺に対する嫌がらせかぁ?」
「御褒美だって言ったでしょ。……ほら、こっちよ」
そう言って、黒蘭は霊群の中を平然と突き進み墓地を行く。
あまりの数のそれに、さすがに気が引けながらも蒼助はその後に続いて、進む。
「しっかし、すげぇな………俺んちの墓地にだって、これだけの量は……」
「ここだから、よ。この時間帯には、普段は別の場所で屯する霊魂も誘われてやってくるの。いわば、彼らにとっては憩いの場所なのよ、この教会の墓地は」
「……なんか、特別なのかココ」
「特別…………そうね。自分たちを分け隔てなく慰めてくれる歌姫がいるという点でいえば、紛れもなく特別な場所なんでしょうね」
呟く言葉はあまり自分にかかわりの無いことのようで、蒼助はあまり耳を貸さなかった。
他に意識を否が応にも引き付けるものが周囲のそこら中に漂っているからだ。
退魔師としての才能がないことに、唯一特として見出していたのは霊域に赴いてもあまり霊魂が見えないことだった。
それは退魔の業を誇りとする家に生まれた者として、大いに嘆くことであったが、蒼助はその点では助かっていた。
いくらそういう家に生まれ、或る程度の耐性をつけているとしても、やはりこの世ならざる存在を認識して目に映すのには幾分精神的にクるものがある。
神経の細い者は、己の運命に耐え切れず自ら命を絶ったという例だって、実のところは少なくないのだ。
結局のところ、才能だけあってもダメなのだろう。なかなか難しい話だ。
「なぁ、本当に何でこんなとこに………あいつの過去を見せるったってさぁ」
「はい、ストップ。―――――――ここのあたりよ」
「………ぁ?」
蒼助の愚痴などまるで聞いていなかった振る舞いで、黒蘭はその歩みを止めた。
しかし、墓地の中を通り抜けたわけではなく、まだその中に立っている。
「……それと、それと、……あと、それの大きいのと小さいのも……」
「………その墓が何だって?」
「これらは、過去が眠る墓よ。千夜の過去を抱き込んで眠る者たちの、墓標………」
「―――――――っ、それって」
ようやく気づいたか、と言わんばかりにクスリと黒蘭が蒼助に笑みを向けた。
「そうよ。彼らは貴方と同じく……千夜に惹かれ近づこうとした同類……そして、それが叶うことなく過ぎ去っていった者……千夜の中に傷痕だけを遺して、ここで永遠
の眠りについた過去の人間達」
僅か数刻にも足らない少し前に見た、千夜の憤る姿が蒼助の脳裏で再生される。
揺さぶった際に、零れ落ちた過去の破片。
過去の千夜に関わった人間。
身を挺して千夜に望まれなかった守りとなった人間。
過ぎ去りながらも、存在した証を千夜の中に刻み込んで逝った人間。
それが、
「……一番右の大きいのと小さいのは、情報屋もかねていた殺し屋とその娘。その隣が、暴力団に飼われていた娼婦、その次はヤクザの舎弟。………どれもこれも
マトモじゃないけど、千夜にとっては親しい友人に違いは無かった」
「……あ、」
「何?」
「……いや、何でも……ない」
昔の女の墓はないのか、と尋ねかけたが、一般人であったのならこんなところで世界の裏側を生きて朽ちた人間と並べて埋葬などされるはずがないという当然の考え
に思い至り、蒼助は聞くまでもないことであるとその言葉を濁して飲み込んだ。
「………何で、死んだんだ?」
「それはさすがに私の口から語るには憚られる事柄だわ。……いずれ、彼らの口から聞きなさい……【死人に口なし】っていうけど、今の貴方にはこれも通じないでしょう」
「聞けって………―――――――!」
無茶苦茶言うな、とざっくばらんな黒蘭の対応に不満をもらしかけたところで、蒼助は息を詰まらせることで言葉を紡げなくなった。
「ああ、やっぱり……旨い具合に条件も揃ってちょうどいい頃合いだったわね。……見えるでしょう? ―――――――彼らの姿が」
言葉をなくす蒼助の前に、現れるのは―――――――無造作に漂う中で、確かな意図を感じさせる動きで指定されたそれぞれの墓標を漂う四つの青白い霊魂。
じっ、とそれを直視していると、霊魂は蒼助の意識の集中が高まるにつれて、陽炎のような不安定な人の形をとった。
人影と呼べる程度であったそれは、徐々に性別やその個性を明確にするまでに至った。
大と小の二つの墓には、お互いに寄り添うようにしているパジャマ姿の小さな少女とその母親と思われる、やや目つきの鋭い女。
その隣には、白髪に赤目という常人離れした外見に、娼婦が持つ妖艶さの中に何処か不思議な無邪気さを感じさせる妙齢の女。
最後の一人は、紹介された生業を感じさせるいかにもな風体をした若い男だ。
不思議なことに、亡霊特有の不穏な雰囲気は汲み取れないが、背景が透けて見えるところはやはり幽霊であることには違いなかった。
彼らはこの来訪と、初めて目にする蒼助の存在に戸惑いを隠さず、説明を求める視線を黒蘭へと向けていた。
黒蘭は、そんな何一つ状況を理解していない彼らに微笑み、
「……吉報を伝えに来たのよ。この男がついに千夜のハートを射止めたものから、連れてきたの。ち・な・み・に……あの千夜に誘わせるなんて真似を自発的のさせた
までよ」
「……………そこ、報告すべきポイントと違くない?」
こいつに見られてる中であんなことやこんなことしてたのか、と十数分前のあの行為を振り返ると別の意味で羞恥心が蒼助の中で沸いてくる。
亡霊たちの反応はというと―――――――多種多様だった。
ヤクザの男は明らかにショックを受けた様子で表情を強張らせた後、蒼助を仇を見るような目で睨みつけてくる。蒼助は、男の本能でこの亡霊にはいずれその経緯諸々を
じっくり聞かせてもらねばなるまい、と察した。
朱里と同じくアルビノと思われる容姿の女は、男とは対照的に驚いた後に顔一杯に嬉しそうな笑みを湛え、はしゃいで両手を叩くなど子供のような反応を返す。祝われて
いるというのがなんとなくわかるが、蒼助はなんともいえない気分になった。
親子の亡霊はというと、母親はニヤニヤ笑いながらも、子供の両耳をしっかりと塞いでいる。次に黒蘭の口からどんな教育に悪い言葉が出るものかわからないこと
への対応なのだろう。これが一番まともな反応と思ってしまうあたり、大分毒されていると蒼助は改めて己を知る。
「なんだろうな……まるで、恋人の父親に娘さんを下さいと言いに来て当のしかめっ面の父親の横で興味津々のその他家族に突付かれてる気分、つーのか、こりゃ」
「そんなもんね。……それじゃぁ、行きましょうか」
「はぁっ? 今さっき来たばっか……」
「タイムリミットよ。そろそろ【歌】が終わるわ……彼らとは、また今度じっくり話して。もう少し鍛錬すれば、思念を聴き拾えるようになるから」
そういうと、黒蘭は本当に引き返すべく歩き出してしまう。
切り替えの早さに蒼助は己の行動を迷うが、墓地に一人置いていかれても困るので、
「……あー、っと……ま、またなっ」
とりあえず、また来ると宣言だけはしておき、その後を急いで追う。
ちらりと、横目で見た亡霊の一部(アルビノ女と子供)が手を振っているのを確認しつつ、黒蘭の背中に迫り、
「……おい、何だよ。タイムリミットって、つーか本当に何しに来たんだよっっ」
「…………貴方ねぇ、怨霊とか生霊の強い思念を持った類じゃない……魂魄体でふよふよ漂うとかしかできないの一般人のただ亡霊に生前の姿をつくることなんて出来る
だけの力があるわけないでしょー?」
「………そうなのか」
「…………………」
「……ほんと無知でごめんなさいだからその目は勘弁やめてーっ」
こんなんばっかだ、と黒蘭の哀れみ入った冷たい半目の視線に己の知識不足をそろそろ恨めしく思えてきた蒼助だった。
「……では、何で力のない彼らが人の形をとれるのか。それはね―――――――【歌】よ」
「歌? 歌って………まさか、さっきの」
「正解。ここの修道女が紡ぐ歌には、霊的存在に非常に大きな効果・影響を与える力があるのよ。効果は色々だけど…………ここであげるなら、【鎮魂】と【補助効果】
かしら」
黒蘭は周囲の夥しい数の霊魂を見渡しながら、
「この場にいる霊魂から、邪気とか陰の気は感じないでしょう? それはね、この歌が、現世に留まる限り彼らの魂に溜まっていくであろう穢れや負の念の残滓を清め、
魂を鎮めているからよ。己の死、生きている人間から認識されないということから感じる孤独と孤立感……それだけでも負の念を蓄積してしまう不安定な彼らは、安定を
求めてこの場所にくるのよ。この歌に載せられた、"おいで"っていう想いに誘われてね。それが、この歌が持つ【鎮魂】の効果よ」
「……それで、補助っていうのは……言葉通り?」
「そう。未練からその魂を浄化することもできず、本来ならそぐわない現世に存在するだけで力を削って消え去ってしまう可能性を取り去る為に、この歌には現状維持
させる霊力の上昇及び支援効果が相乗されているのよ。特に、ここに埋葬されて長いこと在る亡霊はああやって人の姿を保てるまでになれるってわけよ」
「………歌が流れている間限定、か?」
「もう、歌が終わる。次は日付が変わる頃ね……」
「真夜中かよ………よくやるぜ。奇特なイキモノだな、シスターってのは」
「品性ってやつが著しく欠けた現代においては、清らかな役職が奇特に成り下がるんだから世の中世知辛いわねぇ……」
クスクス、とおかしそうに笑い声を零す黒蘭の大分下にあるその頭上に、蒼助は問いを降らす。
「………で、俺への御褒美って言うのは警告だったわけ?」
「……どういう?」
「気ぃ抜いてるとああなっちゃっうわよっ、てか?」
「………半分、ね」
それは正解の領分だろうか、と蒼助が尋ねようとすると、
「……貴方は、何故ああなったと思う?」
「、あ?」
出鼻を挫かれた蒼助は唐突かつ一方的な問いに対し、返す返事を躓いた。
「……何故、彼らは死ぬ羽目になったと思う?」
「………弱かったとか、そういう単純な理由じゃなくて、別の何かがあるっていうのか?」
「―――――――」
「……う、わっ!?」
黒蘭はそこで、ふと足を止めた。
突然の停止に真後ろを歩いていた蒼助は小さな障害物を前につんのめった。
「あー、びっくりした……いきなり止ま」
「……相手の気持ちを確かめるのに、必要になるものは何かしら?」
「………今度は突然何だよ」
「い・い・か・ら」
グイっと顔を真上に仰いで、目で真剣な問いであると訴えてくるので、蒼助は答えなければならなくなった思い、
「………言葉、じゃないか?」
「ハズレ………でも、少し惜しいわ」
「………あ゛ー、ギブ」
早くも根を上げた蒼助に別段失望した様子はないが、一息ついて、
「―――――――正解は、勇気よ。言葉を紡ぐ……勇気」
勇気ときた、と拍子抜けした蒼助だったが、そんな気の抜けた状態でも容赦なく刺すような残酷な内容を黒蘭は語り出す。
「……言葉を、想いを……互いが紡ぐ勇気がなかったから。口にしてしまったら、壊してしまうかもしれない、失ってしまうかもしれないという不安……それ故に紡げ
なかった。そして、それ故に結局は失ってしまった………共に在る時間を。生きて傍にいる間に、一言でも……傍にいたいと、或いは傍にいていいかと疑問でもいいから
そう言えていれば………今も千夜の傍にいたのは彼らのうちの誰かだったかもしれない」
あのね、と黒蘭は今度は諭すように続けた。
「言葉っていうのは、案外馬鹿にできないものなのよ。……言わなくても気持ちが通じているなんて、所詮は奇麗事なの。言わないと自分の気持ちがわからなくなるし、
言ってもらわないと相手の気持ちもわからなくなる。そうしてまごまごしているうちに擦れ違い、やがて取り返しのつかない事態に見舞われて………望なくても別れが
訪れるのよ」
「………あいつらは、言えなかったのか?」
「千夜もね。………どちらでもいいから、もし言えていたら………千夜は、彼らを救えたはずよ」
「…………」
やはり、警告なのだろうか。
行いを間違ったが為に、彼らは命を落とした―――――――いわば、悪例。
過去の失敗を見せ、お前は間違えるな、と言われているとまでしか蒼助にはその意を汲めない。
「………わかってないわね」
「へ?」
違うのか、と自分の考えを否定されて、もう何がなんだかの状態になった蒼助に、黒蘭は溜息を零しながら、
「……ここに貴方を連れてきたのはね………貴方が、あのコに言わせたからなのよ」
「言わせたって…………っ」
思い当たったという表情を見て、黒蘭は目を細めて笑う。
「………よく出来ました。さすがの私も、あそこまでやってくれるとは思ってなかったのよ? だからこその御褒美だったわけ。………貴方は、過去の彼らよりも一歩先を抜きん出て、リードしたわ」
「それって……すげぇことのなのか?」
「他が出来なかったことを出来るというのは、そういうことよ」
そうか、すごいことだったのか、とあの時言われて嬉しかった言葉の有り難味を改めて感じるテンション右上がりの蒼助。
しかし、
「………あと一回できたら、完璧よ」
「ん?」
「あと一回。貴方と千夜の二人が、あと一回でもそれをちゃんと言えたら、本当の意味で一安心だっていうのよ」
「………何で?」
『傍にいたい』。
これはもうお互いに確認したことだ。
あと一回言えたら何がどう安心するのだろうか。
不可解過ぎる発言に対する説明はされないのかと思っていたら、
「私が言わなくても、いずれわかるわよ。………それが、如何なる状況下で行われるかで、どれだけ難しいかもね」
「………ふうん」
肝心なところははやり伏せてしまう気でいる、とわかったところで、蒼助は言及を諦めた。
「さて………そろそろ約束の時間を三十分くらいオーバーするけど。………ここから歩いて向ったら、更に十分強の追加………ヤバイ?」
「……………………超ヤバイ」
あまり考えないようにしていたことだが、そろそろ現実に帰らなければならないらしい。
デカくて無骨な図体に似合わない几帳面さを備えるあの大男は、時間にはうるさい。
だから、遅刻常習犯の習性を抑えて、らしくもなく十分前に到着をいつも心がけていたのだ。
一分一秒の遅れすら甘んじないだろうに、この多大なタイムロスをあの男はどう受け取るかなんぞ正直考えたくもない。
ひょっとしたら、ドアを開けたら、挨拶も言い訳も許さない剛拳が頭部を吹っ飛ばす勢いで向ってくるのではないだろうか。
この想定は多数決など意味がなくなるほど『是』の色が濃い。濃すぎる。
「そんな先のない未来に絶望するリストラ社員みたいな顔しなくても、ちゃんと助けてあげるから。おまけ、でね」
「それが一番御褒美っぽいよな…………」
いまだ重い足取りで、蒼助は黒蘭と共に本来の目的地―――――――今となっては怒れる大魔神の待ちうける場所となったそこへ向かうことにした。
しかし、新たな意思を以って踏み出そうとた一歩に何か引っかかりを感じた。
「………あのさ」
「なぁに? まだ何かあるの?」
「…………あいつの縁つながりの亡霊っていうのは………あれで、全部なのか?」
「………何でまたそんなことを?」
「まぁ、気になっただけなんだけどさ…………あいつの話の中には、時々いるんだよ」
「…………誰が?」
「自分に色々教えてくれた人………まぁ、先生とか恩人みたいなのがさ、話にたまに出てくるんだよ。……もう、死んでるのはなんとなくわかったから………ひょっと
したら、あの墓地にいるんじゃないかって思ったんだけどよ…………あの四人は、違うよなぁ?」
彼らは違う、と人目見た瞬間に蒼助は判断を下した。
千夜に救われ、助けられたかもしれない。
だが、逆は無かっただろう。
助けたかったかもしれないが、皮肉なことに彼らが与えたのは哀しみと喪失だった。
「………ちゃんとわかってたのね。会いたかった?」
「そりゃ………まぁ、幽霊でもなんでも会えるもんなら会っときたいさ」
千夜に大きくかかったというのなら、と続けると、
「………あの一帯から、人目がつかないところに隔離された墓が一つあるわ」
「……何で、隔離?」
「………ゴタゴタとやかましいのが嫌いだったから、と千夜が頼み込んでまだ空いている離れた広いところに埋葬させてもらったのよ」
「死んだ人間にそこまで気を使うかよ………あいつらしいけど」
「それだけじゃないわ」
そこで打たれようとした終止符を蹴飛ばすような、響くような口調で黒蘭は歩みの停止と共に放った。
大事なことを付け足そうとしていると察し、蒼助は自然と足を止めた。
「………【彼女】は、特別だったのよ」
「特別?」
「そう、特別。……大仰に言うなら【彼女】という存在は―――――――千夜の全ての始まりだったわ」
全ての始まり。
言うとおり、大仰な言い振る舞いだ。
だが、すんなりと受け入れられる。
その【彼女】とやらが話の中に現れ始めると、千夜は気づいていないだろうが遠くを見つめるような虚ろを目に宿す。
あれだけ過去を振り解こうと前を向いて歩く姿勢の人間が、その時だけは過去に縋りつきたそうな雰囲気を垣間見せるのだ。
【彼女】が、ただならぬ存在で、ただならぬ関係だったという事実もうっすらと見える。
「……その女が死んで、千夜は泣いたのか?」
過去にただ一度だけ、どうしようもなく泣いたという千夜の言葉を思い出しながら、問いかける。
返答は、
「ええ。泣いたわ。まるで………この世に生を授けた赤ん坊が最初に発する産声のような泣き声だったわ……」
面妖な言い方だ。
人が死んで泣くだけの行為を、そんな風に例えられると、不思議と神聖さを感じる。
「大仰しすぎね?」
「………泣き方を忘れかけていた人間が、四年ぶりに泣いたのだから別におかしくはないんじゃないかしら」
「………そりゃまた深刻な情報をポロリしてくれてどうも」
どうやら千夜を泣かせるところまで持っていくのは、相当な偉業に値するらしい。
自分が初めてではないのはそれほどショックではなかったが、あの中に既にふんぞりがえって居座る存在がいるというのは、少し、否結構なジェラシーを感じる。
「……あー、なんか是が否でも会いたくなってきたぞ。………いつか、連れてってくれるか?」
「別にいいけど………でも、会えないわよ?」
「は? 何で……」
「他と違って、もういないのよ………何故か、ね。天寿をまとうするには、些か千夜への未練を遺し過ぎた彼らはこの地に己を縛り付けているのに対し、【彼女】は
そうならなかった。…………いろいろ気にかけることも残っていたでしょうに、割とあっさり放任主義に転身しちゃったのね」
「……成仏しちゃってるってことか?」
「そうなるわ」
話が決着すると、蒼助は己の中で【彼女】という女性への感情が変わりつつあることに気づく。
元々抱いていた興味と好奇心。それが無責任とも思える行動をとったその姿勢に対する怒りと、それにも関わらず千夜の奥底を陣取ることへの嫉妬へと変貌していく。
「わかりやすいわねぇ。男の嫉妬は醜いわよ」
「……うっせ」
そんなにわかりやすく顔に出ていただろうか。
どうにもならない黒い感情を抱えながら、蒼助は別れて然程たっていないにも関わらず無性に千夜の顔が見たくなった。