思考を止めるのには十分な攻撃力を持っていた発言の直後、突然着ているハイネックを脱ぎ出した。

 我に返って止めるよりも前に、千夜がそのハイネックを蒼助に押し付けて来て、

 


「これでやってくれ」

 

 と、手錠をかけろとでもいうように両手を差し出してきた。



 立て続けに襲う奇言と奇行になかなか正常な機能を取り戻さない思考回路で、なんとか己のすべき行動を弾き出し、その意図を問い出す。

 返って来た返答は、また反射的に殴ってしまいそうだから、という至極可愛らしく健気なものだったが、千夜が自分なりに懸命に蒼助に応えようとした解決案は、

寧ろ蒼助を貶める代物だった。

 正常を取り戻した理性に従った蒼助は、その要求の却下を下したが、それでも千夜は強く食い下がった。

 

「お前をもう傷つけたくない………頼む」

 

 悪魔で真剣な千夜に懇願され、蒼助はそれ以上強く拒否できなかった。

 


 ………いや、しろよ俺。妥協していい提案じゃねぇって。


 

 少し前の折れてしまった自分にツッコむが、時は既に遅し。

 結果として、グルグルに拘束された両手首を胸の下においた千夜が何やら鬼気迫る険しい顔で来いという姿勢になって、蒼助の下にいる。

 

 上半身は下着のみだというのに、色気を欠片も感じないと思う自分は間違っていないだろう、と蒼助は妙に冷静な思考で思った。

 さっきまでのイイ雰囲気は何処へ飛んで消えてしまったのか。

 


 ………違う。なんか、違うだろ。


 

 目の前の現実と比較すべく、蒼助は己の過去の経験を振り返った。

 来てぇん、と誘われたことは何度かある。同じことが目の前で起きているのだろう。



 だが、これはどうなのだ、と内心で異議を申し立てる。

 少なくとも眉間に皺をびちり刻んで、来いと気合こもった声で言われたのは、これが初めての経験となるだろう。

 


 ………来いって言われても。


 

 自分の下に敷かれた身体は、緊張していることが目で余るほど確認できる。

 ガチガチに凝り固まった身体に、蒼助は正直のところどう手を出していいかわからず困っていた。

 きつくしてくれ、と要望を受けた拘束はしっかりと役割を果たしており、千夜自身がどれだけ暴れようと外れないようにした(正直言われるがままにした自分も意外に

ノッているのではないかと思うと、尚のことやるせない)。

 


 ………さて、どうする。


 

 一応、これは準備は整った状況なのだろう。

 そうに違いはないのだと思う。



 しかし、

 


 ………止めるか?


 

 蒼助は完全に萎えていた。

 言い換えれば、調子が完全に乱されしまった。

 情事において譲れない点があるとすれば、主導権が自分の手にあるということ。これは絶対だった。

 傍から見れば、これは条件が適っているという状況に思えるだろう。



 しかし、実際は千夜の予想を上回る行動と発言によって、全く正反対のことになっている。おまけに何度も中断されて蒼助の勢いは落ちている。

 やっぱりそう都合よくいかないよなぁ、と蒼助はやめようと思えば止めることができる。



 だが、そうしてしまうとまた別の問題が発生する。

 

 身体にコンプレックスのある千夜は、拒否されれば傷つくだろう。

 そもそも、今回のコレはそんな劣等感を解消してやる為の目的もあるのだ。

 


 ………やりにくい、か。


 

 そう思った矢先に、ごめんと謝った千夜の顔が脳裏を過ぎり、慌てて心の中で呟いた想いを取り消す。



 しかし、否定できない部分があるのもまた事実だった。

 決して千夜が面倒なのではない。

 問題は蒼助自身にもあった。

 

 今まで、抱く時にも女を気遣ったことはない。

 大事に思ったこともない。

 表面上は多少そういう風を装って取り繕ったことはあるが、心の底の本性は真逆な状態にあった。

 いつだって自分本位。思うがままに抱いていた。

 そうしても大丈夫そうな女を選び、したいようにしていた。

 

 だから正直、参っていた。

 思った以上に千夜が抱いている傷が深刻で、彼女と自分は生きてきた軌跡とそうさせた世界はかけ離れていたと知った。

 

 セックスを暴力と蹂躙として常識に思っていた千夜。

 はたや蒼助は性欲の発散としてなんとも思わずに受け止めていた。

 

 お互いに行為を本来の目的からはズレた歪んだ認識をしているが、なんの疑問を持たずに生きていた。

 いつかそれが問題となって立ちふさがることになるなんて思ってもいなかったというのに。

 

 そして、ようやく気づいた。

 いざ大事に抱きたいと思う相手を前にしても、そもそも自分はそんな風に扱う方法したこともなければ、知りもしない。

 唯一幸いなのは、赴くがままに暴走するほど理性が失われていないことくらいか。

 


 ………まぁ、悪いことじゃないだろ。今までと違うってのは。


 

 他とは違う。

 それは相手が千夜であるからこそである、と。



 これは、特別なことで、嬉しく思うべきことなのだろう。

 そう思うと、らしくもなくたどたどしい今の気分も悪くない、と蒼助は感じた。

 

 意識を改めて、蒼助は千夜の身体を眺めた。

 衣服を脱いでブラジャーだけとなった上半身の露見した肌は、何処までも白かった。

 その上に散らばる一部の黒い糸のような髪との組み合わせが、何処か扇情的な光景に仕立て上げている。

 


 ……白い肌と黒髪、なんかエロいかも。


 

 髪が被さって見えない首筋に、引き込まれるように手を伸ばす。

 はらり、と除けて隠れたそこに指を這わす。

 

―――――――っ」

 

 その僅かな動きと共に千夜の身体に震えが起きる。

 敏感な部分に触れたから当然―――――――と、蒼助は受け止めなかった。

 今までじっと見つめて離さなかった目がギュッと絞られてしまう。

 唇は血が出るのはないかというほど強くかみ締められている。

 


 違和感。

 蒼助の目には、それがほのめいて見えた。


 

「……ちっ」

 

 舌打ちと共にそこから手を退かせて、蒼助は己のワイシャツに手をかけた。

 ボタンを引きちぎるような荒々しい手つきで、それを乱暴に床の上に脱ぎ捨てると、

 

「……え、ぁ……蒼助、何を」

 

 自らがそうしたはず千夜の両手首の拘束を解き始めた。

 戸惑う千夜に構うことなく外し終えると、それを己の上着と同じように放り捨てる。

 そして、両手首をひとまとめにして掴み、強く引いた。

 

「あっ」

 

 意図せぬ蒼助の動きに対応できず、力の向く先に千夜の上半身は引き起こされた。

 鼻先が蒼助の胸を掠るところまで近づくと、そのまま背中に手がまわり、押し付けられる。

 

「…………ぇ?」

 

 抱きすくめられた千夜は置かれた状況を理解できないと主張するように、小さく喘いだ。

 冷静な蒼助の声がそれに答える。

 

「初心者がいきなり上級向けなプレイに飛び込むんじゃねぇよ。身の丈に合わせると、お前はこっからだ」

「何を言って………っ」

 

 言いかける千夜を尻目に、蒼助は流れる黒髪の隙間を縫うように五指を滑り込ませてその項に触れる。



 途端、

 



「……うぁっっ」



 

 びくん、と身体が大きく震える。

 先程よりあからさまに出た反応に、蒼助は溜息を吐いた。

 

「……ここまで来たら、もう言えよ」

「…………」

「……触られるの、本当はダメなんだろ?」

 

 問いに対し、息づまるような微かな呼吸の音。

 それが返事代わりなのだと蒼助は解釈し、同時に確信を得た。

 

「こうしてるのも結構辛い?」

「………平気だ」

「ウソ。冷や汗、滲んでる」

 

 額にかかった前髪に触れると、それは少し湿りに帯びていた。

 胸に押し付けた頭部を固定し、宥めるようにチュッと旋毛に軽くキスを落とす。

 

「言って」

 

 身体から少しだけ力が抜けたのを見計らってから放った促しに、千夜はひどく力のない声で紡ぎ出した。

 

「………これでも、昔よりはよくなったんだ。服越しでもダメだった、から」

「首が一番ダメなのか?」

「……ああ。あまり触られることのないところだから、忘れてた」

 

 はぁ、と心底うんざりとした息を蒼助の腕の中で千夜は洩らした。

 

「信じられない。……何で、今更……こんな時に……っ、ごめん……蒼助」

「別に怒っちゃいねぇよ。ただ……まぁ」

 

 理由を聞かせてくれたら嬉しいんだけどな、と質問を仄めかす。

 千夜は胸に額を押し当てたまま、少し沈黙した。

 返事が返ってこないことをだんまりを決め込んだか、と受け取り、少し不安と寂しさを感じていると、

 

「………昔、絞められたんだ」

「絞められた?」

「こうやって、だよ」

 

 わかりやすく伝えようとしたのか、千夜は自身のそれよりも一回りも太い蒼助の首に両手をかける真似をした。

 そっと絡めるだけの緩い束縛を与えられた蒼助は顔を強張らせた。

 千夜の青白いまでの細い首を見る。

 このか細い首を絞めた輩がいたというのか、という憤りを胸に燃やして。

 

「顔、怖いぞ」

「………他人事みたいに言ってんじゃねぇよ」

 

 そういうと、何がおかしいのか千夜がくすりと笑う。

 

「言いたくもなる。お前が自分のことみたいに怒った顔をするから」

「自分のことでも、こんな風におもわねぇよ」

「………ありがとう」

 

 両手を蒼助の首から離し、千夜は視線を下げた。

 

「別に……殺されかけたってわけじゃない」

「意味わかんねぇぞ」

「………そそる、そうだ」

「あ?」

 

 繋がっているのか微妙な会話に加速をかけるような千夜の台詞に、蒼助は頭上に疑問符を浮かべる心情で声を零す。

 

「……俺が苦しみ悶え、痛みにもがいて縋ろうとしてくる姿は……たまらない、と。昔、俺の首を絞めてきた男は笑いながら言ったよ。跪いて、許しを乞う姿を見せて

みろ、なんて……三流悪党の陳腐な台詞をあとにつけてな」

―――――――

 

 聴いた瞬間に、蒼助は強制的に心を停止させた。

 電源を切り、心を無にさせる。理性の関わらない、本能的な動きだった。

 そうせざるなかった。

 そうせずにはいられなかった。

 でないと、この先を聞く上で抑えようにまでに昂ぶり荒れ狂うであろう自身の感情が、何をしでかすかわからなかったから。

 

「でもな……俺が怖かったのは、組み敷かれて首を絞められたことでも、生かさず殺さずの加減で与えられ続けた苦痛でもなかったんだよ。俺が怖かったのは……」

「………?」

 

 言葉が一度途切れ、その続きを代弁するように伸ばされた手が、蒼助の頬に触れた。

 

「……手、だよ。……奴の手が、怖かった」

「それは……首を絞めてからじゃ」

 

 言葉を最後まで聞くことも泣く、千夜の首が横に振られた。

 そして、間違いを正す正解を口にする。

 

「………冷たかったんだ。人間の体温はこんなに温かいはずなのに……俺に跨って首を絞める男の手は、死人のそれにように……何処までも冷え切っていた。

永遠を生きる中で、体温を失った神々よりも、冷たかった」

 

 触れる先に温もりがあることを確かめるように、何度も蒼助の頬を千夜の指先が滑る。

 

「あれは………心の温度なんだと思う。よく言うだろ……手の冷たい人は、心が温かいとか。あれは大嘘だ。心の冷たい奴は、手だって冷たいんだ。それからしばらくは

酷かった。………誰に触れられるのも、我慢ならなかった。特に、ここは」

 

 蒼助の頬から離れた指が、千夜の喉を爪先で掻いた。

 

「もう随分前のことなのに、まだあの感触消えてなかったなんて………な」

 

 労わるような仕草で五指が首を包む。

 何故か、その動作が蒼助の癇に障った。

 千夜本人にとっては非常に不本意なことだろうが、まるで首にこびり付いて離れない見知らぬ過去の男の痕を愛でているように見えた。



 強制的に停止させた感情が自動的に復旧する。

 復活した感情が促した行動は、

 

「………千夜、こっち向け」

 

 促すように、まずは首にあてていた手を掴み、そこから退かした。

 突然の蒼助の行動に、千夜は僅かに目を見開いたが、それはこれから起こる出来事のほんの前触れにすぎなかった。

 

「ちゃんと、見ろ」

「っ……蒼助?」

 

 顎に手をかけられて、半ば強引に上を向かされる千夜。

 上げた視線の先にはやや硬くなった蒼助の顔。

 かち合った目は、何を考えているか測りかねる眼差しを放っていた。

 

「ちゃんと、俺を見とけよ」

 

 要求の意味が読めず、目を瞬かせていると、蒼助の顔がゆっくりと近づき始める。

 それが何を意図しているのかを察した千夜は反射的に身を引こうとするが、顎から後頭部に回った手がそれを許さなかった。

 近づくにつれて緊張が高まり、目が自然と視界を閉ざそうとする。

 

「閉じるな」

 

 一度動きを止めた蒼助が強い口調で命じる。

 びくん、と身体を小さく震わせ、千夜はとっさに固まった。

 その言葉と声色に、逆らえない響きを感じたのだった。

 それを見て、蒼助は満足げに口端を吊り上げ、

 

「良い子」

―――――――っ」

 

 後頭部の手が撫でるようにクシャリと動くのを感じると同時に、千夜の目と鼻の先にあった蒼助の顔が急に降下した。

 訪れるであろう感触を受け止めたのは、予想していた唇ではなく―――――――先程、触れられた際に拒絶を覚えたはずの首だった。

 触れるだけの接触。

 しかし、蒼助の行動はそこからだった。

 

「……なにして………っ」

 

 予想だにしなかった行動に千夜が抵抗をしようとしたが、手を掴んでいたもう一方の腕に腰を捕らえられ、首では触れる部分が薄く食むように啄まれる。

 そのくすぐるようなささやかな刺激に、千夜は身動きとれない状態では身を竦ませるくらいの反応しかできなかった。

 ちゅっ、ちゅっ、と。首に埋められた蒼助の頭が動くたびに柔らかい感触との接触が首にて起こる。

 蒼助はしばらくの間、その白い肌の薄いながらも柔い触感との触れ合いと、そこに充満する千夜の匂いを楽しんだ。

 どうすることできずにいる千夜は、その感触と首筋の蒼助の髪が当たってさわさわする感覚に唇をぎゅっと結んで耐えた。



 しかし、そこで蒼助の行動に僅かな進展が起こる。

 

「……っ、んっ!」

 

 思わず千夜は閉じた口から声が洩らした。

 今度は唇が押し当てられていたところを吸われたのだ。

 まるでひねられるような感覚。今まで一度とも経験したことはなかった。

 

「ん……ん……っ」

 

 立て続けに襲う奇妙な感覚に、千夜は身を硬直させる。

 さっき舌を入れるという同じく経験のないキスをしてきた蒼助は、お構いなしで首筋を吸い上げた。

 千夜が知らないことを、蒼助は何でも知っている。落ちてくるそんな実感に、千夜は少し胸が苦しいと感じた。

 

「っぁ……っっ!」

 

 次の瞬間、暗くなりかけた千夜の心中を塗り替えるような鋭い痛みが走る。

 噛まれたのか、と千夜は一瞬思ったが刺さるような痛みとはまた違うものだった。

 

 不可解に思っている千夜に理解する暇も与えずに、今度はぬるり、と湿ったものが痛みの上に塗り重なるように這った。

 それは上へと這い上がり、首から顎へ、そして右頬にまでぬるりぬるりと移動した。

 熱い、と感じて思わず固めを閉じたそれは、顔まで来てようやく蒼助の舌だとわかった。

 目元まで来ると、ぴちゃ、と何処か粘着質な水音を立てて舌が離れる。

 首筋から顔にかけてにぬるついた後味を残し、離れた舌は蒼助の口端をちろりと舐めてその口内に戻って行った。

 その仕草は、千夜の目に蒼助を別人のように見せた。



 決して離れたといえるとは言い難い、然程の距離のない体勢で二人は見つめ合って動かなかった。

 千夜に関しては、放心に近い心境で"動けない"というのが正しかったが。

 

「………どうだった?」

「……ぇ」 

 

 顔を合わせて初めて蒼助が発した言葉に、千夜はそこでようやく我に返ったが、出たのは返事とは言えない恍けた声の漏れだった。



 しかし、気にする事なく蒼助は再び尋ねる。

 

「……俺は、冷たかった?」

「っは!?」

 

 問いに何が含まれているかを理解した途端、千夜は思わず大声をあげた。

 近い距離にいた蒼助は僅かに顔を顰めた。



 からかっているのか、と抗議をあげることすら出来ず、絶句していると、

 

「………もう一回か?」

 

 なんて、とんでもないことを言い出す。

 冗談じゃない、と千夜は大いに焦った。

 

「ま、まだ何を言ってないだろっっ!!」

「じゃぁ、返事」

 

 早くしろよ、といつでも再開出来る体勢に入りながら蒼助は促した。

 イニシアチブを完全に掌握された今、千夜に出来ることといったら蒼助の求める返事を口にすることくらいだった。

 

「………冷たくなんか、なかった。それどころか……」

 

 熱かった、と感じたままを感想として口にする。

 自分が何を口走っているかなど、この時点では千夜は深く考えていなかった。

 それが、蒼助にとってどんな答えであったか。

 蒼助がどんな反応を示すかさえも、全く想像が付いていなかった。

 

―――――――

 

 言葉を聴いた瞬間、蒼助はなんとも形容しがたい表情となった。

 何故か赤くなったかと思ったら、堪えるように口を横一本の線を引いたようにギュッと結ばれた。

 どういう感情を表しているか理解しがたい表情だ。

 

「……っ」

 

 そして、耐えかねたように千夜の肩に顔を伏せた。

 素肌を曝け出したそこで熱の篭った息を吐かれて、千夜はびくりと身体を両肩を震わせる。

 もう何がなんだかわからない。



 そこに、

 

「………恥ずっ……あいつの言ったとおりかよ」

 

 蒼助が肩で悔しげに何かを呟くのを、千夜は聞き拾った。

 

「……?」

「…………………ああっ」

 

 何と言ったのだろう、と気にかけたところで、蒼助は唸り声を発して肩から顔をあげた。

 同時に千夜を不自由にさせていた両腕も離し、ソファの布地の上に身体の支えとして突き立てた。

 溜息を洩らし、互いの間に一定の空白を置く。

 

 そして、

 

「…………俺は、さ」

 

 あと少しでも力が入れば潰れてしまうのではないというほど、低く押しこめられた声で蒼助は会話を切り出した。

 

「俺は………とある女に言わせれば、冷たい人間の部類に入るらしい」

 

 突然の切り出しは、千夜の理解の範疇を超えていた。

 

「なんだ、突然……」

「いいから、聞けよ。……言われた時は、突拍子もない言いがかりとだと思ったが、時間が経つと自分でも思い当たる節が見えてきた……つか、そんなんばっかだ。

まず、関係もった女には感情的なもんは何一つなくて、どいつも身体にしか興味なかった。気持ちいいい穴持ってて、顔が良けりゃ誰であろうと構わなかった。ダチだっ

て、他人より多少気にかけるかどうかの違いの認識程度だった。向こうがどんな問題抱えていようが知ったこっちゃなかったし、俺の問題に踏み入ってくるのも許せな

かった。誰だろうと、必要以上に構うのも構われるのも虫唾が走る。家族だって、血が繋がってるだけの別の人間だ。他人にゃ、違いねぇ。俺は、そんな風に思う男だ」

 

 自分が口にする言葉は、この場で言うべきことだった。

 例え、それがここまで積み重ねたものを崩す可能性を大いに秘める爆弾だとしても。

 蒼助は、それだけの危険を孕んだ内容をぶちまけているのだという自覚は当然あった。

 

 目の前の想い人の傷を深く抉り出したことに対して、報いるつもりというわけではない。

 ただ、知って欲しかった。

 自分という人間を。

 

 黒蘭に言われて、自分の人間の本質を知ったわけではない。

 自分がそういう人間なのだということは、気づいていた。気づいてはいた。

 

 ただ、どうも思うこともなかっただけだ。

 だから、どうした、と。

 人として、『情』というものに欠けすぎている。

 それがどうした、と。

 

 『情』に振り回されているみっともない愚かな人間を嫌というほど知っていたから。

 『情』に振り回されるのはもうたくさんだったから。

 自分はそんな人間にはなりたくなかった。

 もう二度とそんなものに振り回されたくなかった。

 

 自覚を持って、その本質に正しくあろうとしていたら、自分は随分酷い人間になってしまった。

 黒蘭の言う心の冷たさ。

 昔、触れる自分の手が冷たいと女に言われたことがある。

 だろうな、と蒼助は今になって納得した。



 女は蒼助の冷たい手を好きだと褒めたが、それが自分が他人に向ける感情そのものであると知ったらどうしただろうか。

 そう思うと、嘲笑しか覚えられない思い出だ。

 

 しかし、

 

「けど、な」

 

 出した声が少し震えていたのは自分でもわかった。

 緊張している。

 気張れよ、と蒼助は震え出しそう自分自身に檄を贈った。

 

「お前が、俺が触れたのが熱かったって言って……わかったんだ」

「なに、を?」

 

 問われ、顔を見ようと思う。

 今、どんな表情で見ているのか。既に軽蔑した冷たい能面のような表情で見ているのかもしれない。

 人の顔を見ることを怖いを思うのは、初めてだ。



 だが、見なくてはならない。

 ここから先は、千夜の目を見て言わなければ意味のない言葉なのだから。

 

「……千夜」

 

 伏せた目を合わせると、千夜の顔が見えた。

 恐れていたような表情はまだそこにないが、反応に迷っているのだけはそこから汲める。

 まだ、これからなのだと知る。

 どんな結果が待っているのかを想像できる余裕は、今は一切ない。



 ただ、伝える。



不安。猜疑心。恐れ。

 余計な思考は全て心から追い出し、たった一つの行動にのみ精神力を注ぎ込む。

 

「……お前だけ、なんだ。俺という冷たい人間が熱くなれるのは……この先、きっとお前だけなんだと思う。お前にゃ、もっと本当に心の温かい人間の方がいいの

かもしれねぇ………その方が、本当はいいのかもしれねぇ。……俺は、そんな人間にゃ死んでもなれやしねぇかもしれねぇが………」

 

 ここで、言葉に詰まった。

 一番大事なところで言葉に迷った。

 この気持ちを言い表す言葉を、蒼助はテンパりそうな思考で懸命に探す。



 そして、

 

「……けど、な……」

 

 しまった、とここで蒼助は焦る。

 自身の言葉のボキャブラリーが足りないことに今になって気づいたのだ。

 この沸騰して噴きこぼれてしまいそうなこの気持ちを表すに相当する言葉が見つからない。

 ここまで来て何遣ってんだ、と蒼助は言葉になり損ねた破片をパクパクと零す。

 

―――――――蒼助」

 

 呼びかけが耳に入ると共に、蒼助の左手がその自意識の意図しないところで動いた。

 

「かず……や?」

 

 動かしていたのは千夜の手だった。

 蒼助の左の手首を掴んだ千夜は、それを頬に持っていった。

 男らしく節のある大きな蒼助の手は、千夜の頬からこめかみにかけてを包むように触れる。千夜は目を細めると、今度はそれを首へとするりと下ろさせる。

 おい、と躊躇する蒼助の抵抗を自身の力でやや強引に捻じ伏せて首筋に触れさせた。

 戸惑う蒼助に、しばし何かを調べるように沈黙していた千夜は、

 

「熱い、な」

「は……」

「こんなに熱い人間が、冷たいわけない」

 

 

 

 お前は違うよ。

 

 

 

 

 細まった目がいとおしげな形をとって、蒼助を見た。

 その瞬間、プチン、と張り詰めていた糸が高い音をたてて切れるのを蒼助は聞いた。

 

 そして、全てを投げた。

 

「ちげぇって」

 

 首筋に置かされていた手を、五本の指に細くサラサラとした髪を縫いつけながらも後頭部に持って行き、抱える。

 

「言ったろ………俺が、熱くなるのは―――――――

 

 小さな頭を引き寄せながら、自分も身を寄せる。

 そして、互いの吐息が唇に触れるまできたところで、飾ることを諦めた素材のままの言葉を口にした。

 

 

 

―――――――お前だけだ」

 

 

 

 こんな風に身体と心に熱を孕ませることが出来る人間は―――――――後にも先にもお前だけなんだ。

 

 ようやく見つかった言葉は今となっては用済みのお役御免で。

 熱の昂ぶる唇との間に挟まれて、溶けて消えてしまった。

 

 

 

 

 





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