―――――――蒼助、俺を縛れ」

 

 

 

「…………………は?」

 

 

 

 

 何度目になるかわからない爆弾投下に、もはや神経は衝撃を感じることもなくなった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 セックスをするのにこんなに手間取ることなど、蒼助の過去の経験上になかった。

 相手が既に既婚者であると、後になって露見された時もこんな風に躊躇したり翻弄されたりはしなかった。

 

 ましてや、行為を目前して頭が痛いなどと思うことなんて。

 



「………よし、来いっ」

「……………」

 



 意気込んだ声に、不覚にも蒼助は一瞬意識が遠くに飛ばしかけた。

 別の意味で解き放たれようとした意識の端っこを掴んで引き戻し、自分の真下の現実を再度直視する。

 




 惚れた女。

 愛しい、と初めて心の底から感じた存在。




 この先を共に生きていくなら、もうこの女以外にありえないとまで思った。

 その相手を、蒼助は念願の成就を描いたように組み敷いている。

 



 しかし、



 

「…………はぁ」

 

 気づかれないように、蒼助は小さく息を吐いた。

 何でこうなったんだっけな、とここに至るまでの経緯を思いだしながら―――――――

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 蒼助は怒りも発情も忘れて、ただ目の前の存在からぶつけられた衝撃に打ち震えた。

 冗談だろ、と口走りそうな舌を巻き止め、別の言葉をクッションとして紡いだ。

 

「あのさ、念のために聞くが………保健体育は、習ったよな?」

「………? ……言っている事の意味がわからない」

「だぁから………セッ……っ……性交渉云々の内容は知ってるかって話だ」

 

 何でわざわざ言い直したのかと、蒼助は後から来る気恥ずかしさに意味もなく首を後ろを掻きながら、反応を恐る恐る待つ。

 

「それくらい知っている。男が……その、女の……に」

「わかった、皆まで言うな」

 

 無知ではないと証明しようとあからさまな発言に及ぼうとする千夜を押しとどめる。

 顔を赤らめて無理に言おうとする千夜にもっと卑猥な言葉を口走らせたい―――――――なんて、考えたりはしなかった。無いったら、無い。

 

「そこまで、じゃないか………んじゃぁ……」

「さっきから一体どうしたんだ、蒼助」

 

 先程から質問責めの置かれる自分の立場に疑問を抱いたのだろう。

 千夜は心底わからない、という顔で蒼助に尋ねてきた。

 

「あのな………抱いて、なんてカワイイ誘い文句言われたところで据え膳いただこうとしたら、その相手がキスの一つ二つも知らんという衝撃発言ぶちまけられた男の

心情になってみろ。………どうしてくれるよ、この複雑な男心」

 

 萎えるというか、気が抜けたというか。

 なんとも次の行動に移りにくい心境の真っ只中に、蒼助は一人孤独に立ち尽くしている状態だ。

 

「………だから、キスぐらい知ってる。したこともある」

 

 小馬鹿にされている、と蒼助の言動をそのように受け取った千夜はムスッと眉間に皺を寄せた。

 
同時に尖った唇を見た蒼助は、グッと勢いの落ちた何かが再び迫り上げてくるのを感じた。なんとも現金さだ。

 

「初級は、だろ。中級、上級の本格的なのはココを使うんだよ。ココを」

 

 講義する様に舌をひらつかせると、千夜はあからさまに顔を歪めた。

 

「え……」

「おい、嫌そうな顔すんなコラ」

 

 他人の舌が口の中に侵入する、と行為を改めて深々と解釈すると気持ちはわからなくもないが、こんなところで躓いていたらちっとも先に進めない。

 だって、と蚊が鳴くような細い声で千夜が反論する。

 

「………きもち、わるい」

「…………」

「きもちわるかった」

 

 繰り返され、蒼助は少しへこみそうになった。

 仮にも想いを交わした相手との行為を不快などと言われてはさすがに傷つく。

 

「……俺は、気持ちよかったんだけど」

「っ……」

 

 拗ねるように告げると、伏せられていた千夜の目が見開く。

 そして、ボッと火がついたように赤くなった。

 それを見て、蒼助は少しだけ落ちかけた気分を上昇させた。

 

「しっかし、AVを頻繁に見てる奴がベロチューも知らないっていうのには、納得がいかねぇ。………お兄さん、怒らないからホントのこと言ってみ?」

「待て、何で俺が見てることを前提にしている。俺じゃない、借りてくるのも鑑賞するのも観賞するのも黒蘭の馬鹿だ。……返すのはいつも俺だが」

「………正直に言ってみ」

「……………………………………………何回か、見た。不本意で強制的に」

 

 長い間を置き、それでいて尚忌々しげに床へ吐き捨てるように千夜は白状した。

 その様子からそれが余程不快な思い出となっているのは、聞くまでもなくわかることだった。



 汚物を無理やり飲み下させられたような苦々しい表情に、蒼助はやや慎重な姿勢に入って事情聴取を進めようと試みる。

 

「なら、その中でシてたの見たんじゃねぇ?」

「………どの中でも、そんなことしてなかった」

 

 その返答に、そんなにハードなイロモノばかり厳選していたのだろうか、と訝しむ。



 そこへ、

 

「女が……」

「女が?」

「黒皮の露出の高い服着て、鞭とか蝋燭で拘束した男をいたぶって高笑いする女。始まりから終わりまで全部それだけ」

「………見た奴全部?」

「全部」

「あー、そ………わかった」

 

 事情聴取を打ち切り、蒼助は嘆息する。

 嫌がらせじみた悪戯の中に徹底した『教育』を仕込んだ黒蘭に。

 

 性への嫌悪。

 それは好奇心という誘惑を押さえつけ、持ち主に防衛本能を促す―――――――身につけるには最高の鎧だ。間違った性知識を植えつけ、尚それによって性行為への

嫌悪感を抱かせればある種の予防にもなる。

 『調教』という言葉が似合う所業だ、と蒼助は黒蘭の不敵かつ不穏な笑みを湛えるシルエットを脳裏に思い浮かべ、渇いた笑いを洩らす。

 

「……感謝すりゃいいんだか、恨むべきなんだか」

「蒼助?」

 

 無意識の呟きを聞き拾った千夜の怪訝な視線が見上げてくるのに、何でもないと返す。



 しかし、千夜は蒼助のその言葉をそのまま受け入れはしなかった。

 

「でも、蒼助……困ってる」

「ぇ……」

「ごめん………扱いにくくて」

 

 俯く顔。

 しまった、と内心で舌打ちした蒼助は、落ち込む千夜に弁解をしようと試みる。



 だが、その前に、

 

「………でも、俺は………そういう風にしか思ってなかった。そんなものしかこの目で見てこなかった」

「……千夜?」

 

 先程とは何かが違うその重い表情に、蒼助は思考を切り替えた。

 顔に滲んでいるのは嫌悪感ともまた異なる、何かだ。

 

「……ここではひた隠しにされる歪みは、俺のいた場所では恥らうこともなく晒されていた。暴力も、蹂躙も、支配も。セックスも………その形の一つだった」

「…………」

「こっちでは、それが愛の営みとしてする行為なんだって知って………最初すごく驚いた。理解不能だって」

 

 それから、千夜は眉尻を下げて困ったように笑った。

 

「さっきは気持ち悪いなんて言ってごめんな。突然だったから驚いただけなんだ………」

 

 だから、と千夜は縋るように細めた目で見上げながら、

 

「気遣わなくていい。好きにしていいから………お前はどうなってあいつらとは……他のやつらとは違う。どんなに乱暴に扱ったって、無理を強いられても………

蒼助は、違うと思うんだ」

 

 そこで一度言葉は途切れる。

 ソファに付けていた手を伸ばすと、蒼助の胸板に辿り着く。

 続くように、こつりと額が押し付けられる。

 

「改めて言う…………好きだ」

 

 再び告げられる告白。捲くし立てるような先刻のそれとは異なる落ち着いた口調でかみ締めるような吐露に、蒼助は無意識のうちに呼吸を止めた。

 

「初めて会った時から好きだった。知れば知るほど、この気持ちはどんどん膨らんでいった。他人にどうこうされるのは嫌いだ。でも今は………それすらも受容

していい。……蒼助……―――――――お前になら」

 

 その言葉に、ぞくり、と身体の奥で何かが震える。

 まるで性感帯を刺激されるような快感にも似た感覚に、蒼助は酒に酔ったような意識で恍惚の境地に立たされた。

 

「約束を、守ってるなら…………何をしたっていいから」

―――――――っ」

 

 ごくり、と渇いた喉を口の中で溜まった唾液がどろりと下る。

 渇感と欲望が入り混じった感覚に突き動かされそうな蒼助にとどめを刺すかの如く、千夜はゆるゆると顔を上げる。

 

 泣いたせいで赤らんだ目には、名残りのような潤みが健在していた。

 薄く開いた唇がやけに目に付く。

 

 壮絶な色香を発する存在となった目下の千夜に、蒼助を戒める理性の鎖がいよいよ切れようとする。

 

「蒼助………」

 

 胸に当てられた千夜の手が、タンクトップをキュッと掴んで握る。

 何かを言おうとしている、という気配をそこから感じた蒼助は、腰に手を回したくて疼く手を何とか押し留め、堪える。

 

 まっすぐに見つめて来る千夜の視線とかち合い、その瞳の奥で揺らめく光から目を離せなくなる。



 その目の下で、動き出した唇が紡ぎ出したのは―――――――

 

 




―――――――俺を、縛れ」

 

 




 とりあえず即座に「うん」と頷かない程度の理性が残っていて良かったと、蒼助があとで思う事になる瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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