蒼助の放った言葉が衝撃を失くし、思考と心に馴染み始めた。
停止という縛りは解け、何かが内側でするりと解けるのを千夜は感じると、
「……どうして、それを」
「それは」
「いや、いい。………心当たりは嫌というほどある」
思い当たる心当たりは、一人しかいない。
今回の一件の提案者たる者が何を考えているかは千夜には見当もつかないが、まぁいいと怒りは沸かなかった。
求めた【結末】は、多少手順は異なりながらも手に入ったのだから。
「………そうか、知っていたのか」
声に力がこもらない。
欲しかったものは手に入ったのに、何故だろうか。
疑問を晴らす気にもなれず、ふらりと千夜はソファから立ち上がった。
そこから離れようとするが、その身体を何かに引きとめられる。
「待てよ」
後ろからだらりと下げた手首を掴む手があった。
振り返り確認するまでもなく、蒼助の手だ。
「………話なら済んだ」
「済んでねぇよ。まだ、お前の話を聞いてねぇ」
「……お前が先にしゃべってしまったじゃないか。俺には、もう話すことはない」
「千夜」
強調の聞いた声が、不意に名を呼んだ。
「何で、俺をそこまで拒絶すんだよ。自分の手が汚れてんのが、記憶がねぇのが……そんな身体してんのが後ろめたいとかいう理由なら………本気で、怒るぞ」
「……………それも、ある」
ぐ、と掴む手に力がこもるのを感じる。
だが、それ以上のことはない。
それも、とまだ何かあるような口ぶりにそれを聞くのを待っているのだろう。
「……俺にはお前は必要(いら)ない」
「何を」
「今まで何があろうと一人で切り抜けられた。これからもそうしていくつもりだ。何故なら俺には、朱里が………守るべきものがある。だが、それで手一杯だ。
俺にはもう、これ以上何も抱えられない………だから、お前は必要ない」
「だから、俺はっ」
憤る勢いにまかせて蒼助が立ち上がる気配を感じた。
そして、掴む手が振り向かせようとする。
千夜はそれを、
「……っ黙れ!」
振り返ると同時に手を振り払った。
無理やり引き剥がす痛みも全て無視して、蒼助の手が離れることを望んだ。
強い遮りに、面する蒼助は呆気にとられた表情となっていた。
理解できていないという証に、心と精神がささくれ立ち、苛立ちと歯がゆさが募る。
「それ、だよ。俺が……お前を突き放したくなる最大の理由は」
「………?」
一人だけ話に取り残された蒼助を引き入れるべく、千夜はまずは怒りを抑えた。
声を荒げたいと思う心を鎮め、最大の心がけで落ち着かせた声で、
「………お前は、俺を守るという。今も、そう言いかけたな。………それが答えだ」
「……何で」
「………お前は、考えたことがあるか?」
守ると言われる側の気持ちを。
守るという行為が何を意味するかを。
そう口にした後、いや知っているはずがない、と己の中で身勝手にも独りよがりな否定を下す。
だが、事実であることには変わりないはずだ。
こんなことを考えたことなどあるはずがない。
目の前の男は、そういう思考も感情も今回が初めてだというのだから。
千夜はふと己に置き換えて思う。
自分もきっと、これが初めてならば素直に頷けただろう。
こんなにも躊躇することなく、受け入れることが出来ただろう。
だが、遅かった。
その行為と約束の果てにある残酷な事実を既に嫌というほど知ってしまった―――――――今となっては手遅れだ。
「守るとは、相手に降りかかる脅威を……全て代わりに請け負うことだ。……だが、それだけじゃない。きっと、大体の人間が……このことに、気づいていない」
恐らく、多くがこの事実を欠いて守ると口にする。
だが、忘れてはならない。
誰か守る前に人はまず―――――――
「自分を、守ること」
「………自分?」
「そうだ、災厄を被るのは相手だけじゃない。傍にいる人間だって、その配当される脅威を請け負うことになる。身近過ぎるあまりに、気づかないというやつだ……な」
その些細な見落としが、告げた者のその身を滅ぼす始まりとなる。
「人間という者が一人で出来ることは限られている。己の一人分という枠に収まる程度のことしか、な。その枠に収まりきらない……身の丈を超えたことを為そうと
すれば、待っているのは身の破滅しかない。わかるか? ……守るとは、"そういうこと"だ」
一人が二人分―――――――許容範囲を超える何かを負えば、その身は耐え切れなくなる。
無理をした先にあるのは破滅。
そして、誓いは果たされないものへと変わる。
守る。
言葉として。
聞くだけなら。
それだけであれば、どれだけ綺麗な言葉だろうか。
無知な者には、これ以上に無く誇らしい言葉だ。
しかし、
「守る、なんて………そんな言葉、奇麗事だ」
汚らしく、醜い虚勢と虚飾をまとった、中身のない行為。
千夜には、そうとしか思えなかった。
そうであるという数々の事実を、見て知ってしまった身には、それ以外の何でもない。
「言う側が愉悦に浸るだけで、言われる側には不安と見えない未来しか与えられない。どいつもこいつもっ………皆、そうだっっ!」
感情の起伏がついに抑えきれず爆発する。
一度抑圧を失うと、それまで押し沈められていたモノがふつふつと底から沸騰したような動きに煽られて浮かび上がってくる。
ここにいない、既に過ぎ去ってしまった人間たちへの感情が、一気に表面へと顔を出し始める。
怒り。
哀しみ。
本来向けるべき対象を失い、やり場のなくなったそれら負の感情が、理不尽にも拘らず目の前の蒼助に牙を向く。
「弱いくせにっ………虚勢ばっかり張りやがって。俺が、いつ……助けてくれなんて………守って欲しいなんて言ったんだ! 言ってない、言ってないだろう
そんなことっっ!」
吐き出す中で、甦るのは最期に立たされた彼らが口にした共通の台詞。
―――――――あんたを守りたかったんだ。
―――――――ワタシ、あなたを守れた?
繰り返される言葉に、一度だって答えられたことはなかった。
何故なら、そこに怒りは存在せど、感謝の気持ちはなかった。
何も言ってくれなかったことへの。そして、力が及ばないことを上で決行した無茶の代償として生み出したその末路への。
「何が……あんたは強いから一人でも大丈夫、だ.。………そうだったのに……それが出来なくなったのは……誰もせいだと、思っているんだ」
喉の奥がきゅぅっと絞まり、声が上ずった。
目頭が熱い。
「守ってなんか、ほしくない……っ」
守ってくれなくていい。
「多くなんて、望まなかった……俺は、いつだって……」
いつだって、望んでいたのはたった一つのことだった。
だが、それだけがいつだって叶わない。
どうしてなのか。
それさえ約束してくれれば、守るのは自分がすればよかった。
こんな簡単な選択肢を、どうして彼らは誤ったのだろう。
どうして、自分の望みとは真逆の結果が待つ選択をしたのだろうか。
どうして。
どうして。
過ぎてしまったその時その場で、成し遂げたと満足げに笑む死に逝く彼らを前に、出来なかった糾弾の想いが、今になってようやく口から零れる。
「―――――――傍にいてくれればよかった……ただ、それだけだったのに」
彼らに、そして―――――――『彼女』に向けた恨みと懇願の入り混じる吐露。
生きている時に、言うべきだった言葉。
今となっては、無意味な求め。
「たったこれだけのことも、叶わないなら……叶えてくれないなら……俺はもう、これ以上誰も必要ない! もう、何も望まない! だから、もう俺を揺さぶるな!
俺を……一人で生きていけなくしようと……するな」
掻き毟るように顔を手で覆い、叫ぶ。
無いもの強請りなんて、もうしない。したくない。
だから、手に入らないものを見せびらかすのはやめてほしい。
わかっているから。
絶対に、手に入ることも、それが叶うこともないのだということは―――――――
「―――――――やぁだね」
鼻で笑うように声に、一瞬千夜の頭が真っ白になる。
その不意をつくかの如く、顔に当てていた手を掴まれ強く引かれた。
「……っ」
抗う隙も無く、そのまま顔から飛び込んだのは蒼助の胸。
そのまま背中にもう片方の腕が回り固定。
腕の中に囚われる。
身動ぎしようとすれば、先手を遮るように強い力で締め付けられる。
苦痛には及ばないものの、息苦しさに息を呑んだ。
「ったく、散々当り散らしてくれやがって。しかも、ところどころ痛いところ付くし………。あー、まぁ……そろそろいいだろ?」
「………?」
「溜め込んでたもん吐き出してちったぁすっきりしただろ。こっから先は、しばらく俺のターンってことで」
「なに、を―――――――」
押し付けられて上手く喋れないのを逆手にとってか、聞こえていないように蒼助は構わず己の言葉を優先した。
「確かにお前の言ってることは正しいかもしれねぇ。人間なんてちっぽけな生き物にとっちゃぁ、守るなんて行為は身の程知らずなことなんだと思う。
………特に、守る相手よりも弱い奴がいうことほど中身がねぇっていうのは、な」
最後の部分が自虐の色に帯びていたように、千夜には聞こえた。
しかし、それを自ら掻き消すが如く、
「でもな、正しいからってそれをホイホイ納得出来ねぇことだって、世の中にはあるんだよ………死んだお前の大事なそいつらも、きっとそうだったんだ。わかりきって
いても、それでも納得することで諦めるなんて出来なかったんだろ。会ったことも、話したこともねぇ、たった今話しでチョロっと聞いただけの連中のことだがよ……
俺には、そいつらの気持ちがいやってほどわかる。………現に俺は、お前にいくら言われようと俺の弱さを認めて諦めることなんて………とてもじゃねぇが、できねぇよ」
その言葉に、千夜は口をキュッと結び、唇を噛んだ。
世の中には理屈を上回るものがある。
それは千夜とてわかっている。自身でも身に覚えはある。
だが、それをわかっていても、彼らの身勝手な行為を、そして蒼助の主張を甘んじて受け入れることは出来ない。
「そんなの……」
「だから、黙っとけ。俺の話はまだ終わっちゃいねぇ」
「んっ」
頭の後ろから胸に押し付けられて、遮られる。
強引な制止をして、蒼助は話を続けた。
「俺には、お前の望み………一つ叶えられて、一つ叶えられない」
最重要点を述べるように、強い口調ではっきりと告げる。
「まず……俺はお前がどんだけ嫌がろうとやっぱり守りたいって気持ちは変わらねぇ。言われなくても、簡単じゃねぇことはわかってる。第一、こんなことしよう
なんて思ったのが、お前が初めてだけに尚更だ。だけど………これこそが、理屈を超える感情ってやつだ。理性かなぐり捨ててでも、これだけは曲げられねぇ。
他の奴らと同じように」
揺るぎ無い調子で並べられた言葉一つ一つに、当人たる蒼助の想いが編みこまれているように思えた。
それが、揺るがしようのない蒼助の信念となってしまったのが伺え、千夜にはそれが酷く残酷な台詞にしか捉えられなかった。
しかし、
「……だが、さっき言ったやつの方は、俺は大歓迎だ」
「………?」
「―――――――傍にいてほしいって、言っただろ?」
「っ!」
先程の無意識のうちの吐露を聞き拾っていたらしい。
だが、それは大きく矛盾している。
「死に急ぐやつに、そんなことできるはず……」
「やってみなきゃわかんねぇだろ。やる前からごたごた言ってたって、結果は出ねぇよ。それに………お忘れになってるかもしれませんが、俺はもう人間じゃないん
ですぜ?」
「………蒼助」
「割と悪いことじゃねぇよな。特に、さっきのお前の言葉聞いたら一層そう思えてきたぜ。人間には、一人分相当のことしかできねぇっていうなら………まぁ、半分人間
じゃねぇ俺には世界救うまでとはいかねぇが、もう一人分の厄介を背負うことくらい出来ると、思うぜ」
「…………どうして」
あまりの理解不能な考えに、千夜は眩暈を覚えた。
あの時も、あの時も、そうだった。
死に瀕しても、命途切れるその刹那も、途切れた後も。
―――――――皆、安らかな様子で微笑っていた。
何の未練も、悔いもなかった、と。
何かを成し遂げた者の貌で。
理解できなかった。
自分を守り、生かしたことはそこまで誇りに出来ることだったのか。
理解できなかった。
己の人生を投げうるほどの価値を、どうして己に見出せたのかも。
わからない。
わからない。
そこまでして自分は、誰かに守られていい存在とは、思えないのに。
「わか、らない」
心で何度も反響する疑問は無意識のうちに口をついて出た。
「どうして、俺なんかを……そこまで」
「………んなもん、決まってるだろ。多分、他の連中も………細かいこといろいろあったかもしれねぇが、理由なんて単純にして一つだったと思うぜ……俺みたくな」
理由。
彼らが死に際に残した共通の言葉がある。
―――――――好き。
お前を好きだった、と。
懺悔のように言い遺していった。
「好きだぜ、千夜。理由なんて―――――――必要ないくらい」
思い出に被さるように、蒼助の想いを象る言葉が内側で響いた。
そうだ。
自分が彼らの死を、許せなかったのは。
その身勝手な行動が、許せなかったのは。
彼らが好きだったからだ。
それ以外に理由はない。
きっと、彼らは自分たちが考えたなりの応え方をしてくれたのだと思う。
例え、それが大きく間違った形だとしても―――――――それが、彼らの応えだったのだ。
「そんな、の……」
酷い。
少しも噛み合っていない上、報いも救いもない。
自分が望んだ応えで返してくれなければ、意味などないというのに。
「千夜。聞け。俺は奴らと気持ちは同じで、理解は出来る……だけど、同じようになる気はない」
「………何を」
「俺はお前を身を挺してお前を守って死んで満足する気はねぇ。寧ろ、足りねぇよ。俺はお前の傍にいたい。その死んだ連中みたく、お前の幸せだけを願って後に別の奴に
後釜譲るなんざ考えるだけで、死んでも死にきれねぇ。俺は最近になって知ったが……相当独占欲ってやつが強い上、底無しに欲深いらしい。お前を幸せにするのも、お前
の傍にいるのも俺でなきゃ我慢ならならねぇ。途中退場はなし。ずっと俺。他の男との幸せなんか、祈るどころ徹底的にぶち壊してやりたい。正直、そんな自分にドン引き
だがこの際もうそんな細かいこたぁどうだっていい」
台詞の区切りと同時に、強い抱擁が緩まる。
身体の密着がないか、あるかのギリギリの距離感で蒼助の顔と向かい合う。
「あいにく、俺で打ち止めだ。俺は自慢じゃねぇが、呆れるぐらい生き汚ねぇ上しぶといから……余計な心配はするな。お前がいる限り、お前が望む限り………そして、
何より俺が望む限り……みっともなく生にしがみついてっから」
力強い笑み。
信じろ、と訴えていた。
不意に己の全てを預けてしまいたい衝動に駆られ、グラリと意識が揺れる。
誰も言ってくれなかった。
己への脅威を庇い死んでいった彼らも。
今も己の周りにいる者たちもそんなことは一度も言ってくれなかった。
三途も。
朱里も。
上弦も。
あの黒蘭さえも。
傍にいてはくれるが、ただの一度もそんな約束はしてくれなかった。
この前の三途の行動で、その真意ははっきりと明確なものとなった。
誰も彼もが、いつか自分の身に何らかの死の脅威が降りかかった時、その身代わりになる覚悟が出来ているのだ。
犠牲となって己の前から過ぎ去る覚悟を。
だから、初めてだった。
お前の為に『死ぬ』、とではなく。
―――――――『生きる』といわれたのは。
更には自分自身の為でもあるという。
初めてだ。
こんなことは初めてだ。
例えようのない幸福感。
満ち足りた感覚。
好きだといわれたことすらもどうでもよくなるほどの、嬉しさ。
押し寄せる感情の波に、思考と理性が崩されていく。
「そう、すけ……」
抑えていた欲求が溢れ出す。
捧げたい。
目の前の男に何もかも捧げたい。
自分の願いを叶えてくれると言った蒼助に、代償を求めるのなら何もかもくれてしまってもいいと思う。
欲しいというのなら、何でも持っていけばいい。
身体か。
心か。
所有権か。
いずれであろうと構わない。
全部というのならそれでもいい。
「―――――――千夜」
さらり、と髪を梳くように蒼助の片手が後頭部に回る。
既に腰に回っているもう一方の腕と同様に、固定、としてそこに留まる。
顔が近づく。
幸福の絶頂に、気を失いそうになる。
蒼助の吐息がかかるほど近づいたその瞬間、
―――――――脳裏に過ぎった残像が全てを吹き飛ばした。
「―――――――っ!!」
反射的に千夜は蒼助の胸に当てていた両腕を伸ばし、その身体と強引に距離を持った。
突然の千夜の行動に、突っぱねられた蒼助は夢から起こされたように、
「って、オイ! 何だよ、この期に及んでまだ……………千夜?」
不機嫌に急行落下した声は、不意に軽くなる。
現状を掴みきれないという心情が表していた。
「お前………何で―――――――泣いてんだよ」
白くぼやけて見えない蒼助の言葉で、己の今の状態を認識した。