ここで、無粋ながらも少し昔話を挟むとしよう。

 彼の、彼女の―――――――かつての、暴かれた思い出を。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 



 出会って初めて迎えた夏。

 ついに彼女にあのことがバレた。



 自分の最後の砦ならぬ―――――――最後の秘密が。

 

 彼女との同居生活にも慣れて、そこから生じた僅かな隙が命取りになった。

 片方の状態をずっと維持することが出来ない。

 だから、定期的に入れ替えるようにしていた。

 彼女の前でも、最初の頃は警戒心を持って意識していた。

 しかし、自分でも気付かない無意識のうちにその警戒心も徐々に氷のように溶けてきていたのだと思う。

 そして、そんなことをしているうちについにやってしまった。

 

 前夜、夕食の後にソファで居眠りしていたらそのままうっかり一夜を明かしてしまい、入り損ねた風呂に入った朝。

 バスタオルを持っていくのを忘れたことに気付いた彼女が丁度シャワーを浴びて出て来たところに鉢合わせしたのが、言い逃れ無用の決定的瞬間となった。

 

 どんな言及があるかと身構えていれば、

 

「で、何で海に?」

「ただの海じゃないわ。江ノ島よ」

「訂正いるのか、今の。…………それよりあんた、こんな日差しの中に出てきて平気なのか? 肌とか髪とか……」

「平気よ。ちゃんと、日焼け止めクリーム塗ってきたし、日除けに帽子も被ってるもの」

 

 さんさんと照る日差し。

 周囲に満ちるBGMは波のたなびく音。

 鼻腔を突き抜ける潮の匂いをまとった風は紛うことない海の潮風。

 

 江ノ島海岸。



 隣に佇む―――――――白いワンピースに水色のリボンをあしらったストローハットを身に着けた、軽井沢のお嬢様スタイルの型にはまる彼女の要望に流されて

行き着いた場所だった。

 

「しかし、何でまた海なんだ。しかも急に」

「愚問。夏といったら海じゃない。海に行かない夏なんて夏じゃないわ。あと理由は気分。」

「………。山は」

「虫、嫌い」

 

 あっさり切り捨てて、彼女は目の前に広がる海を指差し、

 

「ほら、水面がキラキラして綺麗よ。知ってる? あれはね、水面に太陽の光が反射してああなるのよ」

「へぇ。……って、このやりとり何回目だ。来てからここでずっと眺めてるだけじゃないか。泳ぎに行かないのか」

「あんな大勢の人間が芋洗いみたいに泳いで滲み出た体液の入り混じった海に………入りたいの?」

「………」

 

 もう少し言い方というものがあるだろうに。



 とにかく、入る気はなくここで眺めるのが彼女の言う海で過ごす夏というものなのだろう、と無理矢理納得して状況を続行するに落ち着く。

 互いに口を閉ざし、ボードウィークの段の上に腰を下ろして広がる空の青と海の青の重なりを見つめる。

 言葉はなく、潮の音と離れた場所と時折通り過ぎる人の声だけがその場に存在する時間が流れる。



 そんな最中、

 

「………なぁ、朝のことなんだが」

「そうね。だから、何?」

「何って………そりゃ」

「別に驚くことでもないでしょ」

「なっ」

 

 聞き捨てならない言葉を吐いた彼女を思わず見る。

 実に涼しい、偽る様子のない表情で彼女は変わらず海を見つめたまま、

 

「……だって、知ってたもの」

「はっ!?」

「春ぐらいからかしら。貴方、よく居眠りするようになったでしょ。そういう時、なんか身体が小っちゃくなったように見えるから何でかしらぁっと思って、

ちょっと剥いてみたら………ねぇ」

 

 両手で己の両胸を掴むようなジェスチャーをする彼女を見ながら、愕然とした。

 

「………うそ、だろ」

「ほんとよ。気が緩むと……変わっちゃうのね」

「…………ああ」

 

 信じられなかった。

 今まで、そんなことが有り得るはずがなかった。

 そもそも、そんなはずがなかったのだ。



 人前で、転寝(うたたね)してしまうなんてこと自体が。

 

「……どうしたの、そんな暗い顔して。寝てる間に服を剥かれたのがそんなにショックだったの?」

「…………気に、ならないのか?」

―――――――どうして?」

 

 気にする必要なんてあるの?



 そう代弁する一言に千夜は思わず声を荒げた。

 

「どうしてってことはないだろう! あんた、自分が見たものがどれだけ異常なのかわかって………」

「まぁ、確かに普通じゃないけど………それも一種の個性みたいなものでしょ?」

「こっ……!?」

 

 言うに事欠いてそうきたか。

 個性という枠で済まされて唖然としていると、彼女はこちらの取り乱しようがまったく理解できないという憮然とした態度で、

 

「自分のことに関してはやけに細かく気にするのね。そういう男らしくないこと考えてると、禿げるわよ?」

「これの何処が細かいことなんだ………何処が」

「細かいことよ。だって―――――――男であろうと、女であろうと………かずやはかずやに違いないもの」

 

 当然、と僅かな迷いも揺らぎもなく言ってのけられた言葉に、反論の言葉を失う。

 あまりにもまっすぐに述べられた想い。



 しかし、受け入れる側にはそのまっすぐさは受け止めるには鋭すぎた。

 

「………簡単に、言ってくれるな。俺にとっては、それで済むようなことじゃない」

「仕方ないでしょう。私にとっては、貴方の体質なんて大した問題じゃないんだもの」

「言いにくいことをさらっといいやがって………」

 

 所詮他人事、という本音を隠そうともしないその堂々たる主張に、もはや文句どころか溜息しか出てこない。

 予想外の脱力感に襲われていると、

 

「………このこと、他に知ってる人いるの?」

「あ? ……じいさんと一部の身内と、森のカミさまたちしか知らない。事実を知らない連中の前では、俺は男ということになっている。しかも、業界からはじいさんが

山から拾ってきた本物の
"鬼の子"って言われてるからな。……まぁ、そう思われてる方が都合がいいから別にいいが」

「都合? どうして?」

「…………男の方が楽だろう、この世界を生き抜くのには」

 

 少し控えめな言い方にした。

 事実は、それでも楽ではなかったが。

 

「……まぁ、そうよね。そういった世界で女で生きていくには、きついものがあるっていうのは……わかるわ」

「………ユキさん」

「かといって、その女々しさじゃ男として生きていくのに向いているかどうかも微妙なところ」

「おい、いらんこと付け足すな」

「いらなくない。本当のこと。男っていうものはもっと大胆に豪快に生きていくものよ。それに比べて………」

 

 半目でチラリと横目に視線を流したかと思えば、

 

「………ハッ」

「何で、今鼻で笑った!?」

「笑止。自分のことでそんなにうじうじ悩んでるような貴方を男らしくだなんて。その失態、世の荒波を掻き分けて逞しく泳ぎ進む男一同の前で謝罪会見ものね」

 

 そこまで言うか、とあんまりな言い様に本気で折れそうになった。

 

「………せめて、今回のことも他の二つみたく自分で打ち明けられてたらまだ名誉挽回の余地があったものを」

「嘘を言うな。強引に口を割らせたくせに」

「そうだったかしら。でも、だったらお母さんは何で今回はそうしなかったと思う?」

 

 不意に、視線が厳しさを帯びる。

 

「………今度は、ちゃんと自分の口で言えるって、思ってたのよ?」

「……っ」

 

 彼女が抱いた勝手な期待でしかないというのに、それを裏切り応えられなかったことに何故か胸が痛んだ。

 

「………いろんな面が欠けている、未完成な自分が嫌い?」

「………」

「……しょうがないコ」

 

 彼女はそう呟いて立ち上がると、腰掛けていた段の上に上がり後ろに回った。

 そして、後ろから抱き込むように腕を回してきた。

 

「……ユキ、さん?」

「ねぇ、人間って……カミさまたちが唯一手に入れられなかった凄いモノを持って生まれてきたのよ?」

 

 何だと思う?と突然の質問に返答を求めてくる彼女の意図が読めず、千夜は問答に対する対応に遅ればせながら、

 

「……わからない」

「………カミさまは、所謂完璧と称される完成された存在ね。対して人間はそれどころか欠点だらけの不完全にもほどがある作りかけ。でもね、作りかけには完成された

ものには出来ないたった一つのことがあるの。それは―――――――完成へと近づくための進化」

「進化……」

「或いは、成長といってもいい。人間は年を取り、寿命も短い。おまけに力も脆弱。生まれてくる誰しもが何処かに何かを欠かしている。。でも、短い人生の中で

成長するというたった一つの授かった特別な力で欠けた部分を埋めていく。決して完成に到達することは出来ないけれど、停滞はせず一つの存在として先に進むこと

を許されている」

「………」

 

 くす、と何がおかしいのか彼女は顎を乗せる肩で小さく笑い声をたて、

 

「面白い話じゃない。かつて、この世界は海とだだっ広い草原しかないも同然だったなんて正直信じられないわ。そう思わない? それをここで変えたのが、当時はそこを

石槍持って駆け回るしか能のなかった人類なんですって。猿と大して差のなかった人間が少しずつ前進して、過去に生きた一人一人が歴史を積み上げる礎となって人類は

ここで進歩した。ねぇ、どうしてこんなにも進化し続けているのにも拘らず、人間って完成しないのかしら? 何でだと思う?」

「………満足、しないから」

「そうよ。人間は底なしに欲深い。私はこう思うの。人間っていうのはそういう生き物だから完成させてもらえなかったんだって。人間を生み出したこの世界は

わかっていたのね。その尽きる事のない欲望は存在として完成させたところで満たされることはない、と。だから、代わりに進化させてあげることにしたのね。

何もかもを中途半端にして、後は好きにしろって………これも一種の放任主義かしら、ね」

「………ユキさん、いい加減話が長いんだが」

 

 結局は何がいいたいのか。

 そう催促すると、話の腰を折られた彼女は少し不満げに鼻を鳴らしたが、

 

「………貴方が気にするまでもなく、人間っていうものは元から不完全で欠点だらけなのよ。だから、自分が足りない者だなんて悩んだところどうにもならないわ。

私も、悩んだところでこの髪も目も、人並みに黒くはならないもの」

「……長ったらしく前置きしておいて、それが言いたかっただけなのか?」

「まだ続きがあるの。話は最後まで聞きなさい」

 

 二度目の腰折りに彼女は今度こそ不機嫌をはっきりと露にした。

 

「……完成されていないのなら、それはそれでいいことだと思わない?」

「どうして」

「この先、生きている限りいくらでも変わることも変えることも出来るのだもの。最初から完成されていたら、そこに嵌められて抜け出せないじゃない。私たちは、いずれ

未完のまま終わりを迎えるけれど、それまでいくらでも形を変えることもができる。たとえば。貴方のその自虐的なところが少しはマシになることも十分ありえる、とか」

「………自虐とか言うな。本当のことを言っているだけだ。それに……人間はそう変われるものではない」

「変われるわ。だって人はカミさまじゃないもの」

 

 根拠が見えないのに、彼女の言葉は自信に満ち溢れ、はっきりと響く。

 

「すぐには無理かもしれないけれど、ヒトとはそういう存在なのよ。時間はかかろうと、きっと……」

「………俺は」

 

 ん?と小さな呟きを聞き捉えた彼女に、応えるように先を紡ぐ、

 

「………時間がかかるかもしれない。ひょっとしたら、人類が今のこの世界を築くに至るにかけた時間並に出来ないかも、しれない………けど」

「……この、チキンめ」

「なにぃっ!?」

 

 誠意に応えようとする心を丸ごと圧縮機にかけて潰そうとするかのような、その容赦ない発言に思わずなけなしの誠意も海へ向こうへ吹き飛んだ。

 

「初っ端から自虐全開しなくてもいいわよ。じれったい……これで前置きに関してはもう貴方にとやかく言われる筋合いないわね」

「……話を腰を折るに関してもな」

 

 うふふふ。

 あははは。

 

 互いに不気味までに単調に笑う。



 しかし、

 

「………大丈夫よ」

 

 ピタリ、と笑いを止めた彼女は打って変わった優しい声色で耳を撫でるように囁く。

 

「私の子供は、デキるコだから。そんなに心配しなくても、その内何かのきっかけで変われるわ………そうでしょ?」

「………さぁな」

「お母さん、楽しみにしてるからね。貴方が、未完成な自分を好きになれる……そう変われるいつかを……」

 

 日が沈みだしたら、波打ち際まで行きましょうか、と言って彼女は場所をそのままに再び海に見入った。

 

「……暑いんだが」

「離れたってどうせ汗かくんだから、大差ないわよ」

 

 更に身体を押し付け、回す腕に力が込もる。

 離れる気はない彼女は、わかりにくい甘え状態に入ったらしい。

 こうなったら周囲の視線を集めようと気にも留めない彼女は、梃子でも言うことをきかないことはもう十分知った。

 彼女の言う移動の時間まで、あと二時間はここで海をただ眺めるだけなのか、とそれまで自分の体力は持つかどうか心配になった。

 

「海、綺麗ね」

「………ああ」

 

 淡々とした中に感じる楽しげな声に、そんなこともどうでもよくなり余計な力は抜くことにした。

 

「………かずや、あとね」

 

 まだ何か続いていたのか、と返事はしないながらも耳は傾けた。

 

「……変わらないものなんて、ないかもしれないわ。何かが変わるものを見ているだけ、つられるように何かが変わっていくのよ……自分でも気づかないうちに、ね。

変わることのないはずのカミさまだって、そう。おかしいことなんて、ないのよ。だって―――――――世界そのものが、昔から常に変わっていっているのだから」

 

 だから、自分も例外ではない、と言いたいのだろうか。

 反論する気はもうなかった。

 それを生み出す反感も、もはや微塵もない。

 先程の会話の中で、胸には答えが導き出ていた。

 

 それは、今の自分について考えた結果だった。

 以前とは己は明らかに違っている、と。

 

 一人で生きていくと決め、その道の上にいた自分。

 だが、今はどうだ。

 一人の自分の傍には、在るはずない隣人が確かに存在する。

 

「………変わってる、か」

「ん? 何か言った?」

 

 何も、としらばってくれてそれ以上は何も言わなかった。

 言えるはずもない。

 そんなの癪ではないか。

 

 あんたが俺の傍にいる時点で、十分変わってしまった―――――――なんて。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 



 夏の日の思い出。

 海で交わされた会話。

 何か特別なところもない、平凡のある夏のそんな出来事は、今も彼女の記憶に鮮明に刻まれている。

 この記憶こそ、彼女の拒絶と変化への諦めの始まりだったのかもしれない。

 

 変われると知った彼女は、この後その変化の機会たる存在を悲劇によって失うことになる。

 再び一人になる彼女はその後、多くの人間と出会うもやはり一人となる運命だった。

 

 そんな彼女が再び変化の機会に出会ったのは運命が与えた皮肉なのか。

 

 

 

 さぁ、それでは本筋へと戻ろうか。

 

 多くの悲劇の末、出会いと想いの重なり果ての喪失を何よりも恐れ殻の世界に閉じこもる彼女に、彼女と出会い殻を壊された彼は、その遮りの向こうへ声を届かすことが

出来るのかを見届ける為に。

 

 

 

 

 

 





BACKNEXT