蒼助が戻ってくるのに、二分と時間は経たなかった。





 

「つぁ〜………あのガキ、なんて寝相してやがる」

 



 朱里の部屋のドアを乱暴に閉めて歩いてくる蒼助は、左頬を押さえて憎たらしげに呟いていた。

 どうやら、ベッドに下ろした際に寝惚けた朱里に一撃もらったらしい、と千夜は解釈した。

 

「………ふぅ。―――――――さて」

 

 そのまま何気なく待たせ人の左隣に腰掛けた蒼助は、一息ついた次に何かを予感させる口ぶりをし、

 

「……っ!」

 

 何の前触れもなく伸びた手は、千夜の左肩を掴んだ。

 

 

 そのまま込もる力は押すという形で働いて―――――――

 

 

「あっ」

 

 

 反射的に出た声というか細い抵抗は虚しく響いて終わるだけだった。

 



 押し倒された。




 その事実が千夜を一瞬の忘我から自我に引き戻し、

 

「っな、何を」

「何って……押し倒しただけだろ」

「だけ!? お前っ……話があるってヤツはどうした!」

「もちろん、そっちもする。だけど、こっちが先」

 

 そう言うなり、蒼助は平然と指先を服の中に忍ばせた。

 服が捲れて肌が空気に触れる感覚と、指の感触に千夜の思考は一気に乱れを生じる。

 

「ば、馬鹿っ! 止めろっ!」

「暴れんな。見れないだろうが」

「見せてたまるか!!」



 ハイネックを押し上げる蒼助の手を両手で押さえつけようとするが、蒼助の力は片腕だけで千夜の力を上回った。

 力及ばず押し切られ、白い腹部が露になる。

 

「あっ……」

 

 服の下で籠っていた熱がスッと冷める感覚に、千夜は思わず眼を瞑った。

 同時に、顔に集まる羞恥の熱。

 

 いとも簡単に組み伏せられた屈辱。

 服を脱がされた羞恥心。

 それら全てが熱となって千夜の頬を赤く染める。

 

 どうして、とこの状況を作り上げた目の前の張本人に無言で問いつめたかった。

 しかし、その相手は今、全くおかまいなしで千夜の顔ではなく外に晒されたその腹部に釘打ったように視線を止め、凝視していた。 

 

「すっげぇ………」

 

 驚いたように声を漏らす蒼助は、左の脇腹あたりに指を這わす。

 擦るようなその触れ方に千夜はゾクリと背中を震わせた。

 視界を閉ざしている事が、一層感覚を鋭くさせる。



 そして、次に何をされるのか、と来るであろう侵攻に身を硬くする。

 そんな受け身に徹するしかない自分の身を呪わしく思い、同時に唐突過ぎる展開を押し通す蒼助に対する失望感を募らせた。

 

 そこに、

 



「綺麗に治ったんだな―――――――火傷」

 

 

「…………………は?」

 

 千夜が閉じていた目を思わず見開いてしまう程のズレた発言を発した蒼助。

 

「あんだけ酷い火傷もあっという間に治っちまうんだな、お前の身体」

「火傷って………お前」

「何だよ」

 

 俺別に何もおかしなこと言ってなくね?ときょとんとする蒼助に引き換え、千夜は顔から火が出たという言い回しをそのまま体現するように一層顔を真っ赤にした。

 

「お、お、おまっ……っ」

「何だ、期待しちゃってたわけ?」

 

 ニヤリ、とここぞとばかりに突いてくる蒼助の言葉が昂ぶった感情を煽り立てる。

 

「なっ、なっっ」

「冗談だって、そんな怒るなよ。つか……俺、信用ねぇなー。あんなことがあった後で、出来る程鬼畜じゃねぇぞ」

 

 溜息混じりの蒼助に反論を返そうと千夜は口を開いたが、

 

「何を言ってっ………だいだい、お前がこんな紛らわしい真似をするから……」

「だってさぁ、ストレートに脇腹見せて、なんて言ったところで見せてくれないだろ?」

「…………っ」

 

 言っていることは正論だが、そのまま呑み込むにも躊躇の拭えない返しに千夜は言葉が見つからないまま口をパクパクと動かすしかなかった。

 

「それに言ったろ。………条件満たすまで手ぇ出したりしねぇって」

「………」

 

 邪気のない笑みに、今度こそ千夜は口を閉ざした。

 

「にしても、本当よかったぜ。最初見た時は保険医と一緒に絶句しちまったぜ、あの火傷には。こんな綺麗な真っ白い肌にあんなもんが残ったらかと思うと、

気が気じゃねぇ」

「綺麗って……馬鹿なこと言うなよ。普通の女ならともかく、俺はそんなの言われてもちっとも嬉しくないぞ」



 と、真顔で呆れて返すと、

 

「………馬鹿な事言ってんのはソッチ」

 

 蒼助は、それよりも一層濃く、呆れるのはこっちの立場だと言わんばかりの半目で更に切り返した。

 そして、どういう意味だ、と言おうとした千夜の意気を削ぐ行動へと出た。

 

「自分のカラダを鏡で見た事ねぇのか? こんなスベスベして真っ白い女の肌と……」

 

 比べられるシロモンお目にかかったことがねぇぜ、と頭を落としたかと思えば、その落ち先は千夜の腹部。

 今は無い火傷を負った患部たる脇腹に、チュッと音を立てて唇が落とされた。

 

「んなっ……な、何してっっ」



 頭の上から降る制止の声など耳に入っていないように、蒼助は二度三度とわざとなのか音を立てながら口付ける。

 その音に煽りを受けて、千夜は事態に思考を乱しながら、

 

「馬鹿っ! 止めろっ……ぁ」

 

 ぬるり、と腰の曲線をなぞるように舐められ、思わず震えた。

 

「っ……蒼助!」 

「あっはは。顔真っ赤ー。睨んでんのに、全然迫力ねぇの」

 

 怒りの矛先の人間は、怯むどころか反応を楽しむ始末。

 空回りの千夜は悔しさに歯噛みする。



 しかし、その口元に蒼助の指が伸ばされ、

 

「ったく、あのクソ女………同じ女の顔に、こんな傷つけやがって」

「そう言われても、なんか複雑な気分なんだが……」

「ああ? 何でだよ、自慢の綺麗な面にこんな傷………ん?」

「別に誇りになんぞ思ったことは………何だ」

 

 マジマジと傷を見つめてくる蒼助が、素朴な疑問を漏らす。

 

「……そういえば、何でそっちの傷だけ治ってねぇんだ?」

 

 ギクリ、とさせる内容がきた。



 何とか表に動揺を出さずに済んだが、それは千夜を内心で大いに焦らせた。

 自分の身体がどういう危機を迎えているかを自分と久遠寺以外の人間は知らない。



 思わぬ自分のミスに舌打ちつつ、

 

「………最近、どっかの誰かのおかげでよく寝ていないから調子が悪いんじゃないのか? バテたり、調子を崩すとこういうことがよくあるんだ」

 

 少し苦しかったか、と思えなくもないフォローを咄嗟に並べる。

 

「そうか……でも、治るんだよな?」

「ああ、そのうちな。………どうした?」

 

 ふと、蒼助の表情に翳りを千夜が見つけた。

 

「あ、いや………あの、さ」

 

 はっきりとしない口ぶりだが、千夜は目を合わせないその伏せた眼差しで何を言おうとしているのかを感づいた。

 それと同時に、蒼助がようやく言葉の端を掴めた時、

 

「その……ごめ―――――――

「謝るな」

「………は?」

 

 ようやく切り出せた言葉を遮られ、蒼助は思わずポカンと呆気にとられた顔で、その下にいるそっぽ向いた千夜の不機嫌そうな表情を見た。

 

「傷に関しては別にお前に責任はない。俺が余計なことを口走らずに、穏便に済ませることに態度を押さえていれば起こらずに済んだことなんだ。だから、謝るな」

「………そのことなんだけどよ」

―――――――あ?」

 

 気遣っていた千夜が引っかかるほど、再度見た蒼助の顔には先程の翳りは何処へ消えたのかと思うほどの訝しげな様子が取って代っており、

 

「………保健室でも言ってた、その余計なことって何だよ」

「…………」

 

 その問いに、千夜は再び毛穴から冷や汗がぶわっと噴き出るのを感じた。

 とてもじゃないが、言える内容ではない。

 特に目の前の人間には、絶対に。

 

 先程を上回る焦りに、千夜は今度はフォローを考えることはできなかった。

 それだけの余裕すら吹き飛んでしまっていた。



「よ、余計なことだ」

「だから何だって」

「っっ、そうだと言ったらそうなんだ! それ以外に答えようが無い!!」

「何で顔赤くなってんの?」

―――――――なってないっっ!!」

 

 声を完全に裏返らせて千夜は息切れするほど怒鳴った。

 蒼助は何をそんなに取り乱しているのかわからず、きょとんと思考をハテナマークで埋め尽くすしかない。

 千夜は息を整える中で、僅かに取り戻した冷静さで何とか話題を逸らそうと、

 

「……それより、お前。今までの女たちと手を切ったって話は……本当なのか?」

「あん? 何だよ、また突然」

「……倉庫で、あの女に言ってただろう。関係のあった女たちと……手を切った、と」

「聞こえてたのか?」

「聞こえてきたんだ……それで、本当なのか?」

「………ああ。そうだけど、それが」

 

 どうした、と問いの形になる前に、

 

「何で………そんなこと、したんだ?」

「何でって」

「………どうして、俺なんだ?」

 

 向けられた言葉に、場がシン、と静まるのを感じながらも千夜は続けた。

 

「俺一人に、切った女達の穴埋めをさせるつもりなら……期待するだけ無駄だぞ」

「……そんなつもりじゃねぇよ。何かに入れ込むからには、それまでの適当なやらかしに俺なりのケジメを付けないとならねぇと思った。アレは、それだけのこと

でしかねぇよ」

 

 要約すると、千夜と、そしてそれまでの蒼助自身に対するケジメだということか。

 自惚れているわけではないが、事実を受け止めるとそういうことになると千夜は結論づいた。

 

「……本題に入る前に、一つ聞いておきたい」

「何だよ」

 

 すぅ、と息を吸い、千夜は胸に閊えて留まる一つの疑問を吐き出す勢いをつけ、

 

 

「俺と他の女、お前の中で何が違うんだ?」

 

 

 それを言葉という形にして、ずっと聞かせたかった相手に突きつけた。 

 

 直後に返事は返らず、蒼助は数秒ほど沈黙を保った。

 答えられないのでは、という不安も芽生え始めた時、

 

「………初めて会った時のこと、覚えてるか?」

 

 質問に対する答えとは捉え難いその一声に、千夜は当初何が始まったのかと蒼助の意図を読めなかった。

 

「俺は殺されかかったところをお前に助けられた。ビデオ返しにいった帰りっていうのは、ちとショックだったが…………まぁ、俺にとってそん時のお前は地獄に仏……

いや、女神も同然だったわけだ」

「一体、何が言い……」

「いいから、聞けって。いわばお前は命の恩人だったんだけど………別に、対して恩を感じてた訳じゃねぇんだ。変に正義感じみた行動だったら、寧ろ逆にそんな押し付け

がましい責任で救われたかと思うと死にたくなってたわな。多分、お前はそんなんじゃなくて、偶々見かけたから通りがかりに気紛れで助けたんだろうけどよ……どうせ、

一晩の偶然の出会いってやつですぐに忘れるもんだと、その程度だと―――――――思ってた」

 

 その言葉に千夜は内心驚いていた。

 薄情なその感情自体にではない。



 『己と同じ事を蒼助もまた思っていたという点』に、だ。

 

 蒼助の言う通り、正義感などそういう特別な感情に突き動かされたわけではなかった。

 ただ、偶然通りかかったところに思考が動くよりも早く、身体が衝動的に動いただけだった。

 ほんの気紛れと偶然が重なって、『救ける』という結果になった。



 たったそれだけの、自分たちの始まり。

 

「でも、覚えてた。あんな意識が朦朧とした死ぬか死なないかのギリギリの境界の真っただ中で見た、お前の顔が次の日になってもはっきりと俺の記憶に焼き付いたまま

だった。何処の誰とわからない相手を、だぜ? 俺は、忘れちまってもしょうがねぇことを入れはいくらそう思っても―――――――忘れられなかった」

 

 俺は、でなく俺も、だと、千夜は心の中で訂正した。

 ひょっとしたら助からず死んでいたかもしれない相手のことを、千夜も夜が明けても忘れる事が出来なかった。

 

「寝たわけでも、大した会話もしなかったお前に………俺はどうしようもなく会いたかった。あー……女々しいとか思われても仕方ねぇこと言うけどよ。

………あの時、お前との一瞬繋がっただけの縁を、俺は切れて終わりにしたく無かったんだ」

 

 縁、という言葉に千夜は再び共感らしきものを感じる。

 

「縁を例えて糸だっていうなら、俺はそいつでお前とずっと繋がっていたい。誰かとそうありたいと思ったのは、後にも先にもお前だけだ。

だからさ、女とかそんな狭い範囲じゃなくて老若男女っつー範囲で、俺は…………千夜?」

 

 蒼助は言葉を中途半端に放り、手で顔を覆う千夜の様子のおかしさに気付く。

 そして、呼びかけに対して返って来たのは、悲壮感のこもった呻きにも似た懇願だった。

 

「………ダメだ、そんなの」

「千夜?」

「ダメだ、そんな………俺なんか、の………脆過ぎる縁に縋るなんて」

 

 情けない程弱々しい声が、千夜は自分のものだと信じられなかった。

 けれど、事実なのだと受け止める。

 絶望的なまでに、出会ったあの瞬間から自分たちは全く同じ想いでいた、と。

 

 きっとこのまま全て何もかもを受け入れてしまえば、この事実はこれ以上になく幸せなことはないのだと思う。

 

 けれど。

 

「何も、知らないから……何も知らないから、俺がそんな風に見えるだけなんだお前はっ」

 

 胸がはりさけそう、とはこんな気分をいうのか、と千夜はぼんやりと思う。

 それでも、ここで未練を切り捨てないと、本当に胸が張り裂ける事態を迎えるだけなのはわかっていた。

 

「蒼助……俺は、お前が思っているような人間じゃない。俺という存在が、お前にどう見えていたのかは、俺にはわからない。

…………だが、事実の俺とは違うのは間違いない」

「千夜」

「だって、お前は知らなお前は………俺の何を知っているんだ、蒼助。何も知らないだろう……当たり前だ、俺―――――」

 

 

 

 

 

 

 

―――――――抱え込んでいるものが全部人に言えるような代物じゃないから、ってか?」

 

 

 

 

 

 

 

 口にするはずだった言葉が、先に出ていた。

 あろうことか、己の声ではなくそれを打ち明ける相手の声で。

 

 

 

 千夜はその予想だにしない出来事に思考を停止せざるえない衝撃に脳が揺れたような感覚に陥った。

 

 そんな呼吸すら忘れて固まる千夜の上から、蒼助が身を引く。

 ソファの背もたれに寄りかかるように体勢を直した蒼助は、視線をその向いた先に放りながら、

 

「お前の周りの連中、口が軽すぎだろ。あと、御節介も」

「そ……」

「で、どれだよ……お前の"負い目"って。記憶がないことか? 血生臭い前科歴か?」

 

 それとも、と更に続く気配に千夜は全身の毛が総立ちするのを、その時感じた。

 

 止めろ、とあれほど決心づいていた心が叫ぶ。

 しかし、届くはずもない声に蒼助は耳を貸さず、無慈悲にもその先を―――――――

 

 

 

 

 

―――――――お前が男でも女でもない身体だってことか?」

 

 

 

 

 壊したかった世界。

 壊さなければならなかった世界。

 

 そう願ったその世界が存在するのに欠かせなかった男の手によって、それはいとも簡単に破砕を以って崩壊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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