「―――――――本当にいいのかい?」
帰り際、赤く染まりかけた空に気を取られていた千夜は、耳に後ろからかかった声に我に返り振り返る。
診察室のドアを開けて、そこに立つのは久遠寺。
そこには、珍しく純粋な真剣さのみが貼り付いていた。
「アドバイスをくれた人間が、今になってそういうこというか」
「若者の見切り発車を止めるのは、大人の仕事だからね……一応。もっと、肩の力を抜いたらどうだい?」
「………見切り発車じゃないさ」
目を閉じて、
「ずっと、決めていたことだ。ずっと、思ってた……それを実行するだけのことだ」
己に納得させるように、言い聞かせるように。
そんな言い様に、久遠寺はそれ以上何も言わなかった。
「……じゃぁな。アドバイス………ありがとう」
薄く赤らんだ廊下を歩き出す。
階段の踊り場まで来て、千夜は赤らんだ光を差し込ませる並列する窓を見た。
少しずつ、緋みの増していく夕刻の空。
これから少しずつ、僅かな時間を経て夜を迎える。
そんな緋色が、千夜に一つの記憶を呼び起こさせた。
それは、あの日。
学園に転入した最初の日の黄昏刻―――――――千夜の【願い】が叶った瞬間。
同じもののはずなのに、今はまるで違う光景に見えた。
―――――――もっと肩の力を抜いたらどうだい?
先程の久遠寺の言葉が何故か耳に残る。
何故、と考える千夜の脳裏に応えるような記憶の一片がひらり、と一枚の葉の如く流れ込んだ。
『もっと肩の力を抜いて、楽にしたらいいのに。世界は貴方が思っているよりも、貴方に全てを背負わせたがっていないのだから』
ああ、やっぱりあんたか、と千夜は思わず唇を噛んだ。
何故、本人がいなくなっても尚、彼女の口にした言葉はこんな風に残り続けるのか。
忘れてしまえないのは何故なのか。
「無理だって」
脳裏で微笑む彼女に向ける。
「そんなやり方、忘れた」
忘れてしまったのだから、このままで行くしかないだろう?
言葉にせず内にて響かせ、千夜は歩き出した。
引き止めるような彼女の言葉から振り切るように。
◆◆◆◆◆◆
二日離れていただけだというのに、目にした自宅の建物の光景は随分懐かしく見えた。
踏み出す一歩一歩が不思議と重い。
それが身体に疲労が原因ではないということは自分でも承知していた。
……しっかりしろ。
もう決めたのだ。
これ以上引き延ばせば、きっとなし崩しとなって手遅れになる。
方法は見つかった。
なら、それを実行せずにどうする。
躊躇に足をとられている自分に、それを振り切れと叱咤し、
「………よしっ」
キッとドアを睨み倒す勢いで視線を突き刺し、そのまま手をかけたドアを引いた。
そして、
「―――――――ねえさぁぁぁぁんっっ!!!!」
直後に、叫びに近い呼び声と共に白いツーテールを靡かせて駆け込んできた朱里が強襲する。
まるでスタンバイしていたのでは、と思わせるほどのドアを開けるタイミングの合致したその行動に、千夜は対応に遅れた。
感情任せの衝動的な行動なのか、全く勢いを衰えさせる様子なく、
「うわっ………!」
朱里がいくら小柄であろうと、今の千夜には一般的な女の力しかなくそれを緩和させることも出来ない。
当然勢いを受け止めきれるはずもなく、身体は後ろに倒れこむようなる。
そこへ、開けかけたドアが支えのなくなったことで閉じかかる。
倒れかける千夜の身体は、その隙間に挟まれる位置にあったのだが、
「おっと」
その後ろで防ぐ手が現れた。
倒れかけた体は何か壁のようなものが支えとなり、留まる。
「あぶねぇことしてんじゃねぇよ、ユキウサギ。お前の姉ちゃんがさらし首みたくなるところだったぞ」
すぐ耳元の声に、千夜は思わず唯一不便なく動く首を振り向かせた。
「……そ」
「うわぁぁん、姉さぁぁん!!」
呼びかけた名前と向けようとした意識は、そんなことお構いなしの朱里の泣き叫ぶ声にかき消される。
「寂しかったよぉぉ! 安っぽいコンビニ弁当の味にはあきたよぉぉ! 姉さんの料理が恋しいよぉぉ!!」
「あ、ああ。ごめんな、もう出て行ったりしないから……」
腰にしがみついて今までの不満の一切をぶちまける朱里の頭を撫でつつ、千夜はさりげなくを装い蒼助との密着した状態から脱した。
触れた際に一気に高まり乱れた鼓動が名残惜しげにも、徐々に戻っていく。
「おなかすいたぁ」
「はいはい」
腰に貼り付いて離れない朱里を引きずり、雄藩の支度のためにリビングへと進む。
背中に突き刺さる蒼助の視線に気づかない振りをしながら。
◆◆◆◆◆◆
実に平穏な晩の食卓だった、の一言に尽きる一時であった。
蒼助が朱里に嫌いな野菜を押し付けたり、肉を奪うといった光景はまさに三日前のそれをそのままテープで巻き戻しているようで、理不尽に泣く朱里を宥める千夜も
また同様だ。
ただ一つ、違うことがあるとすれば。
それは、夜が明ければこの光景が明日にはなくなるということ。
それを知るのは、そうなるように導く千夜のみだ。
「ねえさぁぁん!!」
「泣くな泣くな。姉さんのおかずやるから」
全くと言っていいほど同じ台詞を口にしている自分が、何だか笑ってしまいたくなるほど滑稽で、おかしかった。
そして、再確認した。
以前はなかった騒々しさにうんざりしつつも、この光景が在ること、そしてその中に在ることを―――――――今と同じように愛しく思っていたのだと。
◆◆◆◆◆◆
夕食を終え、食器も全て洗い終えてリビングに戻ってくると、ソファでテレビを見ていたはずの朱里の様子が、最後に遠目から盗み見た時と違うことに気づいた。
「朱里?」
その姿は変わらず、ソファにもたれてテレビを見ているようだが、近づいてみて決定的に同じではない点があることがわかった。
「寝てしまったのか?」
問いは帰らないのも当然だった。
目を閉じて、寝息を立てている。
「困ったな、まだ風呂に入っていないのに……」
朱里、と肩をゆすって起こそうと試みると、
「いーじゃん。寝かしといてやれよ」
隣で朱里とテレビを見ていた蒼助が何のつもりか制した。
「言ったろ。お前がいない間、そいつロクに寝てなかったんだよ。……お前が帰ってきて、安心したんだろ」
よっこらせ、と口ずさみながら腰を上げたかと思えば、蒼助はその拍子に横にカクンと揺らいで倒れ掛かった朱里の身体を支えと同時にそのまま片腕で抱き上げた。
そして、
「それに……この方が、都合がいいだろ」
「………?」
一瞬蒼助が口にした言葉の意味を図りかねた千夜は、次に続いた言葉に驚愕に目を見開く。
「―――――――俺に、何か言いたいことあるんじゃねぇの?」
「っ!」
思わず顔を驚愕の感情を顔に出す千夜に、蒼助が苦笑する。
「驚くこたねぇだろ。帰ってきてから妙によそよそしい雰囲気をあれだけ見せ付けられりゃなぁ………」
そこまでだったのか、と己の失態に唖然とする千夜。
蒼助は朱里を寝室に運ぶべく背を剥け、そのまま、
「都合がいいに関しては、俺も同じだ。俺も、お前に言いたいことがある。文字通り、水入らずの二人の―――――――今、な」
一方的に告げるだけで、言葉の一部に反応し振り返った千夜を見ることもなく、蒼助は朱里の部屋へと歩いていった。
その背中を見つつ、千夜は蒼助の台詞の中にあった「言いたいこと」に対し、不可解という気持ちを胸に抱いた。
しかし、それも「終わりの刻」を間近に膨らむ別の感情によって上塗りされていった。