月守学園は授業終了までの時間を、あと二十分と控えていた。

 各教室、或いは校庭で、生徒たちが授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響くのを、あと一分一秒と待ち遠しくしながら授業に身を入れる。

 





 しかし、そんな最中。






 教員棟の一階廊下にて、その停滞する沈黙を問答無用で破る騒々しい足音が駆け巡る。




 勢い落とさない足音向かう先は―――――――

 




―――――――おいっ保険医いるか!」

「ちょっと、ドアを蹴り開けな―――――――

 

 己の領域たる保健室にて、机について仕事に徹していた保険医の女は、荒々しい入室で仕事への集中と静かな一時を乱した来訪者に注意の言葉を放りかけて、中断した。

 

「蒼助……? え、てゆーか……」

 

 それ、何?

 

 保険医が見遣った先にいたのは、両腕に女子生徒を抱えて必死こいた形相の常連だった。

 

 彼女の穏やかな時間は、彼らの来訪と共にさりげなく終わりを告げた。









 ◆◆◆◆◆◆









「……で、このコを私に見て欲しいってことで、私の仕事邪魔しにきたわけ?」

「生徒診るのも仕事じゃねぇのか、コラ」

―――――――たるい、めんどい。ぶっちゃけ、書類とか単純作業のほうが好きなのね」

「………何で、保険医なったんだよアンタ」

 

 職業全否定を何食わぬ顔でやってのける目の前の女に脱力しつつも、そんなことにめげている場合ではなかった。

 

「いーから、見ろ。つか、お願いしますセンセイ」

「しょうがないわね、珍しく下手(したて)に出てるのが気分いいし……どれどれ」

 

 何かが根本的に間違っていると蒼助は気づかないわけがなかったが、この際細かいことは捨て置くことにした。

 

「へぇ……これが噂の。遠くから何度か見たことあるけど……近くで見ると、益々綺麗な顔してるじゃない。目のつけところがアンタらしいというか、さすがというか」

「……観察じゃなくて診察してほしいんだけど」

「わかってるって………」

 

 ベッドに横たえられた千夜をじっくり観察するように見ていた保険医は、シーツをめくり、

 

「って、オイ。何する気だ」

「診察よ、診察。シーツ被って服来た上で、何をどう見ろっていうのー?」

「服まで……」

「顔が腫れてる。口端もちょっと切れてる。リンチっていうのは、表面上に出てくるところよりも見えないところに酷くやることだからね。あんたも知ってるでしょ。

……きちんと隅々に気を配っておかないと、後々取り返しのつかないことになるのよ」

「……そうなのか」

「あんたみたく丈夫で頑丈なのはともかく、普通の人はね」

 

 皮肉げに言うと、保険医はまずは服を着せたまま診察を始める。

 

「頭に損傷は……無し。鈍器とかで殴られはしなかったみたいね。顔の損傷は……若干有り。脈拍に以上は、無し。まぁ、見えるところといったらこれくらいね。

………後は、やっぱり脱がさないと―――――――蒼助」

「…………何だよ」

「見んな、スケベ」

「なっ」

「どーせ、あとでモノにしたら好きなだけ剥いたり見たりし放題でしょ。とりあえず、今は保険医として女の子のプライバシーは守らないとね。ほらほら後ろ向いて」

 

 渋々と言葉に従う蒼助の姿を確認し、保険医は弾け飛んだ上部分に少し顔をしかめつつ、その下の残ったボタンを外していく。

 そして、ぺらりと上半身の全体が見えるようにブラウスを広げて除けた。

 



「………蒼助」

 

 

 出た声は、喉を押さえつけたように低かった。

 

「このコ、何されたって?」

「…………スタンガンを」

「護身用具のスタンガンの電圧に殺傷力はないのに………こんなになるわけっ?」

 

 荒げた保険医の声には、憤りを感じる。

 見なさいよ、と先程とは正反対の台詞を口にしながら、保険医は立ち退く。

 蒼助は、そこで露見された千夜の上半身を目の当たりにし、

 

「………っ」

 

 右のわき腹に広がる夥しい火傷。

 元の肌の白さが相まって、一層その痛々しさが際立つ有様だ。

 その凄惨な光景に蒼助が言葉を失っている横で、保険医は顔をしかめながら、

 

「もし、本当にスタンガンだったら………どっかで改造して電圧上げまくったのね。ここまでなるなら、熊だって一撃で倒せるわ。ったく、どうかしてるわそいつ……」

 

 はぁ、とため息を一つつき、

 

「……蒼助、あんたこのコの家の電話番号わかる?」

「まぁ、一応………どうするんだよ」

「決まってるでしょ、保護者に迎えに来てもらうのよ! これはもう、私の手じゃおえないわ。………事情説明はあんたがしてよね、ぶん殴られる役割も。ちゃっちゃと

そういうごたごた済ませて、早く病院に……」

 

 蒼助の知る普段グータラな女が珍しく焦っているということは、よほどのことなのだろう。

 保険医が電話機の置いてある向かおうと身を翻したその時、

 

 

 

―――――――待って……下さい」

 

 

 

 掠れた声と、進行を妨ぐ引力が保険医の行動を制する。

 思わず振り返ると、薄らと目を開いて離れようとする保険医の白衣を掴む千夜の姿があった。

 

「………その必要は、ありません。このままに、しておいてくださ……い」

「何を、言っているの!? あなた、自分の身体がどうなってると……」

「……わかってます。……"だから"、大丈夫です」

「………っ!」

 

 保険医はその台詞に言葉を失くしたかのように、目を見開いた。

 千夜は保険医の白衣の裾を掴んだまま、

 

「………あとで、かかりつけの医者のところに自分で行きますから……今は、ここで少し休ませてください。放課後までには……帰りますから」

「…………」

 

 半開きながらも強い眼差しで訴えかける千夜と保険医の視線は、暫しの間合わさったままだった。

 数秒のやりとりの後、保険医が何かを納得したように瞼を閉じる。

 

「………大丈夫、なのね?」

「……はい」

「……………わかったわ」

「保険医っ!? 何言って……」

―――――――蒼助、いいんだ」

 

 保険医のまさかの決断に目を剥いた蒼助を、千夜が制止した。

 

「いいって………お前」

「………いいんだ。俺の無茶な要求を、その人は呑んでくれただけじゃないか」

 

 酷く落ち着いた口調で、千夜は蒼助を宥めた。

 蒼助からしてみれば、あんな目にあってそこまで落ち着かれているとどうすればいいかわからない。

 

「………顔」

「あ?」

「……口が、切れてる」

 

 言われて手を当ててみると、殴られた際に切れた口端はまだ乾ききらず、潤いを若干残してあった。

 だが、千夜も蒼助のそれを気にしている場合ではない重傷を負っている。

 

「……ナニ言ってやがる。こんなんよりも、お前の方がひでぇじゃねぇか」

「………まぁ、な。スタンガン二回は、さすがにキツかった」

 

 なんてことなく零した言葉に、蒼助は気づかぬうちに手を痛むほどに強く握っていた。

 

 改造して威力の抑制の外れたスタンガンを二回も、この華奢な身体に打ち込んだという。

 やはり殴っておくべきだったか、と蒼助が危うい思考に走っていると、

 

「…………ごめん、な」

「………はぁ?」

 

 唐突な謝罪に蒼助は一瞬意味がわからず、呆気にとられた。

 どういう意味だ、と蒼助が尋ねる前に、千夜が独り言のようにポツリポツリと語り出す。

 

「本当は………もっと、穏便に事が済んだのに。俺が……余計なこと言わなければ」

「……何だよ、余計なことって」

「……余計なことだよ」

 

 遠回しに深入りを拒否する返答だった。



 そして、呟くように、

 

「俺なんかが……言う資格なんてないような、ことだ」

 

 ごめん、とまた一言。

 それを最後に千夜は目を閉じて、言葉も切らした。



 眠るように意識を再び失った千夜に対し、蒼助は歯切れの悪さだけが募る。

 

「何だよ、ごめんって………何で、お前が謝んだよ」

 

 その言葉に答える者は、既に眠りに落ちていた。









 ◆◆◆◆◆◆









「………あんた、好きなの?」

「何だ、突然」

 

 仕切りを引いて出てきた矢先の問いかけ。

 机について背を向ける保険医が投げたものだ。



 目的部分が抜けていたが、その空白に何が入るのかは蒼助にとって考えるまでもなかった。

 

「……なぁに? 恥ずかしいの? あんたほどの男が……」

「………何で、どいつもこいつも俺の周りの女は同じこと聞くかね」

 

 苦虫噛み潰したその表情が、答えなのだと保険医は受け取った。

 

「ふーん、そうなの。それじゃぁ―――――――

 

 

 

 

 ―――――――止めときなさい。

 

 

 

 一瞬で打ち消された微笑の代わりに、真顔がそう告げた。

 立て続けの突拍子の無い言葉に対し、蒼助は何を言われたのかわからなくなった。

 

「………冗談のつもりかソレ」

「冗談に聞こえたのなら、今度は本気と前置きをつけてもう一度言ってあげましょうか。

 ―――――――止めときなさい、蒼助。あんたに、あの娘は重過ぎる」

 

 その直後、遮るようにバンっと殴りつけるような音が響く。

 保険医の目と鼻の先に聳え立ち、手の平を机上に叩き付けた蒼助。

 剣呑とした眼差しが威嚇するように真下の保険医を見下ろす。

 

「そういうワケのわかんねぇ説教じみた台詞は聞き飽きてんだけどなぁ……」

「言っとくけど、私はあんたの他の女たちみたいな嫉妬とかでこんなこと言ってるわけじゃないのよ。てゆっか、別にあんたが何処の馬の骨に熱を上げようと知った

こっちゃないし。何度か暇つぶしに寝た相手に、そこまでオチるほどの青さはとうの昔に卒業したわよー」

 

 常人なら怯む鋭い眼光にも、鼻であしらうような酷い言い様。

 しかし、そこで話は蒼助の思わぬ方向へと転じた。

 

「……私はね、あんたのためじゃなくて、"あの娘の為"に言ってるのよ。さっきの台詞………言い方を変えれば―――――――あんたじゃ、あの娘の抱えてる一物(ガン)

享受しきれない」

「ガン……?」

「……さっき、彼女……私の言葉に、"だから、大丈夫"って言ってたの聞いた?」

「………あ、ああ」

 

 そんな不可解な台詞を、確か言っていた気がする。

 

「……"だから"っていうのは、なんかしらの理由があるから使う単語なのよ。意味、わかる?」

 

 一呼吸置き、保険医はズバリと切り込むように告げた。

 

「彼女、あんな怪我を負うのは初めてじゃないのよ」

「………」

「ひょっとしたら、あれよりももっと酷いのを経験したこともあるのかもしれない。今、負ってるアレをそれよりも下としか見れないまでに、怪我に対する捉え方が

麻痺してる」

 

 それに、と保険医は付け足すように言葉を繋げる。

 

「身内にそれを知られるのを極端に拒んでたわよね。今までも、そうしてきたんでしょう。誰に知られることもなく、一人で痛みを抱えてそれに耐えてやり過ごして

きたのよ。彼女は、そういう系統の破滅型なのよ。一度抱え込んだら、誰かに打ち明けることもできなくなり、その痛みはやがて膿んでデキモノになる。言い様じゃ、

一種の心の病気とも呼べるかもしれないわね」

「知ったような口ぶりじゃねぇか」

「………知ってるって、言ったら?」

 

 不意に保険医の表情がゆらりと揺らめく。

 陽炎のような靄は翳りとなってそこに被さった。

 

「……()()?」

 

 思わず、蒼助は相手の名前を口にしてしまった。

 それほどまでに、目の前の相手は先程までの不遜さは何処へ消えたのか、その姿が霞めるほどの儚さを漂わせていた。

 

「あんたが納得できるような話を聞かせてあげる。ふふ……どうしてこんなこと話さなきゃいけないんだか。……でも、なんかそういう気分だし……いっか」

 

 そう言いながら、保険医―――――――喜美はにっこりと蒼助に微笑んだ。

 はっきり過ぎて、何処か歪にすら感じる笑顔。



 表情をそのままに、喜美は衝撃的な言葉をさらりと世間話をするかのように、

 

 

「私、高校時代に同級生にレイプされたことあるの」

 

 

 さも何でもないことのように、あっさりと告白する喜美に言葉を失う蒼助。

 ふぅ、と椅子にもたれかかるように喜美は力を抜き、

 

「誰にも言えなかった。特に親には………私、両親が大好きだったから絶対に知られたくなかった。いつバレるかひやひやしてたら、そいつがそれに勘付いてそれを逆手に

とって同じ事を延々と強要してきた。次第に仲間まで引き出してきて………当然、何度か当たった。孕んでは何度も一人で薬でトイレに流して………結局、両親に気づかれ

て全部吐かされて、事実が全部表沙汰になるまで地獄のような日々は続いたわ。両親は、どうしてもっと早く話さなかったって泣きながら私を詰ったわ。

 ……ねぇ、どうして言えると思う? 言ってしまったら、自分にとって何よりも大切なモノが壊れて失われるとわかっているのに………どうして、自分からそれを壊そう

と思えるかしら」

 

 語りかけは、いつの間にか吐き零すような独白に変わっていた。

 瞳は遠くを映し、虚ろとなる。

 

「……まぁ、結局は……たくさん削られ、その上何よりも守りたかった両親とのごく普通の日常まで失くしちゃったわけね、私は。おかげで、引っ越した後も成人した後も

………両親は私を腫れ物に触るような余所余所しい扱いを続け、今に至るわけ」

「…………」

「私が何をいいたいかわかる? 蒼助。………あの娘にも、私と同じでどんな苦痛であろうとそれを耐えて守りたい、かけがえのないモノがあるのよ。私が、両親との関係

を守りたかったように……。ねぇ、もし仮に、あんたが気づかず彼女が慰み者にされて、その事実を後で知ったら……何て言う? きっと、言うわね。何で黙ってた、と」

 

 否、と返すことはできなかった。

 もし、そうなっていれば、喜美の言うとおりにしていただろう、と蒼助はその仮定の中の自分を思い浮かべてそう思った。

 

「……だから、止めておきなさい。あんたは不用意に彼女に触れれば傷つくのはあんた自身。そして、触れられて彼女もまた傷つく。通い合ったとしても……一緒にいても

傷つくだけなのよ。あんたと彼女は」

 

 経験者たる喜美は、諭すように再び同じことを蒼助に聞かせた。

 

 自分はそうではなかったが、恋や愛はもっと甘ったるくていいのだ。

 まだ若いこの時期に、苦さしかないようなモノをわざわざ選ぶ必要は無い。

 そんなものはいずれ来るとしても、もっと先に延ばしてしまえばいい。

 

「だったら……あるのかよ。傷つかず……先に進める方法なんて」

 

 問いに対し、喜美は椅子から立ち上がるという行動をとった。

 視線も顔も合わさないという奇妙な向き合い。

 

「……先に進むっていうのは、何の? ……恋? 人生?」

「…………どっちもだ」

「……どっちも、ね」

 

 呟くと、一息。

 そして、そのまま蒼助の横を通り過ぎる。



 その際に、喜美は己の代わりのにとでもいうように【答え】を置いていく。

 

「……さぁね。そんな風に進めた試しがないからわからないわ。自分で考えてみて」

 

 無責任な返答を残し、喜美は白衣を翻して保健室を出て行った。









 ◆◆◆◆◆◆









 残された蒼助は髪をくしゃりと掻いて、少し所在無さげにそこに立ち尽くしたかと思えば、不意に足先を千夜の眠るベッドへ向けて動いた。

 シャッと音をたてて、仕切りを引くとそこの住人の寝顔が露となる。

 蒼助はそれを確認すると、立つ位置に椅子を引き寄せてそこに腰を落ち着かせた。

 

「………なぁ、ひでぇ話聞かされた」

 

 瞼を閉じる千夜に向けて、届くはずのない言葉を声に乗せて投げかける。

 

「俺が触んなきゃ、お前は傷つかずに済むんだと」

 

 一人で痛みを抱えて、それに耐えて生きてきた。

 喜美が先程言っていた言葉だ。

 

 蒼助が脳裏に甦るその言葉から、記憶を探り出す。

 思い当たる節が無かったわけではない。

 

 路地裏で蹲っている姿を見つけた夜。

 或いは、黒蘭の提案を強く突っぱねたあの時。

 

 一端探り始めると、ボロが出るように面白いほど発掘が進む。

 

 気づいていなかったのか。

 己に問い、蒼助は否と返す。

 感じてはいたが、勝手な判断で杞憂だと思っていただけだ。

 あの女はそんな弱い人間ではない、と。

 

 馬鹿な話だ。

 実際は、そうして自分の理想を押し付けて、千夜の本当の姿を見ていなかった。



 怖かった。

 千夜が―――――――自分が認めた女が、かつての痛みに耐えることしか出来なかった忌まわしい弱い自分と同じ人間であると認めて、失望を得ることが。

 

 だが、違うのだ。

 味方がいなかったから一人で耐えるしかなかった自分とは違う。

 千夜には心からその身を案じてくれる者がいる。千夜もわかっているはずだ。

 

 わかっていながら、千夜は一人で耐えることを選んだ。

 三途や朱里、上弦や黒蘭という周囲に己の痛みを分け与えることよりも、自分一人で背負う込むことを。

 頼れる人間がいるのにもかかわらず、その手をとらないことにどれだけの意志が必要るのだろうか。

 

 今更気づいた。

 弱いなどと、見当違いもいいところだ。

 この女は本当に強い。

 己の弱さに自覚を持った強さを持っている人間。

 ほんの少しでも揺らげば、そのまま崩れ落ちて破滅してしまう紙一重の危うさ。

 

 こんな華奢な体で、背負うには重過ぎるそれの重圧を持ちこたえてきた千夜。

 楽にしてやりたい。



 だが、それには―――――――

 

「………何で、だよ」

 

 大事にしたい。

 弱音を吐ける場所になりたい。

 けれど、そんな自分の行動は、千夜を傷つけるだけだという。

 

「何もしなくても、壊れちまうのは見えてるじゃねぇかっ………」

 

 波打ち際に建てられた砂の城のように。

 徐々に、そして確実に崩れて―――――――最後には、消えてなくなる。

 

 静観し、それを見届ける。

それも確かな、一つの楽にしてやれる方法。

 間違いではないだろうが、

 

「……そんなの、納得できるわけねぇだろうがっ」

 

 触れても傷つけて。

 触れずとも壊れていく。

 

「どうすりゃいいんだよ………俺は―――――――

 

 

 

 

―――――――傷つければいいじゃない」

 

 

 

 心の隙間に差し込むように響いた声に、一瞬蒼助は思考の活動を止めることとなった。

 何故なら、本来この場で聞こえるはずのない者の声だったからだ。

 思わず顔を上げ、声の聞こえる方を見た。



 視線が向かったのはドア一枚が隔てる出入り口だ。

 一度自覚すれば、確かにそこから気配の存在が伝わってくる。

 

「………こくら、ん?」

 

 どうして学校に、と問いかけようとする蒼助を押しとどめるように、ドアの向こうの相手が先手を取る。

 

「お悩みのようね、坊や………自分が何をすればいいか、わかなくなった?」

「………わかんねぇよ」

「まだまだ、ダメね。あれぐらいの言葉で揺らいじゃうんじゃぁ。………まぁ、あの保険医さんの言うことも正しくはあるでしょうけどね」

「お前も……そう、思うのか?」

 

 これでそうだと言われたら、本気でどうすればいいかわからなくなる、と不安になりつつも。黒蘭の真意を探る。

 返答は、蒼助の不安を弄ぶようにはっきりとは返されない。

 

「………間違い、と否定する気はないわ。それまた、一つの結論の形よ」

―――――――だったら、俺は一体っ」

「でも、貴方がそうする必要はない。そして、貴方がするべきことはそれではない」

 

 肯定かと思えば、否定。

 結局、黒蘭は何が言いたいのか。



 蒼助は疑問に苛まれながら、黒蘭の言葉を理解するだけの冷静さを保つことに必死だった。

 

「何も出来ない、なんて考えはそれこそ見当違いいいところよ。貴方がすべきことは、最初から一つ……選択する必要もない、たった一つだけ」

「………たった、一つ?」

 

 黒蘭の言うたった一つが見当もつかない蒼助は、勿体つけた口ぶりが痺れを切らすのを待った。

 その果てに、待っていた回答は蒼助の苦悩を根底からひっくり返す代物だった。

 

 

 

「言ったでしょ? ―――――――傷つけてしまいなさい。それこそ、木っ端微塵に砕いてしまえばいい」

 

 

「………はぃ?」

 

 人が散々頭を悩ませていた問題に、あっさりゴーサインを出す黒蘭に蒼助は唖然とするしかなかった。

 

「……なぁ、マジでそろそろここらいい加減にしてくれよ。こっちは慣れない悩みに脳みそ酷使して精神病んじまいそうなんだ。つか、そんなことして何になるって……」

「千夜を楽にしてあげられる唯一の方法なのよ?」

 

 溜息混じりにぼやいていた蒼助は、黒蘭のその言葉に沈黙に落ちた。

 そして、

 

「……どういう意味だ」

「言葉どおり。傷つけて、壊すの。そのコを救いたいのなら、それしかない。貴方がそうするしかない。………とりあえず、その理由は後で教えてあげる。とりあえず、

貴方は先に知らなくてはならないことがあるから、このまま黙って聞いて」

 

 口調そのものは変わっていないはずなのに、紡ぐそれら言葉にはその前にはない何か違うものを蒼助に感じさせた。

 あいにくなことに、それを具体的に表せる言葉を蒼助は知識として持っていなかった。

 だが、足らないながらも当てはめるなら一つだけそれらしき言葉がある。

 

 真剣。

 

 今の黒蘭からは、通常を装いながらもそういった真っ直ぐな一本が入り込んだ雰囲気が、ドア越しでありながら伝わってくる。

 

「今から貴方に………""を、教えてあげる」

「嘘………?」

 

 話がまったく見えない。

 

「そう、嘘よ。貴方に向けて使われている嘘。それがある限り、貴方はこれ以上先に進めない。だから、助けてあげる。もう壊れかけたあのコを、完全に【折る】為に

………貴方はこの嘘を暴かなくてはならないの。その為には、答えをここで知っておかなくてはね」

「嘘って……誰の」

「決まってるじゃない」

 

 何を今更、と黒蘭が壁の向こうでクスリと笑ったような気がした。

 

 

 

「出会った時から続いている―――――――千夜が貴方に対しついた嘘のことよ」


















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