千夜も例外ではなかった。
先程抱いていた慰めにもならない希望を乞う願いは、それを遥かに上回る"奇跡"に近い蒼助の登場により消し飛び、ただ呆然として有り得ない出来事を受け入れられ
ずにいた。
己の身体にまとわりつく男たちの不快な手すら忘れて、蒼助を見つめた。
「体育用具倉庫………ったく、ひねりがねぇなオイ」
「て……めぇ……はっ……はなしやがっ……」
依然と蒼助の拘束から開放されないでいた男が、調子を取り戻したのか敵意を剥きだしにし、首を掴んで締め上げる手を引き剥がそうともがき呻く。
すると、男の抵抗意思を拍子抜けさせるかのように、蒼助の手はあっさり男の首を放した。
一気に通りが良くなった器官に急激に流れ込む酸素に咳き込みつつ、男は自由の身となったことで敵意を行動に移そうと―――――――する前に、
「―――――――うっあ……!?」
首に圧迫がなくなったと一息ついた途端に、今度は頭部を掴まれる。
首にそうされたように、決して強く握りつぶすような力はなかった。
―――――――が、その意思とは関係なく、視界に壁が急激に迫った。
次の瞬間に、ぐしゃり、と拉げる音が男の顔と壁の間から生じる。
ぐりりと押し付ける壁はその衝突部分―――――――そこにめり込んだ男の顔面の下から僅かに罅が生やしていた。
「………チッ、加減が足りなかったか。まぁ、いいか……元から、ボロイし」
己が男の頭部を以って行った壁との衝突の際に誤算となった壁の破損に、蒼助はいたずらに失敗した子供のような顔でぼやいた。
痙攣を繰り返す男を僅か一瞬で再起不能に叩き落した光景を目の当たりにしたのをきっかけに、他の仲間はようやく我に返った。
彼らが何かを言い出すのを待たず、先手を取るように蒼助は悪魔で己を通す。
「……さて、てめぇらに言いたいことやりたいことは有り余るくらいだがよ。まずは、そいつを返してくれねぇ?
―――――――特に、そこのお前。……手ぇどけろ。そのチチは俺んだ、先に触んじゃねぇ」
口元は笑っているが、目は決して同様ではなく、肉食獣のような凶暴な光を発して千夜の上にいる男を射抜いていた。
その視界に捉えられた男はその本物の殺気に一瞬怯んだが、向けられた言葉に混じっていた"とある点"に気づき、それを逆手にとろうと口を開いた。
「へ、へへっ………何だ、玖珂……お前、まだ手ぇ出してなかったのかよ」
「………まだ、とか言うじゃねぇ。これから、手ぇ出すんだよ。……いいから、とっとと退け。そこは俺専用の特等席だ」
男の売り言葉にも一切耳を貸さない蒼助は、不遜な態度を揺るがさないままに己の要求を通そうと歩みを踏み出す。
その行動は、蒼助の意識が千夜しか捉えておらず、その他は歯牙にもかけていないという今の蒼助を表していた。
が、
「そう………まだ、なの」
何者も押し退けて進もうとする勢いの蒼助の前に、立ちはだかる人間がいた。
智晶だ。
何か納得した様子の表情で、先程の驚愕をその奥に収めて蒼助と面する。
「何だ、最初からいってくれればよかったのに」
「智晶………」
想いを寄せる男に艶やかな笑みを見せる智晶に、相反する険しい表情で向き合う蒼助。
そんな蒼助の態度を、拗ねた子供のようなものと受け取った智晶は肩を竦め、
「そんな怖い顔しないで………だって、知らなかったの。こんな泥棒猫に貴方を取られるかと思って……私」
「智晶」
そこをどけ、と視線が物を言った。
しかし、智晶はそれを受け取り拒否と撥ね退ける
まるで、聞き分けのない子供の言い訳に耳を貸さない母親に扮するように。
「ねぇ、本当はちゃんとわかってるわ。今の貴方は、珍しい玩具にハマっているだけなのよ。今までとは毛色の違う女に興味がわいているだけ。……わかってるから」
だからね、と女は全てを包み込むような微笑と共に告げる。
「こうしましょうよ、蒼助。今、ここで……気の済むまであの女を抱いちゃっていいわ。それで収まるなら、私は平気……許してあげる」
「………」
「私ったら、馬鹿ね。蒼助が他の女に本気になるわけないのに。いつもの気まぐれだって………わかってたのに」
クスクス、と苦笑いを発て、
「さぁ、早くやってしまって。そして、いつもの蒼助に戻って」
◆◆◆◆◆◆
身の毛も弥立つ智晶の発言に、千夜は凍りついた。
それまで、ただでさえ智晶の発する言葉の一つ一つが、確実に胸に突き刺さっていた。
気まぐれ。
珍しい。
自分で今まで言ってきたことを、他人に言われると何故こうも苦しくなるのか。
事実であるはずなのに。
わかっていたはずなのに。
それを肯定されて、どうしてこんなにも胸が痛むのか、千夜にも理解できなかった。
蒼助が現れた時の、僅かに安堵と欣快の入り混じった驚愕は、女の信じられない申し出によって生じた不安に塗り重ねられて、その下に覆い消された。
心臓の脈が乱れる中、智晶と合わせていた蒼助の視線が千夜に向けてズレる。
ドクン、と心音が、自分でもわかるほど大きく跳ね上がった。
無表情の蒼助の視線から、蒼助の考えていることが読むことができないことから、脈拍の速度が上がり、緊迫感が募る。
「………後ろ」
「え?」
「閉めとけ。声が漏れると面倒だ」
淡々と智晶に言い渡した蒼助のその言葉が、千夜の中の何がを急速に落下させた。
底なしの絶望へ、一握りの希望が堕ちていく。
「……ええ、わかったわ。……ふふっ」
智晶は満悦の笑みで応え、言われたとおり大きく開いたスライドドアを再び閉めにかかる。
そして、今度こそ外と内側が隔絶された。
窓からの僅かなそれを除き光を殆ど失った薄暗い空間は、千夜の心境を現実に具現したようだ。
「んだよ、俺ら玖珂の後かよ。話が違うじゃねぇか、智晶ぃ」
「まぁ、取りやめってことじゃないなら俺はいいんだけど………加減してくれよぉ、玖珂ちゃ〜ん。後に俺らが控えてんだから」
「激しすぎて壊しちゃやぁよ〜?」
「つーか、お前らミツグはどーすんだよ。見ろよ、あいつ動いてねぇぞ?」
「別に死なねぇだろ。それよか、こっちだよ、コッチ」
一部が不満を漏らしているが、お開きというわけではないということでか男たちがからかうように囃し立てる。
蒼助はそんな声にも一切反応を示さず、羽交い絞めされて動きの取れない千夜の元へ、ただ歩みを進めた。
寸前で立ち止まり、あられもない姿の千夜を見下ろす。
「………そう、すけ」
ようやく出た声は酷く震えた。
精神の不安定さが滲み出ているのを嫌でも理解できた。
男たちの嬲り者にされることすら、諦観しようとしていた自分が酷く拒絶反応を示したがっている。
耐えようとしていた意識が、心が、悲鳴をあげる。
この男にだけは、"犯されたくない"、と。
もはやあらゆる裏切りを静観しようとしていた心は、目の前の裏切りだけは嫌だと叫んでいる。
ああ、そうか―――――――と。
あまりにも今更過ぎる自覚が胸に降りてきた。
自分は、こんなにも―――――――
「………そんな顔すんなよ。―――――――すぐに終わっから」
きっと酷く情けない表情で見上げていたのだろう。
蒼助が困ったように笑った。
これからしようとしている行為には、とても繋がらない歪みのない笑み。
すぐに、という言葉が自分が所詮蒼助にとってその程度で済まされてしまう存在だったのだ、という絶望の淵に千夜を突き落とした。
開いた手が、千夜に向けて伸ばされた。
千夜は、何も考えられなくなった真っ白な思考でそれをただ見つめ―――――――
「―――――――っぐ、がぁっっ!?」
己を通り過ぎた手の平の先であがった悲鳴の認識に、遅れをとった。
「………ぁ」
停止しかけた思考が再び起ち上がる。
そして、まず最初に今の悲鳴の出所を分析し出した。
悲鳴は、男のもの。
無論、千夜のものではなかった。
自分に伸びていたはずの手は何処へ?
少なくとも、千夜を通り過ぎていた。
―――――――結論。
蒼助は、
「―――――――てめぇ、聞こえなかったか? 退けっつっただろうが」
殺気立った眼光で背後の男を串刺し、その手で男の顔を鷲掴んでいた。
「うっ、ギ……、…っ」
「自分じゃねぇとか思ってたのかよ。親切心働かせてもう一度だけ言ってやるよ。
―――――――お前も、退きやがれ」
「ひ、ぎぃっ……っっ!!?」
千夜の頭の上からミシミシ、と音が降ってくる。
幻聴でも、誇張でもない。
蒼助の手がかける圧力によって、男の顔の骨があげている紛うことなき断末魔。
「………聞こえなかったみたいだな」
「がっ………わ、わかった! は、話すか、ら……」
蒼助の言葉に不吉の前兆を感じ取った男は、己の危機を前に観念して応じた。
脇下から肩にかけての負荷と拘束感が、千夜から取り除かれる。
蒼助はそれを見て、満足そうに口端を吊り上げて手を―――――――
「はい、よく出来まし―――――――た」
「……ぐぅっ!?」
離すどころか一層強く掴み、更には男の顔を掲げるように持ち上げ、
「ひっ………ぁあぁあぁぁああっ!」
まるで鞄を放り投げるように、少し離れた場所にいる仲間の一人に放り投げた。
無理な体勢から空中に浮いた男は、抵抗など出来るはずもなく叫びと共に投げられた勢いのままその方へと飛び、呆気に取られて避け損なった仲間と衝突。
受け止めるマット代わりとなる羽目になった仲間は、六十キロ相当の重量を身構えることも出来ずにまともに食らい、そのかかる負荷に耐え切れるはずもなく、男もろ
とも座っていた跳び箱から派手な音を伴って転げ落ちた。
「て、めぇ……何してやがんだコラぁっ!!」
周囲が起こった出来事に唖然とする中、一番に我に返ったのは、千夜の上に跨って体を弄っていた男だった。
憤るままに死角から横顔に向けて拳を振るう。
振り向く反応も、間に合わないタイミングの一撃だった。
否。
気づいていながら、振り向かなかった。
「―――――――」
左頬に振り抜かれた拳はまともに入った。
打った者にも、見ていた者にもわかることだった。
蒼助の体は揺らいだ。
男はそれをチャンスとばかりに追撃をもう片方の拳で、今度は脇腹に叩き込もうと放った。
「は、ははっ……調子に乗ってんじゃ……―――――――っっ!!」
無防備な脇腹をめがけて放った二発目は男の狙い通り、そこへ吸い込まれた―――――――はずだった。
本来なら手応えを感じる瞬間に、男に与えられたのはそれは異なる異様な打ち応え。
実は一撃目にも微かに感じていたが、今度ははっきりとしていた。
「………お前、それ本気で打ってんの?」
鼻で笑う蒼助は、思い切り殴られたはずの頬を僅かに赤くしただけだった。
そして、脇腹では―――――――
「っ、いつのまに」
男は違和感の正体に気づき、反射的に突き出していた拳を引く。
しかし、男の拳を受け止めていた蒼助の手はそれを許さなかった。
「このところ、お前らみたいのとは比べモノにならねぇような、重くてデカいのをおっかねぇおっさんから死ぬ程喰らってるからな。……もう、このくらいじゃ痛いなんて
言ってらんねぇんだ」
「こ、このっ……離っ……っぅ!」
振り解こうともがいていた男の反抗心は、手首に急激にかかった負荷によって一瞬で萎えた。
ミシミシ、と徐々に手首の骨が徐々にその悲鳴を大きくする。
このままいけば確実に壊される。
それはその末路に至る張本人である男自身が身に染みるほど理解出来たことだった。
反抗心ではなく、本能的なものに動かされ男は再び蒼助の手を振り払おうとするが、
「……ひっ」
「この手だよな、こいつの身体好き勝手触ってくれたのは……」
冷え切った蒼助の鋭い視線にあてられ、男は蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませる。
「本当は、まずこの手首からブチ折って、指の一本一本二度と元のように動かせねぇくらい丁寧にへし折っちまいところだが、生憎俺はこんなところにあんまし長居して
いたくねぇんだわ」
「―――――――っあぁ!?」
一瞬の浮遊感の後、男は地面に叩きつけられた。
受け身の取り方も知らずまともに身体を打ち付けた男だったが、それで終わりではなかった。
「―――――――だから、大雑把で勘弁してくれよ」
尚も離されなかった手は、ようやく訪れた解放と共に地面に落ちた。
直後に下ろされた足に踏み砕かれることを代償に。
「うぎゃぁああ、ああ、ぁ、ああっ!!!!」
絶叫する男の手を最後に念入りに踏みにじり、喚く男の顔面を思い切り蹴りつける。
うげぶ、と奇妙な声を最後に男は意識を飛ばして動かなくなった。
「お、予想以上にイイ感じに入ったな。ラッキー。………さて」
蒼助の視線はこの場で立っている最後の一人へと向けられ、
「……今までの結果から選べよ。壁とキス。整形手術。全身のどっかを骨折。ちなみに、整形の方はアイアンクローとフルキックのどっちかだから。
―――――――どれがいい?」
「ひっ……う、わあああっ」
立ち直りに最も遅れた男は、それまでの仲間の凄惨な末路を目の当たりにしていたのをあって、募っていた恐怖心が限界に達した。
迷いもなく薄暗い倉庫から逃げていく男の姿を見ながら、
「……捨て台詞吐いてたら完璧な見事な撤退姿だなぁ、ありゃ。逃げちまったが……まぁ、いいか」
もはや倒れる男たちにも、逃げた男にも蒼助の興味は向けられていなかった。
その矛先は、ようやくただ一人に集中することとなる。
「……蒼助」
か細い声が埃臭い空間に僅かに木霊する。
出入り口を向いていた蒼助が振り返ると、そこには千夜がマットの上でぽつんと座って蒼助を呆然と見つめていた。
「ったく、ちょっと目ぇ離した隙に………すげぇ、変わりようだな」
軽口を叩いているが、千夜の今の姿に対する想いで胸が詰まりそうでいた。
力加減もなしに乱暴に引っ張られたのか、ブラウスはボタンが弾け飛び、下着とその下の胸の谷間が悩ましげに露にされている。
頭の後ろのポニーテールも、マットの上でもみ合ったせいなのかリボンが解けて長い髪が乱れてそのままになっていた。
ほんの少し前までの姿からは想像出来なかった有様に、蒼助は無意識のうちに顔が剣呑の色に帯びる。
もう少し痛めつけておこうか、と思ったが、今優先するべきはそれではないと理性によって踏み止まる。
「ほら、これ被っとけ。……歩けるか」
このままでは外へ連れてはいけないと、学ランを脱いで千夜の上に被せるが、
「…………っ」
「………千夜?」
被せる際に触れた肩が小刻みに震えていた。
余程の恐怖心を感じてのことなのか、と蒼助はその線に考え着いたが、それだけはないということに気づく。
震えているだけではなく、息遣いも荒い。
顔色も悪く、額には汗がじっとりと滲んでいる。
「おい、大丈夫か………っ千夜!」
上半身が大きく揺れたかと思えば、あっさり千夜は蒼助の胸にもたれこんで来た。
受け止めた身体のあまりの力のなさに、蒼助は抵抗の際の疲労によるものではないと、驚愕の傍らで察した。
かつん、と踏みしめた足の裏で何か異物感と共に硬い音が発する。
無視するには意識を強く惹き付けるその感触に思わず、視線を下ろす。
踏んづけていたのは、床に放置されていたスタンガンだった。
どうしてこんなものが、という疑念はすぐに晴れる。
千夜の異常なまでの疲弊。
何故、スタンガンが千夜のすぐ足元に落ちていたのか。
それらを踏まえれば、答えに辿り着くのは簡単だった。
「………どうして」
動揺が色濃く出た声が、蒼助と千夜の間に割って入るように響く。
男たちが倒されていく中、沈黙を続けて立ち尽くしていた智晶だ。
「どうして、その女にそこまでするの……?」
「智晶……お前、こいつに何を」
「だって、この女………否定したんだものっ。私の貴方への愛情を、無意味だなんて言ったのよ、そいつっっ!」
屈辱を思い出した智晶は、再燃するかのように興奮し声を荒げる。
「私が、私は、こんなに蒼助を愛してるのに………それを否定されて、黙ってられるわけないでしょ、そうでしょう!?」
「…………」
「そんな女、ただの玩具じゃないっ………綺麗なだけの、愛でられる価値しかない人形みたいな女じゃないの………。ねぇ、しっかりして蒼助。そんな抱き人形にしかなら
ないような女に入れ込むなんて、貴方らしくないじゃない………。お人形遊びがしたいなら別にそれでいいの、かまわないから………ここで遊ぶだけ遊び尽くして早く戻っ
てきて!? 早く、私のところに……………ねぇ、貴方を本当にわかって、愛しているのは私なのよ!」
喚き散らす女の声を聞きながら、蒼助は思い返していた。
智晶と出会ったのは、丁度一年前の今頃だった。
半ば感情に任せて見切り発車に降魔庁を辞めて、あらゆる目的を見失っていた時期。
本気にならない扱いやすい女と、思っていた。
しかし、当時の硝子玉と呼べてしまうまでに堕ちていた目で、この女を見極めきれるはずがなかった。
かつての己の失態がこんなことを招いてしまったのかと思うと、食堂での久留美の激昂が今になって痛く感じてくる蒼助だった。
「………チッ、久留美の奴の言うままっていうのは気にいらねぇが………」
何か呟きながら苦虫噛み潰すかのような苦々しい表情をしていたかと思えば、気持ち固まった様子で一息。
胸にもたれていた千夜の背中をポンポンと軽く叩き、
「悪い、ちょっと辛抱な」
負担にならないように、千夜の身体を出来るだけゆっくりと後ろのマットに倒し、横たえさせる。
焦点の危うい虚ろな眼差しで、それでも見上げてくる千夜に向けて安心させるようにニッと笑うと、その傍から離れて智晶へと近づいていく。
その行動に、智晶は満悦の笑みを浮かべて、
「蒼助……」
蒼助が自分を選んだ、と蒼助の歩み寄りを智晶は当然のようにそう捉えた。
しかし、それも一瞬の至福だった。
「やっぱり、私を―――――――」
言葉が唐突に途切れる。
それは、立て続いて起きた変化に対する驚愕によるものだった。
「……なに、してるの?」
智晶は己の目、そして今起きている現実を疑った。
それは、それほどまでに彼女の想像を絶した光景だった。
彼女が誰よりもよく知る蒼助が、
―――――――他人に膝をついて頭を下げているという見たこともない行動を、自分に向けてしているという信じがたい光景を。
「なにしてるのよ、蒼助!」
悲鳴のような、怒号のような叫びを智晶が蒼助に降らすが、蒼助は無言で体勢を維持した。
「どうしてっ………止めてよ、そんなの……蒼助、他人に頭なんて下げたことなかったじゃない! うそ、そんなこと……蒼助らしくないっ。……止めてってば!」
「―――――――悪かった」
智晶の言葉を無視するような、噛み合わない言葉が蒼助から発した。
「勝手な判断で決め付けて、関係を終わらせて悪かった。だから、ちゃんと言う」
「……なにを、言って」
「もう終わりにしようぜ。これを最後に、お前とはもう会わないし、二度と抱いたりしない。何もかも、一切これっきりにしたい。
―――――――他の連中と同じように」
他と同じ、という言葉に智晶は凍りついた。
「他の女にも……そんな風に……頭、下げたの?」
「下げてない。適当に片付けてこんなことになったツケを払ってる。たまたまそれがお前だっただけだ」
「偶々……?」
自分じゃなくても、この事態を引き起こした相手であったならそうしたというのか。
受け入れがたい事実の果てに、更なる真実に智晶は勘付いた。
「この女のため……なの?」
返答は無言で返ってきた。
それは肯定であるのだと考え、智晶は己の勘が正しいと知る。
自分に詫びるという形で、あの泥棒猫に謝っている、と。
「……っっ何で、何でなの! こんな玩具のために、どうしてそんなことまでするのよ!?」
「―――――――玩具じゃねぇ」
ダン、と地面で響いた、打撃。
叩きつけた拳には、言葉以上の否定の念がこもっていた。
「こいつのことを何も知らねぇくせに、好き勝手なこと言うんじゃねぇ」
「何よ……あの女にそれ以外に何があるっていうのよ。……蒼助が、何を知っているっていうのよっっ」
「知らねぇよ、何も」
「………はぁ?」
何を言っているの、という顔で呆気にとられる智晶に、蒼助が膝を立たせて向き合う。
「知ってるなんて、胸を張って言えるほどまだろくに何も知らねぇ。まだまだ知らないこと尽くしだ。何で、こいつが好きなのかすらも……はっきりとはわからねぇ」
「じゃぁ、何で……」
「………それがわかりゃ、苦労してねぇんだよ」
自嘲するように呟き、
「―――――――何で好きなのかはっきりわかる程度だったら、ここまでしねぇよ」
はっきりと恥ずかしげもなく言い放つその後ろで、千夜が目を見開いたが、蒼助は気づくこともなく前を向いたままでいる。
「知らないから知りたいんだ。知らないならこれから知るんだよ。今まで、そんなふうに考えたことも思ったもなかったがな………こいつに会うまで」
「………っ……」
智晶は、見たこともない蒼助のまっすぐな眼差しにどうしようもない絶望的な気分に陥った。
そして、そこ容赦なく蒼助は追い打ちをかける。
「まぁ、お前という女に対する俺の見極めが甘かったのは確かで、悪いのは俺なのは否定できねぇ事実だしな………だから、いいぜ。お前に譲る」
「………ゆずるって」
「振る権利。ここらにバシッとやれ。手加減は別にいらねぇから」
「っそうす」
「俺がお前に好きにさせてやれんのはこれくらいしかない。さっさと始末つけさせろ」
遠まわしを装っているにもかかわらず、蒼助の拒絶は強く響いた。
取り付くしまもない蒼助のそっけなさに智晶は泣き出しそうに顔を歪め、
「いや、うそ……嘘よっ……どうしてそんなこと言うの? ……蒼助、私、わたし………は、こんなにも貴方を……何で、わかってくれないのっ……」
もはや一切の形振りを捨てて、縋り付くように言い募る智晶。
だが、そんな弱った相手にも蒼助は容赦しなかった。
人には優先順位というものがある。
平等、と奇麗事でどれだけ表面上を飾ろうと、いざという時は全てをかなぐり捨て去って本音を曝け出してその為に奔放するのだから。
無論、蒼助とて例外ではない。
正直のところ、目の前の女を殺してしまう勢いで殴り、千夜が受けたような痛みと屈辱を味あわせてやりたかった。
だが、今回の元の発端はこの勘違い女ではなく、正しくは自分なのだ。
けじめはつけなければならない。
それこそ、己のプライドよりも優先すべき女の為に。
「さっさとしてくれねぇか。俺は一秒でも早くお前とオサラバしてぇんだがな。別にいいっていうんなら、俺からでもいいだぜ? ただし、いいって了解した瞬間思い切り
ぶん殴ってやるから、吹っ飛んで壁にウマい具合にぶつかって死なねぇよう足踏ん張っとけよ」
「なっ………」
「何驚いてやがる。当然だろ? 俺には、お前と違って迷う理由なんて思いあたらねぇんだからな」
お前に未練なんて欠片もない、と暗に突きつけている蒼助に、智晶の目が零れ落ちそうなくちに大きく見開いた。
「いや……一番ぶん殴ってやりてぇのは一年前の、節穴みたいな目でお前みたいな女を選んじまった俺自身だな。帰れるもんなら帰りてぇな、あの日に。
そしたら―――――――お前みたいな鬱陶しいの、相手にしなかったんだがな」
「―――――――っ、っっっ!!!!」
大きく何かが弾ける音が響いた。
「……っ……っ…………っ……」
「…………」
衝動に負け、ついに振りぬいた手を震わせる智晶は、崩れるように両膝を付いた。
左頬にはっきりと浮き上がる赤を湛えた顔を衝撃に傾けたまま、蒼助は頬を拭い、一言だけ―――――――
「くそっ、切れやがった」
別れの言葉ですらないそれに、泣き出す智晶に背を向けて離れ、
「―――――――待たせたな。行こうぜ」
横たわる千夜に、口の中で血が滲むのもかまわず笑う。
千夜はその笑顔と先程までの冷たい表情のギャップにあてられて、どう応えればいいかわからなかった。
思考が展開に追いつくよりも早く、体を襲う浮遊感。
横抱きにされて、蒼助の腕の中にいると理解したのは、蒼助のこの言葉によってだった。
「こんな格好、嫌だろうがな……ちょっと我慢しろや」
「………ぁ」
変わらない荒い口調にある―――――――智晶に向けては含まれなかった優しさが、じんわりと鼓膜に染み込むのを千夜は感じた。
すとん、と何かが胸に落ちる。
同時に、それによって張り詰めていた何かが緩み、意識もするりと解けるように落ちた。
「っ、おい!」
かくん、と力を失って上を仰いだ頭に驚き、蒼助が慌ててゆすって見ても閉じた目は開かない。
仕方ない、と完全に気絶してしまった千夜の頭を自分の胸にもたれさせ、この場から一秒でも早く離れようと出入り口に向かう。
その後ろで、ブツブツ何か呟いていた智晶が、不意に声を荒げた。
「……ゆるさない……許さないからっ!」
掻き毟ったせいで目に当てられないほど乱れた髪の隙間から、もはや憎悪に満ち滾った目がギラギラと蒼助の背を睨みつける。
己を全てを否定された女は、愛情を憎しみへと反転させて、荒ぶる感情を吐きかけた。
「見てなさいよっ………あんたたちだけ幸せになんて、絶対させるもんか! これで終わりになんて、させるもんかっっ! ……許さないんだからっ………見てなさいよ、
かならず……必ずあんたたちに地獄を見せてやるっっ!!」
復讐を煽り立てる女にもう振り向きもせず、蒼助は出入り口に立つ。
その時、
「あんた、シカトにも程があるでしょソレは」
立ち塞がるように現れたのは、蒼助の態度に呆れる久留美。
「あんなこと言ってるけど、無視しちゃっていいワケ?」
「済んだ事にいつまでも構ってられるか。こっちはそれどころじゃねぇ」
こっち、と暗喩された腕の中の千夜を見て、久留美は暫し沈黙。
「………大丈夫なの?」
「間に合ったっていう意味でなら、ギリギリセーフってところだ」
それを聞いて久留美の表情から暗さが若干薄れ、ホッとしたように大きく息を吐いた。
そして、
「そ。……じゃ、さっさと保健室に連れて行ってあげて。あとは、こっちが何とかしとくから」
「は?」
「言っとくけど、一つ貸しってことだからね。タダじゃないわよ」
「だから、何のこと………」
「あー、もう………いいから行けっつーの! ほらほらっ」
邪魔だとでも言うように急かす久留美の行動の意味は結局わからないまま、蒼助は晴れない気持ちのままその場を去った。
駆け足で離れていくその背中を見送りながら、久留美は大きく息を吸い込んで深呼吸を一つ行った。
そして、まるでそれが彼女の中のスイッチの切り替えとなったかのように、冷たい眼差しをその相貌に宿して後ろを振り向いた。