「何だと………?」







 泥棒猫、と不名誉な称号を突きつけられ、千夜は当然顔を顰めた。







 同時に目の前の女が何を言っているのか、不可解の念が一層と増す。

 

「やっだ、今更とぼけんの?」

「しらじらしー」

 

 立ち位置的に女の取り巻きと思われる左右の女たちが、嘲笑と軽蔑に満ちた言葉を吐き出し始める。

 

「みーんな、知ってんだから。あんたが玖珂くん取っちゃったって話」

「さいてー。綺麗な顔してるからって、何してもいいわけないでしょー」

 

 玖珂。



 蒼助の名前が出てきたところで、千夜は目の前の女たちが何の目的を持って近づいてきたのかを察した。

 

「お前達………お前は、あいつの……」

「千晶は玖珂くんの恋人よ。セフレじゃなくて、正真正銘のね」

 

 友人であろう一人の言葉に、千夜は頭を金槌で殴られたような衝撃を覚えた。

 

「………こい、びと?」

 

 目の前の女が蒼助の恋人。

 言葉として表された事実は、千夜の思考が情報として処理するのに時間を要するものだった。

 

「うそ、あんたマジで知らなかったの?」

「自分が本命だとか思ってたわけ? 図々し過ぎぃ〜」

 

 ケラケラ、と笑い出す女二人の声も千夜の耳には入らなかった。

 心ここにあらずの千夜の様子を、呆然の姿勢ととったのか、智晶と呼ばれた女はしなやかな歩みでその枠から外れて、両肘を支えに上半身を浮かせる千夜に近づく。



 そして、その僅かずれたマットに己の片膝をついて、

 

「本当に、知らなかったのね。ごめんなさいね、"いつもの遊び"だと思ってたから放っておいたんだけど」

 

 いつもの遊び。



 その点は、事実なのだろう。

愛だの恋だのという事柄をそういう風に扱える男だということは、千夜も長いとは言い難い関わった僅かな時間の中で知っていた。

 

「彼、気が多いから目に留まるとすぐね………でも、いい加減にしておくように、私からちゃんと言っておくわ。今回は、これで許してあげる


 ―――――――だから、もう二度と彼に近づかないでくれる?」





 パン、と乾いた音が響く。





 払うように手の甲で打たれた顔は勢いで、ぐらりと動いた。

 その動きで乱れた前髪が千夜の表情を隠す。

 

「ふん」

 

 自分のモノに手を出すな、と絶対の自信を以って牽制する様は、まさに揺るぎ無い地位に座る者の振る舞いだった。

 反応を示さない千夜に、智晶は自分の言葉が十分な衝撃を与えたのだろう、と思いほくそえんだ。

 その打ちひしがれた顔を見てやろうと、智晶は顎に指をかけて俯いた千夜の顔と引き上げた―――――――が。

 

 

 対面した顔が放ったのは、想像を大きく裏切った台詞だった。

 

 

 

―――――――いい加減にするのは、お前の方だろう。身の程知らず」

 

 

 

 そこに智晶が想像していたような絶望した表情は微塵も存在していなかった。

 

 在るのは、不快を露にした(かお)

 詰られる側でいたはずの千夜は、今は逆に不遜さを湛えた表情で智晶を見下すように睨み付けていた。

 

 己の想定を容赦なく切り捨てる展開に、智晶は言葉を失い戸惑った。

 その僅かな隙も見逃さず、千夜は畳み掛けるように、

 

「あいつがお前ののような女の男だと? 蒼助を侮辱しているのか」

「侮辱、ですって………?」

 

 突きつけられた言葉を問うように繰り返す智晶を嘲笑い、千夜は続けた。

 

「わからないのなら、はっきり言ってやろうか。………お前のような、自分の程度の低さもわからないような女では―――――――玖珂蒼助には、釣り合わない」

 

 言い切った途端に、再び頬を弾けるような衝撃が襲う。

 先程よりも力は強かった。

 

「黙りなさい! 何様のつもりよ!」

「………随分と取り乱すんだな?」

 

 打たれた頬の熱さとじくじくと疼く痛みにも顔色一つ変えないまま、更に相手を翻弄するような口調で煽り立てる。

 

「お前は、確かにあいつの女なんだろう? 気まぐれにちょっかい出された程度でしかない泥棒猫の言うことに、どうしてそんなに気を荒立てるんだ?」

「っ………」

「どうした、反論すればいい。私の言っていることが、まったくの的外れなら……言い返せばいいだろう」

―――――――っ!!」

 

 言葉に代わりに見舞われたのは、再び衝撃だった。

 

「……出来ないのか?」

「う、るさい……」

「ハッ……脆い自信だったな。滑稽にも程がある」

「うるさい……っ」

「私が黙ったところで―――――――お前が無様、という事実は変わりはしない」

 

 その瞬間、平手とは比べ物にならない強さの打撃によって、言葉の端まで言い切った千夜はマットの上に倒れこんだ。



 口の中にじわり、と滲むのは鉄の味。



 舌に染み込むそれが口内を切ったことを千夜に明確に認識させた。

 拳で殴られたのだ、と理解して間もないまま首に圧迫がかかった。

 

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっっ!!!! わかったような口を……よくもっっ! あんたに何がわかるのよ、横から図々しく入り込んできた

あんたに何がっ!! 私は、蒼助と一年も一緒にいるのよ! 彼に数え切れないくらい抱かれたし、彼が私以外のたくさんの女と関係があることも散々知っているわ! 

でも、我慢してきた!! 彼を理解しようと、私も他の男と寝たりもしたわ! 鬱陶しくまとわりついたり、過剰に干渉する女を蒼助が嫌うのを、そうなったら簡単に切り

捨てるのを知ってたから!! だから、見限られないように他の男とも関係を持って距離を調節して……なのにっ………なのに、なのに何であんたみたいな奴が簡単にとっ

ていくのよ!! 散々努力してた私は何だっていうのよっっ!!!」

 

 先程までの余裕は何処かへ消え去ってしまったかのように、綺麗にセットした髪を振り乱し、智晶は目を血走らせて千夜に箍の外れた感情のままに凄む。千夜に言葉に

よって、プライドを木っ端微塵にされた智晶にもはや自制心は欠片もなく、胸とぐろを巻かせていた嫉妬はむき出しとなっていた。



 自制を振り切った智晶は加減も何も無く千夜の首に両手をかけて、容赦なく絞めかかる。

 長く伸ばされた爪が、首の肌肉に食い込み血を滲ませた。

 

「………っ知る、か……っ」

 

 呼吸器官を強く圧迫され、呼吸もろくに出来ない中でも千夜は尚も己の姿勢を変えはしなかった。

 これ以上の挑発と煽りは危険、と本能的には理解していた。

 そもそも―――――――根本的に察していたのだ。

 

 プライドの高い人間の虚勢を崩せば、相手がどんな変貌をするのかも経験上理解していたはずだった。

 たった一回頬を叩かれるだけだった、あの時点で千夜は何もせず嵐が過ぎるのを辛抱強く待てばよかった。

今の状態では対抗する術を持たない千夜には、それが下手をすれば何をしでかすかわからない女達から己の身を守る最善の手段だった。

 

 しかし、途中、理性を上回る『何か』が千夜に選択を誤らせた。

 

 それは目の前の女が友人の口から己を『蒼助の恋人』と主張させた時だった。

 一刻も見舞われた災難から抜け出したかった千夜に、その思考を切り替えさせる感情―――――――怒りが女に対して芽生えた。

 

「一年も、あった……なのに、お前は何をしていた」

 

 嫌われたくなかったから、距離を持った。

 好きだったから。

 

 女は先程洗いざらいぶちまけたところで、仄めいていた揺らぎは一層高まった。

 

「理解しようとしただと………? 笑わせるなっ……」

 

 そうして、理解できたというのか。

 保った距離から、蒼助の何を理解できたというのか。

 

 もし、この女が何か一つでも理解できたのなら、蒼助は自分に対し盲目になることなどなどなかったはずだ。

 或いは出会いそのものすらなかったもしれない。

自分が現れるまでの一年もの月日の間に、この女はいくらでも足掻けたはずだ。

 それを、リスクを恐れて何もせずに、保持した立ち位置でのうのうと胡坐をかいていた。

 

 そんな女が、蒼助を自分のモノと語った。

 蒼助という人間がこんな小物の手に収まる程度の器であると貶められたと揶揄されているように、千夜には感じとれた。



 それが千夜にはたまらなく我慢し難く―――――――許せなかった。

 

「私が言ったことが……事実と何が違うっ………お前が重ねてきたという努力なんぞ」

 

 やめておけ、と警告が脳内に響く。



 しかし、千夜はそれを無視した。

 

 思考が尚も優先しようとする、一人の男の尊厳を守りたいという想いだけが千夜を突き動かし、そして―――――――

 

 

 

―――――――途中から現れたハンデ持ちの女にも通じなかった程度の、無意味なものだっ……!」

「っ、っ、っ、っ―――――――!!!!」

 

 

 

 智秋の顔がこれ以上にないくらいに引きつり、歪んだ。

 千夜が踏み切ったのは、超えてはならない一線だった。

 

 

 

 

 

「黙んなさいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!!」

 

 

 

 

 衝動的に取り出されたスタンガンの放電する先端が、振り上げられて腹部に向かった。









 ◆◆◆◆◆◆









 意識は霞みながらも、まだ維持できていた。

 しかし、身体の方は出力強に上げたであろうスタンガンの電撃により、もはや立つどころか指一本すら動かせない。一歩間違ったら、ショック死してもおかしくない程

の電圧に設定された改造スタンガンの威力は、意識を一瞬飛ばすだけで気絶はしなかったものの、身体の機能を完全に麻痺させた。

 

 ………素人め、死んだらどうするつもりだったんだ。

 

 加減を考慮しない諸悪の根源たる相手は、今は千夜から少し離れた場所に立って振り乱し荒れる息遣いのまま、何処かへ電話をかけて会話している。

 その表情には、最初見た時の余裕や理性はもう見れない。

 

「どーすんのよ………キレちゃったわよ」

「どうするって……ああなったら、止めようがないじゃん。気の済むようにさせてやるしか……あーあ、馬鹿ねあのコ。余計なこと言うから」

 

 ヒソヒソと話す友人二人はキレた智晶がこれから何をするつもりか、わかっている口ぶりで千夜と智晶を遠巻きに見ている。

 千夜にも、これから何が起ころうとしているのかぼんやりとした意識下で察していた。

 

 『それ』が、どれだけ身の毛もよだつことか。

 理解出来ても、抵抗する術はもう失われている。

 

「……場所は、体育用具倉庫よ。人に見られないように……わかったわね? それじゃぁ早くね…………………ふふっ」

 

 通話を切ると、智晶は不気味な笑みをこぼす。

 ぎょろり、と血走った目がマットの上で力なく横たわる千夜を向き、見下ろす。

 

「蒼助はきっと、あんたの潔癖なところが珍しかっただけなのよ。そうよ、じゃなきゃ………私が、あんたなんかに負けるわけがない。ないもの。………そうよ、きっと

そう………ふふっ、ふ」

 

 千夜の言葉は相当の効果を及ぼしたのか、智晶は何処か正気を失っている様子となっていた。

 

「今、五人呼んだわ……皆、相手があんたって聞いてらすっごい乗り気だったわよ………。他の男にめちゃくちゃのドロドロにされたあんたを見ても………蒼助はまだ興味

を持つかしらねぇ………?」

 

 知りたくも無い、と声に出来ない返事は千夜の胸内で響くだけに終わる。

 グラグラと揺れる不安定な意識は、落ちることもはっきりとすることもない微妙なバランスで保たれていた。

 いっそ、気を失ってしまった方がよかったかもしれない。

 そうすれば、これから間もなくして訪れるであろう地獄のような責め苦にも、まだ耐えられただろうか。

 


 ………何をしているんだろうな、俺は。

 


 この災難の大元の原因たる男のために、言わなくてもいいことを言った。

 守るべきは蒼助の尊厳ではなく、己の身であったはずなのに。

 選択を誤ったばかりに、最悪の事態を甘んじてしまった。

 

 今頃、食堂の連中は自分がいないことに気づいているだろうか。

 ひょっとしたら、まだ乱闘は続いていてそれどころではないかもしれない。

 だが、もし仮に気づいたところで、こんなところに連れて来られていることなんて向こうにはわかるわけがないだろう。

 


 ………あの男からあんな話を聞いた後だったから、か?

 


 蒼助の生い立ち。

 周りから存在そのものを踏みにじり続けられた過去。

 閉ざされた世界。

 

 打ち明けるべき相手を間違えた内容を、知らなかったらあんな風にはならなかったかもしれない。

 あの後、心の中で苛立ちが燻っていたところに、この女が最悪のタイミングで絡んできたから。

 

 世界を閉ざした蒼助を救えなかった周囲の人間に対する苛立ち。

 どうにかできないかと試み、それが不可能と悟りながらも、それでも己に出来る役目を見出して果たそうとした昶はまだいい。

 しかし、長く関わりがあったというのに、己のことしか考えず蒼助のことを知ろうとしなかった目の前の女の好き勝手な発言には我慢が出来なかった。

 何故かはわからないが、女のあの発言の瞬間、何かわけのわからない衝動に駆られ、思考が急激に熱に帯びて感情に制御が利かなくなった。

 

 この女は、『資格』があるのにそれに気づかない。

 少なくとも、自分以外の誰もが持っている最低限の『資格』を有していることにも気づかず、的外れな怒りをぶつけることしか頭にない。

 最低限の条件すら満たしていない自分などに構う暇があったら、蒼助の目を覚まさせに出向けばいいというのに。

 正しい意味で努力もせず、ただ当り散らすしか出来ない愚鈍な目の前の女がたまらなく苛立たしく感じたのだ。

 


 ………何で、だ?

 


 何故、あんなにも。そして今も、あの女に対してこんなにも腹立たしいんだろうか。

 胸が焼け焦げそうな感覚が消えてくれない。



 これではまるで、

 


 ………俺は……あの女を、()()んでいるのか?

 


 まさか、と否定しかけて―――――――止めた。

 肯定の要素が思考を過ぎったからだ。

 

 智晶という人間は、『女』として胸をはれる正真正銘の女だ。

 それに比べて、自分はどうなのだろう。

 

 男であった。

 今は女として在る。

 しかし、それも―――――――不完全な状態。

 

 蒼助は男。

 傍にいれるのは当然、女だ。

 

 どちらとはっきりと言い切ることもできない自分はそれに当てはまりはしない。

 そんなこと知るはずもない智晶は智晶で、自分に嫉妬している。

 あまりに滑稽で、思わず笑いそうになったがそんな力は生憎残っていなかった。

 


 ………こんな状況でこんなこと考えてるなんて。

 


 どうやらあの女に負けず劣らず、自分も相当な具合でおかしくなりつつあるようだ。

 

 千夜の思考が自虐じみた分析に至り出した時、『最悪』はついに到着した。

 

「おーっす。しつれぇい」

「うほっ、マジでやってるよ」

 

 閉ざされていた鉄のスライドドアが外部から開かれ、光の差し込みと共に人の気配が入ってくる。

 ややぼやけた視界がそれが複数の男たちであると辛うじて認識することが出来た。

 口調からして素行の悪さが滲み出ており、何より誘いに乗ってここに来たところで良識ある思考をしているという希望については、千夜はもはや捨てていた。

 

「おぉっ、ほんとに本人じゃん。つーか、何か妙に元気なくね?」

「そうかしら。その方がやりやすくていいじゃない」

「オイオイ、何したんだよ。うわ、口切れてんじゃん。カーワイソーに」

 

 一人が千夜の顔を覗き込みながら、智晶のしていたことを見透かすようにからかい混じりに言った。

 

「ひゅぅ〜、噂どおりの美人じゃねぇか。……マジでいいの?」

「好きにしていいわよ。その女に、人の男に手を出した報いをたっぷり思い知らせてやって………カメラは?」

「言われたどおり、写真部のかっぱらってきたぜ」

 

女の言葉に応えた男がカメラを片手に持って千夜に近づく。

 

「しっかり撮ってね。……二度と、学校に来れないようにしてるんだから」

「うわっ、こえぇな……って、俺一人ノケモノかよ!」

「しょうがねぇだろ。俺等が済んだら代わってやっから。それに、証拠取れりゃ次も出来んだからよぉ」

 

 下卑た言葉に千夜は動かない身体を酷く呪わしく思った。

 

 千夜の濁った意識にかつての忌まわしい記憶が反映する。

 

 その瞬間、男達に被さる『あの男』の面影が薄くぼやけた視界に何故かはっきりと映り込むのに、千夜は身体の芯がスッと凍り付いていくのを感じた。

 

―――――――…っ」

 

 動かないとわかっている身体に自然と力が入る。

 逃げたい、と身体の奥に染み付いて忘れかけていた恐怖が蠢き出す。

 

「くぅ〜、たまんねぇな。さっすが、玖珂が目ぇつけただけあるねぇ」

「なぁ、もうやっちまったのかなアイツ」

「ばっか、あの玖珂だぜ? ……あーでも、ひょっとしたらかもよ?」

「ひゃははっ、んなのやってみりゃすぐわかることじゃねぇか」

 

 後ろから羽交い締めされ、胸を突き出す様な体勢になった千夜の身体を三つの手がまさぐる。

 豊かな胸を掴むと、握られた力に苦痛の声を漏らしたのを都合良く解釈したのか、男達は興奮を高めた。



 目の前の女が極上であることもあったが、相手は女を何くわぬ顔でとっかえひっかえ拾い捨てしているあの玖珂蒼助が執心している女なのだ。

 男達にとって共通の気に入らないあの男が、自分たちに先を越されたのを知ってどんな顔をするのか。それを考えると、目の前の獲物を犯す楽しみは一層増した。

 

「じゃぁ、最初は俺な」

「あ? 四人でいっぺんにやりゃいいじゃねぇか」

「しょっぱなから無茶してどうすんだよ。そーゆーのは、あとの方でするんだよ」

「それもそうかもしれねぇけどよ……てめぇが最初なのは納得いかねぇんだって」

「こんなかじゃ、俺が一番テクあるからに決まってんだろ」

「うっわ、自意識カジョーすぎっ!」

「平等に行こうぜ、平等に。つーわけで、ジャンケン」

 

 男達がくだらない言い争いに投入していく中、千夜は他人事のようにそれを諦観する。

 

 珍しい光景ではない。

 寧ろ、こんな人間は見慣れていた。

 

 同じ人間を自分とは違うと卑下し、己が上であると傲慢にも主張して弱者を嬲るのを当然と遂行する。

 過去に見た陵辱する者達の顔は、玩具で遊ぶ子供のようで酷く不気味だった。

 

 子供はまだ理性の束縛が弱い。

 だからその行動は本能的なものだ。

 獣と同じように。

 人と獣を隔てるのが理性だとしたら、それを除いてしまえば双方に大差はない。

 

 人も、獣なのだ。

 弱者を嬲り貪ることを本能とした本性を持つ最悪の獣。

 

 そして、自分は今貪られようとしている。

 千夜は己の置かれ状況に、思わず笑みが零れそうになった。

 


 ………情けない。

 


 獣の世界で生き抜く為に、自分も獣となったはずなのにこの有様だ。

 

 何のために堪えてきたのだろう。

 何のために自分を痛めつけてきたのだろう。

 

 

 何のために『 』を諦めたのだろう。

 

 

 結局、自分はこんな風に元の位置まで引きずり落とされようとしている。

 手に入れた強さも、その程度のものだったということなのか。

 

 

 ―――――――誰かの手で、折られた方がいい。

 

 

 脳裏に浮かんだ今は亡き人の遺した言葉。

 酷い助言だ、と絶望に浸りかけた思考が言葉を深読みして更に沈む。

 弱くなった方がいい、と言われた。

 しかし、彼女が望んだのはこんな形ではなかった。

 

 約束を果たすことは出来ないはずだったが、こんな風に約束を裏切ることにつもりもなかった。

 けれど、抗う力はもはやない。

 

 こんな時、他の者なら誰かに救いを求めるのだろう。

 だが、無意味であることを知ってしまっている自分はどうすればいい。

 他者に救いを求める言葉すら、とうの昔に捨ててしまった自分は。

 

 勝負が決したのか、残念そうな男たちの中で一人勝利に酔う男が再び千夜に触れてくる。

 衣服を剥いて直に触れてくる指の、虫に這われるそれにも捉えられる感触が千夜を絶望の淵に追い詰めていく。

 

 『あの男』が再び自分の目の前にいる。

 脳裏に甦る過去の記憶に刻まれた惨劇が現実に覆いかぶさっていく。

 惨劇の再来に、思考が煩く警笛を鳴らす。

 

 早く、早く終われ。

 事態が通り過ぎることを千夜はひたすら願う。

 どうせ無駄なら救いなどいらない。

 

 もし、この状況に僅かでも救いがあるとすれば、それは『あの時』と違い救いになりえようとする者がこの場にいないということだった。

 与えられようとしている屈辱に耐える賞賛があるというのなら、それがせめてもの己に対する報いだと千夜は歯を食いしばる最中で思った。

 

「おい、後ろちゃんとしまってねぇぞ」

 

 自分の順番が回ってくるのを待つ一人が、背後で完全に閉まり切っていないスライドドアを指摘する。

 

「別にこれぐらい……」

「そんなこと言ってて、もし見つかった一巻の終わりだろが。いいからきちんと閉めとけよ」

 

 しょーがねぇなぁ、と渋りつつ、カメラを持つその最も近い場所に立っていた男がドアの密閉にかかる。

 

「あ、ちょっと待って。私たちが出るから」

「あら、いいの? ここで一緒に見ていけばいいのに」

 

 智晶の言葉に友人二人は苦笑いで返し、

 

「いや……さすがに、ちょっと。私らは外で人が来ないように見張っとくから」

「そ、そうそう」

 

 完全にキレている智晶に恐れをなしたのか、さすがに同じ女の陵辱される様子を見るのは気が引けるのか、女二人はこの場を離れたがる。

 あとでこの悪事が露見した場合の身の保証の為だろう、と千夜は女たちの本音を見透かす。この場に充満する臭気にも似た空気の悪さに吐き気を覚えるが、耐えた。

 

「それじゃぁ、終わったらメールちょーだい」

「わかったわ。ほら、通してあげて」

 

 カメラの男がスライドドアの隙間を広くして、人が通れるほどになったその間を友人二人は通り抜ける。

 人目を気にしてか、すぐさま閉じようと再びスライドドアが動かされる。

 徐々に狭まっていく隙間。失っていく外の光。

 




 逃げ道が完全に閉ざされようするその光景を、千夜はやるせなく見つめていた。

 

 




 次の瞬間、その閉戸が阻まれる光景を目を見開くまで。





閉じる、と思った光景が出来上がりかけた時だった。

 それを崩す現象が千夜の目の前で起きた。

 

―――――――ぐぁっ!? げっ……ぁ」

 

 男の手からカメラがすり抜け、地面の上をガチャンと破滅的な音を鳴らして跳ねる。

 カメラを放した手は、もう片方と共に自身の喉元に向かい、もがくように漂っていた。

 

 その首には手が巻きついていた。

 男のものではない、別の―――――――スライドドアの隙間から生える手が。

 相当な力がかかっているのか、男の表情は苦悶に満ちており、酸素を求め口を大きく開け、目を見開いていた。

 最初、己の身に降りかかる予想もしなかった事態に驚いていたようだったが、少しして男は目に更なる驚愕の色を落とした。

 

「お、おまっ………なん、でっ」

 

 僅か十数センチの隙間を凝視して、男は信じられないという心情を言葉に滲ませている



 しかし、それはスライドドアの間近に立つ男にしかわからないことで、目を向けようが男の背中しか見えない他の者には男の身に何が起こっているかすらもわからない。

 明らかに様子のおかしい仲間に一人が伺うような声をかけた。

 

「おい、一体何して……」

―――――――何で、ねぇ」

 

 返ってきたのは、カメラの男の声ではなかった。

 

 この場にいないはずの、人間の声。

 

 響いたそれに、千夜は思わず息を呑んだ。

 少し遅れて、智晶も同じように。

 

 その次の瞬間、錆び付いていて男が両手で相当の力を入れなければ動かなかった鉄のスライドドアが勢いよく開いた。

 男の首を掴む手とは別に、もう片方の手一つで。

 

 よって、中にいる者達を混乱に突き落とす存在の姿が、その背後から浴びる日差しに明るみにされた。

 

「なっ……」

 

 残った男たちもようやく何が起こっていたのか、そして誰がそれを起こしていたのを理解し、声を震わせた。

 そして、誰もが【いるはずのない男】を同じような目と心境で捉えた。

 



 どうして。

 そんなはずがない、と。

 

 

 彼らのそんな心情を嘲笑うかのように、"彼"はそれらの想いを跳ね除けるようにそこに在る。

 

 

 

 

 

 

「そうだな……。まぁ、とりあえず………愛の力だとでも、解釈しといてくれや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶化すような口調とは相反的に、視線は鋭く向ける先を刺すように見ていた。

 

 左手をドアの縁に手をかけ、依然と男の手から首を手を離さない―――――――玖珂蒼助は不敵に笑って彼らの前に立ちはだかった。

 

 

 

 

 










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