―――――――地味な人生を送りたい。
中学に入る前に、早乙女昶が心に固めた将来の夢だった。
初めて口にしたのは、一番下の兄が来るべき高校受験を控えて憂鬱としていたところを偶々通りかかった昶に「お前の将来の夢は何だ」と
何気なく問われ、その答えとして返した時であった。
案の定、通常の小学六年生の抱くそれとは程遠い夢の欠片もないそれに兄はポカンとした後、大爆笑だった。
夢ぐらいもっとそれらしいのを抱けよ、とグリグリと頭を撫でつけられながら兄はそう言ったが、どうせなら叶いやすい夢を見た方が懸命ではない
のか、とその時の昶は思っていた。
夢は見るものではなく、叶えるものだ、とよく聞く。
それに則れば、比較的に夢は叶いやすい方がいいでないか。
自分は高望みして人生に落とし穴を作らず、平穏な生活を送りたい。
たゆたゆと何事もなく過ぎていく日常を、これから先の未来に生きていきたい。
ちなみに、その年の初詣で拝んだ願いもそれとなった。
そして中学に入学。
想いは変わらないままだった。
当たり障りのない学校生活を送っていこうと、決意していた。
しかし、新たな生活を迎えることで昶は思い知った。
人生という道は願いの大きさ関係なく、何かを望めば落とし穴は自然と出来上がってしまうものなのだ、と。
【彼】の出会い。
それが昶の望みが生んだ人生の落とし穴だった。
予想もしない場所から目の前に現れたたった一度の出会いの失敗により、昶は望んだ人生から大きく踏み外した。
落ちた穴は想像以上に深く、抜け出そうとしても抜け出せないものだった。
しかも、もがけばもがくほど引きずり込まれるタチの悪いヤツだ。
更にタチの悪いことに、その男と外れた道を進んでいくことが、楽しく感じるようにもなってきた。
そして、もがくことが無駄と知ってからは抵抗を止め、流されることにした。
高校への進学は、人生の修正のきっかけに成りえるはずだったのに、それも無駄にして【彼】と同じ高校へ進んだ。
最初は迷惑な存在でしかなかった【彼】に情が移ったのか、と問われれば否と昶は答えるだろう。
そういうことではない。
ただ、単純に興味がわいたのだ。
自由奔放に己を突き進める中で、『何か』を探し続ける男に。
そして、【彼】がそれを見つけられるかどうかに。
それまで正しい道を歩むを止めようと思った。
【彼】が探し物を見つけるその瞬間まで。
そして、その瞬間は―――――――ついに来た。
だから、昶は前から決めていたことを実行しようと思った。
【彼】から離れて元の道を歩み出す前に、やっておこうと決めていたことを。
◆◆◆◆◆◆
昶は自動販売機の前に立っていた。
先程までいた食堂から少し離れて、されどそれ程距離が離れているわけではない微妙な場所に来ている。
………さて、どうする。
自動販売機のメニューを見つめながら、チラリと盗み見たのは、連れ出してきた相手―――――――終夜千夜。
同時にこれから行うことを前にして、昶は彼女に対して持つ己の情報と関連性をあげてみる。
今年の新学期の初日に問題児クラスの1、もとい今となっては2−Dに転入してきた女子生徒。
類まれ見る、まさに絶世の美少女と呼ぶに相応な女。
そういった意味では、ある意味問題児かもしれなく、放り込まれたのが自分のクラスであることに間違いはないと昶は感じていた。
しかし、しばらくしてそうではないと気づいたのは彼女の振る舞いと態度に対する違和感だった。
丁寧するぎる態度も、ほかのクラスメイトに対する対応も、何処かよそよそ過ぎるほどの馬鹿丁寧さなのだ。
それは言い表すなら―――――――仮面を被っているような。
そして、剥がれた今となっては、仮面の下の素顔は180度違う代物で、誰かがそれを見抜いて意図された形ではなかったとはいえ、
やはり彼女が2−Dには入ってきたのは、運命付けられたものだったのかもしれないと思える。
しかし、それだけなら昶にとってはどうでもいいことだった。
己には関わりのないこと、と済ますことが出来た。
興味も持たなかった。
問題は、この転校生が―――――――
………しかし、まさか………あいつがなぁ。
昶が思い浮かべたのは、今頃暴徒と化したクラスメイト相手に乱闘を繰り広げているであろう、自分の親友と周囲から認識されている腐れ縁の男。
玖珂蒼助。
女に対して性的欲求しか抱かなかったその男は、今、恋をしているらしい。
目の前の、この女に。
「……何がいい?」
「結構だ。自分で買うから早く選べ」
「遠慮することはないぞ。これから話に付き合ってもらうんだ、飲み物くらい奢らせてくれ」
「…………好きにしろ」
不満を隠そうとしない仏頂面のまま、千夜は歩みでてアイスコーヒーを選択すると、出来上がりとそれを持って同時に再び元の位置まで下がった。
少し前までとは偉い変わりようだな、と昶は妙な感心を抱いた。
それだけ今の千夜の振る舞いは、外面を取り繕うという無駄な足掻きとは一切無縁の切り捨てようであった。
己の選んだアイスティーを取り出しながら、昶はどう切り出すかを考えたが、
「………早乙女は………あいつとは、どのぐらいから一緒にいるんだ」
昶の意表をつくように、切り出しは千夜の方から来た。
これには少し驚いた。
同時に、自分の誘いに乗ったということは、少なからず話題となる相手に無関心ではないという確信を昶に与えた。
………そうでなくては困る。
内心でほくそえみながら、昶は開口を切る。
「……親同士は旧知の仲らしい。といっても、俺達自体は中学からの面識だ」
「それまで一度も引き合わされたりはしなかったのか?」
「こっちの業界は基本は同業者同士不干渉が鉄則だからな………あまり馴れ合うのは両家の周りがあまりよく思わないというか……まぁ、あんたも
そうならわかるだろう?」
その同意の求めに、千夜は少々驚いたように目を開いた。
気づいていたのか、という心境が昶には手に取るように伝わった。
「ちなみに氷室雅明、朝倉渚、都築七海もこっち側だ。珍しいだろ、一箇所に五人も集まるなんて滅多に無いことだからな」
「………本当に変なところに放り込まれたらしいな」
頭痛げに額を押さえる千夜に、内心全くだなと同意する。
「まぁ、話を戻すが………俺があいつと出会ったのは中一に成り立ての頃だ。…………だがまぁ、俺としては……あれは出会ったというよりも」
過去を振り返り、どうだっただろうと再確認してみるが、
「………遭遇、だな」
やはり答えは変わらなかった。
その表現に千夜は半目になった。
「………言い方ってものがあるだろう。何だ、場所は雪山か、密林か」
「まぁ、聞けって。その頃、俺は平和な中学生活を送ろうと密かに決意づいて入学したてでまだ慣れない環境に適応しようと日々を過ごしていた。
まぁ、結構大変だった」
「……何でだ」
「俺の通っていた中学はそのあたりでも結構な悪評目立つところでな。ようは不良校だ、当然あからさまなワルもぞろぞろいた。
さすがにリーゼントはいなかったがな」
もしかしたら一人くらいいるのではないか、と探してみたこともあったりした。
「そんな前評判垂れ流しのところで平穏な学校生活を送りたいなんて結構な無謀な願望を胸に抱いて入学して半年くらい経った頃だった。
教室に一人いても目をつけられるだけだからと昼休みはいつも外をフラフラ出歩いて時間を潰すんだ。そろそろその行動も習慣づいて来た
ところに…………」
ふと昶の言葉が途切れる。
訝しげに表情を伺った千夜の目に映ったのは―――――――なんともいえない表情をした昶だった。
何かを懐かしむようにも見える。
逆に、何かを後悔しているようにもとれる。
眉間に寄った僅かな皴と虚ろな目が、そのどちらともつかせなくしていた。
「…………早乙女?」
「いや、悪かったな。思い出したら…………なんかいろいろ込み上げて来た」
それが決して良いだけではないということは、聞くまでもないことだと千夜はあえて何も言及しないでおいた。
一体どんな出会い、もとい遭遇であったというのか、と昶の言葉を待った。
回想から戻ってきた昶は再び口を開いた。
「………治安の悪い学校だったから、実際何処にいようが危険であることには変わりなかったが、俺は運がよかったんだな。その時までは、
一切面倒に巻き込まれずにのらりくらりと危険から免れていた」
「その時、までは……」
「そう。その時までは、だ。………俺があいつに遭った瞬間までは」
言うと同時に、昶は目を閉じた。
視界が閉ざされると同時に、脳裏に思い浮かべた映像がより鮮明に映し出される。
人の通ることのない校舎裏。
そこで行われていた暴力劇。
倒れる上級生達。
そして、呻く肉と化した男達が地面に敷き詰められる中で、たった一人立つのは―――――――
「偶々、通りかかっちまったのさ。運悪く、な。…………上級生グループ相手に大立ち回りした後の、当時の荒み走った蒼助の前に」
先程思い出した記憶の一部が今一度フラッシュする。
獣の目。
それは血であったのか。
それとも暴力の発散であったのか。
他者には知りえることのない"何か"を求めていたあの目と初めて邂逅した瞬間を、昶は一生忘れることが出来ないだろう。
あまりにも鮮烈過ぎる、その瞬間を。
「………王道体質なのか、あいつか」
「ん?」
「何でもない。続けるといい」
ぼそりと呟いた言葉をなかったことにしようとばかりに、千夜は紙コップのコーヒーをぐびりと飲み下した。
先を促された昶は、
「……まぁ、なんというか………そこから先は―――――――間髪なしで、戦闘開始」
「は?」
何の脈絡もない展開に、千夜は思わず呆気に取られた。
無理もないな、と昶は思いつつ、事実を肯定すべくその詳細を説明し出す。
「いっとくが、本当の話だぞ。出会いの第一声なんてなしで、いきなりあいつは俺を見るなり殴りかかってきやがった。
こっちが何を言おうとまるで取り合いもしない。そして……いつの間にか殺す気で闘ってた」
「…………それで」
「俺は肋骨二本。あいつは片腕を骨折。お互いその他打撲諸々で、一ヶ月入院、及び停学だ」
絶句、と名前がつく沈黙が千夜の方から流れてくるのを、昶は予想通り感じていた。
同時に理解してくれただろうと、確信も得る。
これが、出会いというよりも『遭遇』で間違いないということを。
「で、怪我も大まか回復して退院したその夜、同じく退院した蒼助が家に来た。
―――――――俺の部屋の窓ガラス割って」
「………不法侵入だろ、それ。……親は如何した」
「母親は倒れた。父親は……蒼助の名前を聞いて、しばらく黙り込んだかと思ったら母親抱えて何も言わず出て行った」
「ちょっと待て、そこで何でスルーなんだ!」
「俺もその場で突っ込みたかった。あとで聞いてその時に親同士知り合いなんだと知ってな。後日、親父に言われたんだ。
―――――――頑張れよ、と」
その溜息のように零されたたった一言は、父親が己の前例であると知るには十分な威力を持っていた。
そして、父親が友人であるというあの男の父親、或いは両親にどれだけの気苦労を舐めさせられたのかも。
災難ともいえるその男から逃れることができないことも、あの父親は己の経験を通して悟って己に対しそう言ったのだろう、と昶は少々恨みたい
気持ちであの時の父親の心境を察した。
「……いや、結局……あいつがお前の家に押しかけてきた理由は?」
「遊びにいこう、と誘いにきたつもりだったらしい。―――――――中身は渋谷のチーム潰しだったが」
「何でだ」
「一戦やらしたあの後、俺はあいつの中でなんか認められたらしい。自分と対等に張り合えるヤツがいるとは思わなかった、と大喜びして
俺を夜の渋谷に駆り出したぞ、あいつは」
その時だっただろうか、と昶は思い返す。
初めのあの瞬間を望けば、蒼助の顔をまともに見たのはその時は初めてだった。
遊び相手を見つけたと、喜ぶ子供のような笑顔。
第一印象とのあまりのギャップの差に呆気に取られるあまり、抵抗の意すら削がれて蒼助に誘われるがままに夜の街に駆け出して行ったのは、
いつのことだっただろうか。
「それからというものの俺の日常は滅茶苦茶だ。毎晩毎晩、あいつが俺の家に来て、チーム潰し。昼間は学校で最初の一騒動で周りの不良から
目をつけられるわ、帰りは叩き潰したチームの残党やら噂を聞いたヨソのチームに待ち伏せされたり………しまいには、渋谷のタイガー&ドラゴン
とか妙なアダ名つけられてなぁ」
「気の毒な中学生活を送ったみたいだが………結局お前は何が言いたいんだ?」
「別に。ここまではただの挨拶………代わりみたいなものだ。深い意味はない」
「…………帰ってもいいか」
飲み終わって空になった紙コップを握り潰しながら、溜息をつく千夜。
その様子から、この場を去りたくて仕方ないという心境が伺えた。
だが、それでは困る、と昶は本題を切り出すことにした。
「………率直に言おう。あいつをあまり弄ばないで欲しい。ようやく、本気になれたあいつを」
それを聞くと、千夜の目が不機嫌に細まった。
酷く冷めた様子で、
「大した世話女房ぶりだな………だが、それは親友の目を覚まさせることに使った方がいいんじゃないか?」
やはり、と予想していた結果に昶は少し気が滅入った。
こう言い出せば、態度を硬化させるのはわかっていた。
だが、ここで引くことは出来ない。
自分はずっと、この時を待っていたのだから。
「そういわないでやってくれないか。あいつはあれで………相当な一途だぞ」
「寝言はベッドの上で言ってくれないか? 発情相手が山ほどいるやつの何処が……」
「あいつには発情相手しかない。少なくとも、俺が見てきた中には……あんたみたいに、ケツを追い掛け回したりするようなやつはいなかった」
本当の話だ。
追い掛け回されて、うんざりする蒼助は散々見てきた。
だが、追い掛け回してうんざりされる姿は見たことがない。
そして、
「それにな……人の体調を気遣うあいつを見ることになるなんて。正直、想像もしていなかった」
「大袈裟だ。認識がある程度ある相手がそうなってたら、そんなの誰だって……」
「………俺の知るあいつは人を気遣うどころか、自分を気遣わせることだってさせない奴だ。風邪を引いても、連絡を寄越してそれだけで終わらせる。
見舞いや世話なんて、させたりしない」
昶が己の経験を引き出すと、千夜はそれに対し目を見開いて、
「そんなはず………だって」
「あんたの前では、ともかく俺や他にはそうだった。家族だって例外じゃなかった。あいつは滅多に他人に興味も持たないし、干渉しない。逆に、
自分に対しての必要以上の干渉も嫌っている。………じゃなきゃ、俺もあいつの家庭事情を自分の父親から間接的に知ることはなかっただろうさ」
そこで一度止めて、昶は少しぬるくなったアイスティーを口に含んだ。
ここから先は少々長話になる。
「周りは俺を世話女房やら親友だとか思っているらしいが、お前らが考えているような気安い関係じゃない。あいつが認めているのは、
俺自身じゃなくて………俺の、強さだ」
それを昶が知ったのは、知り合って三ヶ月ほど経って迎えた冬だった。
きっかけは些細な疑問だった。
蒼助は、身体の何処かしらにいつも傷をつくっていた。
痣であったり、切り傷であったり。火傷もあった。
それは昶を連れて赴いた喧嘩の際に負った傷ではない、と気づいたのは疑問を持って少しした後だった。
そのうち気になって何度も尋ねても、「何でもない」の一点張りか、或いは問いそのものを無視されるばかりであった。
昶もその態度に自分から押してもこれ以上進展はない踏ん切りをつけ、蒼助の方からいつか明かしてくれるのを待つことに腰を落ち着かせた。
そうして、ある夜に、その発覚の瞬間は昶の元に訪れた。
夕飯を食べ終えた頃に蒼助から携帯に着信があった。
またいつもの誘いかと思って指定された場所に着てみれば、そこは潰れた街外れの廃工場であった。
人の気配のないそこに来て昶は異変に気づき、自分の知らないところで潰してきた連中の奇襲に遭ったのか、と予想を巡らせながら
蒼助の姿を探した。
尤も、血だらけで壁に寄り掛かる蒼助は想像をはるかに超える負傷をこさえていたが。
「酷いもんだった。全身に打撲どころか火傷まであって、挙げ句に片腕折られて、指も二本やられて…………不良のリンチというよりは、
拷問に近い有様だったな」
「………ただの報復じゃなかったのか」
「連れて帰って事情聞こうにも寝た振りして一切口を割らなかった…………代わりに口を割ったのは俺の父親だったがな」
いくら尋ねようと背向けてわざとらしいイビキに近い寝息を発するだけの蒼助を一旦放って、部屋を出ると父親が電話をしているところに
通りかかった。
相手を尋ねると、返って来た答えは玖珂家の当主―――――――蒼助の父親であった。
用件は、自分たちの方で渋谷に拠点を構えている霊能医の医院に連れて行って、一晩預かってくれとのことだった。
「何だそれは………友好関係があるとはいえ、一族の跡継ぎをヨソの組織の家に身柄を任せるなんてその当代は何を考えて」
「蒼助もそれを希望するだろうから、だとのことだったそうだ」
「………初めてのことじゃなかったのか?」
鋭く察した千夜の言葉に、昶は頷くだけの反応を返した。
「傷の件もそれで説明がついた。一連の実行犯は―――――――」
言葉の後に間が出来た。
昶は思う。
この先を聞いて、この女はその事実をどう受け止め、あいつに何を思うだろうか。
それを知るべく、昶は溜め込んだ最後の一欠片を吐き出した。
知った時の己を振り返りながら。
「―――――――かつて玖珂の嫡男、であった男………蒼助の腹違いの兄だ」