父さんから全てを聞かされた。
それは、本来なら当人であるあいつの口から聞くべき内容だった。
―――――――あいつの口から聞けると、思っていた話だった。
「―――――――」
明かりを消して暗くした部屋の奥のベッドで、出て行く前と変わらない背中を向けたまま蒼助は寝ていた。
一番上の兄に車を出してもらい、通いつけの病院には行った。
怪我は擦り傷程度のを除けば、骨折も火傷も目立つような打撲も院長直々に全て治された。
帰宅すると、何か食べるかという俺の問いにも答えず勝手にベッドに入ってそのまま動かなくなった。
向けられた背中が近寄るな、と訴えかけているように見えて、俺は自分の部屋であるそこを離れて居座った男を一人にしてやった。
ある程度の時間を置こうと、風呂に入るなり、テレビを見るなりして時間を潰した。
一時間ほど過ぎて、そろそろ寝ようと臨時ベッドとしてソファで就寝を決めた後、その前にもう一度俺は自分の部屋に足を向かわせた。
そして、見たのが然程変化のない光景だった。
「…………寝たのか、蒼助」
問いに返事はなかった。
出来るだけ静かに、足音の目立たないように近づいて様子を見てみた。
動く気配のない身体に、後一歩のところまで歩みよって、ごく自然に発せられる寝息を耳にした。
「……んが」
鼻を鳴らすようなイビキと共に、寝返りをうって寝顔が露になった。
呑気なツラして寝てやがる。
ほんの少し前までズタボロになっていた人間とは到底思えない。
「…………そうやって、いつも何もなかったみたいに寝て………明日を迎えてたのか」
誰にも気付かれないように。
誰にも話そうとせず。
周囲が見て見ぬ振りをするのをいいことに、周囲から自分を隔離して。
俺でさえも、例外なく。
「………って、生まれたまま派かお前。別にいいけど、人んちでやるなよな……」
掛け布団の捲れたところから服を着ていない様子と、床に散らばった脱ぎ散らかされた血の付着した衣服を見て、思わず溜息が漏れた。
洗濯機に放り込んでおこう、と布の端を掴んだが、何故かその場を立ち去る気にはなれず、手を離してそのままベッドを背もたれに座り込んだ。
ゼロに限りなく近い距離感。
その僅かな狭間に隔てられたのは、硝子の板で引かれた境界線。
「そういえば、お前………自分の話、お袋さんのこと以外俺とはしなかったな」
いつ出来たか、の問題ではない。
おそらくこの壁は最初から存在していた。
俺が気づかなかっただけだ。
そして、ようやく気づいた。
どうして傍に置かれたのかも。
この男が俺の何を認めてのことだったのかも。
「落とし穴、か………俺にとって、そんなもんハタ迷惑でしかなかったはず、なんだがな」
気づけば、落とし穴の中を居心地よく感じるようになっていた。
悪くないかもしれない、と。
この男と俺は、通じえることがないとわかった後の今もなおも、だ。
「まったく、厄介なのに遭遇しちまったもんだな……本当に」
呑気に夢の中にいる男を傍らに、その時その夜ただずっと俺は考えていた。
血の繋がりはおろか、与えられる人の想いすらも拒絶し、何かを探し続ける男とのこれからを。
胸に落ちた諦めと捨てきれない未練の狭間で。
◆◆◆◆◆◆
「蒼助の父親はあいつの母親と出会う前には、既に既婚者だったんだ。子供もいた。その結婚相手ってのも、家の意向に沿ってのもので
親父さん自体の意思は関係はなかったらしい。そこに、蒼助の母親との出会いがあって、運命的な恋に落ちた」
珍しいことではない。
一族の中心に生まれた者として、一族の繁栄と未来に繋がる婚姻を結ぶなんてカビの生えたような古い風習は表では廃れても、裏側では
今も尚続いている。
全の為に一人の意志が押し潰されることも、当然とされている。
そんな中で、悪戯に巡って来た出会いに再び己の想いを燃え上がらせることも、過去に何度か前例として存在していた。
蒼助の父も、その例の列に並んだ。
しかし、彼はその上を行く驚異の行動を実行したのだ。
「本命を妾に据えて本妻と泥沼っていう展開は他にもあった。だが、親父さんはまさかの行動に出た」
「まさかの、行動………?」
「あんた、蒼助から母親の話を聞いたことはあるか?」
「……糊のようなお粥をつくる母親だとは聞いている」
「それは俺も初耳だ。………聞かされた中で、あいつは自分の母親に関してどう言い表していた?」
「………反対を押し切っての結婚だった、と」
心なしか、声が若干押さえてあった。
確かに、内容はあまり外で口にしてしまっていいことではない。
しかし、真相は更に公言しずらいものだ。
「確かにその通りだが、それだけじゃない。その反対というのも―――――――それまでの本妻と離縁して、他の女をその空いた場所に据える上での
結婚だったからだ」
「―――――――っ!」
千夜の目が驚愕の色に揺れた。
父親から聞いた時の自分と同じ反応に、無理もないよな、と昶は苦笑した。
「当主の権限を振るってかなりの強行突破だったらしい。離婚についても本妻が納得なしで、な。その当時は、玖珂の当主が乱心した、と
かなり騒がれたそうだ」
一族を束ねる者が、周りの反感も買うのも構わずそこまで己の意志を押し通した例は前代未聞だったと、父親は語った。
だが、その後こうも言った。
あいつは今、その報いを受けているのかもしれない、と。
「そして、蒼助が生まれると同時にその本妻の子も跡継ぎからは外された。………と言っても、そいつも霊力はからっきしで、実質云々では蒼助と
大差なかったらしいがな」
「……その度重なる暴行とやらも、その私怨か」
「察しがよくて助かる。その通りだ。実力はなくてもプライドだけは果てしない男らしい。自分の母親と自身を追いやった母子に対する恨みは、尽きる
ことを知らない相当なものだ。そして、その恨みは直接的な原因となった蒼助へと注がれた。時々拉致しては部下や自分でリンチ………性根に見合った
ちゃちな方法でぶつけるくらいの脳みそしかなかったみたいだがな」
「………当主は、何故」
押し殺した声が、何を言いたいのかは皆まで聞かずとも昶にはわかった。
「何もしなかったのか、か…………【子供】である俺たち側には知ることも理解もできない親心、というやつもあるんじゃないか。
一応はそいつも息子であることには変わりない。そもそも元を辿れば、自分の通したエゴがその男を追い詰め、恨みを生じさせることになった。
………当主は、その負い目を無視して一方的に責めることができるほど、非情な人間じゃなかった」
「………馬鹿な話だ」
ぐしゃり、と紙コップが、込められた圧力により千夜の手の中で歪められ潰れる。
表情にははっきりとは表れない憤りを千夜から確かに感じながら、
「……大事なものとそうでないものを割り切れない中途半端な感情が当主の行動を制限し、縛りになった。だがそれも………本人から助けを求められ
れば、簡単に吹っ切れただろう」
「………? どういうことだ………それじゃぁ、あいつは」
「最初の時に助けを求めるどころか、手出しすら拒否したらしい。俺の問題だ、関係ない、と」
理解しがたい話だ。
目の前の表情がそう言いたげに目を見開かせているのに、ああそうだな、と昶は内心で頷き、
「元々、親父さんとの仲は良好とは言い難いものだったらしい。はっきりと悪いとも言えないが、よそよそしさが漂うような………で、収まっていた
のは間繋ぎとしてお袋さんがいたからだったらしいが………その死後、蒼助は一気に親父さんと玖珂側の人間を突き放して距離を置く様になった」
「……どうしてだ」
問いに対して答える前に、昶は過去の場面を幾つか振り返った。
それらは、全て一つの共通点を得ているものであった。
「……あいつが俺に話す身内の話は、いつだって母親のことだった」
「………?」
答えもせずに次の話題を切り出した昶の言動に、千夜は眉を顰めた。
気付いていながらも無視して、続ける。
「母親に受けたスパルタ修行とか。母親との十番勝負に惨敗とか。母親によくぶん投げられて意識が飛んだとか。母親に構ってもらえなくて抱きついた
親父さんも鬱陶しいとぶん投げられたとか。………周囲にとって、自分にとっての母親の存在感を……あいつはよく俺に聞かせた。その時は俺は、結局
コイツはマザコンなんだって話だよなー、くらいにしか汲んでなかったんだがな………後になって、それがあいつにとってどういうことを意味している
かに気付いた」
正確には、長きに渡って玖珂の家の補佐を努めて来た存在から聞いて確信したことだ。
かつて、本人が口を閉ざしていることを諦めきれずに玖珂の屋敷を訪れた際に、来訪に対応した望月という男が、昶の知るところにない
蒼助の母親・美沙緒についてを知るところにした。
―――――――あの方は、ただ一人認めた家族であり、世界そのものだったのですよ。
サングラスの奥の表情の変化を欠片も見せずに言い切った言葉を、昶は大袈裟と笑うことは出来なかった。
そうするには、その響きはあまりにも―――――――自然と受け入れられてしまうものだったからだ。
「あいつは物心つく前から、霊力の低さで周りから散々な言われようで蔑まれていた。【蒼助】という存在の否定と拒絶………それは、味方である
父親を始めとした一部の人間ですら例外じゃなかった」
「………わかるように説明してくれ」
味方であるのに例外ではない。
発言に矛盾が生じているのは承知だった。
しかし、含まれた事実は、これから矛盾を除き成立させるのだ。
「念願の恋愛成就の相手に親父さんは、ウザ苦しいと鬱陶しがられるくらいの執心ぶりだったらしい。いろいろあったが、当主の屋敷の住人にも
認められていて、その存在は大きいものだった。………あいつは馬鹿だが、本能的なものは妙に鋭いやつだ。だから、気付いていた」
一呼吸の間を入れ、昶はその合間に整えた言葉を思い口を開き、
「自分は、母親がいる上で認められている存在だと。自分に向けられる愛情も、母親からのおこぼれなのだと。あいつは今も昔もそう受け止めている。
……自分そのものを捉えようとしない人間を、あいつは家族として認めなかった。そして、皮肉にも………自分を遮る原因そのものである母親だけが、
蒼助を蒼助としてその存在を受け止めることが出来るたった一人の……家族だった」
憎まれ口や恨み言ばかり叩いていても、そこにはいつも何処か親愛を昶は感じていた。
いつか越えてみる、という息巻いているのが自然と察することが出来た。
それは、今思えば、そうすることで周囲に己の存在を認めさせるという蒼助なりの距離を縮めたいという想いそのものであったのだ。
しかし、その時はまだ昶は知らなかった。
蒼助の母親は中学に上がる直前に死んでいて、蒼助の世界はとっくに崩壊し、何もかも砕けてしまっていたことを。
「母親の死はあいつにとって世界の崩壊を意味していた。それと同時に、あいつはそこから自分以外の全てを閉め出しちまった。自分は一人、殻に覆わ
れた世界で………失くした世界をもう一度建て直す欠片を探して、な。………欠片そのものが無くなったんだから、元に戻すことなんて出来ないのにも
気付かないで」
出口のない迷宮のような世界。
そこで、あの男は見つかるはずのない探し物を永久に探し続けるしかなかった。
「降魔庁に入るってことになって、少しは希望が見えたかと思ったが………結局、それも駄目だった。氷室や朝倉に望みがあるんじゃないかと
思ってたんだがな」
「………ここまで聞いておいて今更かもしれないが、早乙女」
しばらく沈黙して聞く耳を傾けていた千夜が、口を挟んだ。
「そろそろ言ってくれないか? 率直に、お前の本心を」
「……そうか。そうだな、"補強"に使う材料もそろそろネタ切れしてきたところだ。もう、いいだろう」
「補強………?」
怪訝そうに己の揶揄した言葉を繰り返す千夜に、その意味を僅かに匂わせてみる。
「今までの話がさ。俺の言葉が、少しでも大きくあんたの中に響くようにする………まぁ、拡声器みたいな役割がある」
「途中寒い台詞が入り混じったようだが、無視しておいてやる。とっとと聞かせてもらおうか」
俺も少し失敗したと思うからそうしてくれる助かる、と苦笑った。
そして、
「大層なことじゃない。ただ、あんたにはやってもらう必要があることを知ってもらうだけだ。―――――――"責任"、だ」
「責任、だと?」
「そうだ。俺は別によかったんだ。あいつが閉じこもったまま停滞し続けるのなら、腐れ縁のよしみで出来る範囲のことをしてやるつもりでいた。
停滞し続けるのなら、な。だが、あいつは………もう動き出しちまった。閉じた世界から出ちまった」
実のところ、気づいたのは結構前の話だ。
あれは、始業式の日の朝。
その日の蒼助のおかしな行動には、それまでの自分のよく知る彼にはない何らかの"変化"を感じていた。
そして、その後学校に来て現れた転校生を前にした時に偶々盗み見た際も、そうだった。
それからして訪れた兆しを理解するのに時間はかからなかった。
考えた。
ついに来たこの瞬間に、自分は何をすればいいのか。
この世話のかかる腐れ縁の相手に自分が何をできるのか、と。
考えた。
考えた。
去る前に出来る最後の仕事とは、と。
その末に思いついたのは―――――――
「そのきっかけになったのは、あんただ。あんたが、あいつの殻をぶっ壊しちまったんだ。気づいてなかっただろうがな、事実には変わりない。
その証拠に、あいつは殻の外で最初に見たあんたに夢中だ。あいつがああなったのはあんたが原因だ……だから」
だから、
「―――――――責任をとってくれ。あいつの、世界になってやってくれないか」
◆◆◆◆◆◆
首が痛い。
喉も痛い。
というよりも、頭と胴体の繋ぎ目はちゃんとついているだろうか。
「まさか、間髪なしにラリアットで来るとは…………さすがに予想してなかっげほっ、がっふ……」
せいぜい平手、悪くて握り拳かと思って侮っていたのが敗因となった。
この苦しみを与えた張本人は、痛恨の一撃を喰らわせると罵倒すらせずに何処かへ行ってしまった。
しつこく首にまとわりつく痛みに咳き込みながらふいに思い出したのは、望月という男が始業式の朝に出かける前に言っていた言葉だ。
「女は骨………だったか? だとしたら望月さん、あれは………太すぎだ」
お前の女の好みってやつも親父さんに負けず劣らずだぞ、蒼助。
ここから少し離れた場所で、まだ喧騒治まる気配のない渦中にいるであろう男を昶は思った。