食堂にて、重苦しい空気が二つの存在から発生していた。













 対するは千夜。

 対するは蒼助。





 テーブルを挟んで向かい合い座る二人。






 今、学園を騒がしている中心人物達は、数分前に対面と言う名の終着を以て、状況に進展を迎えようとしている。 



 その周囲を取り囲むのは、意図していなかったとはいえ、結果的には二人に顔合わせの機会を与えるきっかけとなったクラスメイト達。

 誰もが重苦しい緊迫感が張り詰めた空気の中で、沈黙の中で沈黙を守り、同じ視線の行き先の男女二人を、ずっと見つめる。

 

 一方、その視線の先の双方は何か一つの動作さえもが沈黙を破るきっかけになると思わせる空気の中、依然と口を開く事も視線を交わらす事も無い。

 沈黙と沈黙のぶつかり合い。そして、以下を持続、続行。

 事態は、未だ微動だにしない。



 傍観者と化した全員が焦れったさを感じながら、視線を交錯させる。








 おい、どうすんだよ。

 いやつーか、どうなるんだよこの先は。

 にしても空気重た過ぎるだろコレ、通夜の方がまだ賑やかだぜ。

 ねぇ、何で二人とも喋らないの?

 そりゃこっちが聞きてぇよ。

 てゆっか、いい加減なんか進展してもいいんじゃないの?

 つまんないー。

 だったら、教室帰ればいーじゃん、今からでも行けば課題免除かもよ?

 嫌よ冗談でしょ、こんなまたとない修羅場見逃して、高校生活に悔いを残せっての?

 何にしても早く何か起こせよ。

 ハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリー

ハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーハリーは―――――――






 飛び交う視線トークの中で、その一人の男子生徒が痺れを切らして発し始めたやや危険を匂わせる英単語連続発信を始めた時、

彼らの待ち望んだ『進展』は訪れた。

 

 ドゴン、という鈍く大きな打撃音という形で。



 音の発生源は彼らの意識の集中する場所からだった。

 そこでは、テーブルに拳を浅く沈み込ませる蒼助と、身じろぎはしないが半目になった千夜の姿があった。



 悪魔で動かない千夜とは対照的に、蒼助は拳を一度ぶるりと震わせ、








「お前等、無言でしゃべり場つくるなんざ無駄に器用な真似してんじゃねぇぇっ鬱陶しいぃ!!

散れやコラぁ、見せモンじゃねぇぞぉぉ―――――――っ!!」








 視線の集中放射についにキレた蒼助の一息の怒号に、2−D一同は蜂の巣をつついたような勢いで一斉にその場から散った。









 ◆◆◆◆◆◆









 食堂の人口密度は蒼助の一喝により、ごっそりとその濃度を減らした。

 それによって無理に作られた静寂は自然なそれへと変化し、重さは軽減された。



 傍観者たちは食堂から出て行ったが、外から漏れ込んでくる声といい、素直にその場を立ち去っていないだろう。

 多分、全員いる、と千夜は経験上とドアの向こうから感じる大多数の気配を統合して考え、確信づいた結論を出した。

 

「ったく、物好きどもめ」

 

 悪態を口にして、落ち着きを取り戻した蒼助は再び椅子に腰を下ろす。

 状況は周囲の余計なものがいないという相違点が加わっただけで、形は元に戻った。

 再度、じんわりと互いの体から生み出される沈黙。

 千夜は、目を伏せ視線を合わさず、口を閉ざし、両腕を組んで不動の態勢を保ち続けた。

 

 この姿勢は、動かなければいい、という千夜の心の内の願望を表していた。

 事態も。

 自分も、相手も。

 時間さえも含めた何かもの停滞を千夜は望んでいた。

 

 目の前の男は自分という散々を煮え湯を呑まされた相手を前にして、何と言うのかは想像できた。

 大方、出てくるのは逃げた自分に向けての叱責だろう。

 二日間の様子を見ていれば、深く考えなくとも蒼助の中で蓄積された不満は相当なものであるはずとわかる。

 しかし、それは悪魔で蒼助の自業自得が招いた結果の産物だ。

 押し付けられて、受容できるものではない。

 それが言葉として出てきたとして、自分はそれに反抗せずにはいられない。

 そして、蒼助はそれを許さないだろう、と考えたところで千夜は既に順を追って出した結論をもう一度脳裏に思い浮かべ、確認した。

 

 間違いなく口論では終わらない、と。

 

 千夜が忍耐の糸を断ち切るか、蒼助が短気を起こすか。

 いずれにせよ、そうなれば腕がモノを言う展開に転んでいくだろう。

 

 駄目だ、と千夜は予測する未来を掻き消す気持ちで強く思った。

 もう、そうなったら自分に分は無い。

 『今の自分』には、だ。

 

 千夜は、酷く苦々しい気分で二日前の久遠寺女医とのやり取りを思い返した。









 ◆◆◆◆◆◆









 衝撃の宣告の後、久遠寺は「ちょっと待ってな」と一言残して、診察室を出て何処かへ行ってしまった。

 残されて、一人となった間は精神が現実に追いつく時間となった。

 肘やら膝が時折僅かに軋みをあげる度に、その距離は縮まっていった。



 そして、そんな緩やかな責め苦に終わりを告げたのは、始まりを告げた人物の帰還であった。

 

『待たせたね』

『何処へ?』

『薬品倉庫さ。これを取りに行っていた』

 

 そう言って、久遠寺が白衣の懐から取り出したのは、手に収まる程度の小さな薬瓶。

 目の前でちらつかされるその中には、白い液体が揺らめいていた。

 

『………それは?』

『アンタの中で溜まった毒素を浄化する………まぁ所謂、解毒剤みたいなもんさ』

 

 飲みな、と手渡されたそれを凝視する。



 三途のつくる無色透明な『えりくしるもどき』とも違い、常に服用していた歪なほど青色の霊薬とも違う白っぽさを少し見つめ、蓋を開けた。

 くん、と臭いを嗅ぐが、予想の一つとして考えていた異臭はなく、無臭であった。

 それによって警戒心が緩み、決心も固まったことで、いよいよ口をつけてみたが、

 

―――――――ぐっ………っっ!?』

 

 一口飲んで、その味に思わず咽せた。



 苦い。

 とてつもなく苦い。

 ブラックのコーヒーは好きだ。

 あれには苦さに旨味がある。

 だが、これはひたすら苦い。それだけだ。



 そして、どろりとした粘りを持ったそれは喉をなかなか通らないと来たから、最悪だった。

 吐き出したい、という気持ちを必死で堪えながら、口一杯に残る苦みを名残りにしてなんとか呑み下す。

 しばし、口を押さえて沈黙。

 そのままギッと目尻をきつく吊り上げて睨み上げた久遠寺の顔は、おもしろげにニヤニヤと笑みを漂わせていた。

 

『……くおんじ……何だ、コレは』

 

 思わず声の音量もグンと下がる。

 並の人間なら、サッと青ざめて相対したその場を逃げ出すほどに。

 目の前の女医は生憎か幸いか、そんなタマではなかったが。

 

『白の概念を液状にしたモンさ。まぁ……正確にはその持ち主の体液だがね』

『たい、えき………? 血……じゃないだろ』

『うん。正確には、こっちの方の』

 

 と、久遠寺が指差す。






 下腹部―――――――その下の股間を。






『っっ―――――――おまっ……なんてものを飲ませて』

『何言ってんだ。それはナニはナニでも、そんじょそこらのナニじゃないありがたーい代物なんだぞ? その昔、徳の高い坊主が、己の霊力を上げる

為にイチモツ切り落として己の欲望を断とうとしたんだと。その前に、後の世で何かの役に立てば良いとその清らかな霊質を残しておこうと最後に

一発ヌい……』

『やかましいっ、そんな逸話聞いたところでありがたみなんぞ湧くか!!』

 

 聞いたところで、ますます呑んだモノを吐き出したくなった。

 ただでさえ、まだ手元には残っているというのに。

 

『まぁ、さすがに原液で使用するにゃキツいものがあるから、霊薬として手が加えられてるから安心しな。必要以上に苦いのも、そのせいさ。

生臭さを取るのに苦労したようだからねぇ……』

 

 くくっ、とイヤらしい笑みを浮かべて笑う目の前の医者は本当に女なのかと、千夜は事実を疑いたくなった。

 

『だが、その効果は間違いなしだ。その四百年ものは、三途のそれとは訳が違うぞ。それ一つで、お前の中の溜まった腫瘍じみた赤の概念を浄化

出来る。それに免じて、全部飲め』

 

 そう言われてはそれ以上歯向かうこともできず、苦々しく手元の残りを見つめ、不満を押し殺してのそれを一気に飲み干した。

 

『……けほっ、これは………副作用とかはないだろうな』

『副作用………ああ、この場合はある』

『何だとっ?』

 

 これ以上何があるというんだ、と詰め寄ると、予想だにしない返答が返って来た。

 

『お前にそれを飲ましたのは、毒を解毒する為の"相殺"が目的だ。三途の霊薬の効果を一切合切取り除く為に、な。今飲んだのと、お前が今まで

飲んで来た分が対等の効力を持つとする。………すると、互いがぶつかり合い、効果を打ち消し合う。結果として残るモノは何も無い。

………つまり、だ』

 

 一息が合間に置かれ、一つの事実が告げられた。

 

『お前は、只の人間になる。力も、霊力も、なーんもないごく普通の女の身体のそれになるってわけだ』

 

 聞いた瞬間、金槌を脳天に打ち下ろされた衝撃を覚えた。









 ◆◆◆◆◆◆









 久遠寺の言うとおり、身体は軋むような痛みと引き換えにかつての身体能力と霊力を完全に失い、"普通"の人間のそれに堕ちた。

 胡桃の握り潰しも出来なくなった。

 軽々となんてことなく持てていた重量の荷物も、今では無理だ。



 認めたくない、と一点張りするには現実は現状を嫌という程思い知らせてくれた。

 口にするのも腹立たしいか、今の自分は紛れもなく―――――――『只の無力な女』となってしまった。

 それは千夜にとって恐ろしい事実である他にない。

 

 だから逃げた。バレないうちに。

 

 もし、目の前の男に知られでもしたら、言葉通り『一巻の終わり』だ。

 押さえつけられても、それに抵抗する力が無い。

 どれだけ無茶を押しつけられても、それを突っぱねることができない。

 無力は力の前に屈するしかないのだから。



 今、この場でも同じことだ。

 仮に展開がそうなったらこの事実はあっさり露見し、千夜にとって最悪の事態へと転ぶ。

 想像するだけでも、吐き気がする。

 時間も何もかも止まればいいのに、と決してロマンティックなそれではない真逆な気分で切に願い、千夜は奥歯を強く噛みしめた。

 

 しかし、






―――――――…………おい」






 千夜の命を切って捨てるかのように、場は蒼助の第一声によって長かった沈黙に終わりを告げた。

 伏せた視界の隅で動く気配を感じ、身を強張らせる千夜。

 そんな自分に、益々嫌気がさす。

 忌わしい過去の自分が己の脳裏を過り、現在に被さろうとする。

 目を背けるように視界を閉ざそうとした時、額に温もりが触れると同時に視界に陰りがさした。

 

「………?」

 

 伏せた目をそこでようやく上げると、テーブルの向こうから身を乗り出して長く保ち続けた距離を少し縮めた蒼助がいた。

 額に触れているのは、蒼助の自分に向けて伸ばしている手であった。

 思考が上手く動かない千夜は、しばし呆然とする。

 

「お前、顔色悪いぞ。ちゃんと飯食って寝てたか?」

「…………え、」

 

 人は己の予想を裏切られ、あまりにも異なる展開を状況として迎えると、対処に時間がかかる。

 千夜は、まさにその状態となっていた。

 

 気遣われている。

 てっきり、口を開くなり不満か叱咤を一方的に飛ばしてくると思っていた。

 それが千夜の予測した展開だ。

 

 しかし、それを目の前の男は裏切った。

 あまりにも意外な形で。

 

「あーあ、眼の下クマ出来てんじゃん……。んで、飯は?」

「…………さっきは、カツ丼食べた」

「けっ、俺たちゃお前がいない間はコンビニ弁当かファーストフード三昧だったってのに…………ま、そんだけ豪快なもん食べれるんなら心配ないか」

 

 悪態を吐いたかと思えば、すぐに安堵の言葉へと変わった。

 何から何まで想像していたものとは違う反応が返ってくることに、千夜は調子が狂うばかりだった。

 

「ま、これならユキウサギの心配も無駄足で済むか」

 

 不意に蒼助の口から出た妹の名前に、千夜はハッとした。

 思えば、彼女とともこの二日間一度も顔を合せていないままだ。

 もう二日もあの明るい声を聞いていない、と考えると、ここにはいない妹の顔が自然と脳裏に思い描がれ、

 

「……朱里は」

「相変わらず元気だぜ。姉さん、姉さんって騒いでるかメシに文句言うかだけどな」

 

 無理もない。

 千夜は蒼助の言葉からその様子が簡単に想像できた。

 慕ってくれているのは十分理解している。

 そして、己が傍にいないと彼女は心細いばかりであるということも。

 二日前、そんなことを忘れて家を出た。

 その日に立て続けにいろいろな出来事が身に降りかかり、精神的に余裕を失くしていた千夜は、たった一人の家族のことすら見えなくなっていた。

 自然と俯く千夜の耳に、蒼助の言葉が入り込む。

 

「……心配ならいい加減帰ってこいよ」

「…………」

「二日間ほぼ不眠はきついだろ。それ以上そのクマが濃くなったらどうすんだよ」

「……、っ何で」

 

 答えるつもりは千夜にはなかった。

 しかし、まるで決めつけるような言い方に違和感を覚えてのとっさの反応だった。

 

「ユキウサギから聞いた。つーか、夜になるとそればっかだったぜ。そんで、姉さんが帰ってくるかもしれないから寝ないーつってなかなか寝ようと

しねぇから…………ふぁ……っ」

 

 言葉の途中、蒼助は大きく口を開いて欠伸をした。

 何かを振り払うように軽く頭を振る。



 その動作はまるで、

 

「………お前、寝ていないのか?」

 

 問いに対し、蒼助は目尻を眠気の名残りで滲ませながら、

 

「お前が何処で何してるかわかんねぇのに、呑気に寝てられるかよ」

 

 当然のように言ってのけた蒼助のその言葉を聞いて、千夜はその瞬間死にたくなった。

 なんて、低俗、と己を恥じ、罵る。

 一度は認めた男に対しその器を見測り損ねた上に、勝手な考えばかり重ねて貶めた自分がどうしようもなく汚く思えて仕方無く、思わず蒼助から

目を背けた。

 自分が考えていたことを知られたく無いという、という無意識の動作であった。

 すまない、という本来なら正しい謝罪を呑み下し、代わりに吐いた言葉は、

 

「………安心しろ。さすがに今日は帰るつもりだ。外で逃げて、学校でも逃げてをこれ以上続けていたら俺の方がどうにかなってしまうからな………」

 

 ふん、と鼻を鳴らして言い切った直後に、チラリとさりげなく蒼助の反応を盗み見た。

 

―――――――そうか」

 

 『喜』の感情を惜しげも無く晒し出したその満面の笑みに当てられ、千夜は言葉が喉で詰まるを感じた。

 

 怒っているのかと思えば、ただ単に心配していたという言葉しか言わない。

 帰ると意思表明したしただけで、こんな態度が変わる。

 

 何もかもが、千夜の想像から大きくズレた光景が目の前にあった。

 そして、今殺気まで胸に渦巻いていた蒼助への恐怖心は、欠片も残さず消えてなくなっていた。

 

 ………あ、そういえば………。

 

 気付いたことが、また一つと増える。

 蒼助とこうして真っ当な形で顔を見合わせるのも、二日ぶりなのだ。

 その間、逃げる最中様子伺いにチラ見などしていたが、向き合い話し合うのも、ここでようやくであった。

 

 ………何だろう、この感じ……。

 

 消えた恐怖感の代わりに、漏れ落ちる雫のような【何か】が一滴一滴と胸の奥で溜まっていく。

 落ちる毎に満たされていく感覚を、千夜は違和感とも心地よさとも判断出来ず。しばし忘我の境地に立たされた。

 

「……おい、なにボケッとしてんだよ」

 

 その一声に現実に引き戻された千夜が見たのは、怪訝そうに己を見つめる蒼助であった。

 そこで、ようやく自分がどんな状態でいたかを自覚した。

 

「っとに、大丈夫なのかよ」

「何でも無い。………少し、考え事をしていただけだ」

「考えるって、……何をだ?」

「…………別に。お前には関係ないことだ」

 

 咄嗟に吐いたのは嘘だった。



 その背中を押したのは、後ろめたさではない。

 自身ですら形を掴めていないこの【何か】を言い表す言葉が無いのだから、答えようが無かった。

 仕方無い、と自分に言い聞かせるように、そう心の内で呟いていると、刺さるような視線を感じる。

 見ると、蒼助が何やら疑心に満ちた目付きでこちらを睥睨していた。

 少々つっけんどんな言い方をしたとはわかっていたが、疑うような視線を向けられる点はさっきの台詞の何処にあっただろうか、と千夜は

目を瞬いた。

 

「まさか……口じゃ帰るとか言っといて、隙をついて逃げる作戦でも練ってたんじゃねぇだろうな、てめぇ」

「………だとしたら、的の前でぼんやりするようなわかやすい態度晒すわけあるか。帰ると言ったら、帰る。………だがな」

 

 付け足す言葉に、千夜は強く力を込めて、

 

「………"アレ"は、もうするな。絶対に」

「……………アレって?」



 
とぼけるな、と怒鳴りたくて仕方無い喉を宥め、全力でとぼけるな、と怒鳴りたくて仕方無い喉を宥める。

 理性をで働かせながら、今度ははっきりと具体的に言い表した。

 

「風呂およびベッドの中に入って来るな。………今日帰るのもこれが条件だからな」

―――――――何で?」

 

 その瞬間、ブチン、と千夜の頭の中でコンマ一秒で糸が切れる。

 意味が分からないと主張する蒼助の表情はそれだけの攻撃力を以て、千夜の精神面にその威力を発揮した。

 疲労と睡眠不足で大きく削減された残り少ない理性を使い果たした千夜は、身を乗り出し怒りのままに蒼助の胸ぐらを掴み、

美麗な顔を般若の形相に変えて凄む。

 

「通常ならそんな戯れ言も聞き流せるだろうが………生憎、今は無理だぞ」

「何でさ」

「やかましい、諸悪の根源が。これ以上、俺の前で疑問系を口にするな」

 

 完全に据わった目で殺気をぶつけられた蒼助は迫力負けし、口を閉ざした。

 しかし、こういった状況に慣れているのか立ち直りは早かった。

 

「いや……何でそんなに怒ってんの? なぁ」

「お前の脳味噌は蝿並の記憶力しかつまっとらんのか」

「そーじゃなくて…………だから、何でそんなに気にしてんだよ」



 先の見えない蒼助の言葉に、千夜は苛立ちを募らせるが、

 

「前は抱きついても、一緒に寝ても……挙げ句の果てには、お互い裸で抱き合おうが、こっちが虚しくなるぐらい何とも反応し無かったじゃねぇか」

 

 続いた言葉に、千夜は思わず思考を急停止させた。

 ショックで活動を一時的に滞らせた思考回路が、目の前の男の言った事実の真実味を明らかにするべく過去の記憶を検索し始める。







 ・抱きついた。(全身隈無く触られても全く抵抗無し)

 ・一緒寝た。(しかも折り重なるように)

 ・裸で抱き合った。(不可抗力とはいえ、自分から)







 嘘だ、と言葉を否定出来る要因を探す為に始めた作業は、皮肉なことに肯定の材料を多く拾い上げてしまった。

 ぶあっと冷や汗が、全身の毛穴から噴き出る。

 

「い、や………だ、だって………それは……っ」

 

 不意打ちに大きく心が乱れ、口から出て来るのは構成し損ねた言葉の出来損ないばかりだ。 

 理由を探すことにのみ意識が集中しているせいであった。

 

 理由。

 理由ならあるはずだ。

 あの時と今を比較して表れる相違点が、あるはずなのだ。

 

「……なぁ」

 

 今まで黙っていた蒼助が、不意に口を開いた。

 その目は先程とは打って変わって、力を感じる視線を放っていた。

 

「ひょっとしてお前………意識、してんのか?」

「なに、を」

 

 

「俺を。………【男】として、意識してのかって話だよ」

 

 

―――――――っ!」 

 

 危険信号が、千夜の頭の中に中で弾ける様に響いた。

 同時に、胸ぐらから手を離し身体が蒼助から距離を取ろうと動きかける。



 しかし、それは千夜が離す前に手首を掴まれたことで妨げられてしまう。

 

「っ! ………はなっ」

「誤解があるようなら、先に言っとくけどな。俺は別にその後お前をどうこうしようとかいう魂胆はないぜ? 

金曜の夜まで手ぇ出そうなんて、思っちゃいねぇよ。それが約束だしな」

「…………じゃぁ、何であんなこと」

「あんなこと? ただ、一緒に風呂に入る。ただ、一緒に寝る。単なるそれに何でお前はあんなに騒いで俺から距離とったんだ?」 



 蒼助の言っていることは無茶苦茶だが、一部理が適っている。

 それまで何とも思っていなかったことは確かだ。

 同じ男であったのだから別にどう思うことはない、と済ませることだって出来たはずだ。

 それだというのに、自分は蒼助の行動に以前には無かった動揺を示した。

 

 理由なら既に居座っている。

 だが、それを認めたら。その存在を認識して受け入れしまっては、自分の中で守り通さなければならないものが完全に崩れてしまう。



 千夜は、それだけはダメだ、と唇を噛み締めた。

 

「だんまり、か。………そりゃ、俺の思ってるように解釈しちまっていいってことだよな?」

「………、違っ」

「なら、言えよ。お前の中にあるもん証明出来るのは、お前しかいねぇ。俺の間違いを正せるのも、お前だけだ」

 

 先を促すが如く、手首を握る蒼助の手の力が強まる。

 拒否権はない、と暗喩しているのを心が激しく乱れる最中、千夜は自然と察した。

 

「お、れ……は……」

 

 やめろ、と口とは裏腹に心が爆ぜるような制止を叫ぶ。




 その時―――――――




「ぐべぶっ」

 

 ゴキン、という鈍い音と共に緊張感をなし崩す断末魔が間に入った。

 何かと思った矢先に拘束されていた手首から圧力が無くなり、放される。



 その次の瞬間、蒼助の身体はテーブルの上に被さる様に前倒しになった。



 ガタン、と何が勢いよく倒れる音。

 椅子にしては、些か響きが重い。

 

「…………消化器?」

 

 これが蒼助の頭にぶつかったらしい、と状況の分析が千夜の中で為された。



 しかし、誰が、と自然と行き着く疑問を思った時、

 

―――――――………一緒にお風呂だとぉ………』

 

 倒れる蒼助の向こう側、開かれたドアの奥から地の底から響くような声がいくつも重なるように響く。

 気のせいか、その奥では不穏な暗雲すら立ちこめている様に見える。

 

―――――――………一緒のベッドで寝てるだとぉ………』

 

 再び響くと同時に、黒い何か―――――――人影がぞろりと蠢いた。

 

 人影―――――――外で待機していた男達の目はギラギラと澱んだ光を輝かせ、各々の全身から放出される瘴気は絡みもつれ合い、

更なる澱みを生み出している。

嫉妬と羨望が分泌した魔性の邪気にも匹敵するのではないかという混じり合い混沌とする邪悪な瘴気は、一人の男に向けてその牙を疼かせていた。

 

「玖珂ぁ………貴様というヤツは」

「年上年下選り取りみどりのとっかえひっかえならまだしも………」

「よりにもよって俺達の女神にまで手にかけようとは………」

 

 怨嗟と恨みに満ちた声がどんよりと漂う。

 誰も彼も目が、完全にイっているのを千夜はその目で確認した。

 

「許さんっ……許さんぞ玖珂蒼助っ!!」

「お前みたいな節操無しがいるから、世の少子化が進むんだ!」

「そうだ! 去勢して恵まれない男達に少しでも分け前くれて、世の中に貢献しやがれこんチクショウがぁ!!」

「初めて会った時からテメェが憎かった!!」

「ぶっちゃけ羨ましいんじゃ、コラァ!!」

「これ以上好き勝手は我ら、2−D男子によって結成された終夜千夜にお近づきし隊が許さん!!」

「…………下心前面に押し出して来たわね、ちょっとは隠しなさいよ」

 

 ヒートアップする罵詈雑言の中に、最後の久留美のツッコミでもみくちゃになって消え、無視された。

 彼らの乱入により助かったんだかそうじゃないんだか微妙な心境で、状況にどう対応すれば良いのか考える千夜の思考の作業を中断する出来事は、

すぐに起きた。

 先程、ナントカ隊とやらの一人が放ったと思われる消化器の痛撃により、気絶していたはずの蒼助が、ムクリとその身体をテーブルの上から

起こしたのだ。

 

「はっ、一人じゃ敵わねぇから徒党組んだってか? そんで、俺をぶちのめしたらその後はみんなで仲良くコイツを手に入れてマワすって? 

そりゃ、見事な民主主義だな、人類皆平等ってやつだ」

「まわっ……」

 

 真っ昼間から堂々ナニ抜かしてんだ、と怒鳴りかける千夜だったが、その隙も与えられないまま蒼助の言葉が続く。

 

「てめぇらもういっぺん叩き潰してやる。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて……………痛い目見やがれ!!」

「………そこまで言ったなら正しく言いきれよ、決まり悪い」

 

 当然のことながら、外野の昶のツッコミも冷静な数少ない者達の同意を残して、場の空気によって無視された。

 

「とりあえず、雁首揃えてテメェら今日の帰りまで保健室から出れねようにしてやる」

「減らず口を抜かすな! 全員揃った我々の力を侮るなよ……この前は無念にも地べたを這ったが、今こそ総力を挙げて貴様を弾劾して、

終夜さんを毒牙から守ってみせる! 覚悟しろ、エロがっぱぁ!」

「世のモテない男どもを代表して、今日という日を貴様の命日にしてくれるわぁぁぁ―――――――っっ!!」

 

 その瞬間、双方の中で戦いのゴングが鳴り響き、乱闘が開始された。

 鎖から解き放たれた獣の如く、一つの入口から怒濤の勢いで食堂に駆け込んできた男達は真っ直ぐ、或いは不意を討とうと死角を狙うなどして

蒼助に一斉に飛びかかっていく。 

 一足早く次の展開を予測した千夜は非難し、その光景を傍観できるもう一つの出入り口付近にいた。

 

「あーあ、結局暴徒と化しちゃったわね」

「風呂のあたりから呻き出したところでアカンとは思っとったけど」

 

 先程まで男子たちと同じ出入り口の方にいた久留美、七海を始めとした女子たちが乱闘を見物しようと千夜の傍らの出入り口から流れて入ってくる。

 

「ところで、もう一回ってどゆこと?」

「あんたいなかったの? 月曜日に終夜さん追っかけて戻ってきた玖珂くんに教室にいた男子達が詰め寄って、結局乱闘沙汰になってさー」

「それでも勝ったの、玖珂くんだったけどねー。私、おかげで二千円パーになっちゃったんだから」

「じゃぁ、私は玖珂くんに賭けよっかなぁ。そっちは?」

「うーん………今回は数多いし、さすがの玖珂くんでも多勢に無勢って感じじゃない? だからもう一回、多勢の方に」

「ねぇ、お昼何にするー?」

「持って移動食べれるように丼ものにしようかな」

 

 どうやら昼食片手間に観戦するもとい賭博もどきをするつもりでいるらしい女子一同は、ぞろぞろと連なって食堂のカウンターへと向かっていく。

 彼女たちの注意は完全に自分から逸れての前で起きている喧騒へと移った、とようやく肩の力を抜いた千夜は同時に溜息混じりに、

 

「………どういうクラスだ、ここは」

「見たまんまイカれたクラスさ」

 

 不意と突く相槌は隣から来た。

 振り向けば、そこには唯一あの乱戦の中に勇んでいなかった早乙女昶がそこに立っていた。

 

「………お前は、行かないのか?」

「冗談だろ。第一理由がない」

「じゃぁ、止めたらどうだ」

「無理だな。ああなったら、最後の一人になるまで止まらない」

「………随分と、信頼しているんだな」

「信頼というよりは、経験だな。どれだけ大勢と当たろうと一撃を喰らおうと、いつも最後に立っていたのは………あいつだった」

 

 結果がわかりきっているから止めない。

 そういった行動を当然のように取れるのは、それこそ過去の経験が築いた信頼ではないだろうか。

 照れ隠しで、あえて素っ気無い言い方をしているのかもしれない。

 

 付き合いが長い関係にもたらされるパターンは二つある。

 信頼や依存を丸出しにする前者。

 それらを表面上ひた隠しにする後者。

 

 ………どう考えても、こいつらは………後者だな。

 

 熟年夫婦(タイプ)ってところか、とあまりに二人に似つかわしくない答えに千夜は笑いを堪えつつ、

 

「そうか………それで、お前は何でここにいる? 出来ればもうしばらくそっとしておいてくれないか? お前の腐れ縁男のおかげで最近は家に

帰れないから、ホテル巡りで疲れているんでね」

「いたたまれんばかりの話だが………俺には、あそこに加わる理由はなくても此処にいる理由(わけ)があるものでな」

「…………手短に頼むよ」

 

 そう答えると、昶は少し目を見開いた。

 意外、と顔が言葉なく訴えている。

 

「あしらわれると思ったか? そんな面倒なことはしない。………お前らみたいなのには、さっさと答えて気の済むようにさせてやるのが良策だ」

「………呑み込みが早くて助かる。理由は………まぁ、ウマイことチャンスが転がってきたからだ」

 

 隣接する椅子に腰を下ろし、

 

「一度、あんたと腹を割って話したかったんだ。そのためには、今がまたとない絶好の機会だろう?」

「確かにな。………それで、腹を割って私と何を話したいと?」

 

 めんどくさい心境を隠しもせずに態度に表しす千夜に、動じないのか昶は木に触った様子も気にすることもなく視線を一点に向けた。

 

「そうだな、いろいろあるが………強いて言えば」

 

 その瞬間、場の空気が一気にピンと糸を張ったように鋭くなり、

 

 

 

「あそこにいる男について、とかな」

 

 

 

 喧騒漂う食堂に、僅かな静寂の空間が発生した。

 

 

 

 

 

 








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