自らの教室で2−Dのクラスメイト達が動き出したほぼ同時刻に、蒼助はそんなことは露知らずで屋上にいた。
教室を出た後、追跡目標の千夜の捜索は一旦諦め、煮詰まった苛立ちを昇華すべく休息の場所を求めてここへ来たのだった。
金網の柵まで歩み寄り、背中を寄りかけて空を見た。
お世辞にも爽快とはいえない蒼助の心情に対するあてつけの如く、四月の空は晴れ晴れとしていた。
気晴らしに、と見晴らしのいい場所へ来てみてが、溜まった鬱憤は晴れるどころか返って煽られるばかりな気がした。
ガシャンっと乱暴に少し浮かせた背中を金網にぶつける。
しかし、その荒い動作は蒼助の苛立ちを晴らすことは出来なかった。
「………今日で駄目なら、これで三日目か」
三日前、蒼助は少し悪ふざけが過ぎて千夜と拗れた。
その拗れが三日と続く千夜との仲違いに発展し、休みが明けて学校が始まっても千夜は蒼助に会話させる隙すら与えず、避け続ける。
埒の明かないこの追いかけっこに不満を溜めているのは千夜だけでなく、追う側の蒼助とて同じことだった。或いはそれ以上かもしれない。
もともと、蒼助は短気な性分である。
物事が順調に進展しなければ、すぐに苛立ち、それがわかりやすく顔に出る人種だ。
苛立ちとは人から冷静な判断力や精神を蝕む。
最初は己が悪いと思って謝ろうとしていた蒼助の思考は、次第に理不尽な怒りに変わり、それぐらいのことで何でここまで避けられなくきゃならん
のだ、という逆ギレ思考に変貌を遂げていった。
そして、今は開き直り上等な具合とまでになっていた。
「ちっくしょ、あのアマ〜………今日という今日は縛ってでも、絶対にとっつかまえて家に連れ戻しちゃる」
「―――――――麗らかな昼時に、ナニ物騒なコト口走ってんだ?」
危険な眼差しで野望に燃える蒼助の耳に、聞き覚えのある声が響いた。
声の方を見やれば、屋上の出入り口の後ろから蒼助が知る人影が現れた。
「蔵間さん……? 何してんすか、そんなところで」
「昼ときたら俺には、コレだよ、こーれ」
と、言いながら歩み寄ってくる蔵間は、指先に挟んで見せびらかしてみせたのは先端から煙が立つ一本の煙草であった。
どうやら、一服中であったようだ。
再びそれを口に銜え直しながら、
「しっかし、お前のおかげでここはお前以外のヤツがほとんど来なくなったからなぁ。今じゃ、コレするには絶好の穴場だぜ。
ありがとよー」
「…………ンなことばっか言ってっから、教員の古株連中から睨まれんだぜぇ?」
「ハッ」
それがどうしたとばかりに、蔵間は声を立てて笑う。
この枠に嵌らない姿勢が、人の好意を集める。
蒼助も例外ではなかった。
そういえば、と思い出す。
この屋上で、入学して間もない頃に当時この場所を取り仕切っていた上級生達と争い、結果全員を病院送りした時も、庇ってくれたのは蔵間だった。
無論、最初はただただ驚いた。
国家機関の総帥たる恩師が、入学した先の高校で教師をしているなどと想像するわけもなかった。
学園の理事長と旧知の仲らしく、蒼助が入学する一年ほど前から雇ってもらっていたという。
奇妙な偶然の再会の後、己の差し伸べた手とも言える組織の辞めた蒼助に、蔵間は少しも態度を変えず接してきた。
『よぉ、またよろしく頼むぜ。ただし、学校じゃ先生だからちゃんと敬えよ?』
屈託なく笑う姿に、あの時、蒼助はまた救われた。
その時、ようやく、だった。
心の何処かで張っていた意地が溶けてなくなり、彼に対する敬意を認めたのは。
そうして、蔵間は『お節介な兄貴気取り』という認識から、蒼助にとって数少ない気の許せる大人として見れるようになっていった。
いつかこうなりたい、と男として羨望を向ける相手とも。
「いっつも言ってんだろ。睨みたきゃ睨ませときゃいいんだ。連中のいう"良い教師"ってのは、俺みたいな"悪い教師"がいなきゃ目立たねぇだろ?」
「くっ、違いねぇな」
銜えた煙草を一度大きく吸い、肺に溜めた煙を吐き出す蔵間。
「ふぅー…………ところでよ」
「何だよ」
「最近お前、ウチの転校生相手に所帯持とうって話は本当か?」
所帯、という部分に蒼助はまずガクッと来た。
そして、一歩引きながら、
「な、何で知ってんだ!?」
「わからいでか。見かけるたんびにお前ら追っかけっこしてるんだから、気づくなって言う方が無理あるだろーよ」
記憶を手繰れば、確かに最近はそんなことばかりだった。
蔵間の手が、蒼助の収まりの付かないツンツン跳ねた髪をクシャクシャと掻いた。
「まぁ、季節もちょうど春で、お前にもそーゆーのがやってきたわけだ。俺は嬉しいぜ、下半身は風来坊だった弟分がようやく身を固める気になったん
だからよ。がんばって、落としな」
「だぁっ、よせって。………………それが出来たら苦労しねぇよ」
「あん?」
「なんでもねぇよ。……俺にも、一本くれ」
「教師に向かって………と言いたいところだが、今回は小言は無しにしてやるよ。俺からの祝いだ。ほれよ」
気前よく渡されたそれに、差し出されたライターの火を掠める。
「くは。久々だぜぇ…………」
久しく感じるその独特の不健康な感覚に身悶えする蒼助に、蔵間は目を丸くした。
「何だよ、ご無沙汰だったのか? 何でまた……」
「今、ちょっとゴタゴタしてるんで。買う暇も吸う暇もねぇ」
「仕事か? 煙草買いに出る暇もねぇくらい厄介なもんなのかぁ?」
「仕事じゃねぇけど…………まぁ、厄介っちゃー……そうだわな」
溜息混じりの煙をブハーと吐き出す。
「三つくらい同時進行しなきゃなんねぇのよ、これが。しかもどれもかなりの難関モノでさ」
「そりゃ厄介だ」
「………そんで、そのうちの一つが他のと違ってちっとも進まねぇ。つーか、わかんねぇ」
「わかんねぇ? 何がだ?」
「…………クイズ。調べようにも曖昧過ぎて何の資料で調べりゃいいかわからねぇし。考えたところで俺には検討もつかねぇ。かと言って、後回しにしようにも気になって仕方ねぇんだよ……くそ」
苦悶に顔を歪ませ、前髪を荒々しく掻く。
口にしたらまた思い出してしまった。
「………クイズねぇ……それってどんなだ?」
「由縁ある雑歌。これだけじゃ……」
「由縁ある、雑歌…………―――――――万葉集か?」
「はっ!?」
ポツリと、重要なことを呟いた蔵間を蒼助は思わず見入った。
蔵間はニッと笑い、
「万葉集、巻十六【由縁ある雑歌】。俺の担当教科、言ってみろよ」
「……今初めて、教師って人種を尊敬しましたっす」
散々悩んでいた問題をこうもあっさり解決されても微妙な気分だが、とまでは出ないように口を絞った。
ようやく、解決の糸口を掴みかけた蒼助はすかさず、
「で、それって何なんだ?」
「竹取物語の原型ともいうべき竹取説話が所載されている一巻のことさ。まぁ、原型云々には否定意見もあるんだけどよ」
「竹取物語って?」
その問いの瞬間、蔵間の表情が変わる。
落胆と呆れが混じったような表情であった。
半目を蒼助に向けたまま、
「お前………中学と高校で習う教材だぞ。つーか、俺、一年の時に教えたんじゃないですかね、居眠り常習犯」
「…………あ、はは」
無論、覚えているわけがなかった。
「ったく、それでよく進級できたもんだなぁ………"なよたけのかぐや姫"、つったらわかるだろうが」
「あ……かぐや姫。そうか………」
これが、黒蘭の出した問題と自分の疑問の答えなのか。
しかし、納得しかけたところで新たに疑問が蒼助の中で浮上する。
そうだというのなら、千夜の呪いがかぐや姫とどんな繋がりがあるというのだろう。
沈黙する蒼助を見て、蔵間はその様子をどう捉えたのか、
「………おい、まさか……かぐや姫がどんな話かも忘れたなんていうんじゃなかろうな」
「いや、まさか。えーと、じーさんが竹取りに行ったら、竹が光ってて、それを切ったら中が女の子が出てきて。それを持ち帰ってばーさんと育てると
………紫の上計画?」
「………………」
「じょ、冗談! だからそんなカワイそうな子供を見るような悲壮な眼差しを俺に向けるなぁぁっ!」
冷たい視線に耐え切れず、頭を抱えて絶叫する蒼助。
そんな出来の悪い教え子を捨て置いて、蔵間は話を進める。
「……まぁ、日本最古の物語と名高いこの竹取物語だが………なぁ、知ってるか?」
蹲ってガタガタ震えていた蒼助に、蔵間は唐突に言い切った。
「―――――――この話、"実話"なんだぜ?」
◆◆◆◆◆◆
兄貴分の発言に蒼助は面食らった。
突然何を言い出すのだろう、と訝しみ、
「………なんか、辛いことでもあったのか?」
「言ったな、てめぇ後で覚えとけよ。………言っとくが、俺はマジな話してんだ。考えてもみろ……俺たちの世界は、表の世間が有り得ないと否定する
超常現象や怪奇が"有り"と定義されるナンデモごされな代物だぞ? だったら、どう考えても作り話しか成りえないモノが、本当にあった話として
あっても不思議なことは全くないだろうが」
妙な説得力がある蔵間の言葉に、考えを見直し、
「………じゃぁ、かぐや姫は本当にいたってのか? 月から地上に降りてきたってのも?」
「聞いた話に寄れば、多分な」
説得力があるときたら、今度は曖昧ときた。
拍子抜け、少々肩を落としながら、
「……どっちなんだよ」
「俺を責めるな。千年も前のことに起こったことに確証つけろなんて無茶な話だ。そもそもどんな実話だって時が過ぎちまえば昔話にも言い伝えにも
ならざるえねぇものだぜ。微かな確証の素になるとしたら、お前んトコの【スサノオ】だろうが」
言われてみて、蒼助は気付いた。
実家にいるあのスキンヘッドも、伝承の中に存在する者であったのだ。
あまりに現代に馴染んでいたことと、その装っている外見のギャップから最近ではすっかりそのことを忘れてさえいた。
千年よりも遙か昔の日本神話のカミが現代にいるくらいなのだから、蔵間の言うとおり、幻想に満ち溢れた竹取物語が実在の話であっても
おかしくないかもしれない。
そうして、蒼助の中で疑念は段々と薄れてゆき、
「………まぁ、そう考えるとアリかもしれねぇな」
「そう深く考えなくてもいいから、次行かせろよ。ここからが、面白いんだから」
「何だよ、面白いって」
「教師としては是非とも知ってほしい"正規の"竹取物語さ。実のところ、一般で知られている竹取物語ってのには一部脚色が入っててな」
「………脚色?」
「まぁ、グリム童話みたく年齢規制にひっかかるというよりは、一般人に受け入れやすいように一部を安易な形に置き換えたくらいなんだけどよ」
「…………で?」
促すと、応えるように蔵間は先を続けた。
「元は発生がこちら側なだけに、かなり伝奇な話だったんだなこれが。
一つは―――――――帝や男たちが、何故かぐや姫を求めたかについて、だな」
「絶世の美女だったから、じゃ」
「ここでまず違うのは、かぐや姫が天人であることが最初から知られていたという点だ。そして、それを知る男たちの目的もまた違っていた」
「…………?」
「―――――――天女は奇跡を引き起こす力を持っていた。だから、時の権力者であった男たちは欲したんだ」
奇跡?と疑念混じりに呟けば、応えはすぐに返ってきた。
「まぁ、それも一種の異能だったらしいが………いや、異能なんて言葉で片付ける程度のレベルじゃねぇな。そのあたりは具体的に記されていない
らしいが、神の御業と呼ばれるくらいだ。権力者どもには、涎ものだったんだろうよ………その奇跡とやらには、【不死】だの【天人の加護】だのを
匂わされているしな」
「不死………加護………」
「その通りだとしたら、欲深い連中には魅力的な品だろ?」
煙を空に描きながら、
「話にもあるあの無理難題もそうだとしたら、納得がいくってもんだ。必死だっただろうな、道具にされる運命から逃れようと」
道具、という言葉に蒼助は己の心が過剰なまでに反応したのを感じた。
人から"道具"に貶められる。
数日前に盗み聞いた黒蘭の科白の中に、含まれていた言葉だ。
まさか、と蒼助の脳裏に確信の前兆のようなものが過ぎる。
だが、そう判断するにはまだ材料が足らない。
「まぁ、そんな時だ。月からの使者が来た。これ以上に無い、まさに天の救いなわけで。かぐや姫は月に帰っていきましたとさ。
……………一つ、置き土産を残して」
「置き土産?」
「物語では、不死の薬と天女の羽衣とされているが…………事実はモノではなかったらしい」
「モノじゃないなら、何だってんだ」
問いに対する反応はすぐには返らなかった。
不思議な沈黙が間として漂い、そして、
「―――――――"呪い"だ」
―――――――カチ。
それを聴いた瞬間、まだまだ未完成なパズルが、急激な速さで空いたスペースに次々とはめ込まれていく。
「かぐや姫が残していったのは、呪いだった。だが、それは権力者たちに向けてのものじゃなかった。
………自分の【代用品】をつくる為のものだった」
「身代わり………って」
「地上に放ったその呪いは、この世界の何処か、誰か一人の女に憑いてかぐや姫と同じ力を与えるもんなんだそうだ」
「何で……そんなもんを」
「わからねぇ。………後に残された育ての親であるじーさんばーさんに責任の追及がいくことを防ぐためか。それとも……自分と同じ苦しみを
他の女どもにも与えてやりたかった性悪な考えなのか。どっちにしろ、かぐや姫はとんでもねぇ争いの火種と呪いを受けた身代わりの女に災難を
残していきやがった……とさ」
言葉の途切れ。
どうやら話の終わりを示していたようだ。
「まぁ、これが竹取物語………本当のかぐや姫のお話だ。勉強になっただろ?」
「………実話ったって………大昔のことだろ。なんかピンとこねぇよ」
「ああ、俺もそう思ってた。こっからそのかぐや姫の奇跡っていう部分だけ抜粋して、一つの伝説になってんだよ。……かぐや姫の呪いを引き継ぐ女
を手に入れた者には、覇権と神女の加護を約束される……ってな。女一人にどんだけスケール盛り込んでんだよって……」
「……思ってた、って?」
過去形なことが妙に引っかかった。
それではまるで、今は信じているというように聞こえたのだ。
蔵間は蒼助のその素朴な疑問に答える。
まずは、前置きだった。
「……最近、な。ひょっとしたら、マジな話なんじゃねぇかなって思うようになったんだ。かぐや姫が実話だって話も、もしあったら出来過ぎな伝説も」
「はぁ?」
「まぁ、聞け。近頃、降魔庁で東京から妙な思念波を拾うようになったんだ」
「思念波って………魔性の、だよな?」
「多分な。正確に言えば正体不明だが。……わかることといえば、どっかで強い力を持った奴がいる。
そいつが、毎日毎日街のどっかで同じ思念を飛ばしてやがる。
―――――――"かぐや姫、何処におられる"ってな」
「―――――――」
「他にもいろいろかなり肉欲的なポエムを拾ったりしているが、真昼間から口にしたくはねぇな。ちなみに、何故かこの渋谷区に集中している。
おそらく一体、じゃねぇな………最初はそうだったかもしれねぇが日に日にどんどん増えている。まるで……情報が感染しているみたく拡大して
やがるよ……………ん? どうした?」
心此処にあらず、という言葉を表すような様子で視線を虚空に漂わせている蒼助を、蔵間が訝しむように眉を顰めた。
「おい」
「あ………何すか?」
「何ボケッとしてやがる」
「……いや、何でも………」
蔵間の追及に蒼助が言葉を濁した時、チャイムの放送が流れ、響いた。
昼休みの終わりを告げるそれを聞き、
「鳴っちまった」
何気なく発した蒼助のその言葉が、この場の幕切れの合図となった。
「次は何だ?」
「古典………って、アンタの授業じゃねぇか」
「……あれ、そうだったか?」
「しっかりしろよ教師……」
そう言うなって、とばつが悪そうな苦笑いを浮かべつつ、
「お前こそ、俺の授業くらいちゃんと出ろよ」
「へいへい」
蔵間はそうしてしっかり釘を刺して、歩き出した。
それをちらり、と一瞥して蒼助は背を向けた、が―――――――
「なぁ、蒼助」
不意に蔵間の声が背にかかる。
「引っ張るようだけどよ………もしもこの、竹取物語が実話だとしたら……なんとも救いのねぇ話だよなぁ?」
何故、と問う前に蔵間が答えを放つ。
「本物は月の使者に助けられて故郷という逃げ場があった。けど、代用品の女には救いの手も無ければ、逃げ場もねぇんだからよ……」
バタン、と重苦しい音が響く。
蔵間が今度こそ去った音だ。
響いた後に残るのは、蔵間が蒼助の胸に打ち込んでいったもう一つの釘だ。
打ち込まれた釘は、じわりじわり、と沼に沈むように胸に深く刺し込まれていく。
鈍い痛みが徐々に効いてきた。
『代用品の女には救いの手も無ければ、逃げ場もねぇんだからよ……』
先程聞いた時よりも、重く響く蔵間の言葉。
「あの女……このことが言いたかったのか?」
謎かけの果てに辿りついた答えは、事実の突き付けだった。
黒蘭が謎かけを通して蒼助に教えたかったのは、呪いの正体だけではなかったのだ。
代用品の運命と、それ対して蒼助自身に何が出来るか。
課せられた五日間という期限にどれだけのものが掛かっているか。
蒼助はそれを今、痛感した。
一人の女の存在が、これほどまでに重いと感じたの初めてのことだった。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――御苦労様」
職員室に教材を取りに行き、教室に向かおうと階段の広場へきたところに、蔵間の背後から声が掛かった。
何の前触れも予兆もないそれに、蔵間は驚かなかった。
相手が誰かはすぐにわかった。
「……あんたか。つーか、後ろから現れるっていうシチュエーション好きだな、ほんとに」
「キャラに合ってるからいいでしょう?」
恥ずかしげも無く言ってくる相手に、蔵間はそれ以上突っ込まなかった。
これまでの経験上で無駄な労働であるとわかりきっていた。
「で、わざわざ俺に労いの言葉をかけに珍しくいらっしゃったんですか?
―――――――"理事長"」
とってつけたような敬語を繰りながら、蔵間は背後の女を振り返った。
腰まで伸びた漆黒の髪と豊かな胸を強調した黒いスーツをまとうスラリと伸びる肢体。
そして際どいミニスカ。
絵に描いたような『若い女権力者に扮する存在』を見た。
「それもあるけど……たまには、自分の経営する学園に来ないと職務怠慢じゃない?」
「実際に仕事してるのは、あんたの右腕だろうが」
今頃、目の前の女が怠った書類と切磋琢磨で格闘している秘書の巨男に憐憫の情を送っていると、
「……貴方は何も言わないのね」
「はい?」
「……貴方の弟分を巻き込んでいること」
先方の言葉に対し、蔵間は一息おいて己の意思を返答した。
「あいつは自分から行ったんだろ? 巻き込まれる、なんて無様な事にならなかったんならいい。部外者である俺が水を挿すような無粋な真似は
できねぇし、する気もねぇよ」
「あら、あまり大事にしていないのね」
「大事に思ってるぜ? だが、必要以上に過保護になるのはタメにならねぇ……だろ?」
返した言葉に、相手はクスリと笑い、
「どっしり構えているわね。【あいつ】とは違って………」
暈して口にされた存在に、蔵間は眉をピクリと動かした。
僅かな反応の変化を見逃さなかったのか、『理事長』はわざとらしく溜息をついた。
「同じ保護者でもこっちは過保護丸出し反抗心丸出しよ。まぁ、イジリ甲斐があるから別に特に文句があるわけじゃないけど」
「………何なんだよ、じゃぁ」
これじゃぁ反抗もしたくなるはずだなぁ、と【六年前から姿形が己の中で停滞しているもう一人の保護者】に同情した。
それと同時に、出来るだけ意識しないようにと胸の内に押し込め続けていたモノを再度意識してしまう。
いかんいかん、と再び押し込めようと悶々とするが、いややはり、と考えを切り替え、
「……なぁ、俺との"約束"、覚えてるか?」
「もちろん」
言っとくけど私はした約束には律儀よー?と含み笑う。
「あと二日で全てが決まるわ。その時、約束通り……教えてあげる。
―――――――この東京の何処かにいる貴方の"元恋人"の居場所を」
「……ようやく、か」
言葉にし、尚一層事実を感慨深く感じた。
「ま、貴方も自分の弟分に期待していなさい」
それを最後に返事は返ってこなくなった。
気配も、もう無い。
学園内の自分の部屋に帰って、自分の仕事を押し付けた相手をからかい倒しているのか。
それとも何処かで"通常の姿"に戻ってフラフラしているのか。
俺にはどちらでもいいことか、といなくなった相手のことはそこで思考から切り捨てた。
「あと二日か……」
呟けば記憶が目の裏で一気に駆け巡る。
あの女との約束が始まったのは、いつのことだっただろう。
考え、思い出す。
あれはもう四年も前のことだ、と。
『あの日』を境に姿を忽然と消していた者は唐突に自分の目の前に現れ、話を持ちかけた。
『ねぇ、取り引きをしましょう? 簡単よ。貴方はただ、沈黙していればいい。静観していればいい。あのコという存在から目を逸らし続け、
無いモノと己に言い聞かせ続ける。とりあえずのところ、私からの要求はただそれだけよ』
取り引きの天秤に『あの日』に永遠に失ってしまったかと思われた己の最愛の者が掛けられれば、頷かない理由はなかった。
自分は結局、権力者ではなく只の男だったんだな、と躊躇無く了承したあの日の自分を振り返り、蔵間は苦笑した。
やっとだ。
念願の想いは、あと一歩で叶う。
「頑張ってくれよ、蒼助」
奇しくもその鍵を握る立場となった己の弟分に対するエールを口にし、蔵間は一度は止めていた足で再び階段を上り出した。