深夜も眠らない都市を一見できる高層ビル。
その頂上の、風荒ぶ途方も無い高みに立つ―――――――人影があった。
夜闇に溶け込みそうな長い黒髪が照明に存在を明かされ、奔放な風にされるがままに弄ばれる。
持ち主の少女は好きにさせておき、自身は立ち位置から見渡せる広大な近代都市の夜の姿を静かに静観していた。
「奇妙な画ね。……夜の光とは、空から降り注ぐものであったはずなのに、いつの間にか地上から放たれるものになってしまったわ………」
降り注ぐものとは、月明りである。
しかし、今、都市と人に光を与えるのは科学という自然ではない力により作り出されたエレキテル。
人にとっては当然として受け入れられる光景であるに違いないが、古き時の世界の姿を知る過ぎ去れない者達の目にはそれは摂理に背いた歪な産物に
過ぎなかった。
「これだけの光がを駆逐する都市でも、巣食う闇は尚深いだなんて…………本当に、おかしな話」
「―――――――所詮、ヒトの手によって生み出された世界に背を向けた嘘偽りのモノです。同じ歪なモノとして逆に住処とされているのでしょう。
………まったく、何たる様」
「あら、おかえりなさい」
少女の背後の奥の影から現れた巨体の男は、只今戻りました、と一言断って隣に並ぶ。
「……何度見ても、この強すぎる醜悪な光は慣れることはできませぬな。まるで、作り手そのものの悪性を顕しているよう……」
「相変わらず頭の固いこと………違和感に慣れれば綺麗なものじゃない。闇の中でキラキラとして………」
「こんなもの、崇高なる天上の月に対する侮辱です」
足元にも及びませぬ、と街の光から顔を顰めながら、目を背ける。
「アンタの人間嫌いにも困ったものね…………自分だって"元は人間だった"くせに」
「既に終わった、昔の話です………」
男―――――――上弦は己の過ぎた過去からも目を逸らすように目を閉じた。
そこに何があったか、彼がどういった経緯を以ってして今に至ったのかを知っているが故か、黒蘭はそれ以上言い募りはしなかった。
「………まぁ、アンタのいうことに一理あるわ。歪な光に溢れ満ちた此処は、魔なるモノどもには恰好の隠れ場所よね………あの蛙野郎にも」
「…………二日前の一件以降、何も手出しはしておりませぬな」
「ええ。アレも、手下使ってやったんでしょうけど…………今頃、ここから下々を眺めるような気分でいるんでしょうよ、高みの見物ってやつを」
「しかし、【奴】は一体何のつもりでマンションを………」
「私を見てぇ〜ん、ってやつでしょ。あのコに対する挑発のつもりで、彼に手を出そうとしたみたいだけど………留守にしていたのは、想定外だった
みたいね」
「小僧を狙ったわけでは………?」
「無いわね。奴はもう、眼中においてないわ………自信がつくだけの力がついたこということかしらね」
ふぅ、と一息。
黒蘭は強かに笑う。
「……ま、今に見ているがいいわ。目にモノを見せてやるようにしてみせるわ。上弦、彼はどう? 順調かしら?」
「………………」
伺う言葉に、上弦の答えは無言であった。
黒蘭は、この己の言葉への対応に、不安というものを感じはしなかった。
今の彼の場合、それは寧ろ、
「………順調、みたいね」
「何故そう言えますか」
「だって、ムカつくんでしょ? 思った以上の成長ぶりに」
図星であったのか、上弦は厳しい顔を更に険しくした。
そして、苦々しく言葉を零し出す。
「……初日にして、死亡回数五十九であったのを、本日は終了までに十九回に減数。下崎殿の指導により、肉体再構成の為の霊力操作も下崎殿の補助
なしで可能に。……濁す部分があるとすれば、結界の構成に手間取っているぐらいでございます………」
「なに残念そうにしてんのよ。主君のためなら、如何なる苦汁も飲むんじゃなかったの?」
「………飲みますが、顔に出さないとは言っていませぬ。あの小僧、生意気にも私の腕を一度とはいえ傷つけるとは。………明日をもって、"遊ぶ"のは
止めます」
「……大人げないわねぇ」
明日は一層苦しくなるだろう、と此処にはいない男を若干憐れに思い、一瞬で思考を切り替えた。
「ところで、千夜は?」
「昨夜と同じく今夜も………おいたわしや」
「ああ……またなの。………あのコもよくやるわね、"ヨソ"じゃちっとも眠れないのに」
付いた溜息は強風に掻き消された。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――あなたは、弱くなった方が良いわね」
唐突に、しかも奇妙な発言。
それは、自分が今剥いてやったウサギの形に切られたリンゴを機嫌よく齧っていた口から飛び出たものだ。
一瞬その言葉に呆気に取られ、次に内に到来したのは不可解、という三文字で表せる戸惑いだった。
顔でそれは充分表れただろうが、目の前の人は平然としている。
私は真面目に本気だ、と伝えるかのように真顔を突きつけて、
「ねぇ、弱くなった方がいいわ」
「……ねぇ……って………あんた、また何わけのわからないこと言い出すんだ?」
「何ソレ、不愉快な言い様だわ。まるで私が奇言を日常茶飯事のごとく連呼している変人みたいに聞こえるじゃない」
「聞こえるとおりだ、奇言の源。今度は何だ、どんな言葉遊びだ」
そう言いながら、もう慣れたものだな、と言葉とは別のことを思う。
出会って最初の頃は、このいつも突然な目の前の人の脈絡ナシの自由気ままな発言に翻弄されたものの、今ではすんなり受けいれられるようになった。
しかし、対応が気に入らなかったのか、相手は無表情にムスッと眉間に皺を刻み、不機嫌を形作った。
「遊び? 私がいつ、そんなことをしたというの」
「いつもだろ。己の言動を振り返って、出来れば自覚してくれ。反省しろとは言わないから」
正確にはしないだろうから期待してない、とまでは言葉にしなかった。
そうなると修正不可能なまでにこの人物は臍を曲げるのが見えていたから。
「気に入らないわ。何でいつの間にか私が怒られる立場になっているのかしら。私は、貴方に助言をしたはずなのに、怒られている。
おかしいわ。謝りなさい」
「………あんたの逆切れに関しての反論は置いておくとして、まず最初の言葉の意味を教えてくれないか。
というより、教えてください………”お母さん”」
敬語に言い直しただけではない足りないだろう、と『切り札』を発動させる。
読みは当たったとおり、ぐぐっと『母親』は弱いところを付かれたように口を結び、
「……仕方ないわね。お母さんだもの、わからないことは子供に教えてあげなくてはならないわ。それがお母さんのだもの」
『お母さん』という単語を連呼しながら、照れたように頬を赤くしている。
何度かの経験で、やはりそう呼ばれるのは、顔にあからさまに出たりはしないが嬉しいらしいということがここではっきりとわかった。
むしろ、普段の淡白すぎる態度に比べれば、ほんの少しの変化でも大きく違いは浮き彫りになる。
「お母さんは優しいから教えてあげるわ。でも、言葉通りよ。あなたは今後のためにも………何処かで弱くなった方がいい」
「……何でだ」
「―――――――あなたは、強いから。心も、力も」
それは利点ではないか、と反論が自然と出た。
だが、常識をもって頭っから否定という、目の前の非常識に対抗しよう意識を持つなど無駄であることは知っている。
だから、順を追って、ゆっくりと話を進めていこうと試みた。
「………当たり前だ。強くなりたくて、なったのだから」
「知ってるわ。あなたが弱いことを嫌っていることも」
「なら、何で………」
「ねぇ………人は自分一人で生きて行けると思う?」
唐突に今度は質問ときた。
言いだしっぺである以上、このペースは【彼女】のものである。
下手に乱すと再び臍を曲げて面倒なことになる。
それは嫌だ、と自分を押し殺し、【彼女】のペースに従う。
「………思う」
「残念。正解は、―――――――【出来ない】」
「………出来る」
「出来ないったら出来ないの。かくいう私も、昔は貴方と同じように思っていたけれど」
【彼女】は目を伏せた。
ここではない過去の何処かを見ているのだろう、と虚ろが漂う瞳で察することが出来た。
「でもね、一人で生きていくって思っていた以上に難しいことに気付いたのよ。最初は、周りには私以外の人がいっぱいして、どう足掻いても一人きり
になれないから思っていたけど、それが間違っていることに気付いたわ。周りに誰か別の人がいるということが、心のどこかで当たり前と感じている
から、本当に独りきりにされてしまったら…………きっと、寂しいという気持ちを無視できないって」
「そんなことは………」
「ないって、どうして言い切れるの?」
台詞を途中で、先取られ少し口ごもる。
「……俺は、平気だ」
「本当に? もし、今私がこの場から突然いなくなったら…………淋しくは、思ってくれないの?」
「…………………………思わない。あんたに拾われる前に戻るだけだ」
「今、間があったわ」
「思わせぶってやっただけだ」
「本当にそうなら、もっとそっけなくして、即答するものよ」
「…………っ」
しまった、と自分が失敗したと気づいた時には、目の前の仕掛け人は、既にしてやったりと眠そうな目はそのままにニヤリと口端だけを上げて
笑っている。
他人に優位に立たれるというのは、それだけで腹が立った。
こんなに風に簡単に他人に揚げ足をとられるようになってしまった自分にも。
「大人ぶっても、やっぱり子供ね。すぐ表に出る。でも、そういうところ―――――――お母さんは、すごく好き。………あと、嬉しい」
伸びた手が頭の後ろにまわりこみ、軽く引かれる。
それだけで顔は【彼女】の豊満な胸の中にストン、と落ちた。
胸に抱きこまれる―――――――顔を突っ込んだ状態になる。
大抵の男は、ここで顔を真っ赤にして、所謂欲に走りかけたところを理性にしがみついて暴れるものなのだろう。
しかし、千夜にそんな衝動は無い。
むしろ湧き出るのは、安堵という穏やかな細波の立つ気持ちであった。
好き。
そう言われて、【彼女】が触れて、かつてない充実感が心を満たす。
渇いていた心に水を注がれた。
少しずつ少しずつ。
そして、居座りの悪い違和感から安堵へ変わったこの感覚。
これが、心が充分に潤いに満たされた状態なのだろう。
「あなたの意志はあなたが使う刀みたいね。行く先を切り開く強い意志。そんなものを持つあなたを子供に持ったお母さんはとても幸せだわ。
………でもね、強いからこそなのよ。あなたは……弱くなった方がいい。折れた方がいい。自分で折ることが出来ないだろうから、誰かの手で
折られた方がいい」
胸の中で、顔を顰めた。
折角いい気分だったところを、歓迎できない話ですっかり害された。
どうしてこの人は、自分が嫌なことを今回に限ってこんなに強く粘り強く話すのだろう。
そう思って、顔を胸から見上げる。
そうしたら、思いの外【彼女】は優しい笑みを湛えていて、不意打ちに怯みそのまま固まってしまう羽目になった。
「強さっていうのは、弱さを知らなければ手に入れられないもの。あなたは、だから強くなれた。自分が弱いという事実を、
誰よりも受け止め理解していて許せなかったから。…………でも、それではそこまでなのよ。一人では、どうしても限界がある」
視線を重ね合う【彼女】の目に翳りが過ぎった。
【彼女】自身がかつてその限界を知ったということを、それを苦く思い出しているのだと察した。
「一人じゃ強くなれないことはないけど、限界まで来たらもうそこまでなのよ。ぶつかった限界の壁は、一人では破れない。
……それでも、強くなりたい。そうだとしたら、どうすればいいと思う?」
答えることが出来なかった。
かつてこれからは一人で強くなって一人で生きて行けるようにするのだ、と誓った時からそうした考えをずっと持ち続けてきた。
だから、一人でやることに限界があるなら、それ以外のどんな方法をとればいいのか、わかるわけがなかった。
困惑した心境が顔に出ていたのか、それとも勘の鋭い【彼女】は自然と察したのか、
「わからないわよね。それでいいの。一人で強くなった人は、わからないものだから。私も、そうだった…………でも、今はもうわかってる」
「何が、わかったんだ………?」
「言ったはずよ。弱くなるの。誰かの手で、一度意志を折られて……また、最初のゼロからスタートするのよ。もう一度、強くなるために」
「……それではまた、限界に辿りつくだけだ」
「心配要らないわ。その時……今度は、一人じゃないもの。あなたの意志を………弱くしたその人と、二人で強くなるのだから。
二人でなら、その壁を越えることができるから」
「俺を、弱くする相手と………」
その言葉が理解できずにいると、【彼女】はクスリと声を小さくたてた。
「おかしい、自分から強さを奪った相手とだなんて……と思ってるのね。でもね、一人で強くなった人が弱くなる時というのは、
誰かを好きになって心を許す時なのよ」
「誰かを好きになると、弱くなるのか?」
「ええ、そうして得る安堵が……隙を生み、弱さを生む。だからと言って、相手を突き放してはダメ。それじゃぁ、前と何も変わらないもの。
ここで間違えてはいけないのは、自分一人でその人を守ろうとすることではなく―――――――いっしょに、強くなろうとすること」
「相手と、二人で? ………無理だ、どっちかがどうせ足手まといになる」
「………何かそういう覚えがあるの?」
余計なことを口走ってしまった、と焦り、何処か苦い口を閉ざす。
そして、思い出し、気付く。
二人でいたこと。
そういう誰かがいたこと。
それが、今の自分の始まりにキッカケであったということに。
「嫌な思い出なのね。ごめんなさい、思い出させて。………でも、聞いて」
「……俺は」
【彼女】の言葉が上手く耳に届かず、それを良い事に自分の気持ちを吐露した。
「………なりたくなかったから、一人で強くなろうとしたんだ」
「…………」
「………なのに、あんたはその俺に……そんなことを、言うのか?」
「…………言うわ」
【彼女】は笑みも消して、まっすぐに見透かすような眼差しを向けた。
見透かしているのだろう。
そして、その上で酷い肯定をしたという事実が、ショックだった。
「………どうして」
「一つ、あなたは大きな間違いを犯しているから」
「まち、がい……?」
「そう。あなたが………たった一度の失敗でダメだと決め付けていること。あなた以外の人は、その人だけじゃないのよ? それこそ、この世界には
溢れるほどの他がいる。出会いの無い人生はないって言うように、出会うことがないなんてないくらい他人がいる・………でも、貴方の隣を歩ける人は
一人しかいないから、その一人をこの世界から見つけ出すのは………難しいのよね、とても」
不意に、【彼女】の顔が落ちてくる。
旋毛あたりに落ちて、そこに埋まった。
「難しいけど、諦めちゃダメ。たった一度の失敗で、一人になろうと諦めるなんて、私は………お母さんはそんなの許さないわ。
そんな風に弱くなるのは認めない。あなたが弱くなるのは……誰かを好きになる時だけよ」
いつの間にか制約がつくられているのにも気にならず、黙って【彼女】の話に耳を傾けた。
「私の子供は、魅力的だからたくさんの人が群がるでしょうね、きっと。でも……あなたは不器用で運が悪いだから………多くの人が過ぎ去るのだわ」
「………なら、どうしろと……」
「痛くても辛くても、待つしかないわ。私も、あなたほどじゃないけど……待った。辛いということを忘れたくなるほど絶望した。
いつしか、自分が何を待っているかも忘れても………でも、待つしかない。世界でたった一人、自分の前を過ぎ去らない相手を」
「そこまでして………一体何になるんだ。そいつから、何が得られるっていうんだ」
「孤独の終わりよ。そして―――――――二人一緒になったからこそ、開かれる道を」
夢のような話だ、と思った。
途方も無く現実味の無い話に、正直もう付いていけなかった。
【彼女】は、黙っている自分に顔を一度見合わせ、
「そうしたいって気持ちにならないのなら、今はそうすることがお母さんを安心させる一番の親孝行だってことくらいに思っておいて。あとこれも。
―――――――弱くなっていいのは、誰かを好きになるときだけ」
「………………わかった」
「約束よ」
一人念を押して、また人形にするようにギュッと自分に腕を回す。
こうされるのも悪くは無い。
だが、力一杯抱きしめられるのは、される方は割と窮屈なのだ。
この状態を脱するために、口実をつくろうとそれを口にする。
「リンゴは……もう、いいのか」
皿の上になっていたウサギのリンゴはさっきのが最後だったらしく、もう空だ。
それに当人の【彼女】も言われて気付いたらしく、それを一瞥して、こちらを見た。
「今度は私が向いてあげる。お返し」
「………俺は、血まみれたリンゴは味的にも見た目的にも食べたくない」
「愛情がこもっている証よ。ありがたく食べなさい」
「血の味がする愛情なんて生々しいものはいらない」
「…………」
「…………」
牽制し合うように。暫し睨み合うような見つめ合いが続き、
「…………剥いたもん勝ち」
「あっこらっ、あんたはあんたで大人の癖にどうしてそんなに子供っぽいんだっっ」
あっさり抱擁をといて、ダッと走り出したのは【彼女】の方だった。
手先の面では自分の性格上の面よりも遙かに不器用な手が、リンゴを赤黒くしにいくのを阻止する為にその後を追う。
子供っぽい大人と大人びていた自分。
二人で些細なつまらない口喧嘩を繰り広げて、それに幸せを感じていた。
ひそかに、思っていた。
この日常は、既に過ぎ去らない人を隣に得たからこそ、幸せに思えているのだ、と。
思いを裏切る未来が、【彼女】との時間の先に待ち構えているとも知らずに。
◆◆◆◆◆◆
思えば、【彼女】の言うとおり自分は大人びたつもりでいても子供だったのだ。
一度味わった絶望を、慰めるように与えられた希望があまりにも優しく、心地よくて、忘れてしまった。
二度と絶望しないように、誰も信じずに済むようにと。
一人で生きていこうという志を、【彼女】との時間を前に崩した。
楽しくて。
温かくて。
―――――――そして、幸せだった。
愚かな子供は理由もなくただ思い込んだ。
続く、と。
そして、気付かなかった。
あの時の【彼女】の言葉の中に、自分は過ぎ去らない、という意を表すモノはなかったという点に。
無邪気な子供は、夢は叶うと信じていた。
先の未来でも、自分は今と同じことを相も変わらず望み続けているのだ、と。
そして、今、あの時の子供は―――――――
「…………………ねっむい」
夢見るどころか、夢によって不眠症とされてぼやいていた。
「………くそ、またほとんど眠れなかった」
ぐしゃり、と前髪を握り掻く。
嘔吐するような気分で深い溜息が、意識しなくてもどっと喉奥から溢れ出た。
途切れ途切れの短い眠りのおかげで、ひどく気分が悪い。
もはや横になっているのすら苦痛で、たまらず上半身を起こす。
そして、再びそこに溜息が口を突いて出た。
眠いという怠惰の感覚は嫌というほど抱えているのに、肉体はうんともすんともそれに応えようとしないのだ。
頭部は鉄になってしまったかのように重く感じ、打ち鳴らされたようにグワングワンと響きが頭の中で停滞している。
「っ………黒蘭め、絶対遠くで見てるな」
しかめっ面を遙か遠くに離れた距離をもったビルの上か何処かでこちらの様子をニヤついた笑顔で優雅に眺めている姿を想像し、
不機嫌の沸点は一層上がることとなった。
憤るままにベッドから降りて、スライドドアの前に立つ。
「……太陽が黄色く見える…………はぁ」
ほぼ不眠のまま迎えた朝空は、千夜の気分にひきずられることなく清清しく晴れていた。
腹立ち紛れと眩しさに、力任せにカーテンを引っ張り、外光を遮断する。
「………ようやく、眠れたと思ったら懐かしの思い出の夢に邪魔されるとは、な…………」
座り込みたいという衝動を抑え、ベッドに思い身体を引きずり戻り、スプリングの利いたその上に倒れこむ。
一度動いたのがよかったのか、横になれば少し良くなった。
天井を無言のまま見つめ、僅かな眠りの中で見た夢を思い出す。
「………弱くなった方がいい」
そう言われたのは、もう三年も前のことになる。
共にいた時間は、一年にも満たない僅かな一時でしかなかった。
それなのに、【彼女】のことはその言葉と共に、こうして夢に反映するほどの深く自身の中に刻み込まれていた。
「……そうなるのは、誰かを好きになったときだけ、か」
それも、己の前を過ぎ去らないたった一人にだと言っていた。
千夜は思い出し、思ったそれらの言葉を嘲笑した。
馬鹿馬鹿しい、と。
「無理だよ、"お母さん"」
あの時、自分は孤独の終わりの中にいた。
あの時、自分は開かれた道を歩いていた。
それは何故なら、
「……過ぎ去らない人に過ぎ去られたら………どうしようもないじゃないか」
【彼女】の言うとおり、自分の前を何人もの人間が過ぎ去っていった。
子を持ちながら、自分と同じく血染めの道を歩いていた情報屋。
ヤクザの舎弟に身を落としながら、それでも純粋さを失わなかった激情家の酒飲み仲間。
凄惨な人生の中で、狂った飼い主に対する愛を信じた無邪気な娼婦。
そして、馴染めなかった日常という世界で、初めて異性として好きになった少女。
様々な多種多様の人間に出会い、別れた。
そんな繰り返しをした後に彼らを思い返しても、自分の中で出る結論はやはり変わりはしなかった。
追憶という動作をすれば真っ先に出る。
三年の年月が経とうとも記憶の瑞々しさと鮮明さは少しも衰えない。
知りえるはずのない『母親』という存在として、記憶となって自身の中で佇む【彼女】だ。
【彼女】だけが、自分の隣を歩める誰かであったという事実。
そして、【彼女】が過ぎ去った時に自分の幸せも二度と触れえぬものとなった。
「……だから、この先あるのは………違うんだよ」
喉を絞るように出した声と共に、目を閉じる。
今の何かから目を逸らすように。
「……あいつは、違う」
二日前、自身が逃げるように家から立ち退った原因となった男の残影を脳裏から掻き消すように両手で目を覆い、否定を吐いた。
自身の心を揺さぶるもの全てを受け入れまいとするように。
十分後に否が応にも受け入れなければならないモノに備え、短い無想の時間に浸った。