初めて顔を合わした時は、特に蒼助自身にこれといった感想は無かった。










 ただ、顔を見て、名前を聞いて、その姿を通して、かつての知人の面影を見た。

 まさかこんなところで再び繋がりを持つとは、とその奇縁の巡り合わせに驚きはした。



 そして、注意が向かったもう一つは内に秘めたる危険性を持つ何かにだった。

 

 その地点では、決して彼にはなんら関心があったわけではなかった。

 

 そういったものがようやく芽生えたのは、胸騒ぎが事実となって発覚してしまった翌日の、今日であった。

 殺すために、誘い出した場所で蒼助と交わした会話の最中だ。



 問われたことに簡潔に答えればよかっただけなのに、いつの間にか口走らなくてもいいことを話している自分に気付いたのは、己と千夜の関係の経緯

を話した後だった。

 殺すべき相手に気を許していた自分に愕然としたのも、その時のことだ。

 皮肉にも、殺すべき瞬間を控えたその時に三途は、そこで初めて蒼助という人間そのものに興味を見出した。

 

 軽薄な外見に対する疎遠的な気持ちも、千夜に対する気持ちを聞いた時に何処かへ行ってしまった。

 何の思惑も関係なく、千夜を好いているのだという事実が、蒼助に対し三途の心を大きく揺るがした。

 躊躇を振り切って計画を実行した後に起きたまさかの事態を最終的に収めたのも、千夜の呼び声に応えた蒼助であった。

 想いの強さというものをこれ以上になく明確に表していたその出来事と、追い立てるような黒蘭の持ち出した話が、更に三途の興味を煽り立てた。

 こうして話していた間にも、それは留まるところを知らず、千夜と同じ人を惹き付けるこの男に些細な一面を見つけるたびに、どんどん飲み込まれて

いくのを感じた。

 思わず、胸の(うち)で呟いたはずの言葉を外に漏らしていたほどに。

 

 三途の中で、玖珂蒼助に対する評価はかなり大きくなっていた。

 この男になら、と自分が大切な人に出来ないことを任せられる希望を抱けるほどに。

 しかし、それに揺らぎを齎したのは、蒼助がこちらに投げかけてきた一つの問いだった。

 

 負い目。

 それを口にされた時、三途は動揺を隠せなかった。



 三途は、己の内をあっさり見抜かれ、その洞察力に恐れ入った。

 しかしそれは、見落としていたあることを思い出させる起因になりもした。

 そして、千夜が何故あれほどまでに黒蘭の持ちかけた話に拒否の反応を示す答えも見つけ出した。

 千夜は、過去という大きな負い目があり、それが本人に翳りとなって染み付いている。

 親しくなった今も、千夜はそれを三途自身の前に一線として引いている。

 三途はその先に足を踏み出すことができない。



 蒼助はどうだろうか。

 

 彼は、拒絶という壁の―――――――その向こう側にある彼女の抱える負い目を、受け止めることができるのだろうか。

 

 生じた不安は、三途に一つの『賭け』に身を乗り出させた。

 

 他者が語ることはタブーであることは間違いない、千夜の失われた記憶について。

 ルール違反だということは充分承知の上だった。

 他人が本人に無断で露見していいことでないことは、もちろんわかっていた。

 

 だが、それでも確かめたかった。

 明かした事実を前に、過酷な道を敢えて行こうとする玖珂蒼助という男の覚悟が―――――――何処まで突き通されるかを。





 そうして三途は、最後の試しに賭けた。









 ◆◆◆◆◆◆









 予想した通り、表情を強ばらせる反応を見せる蒼助を見たまま三途は言葉を続けた。

 

「失くした記憶のことはもちろん、千夜は自分の数少ない過去すらも他人に語りはしない。二年の付き合いになる私や、朱里ちゃんにも……ね。

それからは、人には話せない思い出ばかりが過去に詰まっているということがわかる………そう、親しい人にこそ、話せないような経験が、きっとね」

「………親しい奴にこそ?」

「後ろめたいことを進んで打ち明けようとする人なんて、そうそういないよ? どうしてか、わかる?」

 

 蒼助は短い沈黙を間にとって、呟くように答えを発した。

 

「……怖いから、か」

「正解。………親しいからこそ、その後の……相手の自分に対する変貌が怖いんだよ。今まで築いてきたものが壊れていくのも。知られたくない自分を

知られるのも、千夜は怖いんだと思う」

「………そんな、タマには見えねぇけどな……アイツは」

「そう、見えないよ。千夜は、他人に弱みを絶対に見せない。自分に、甘えるという妥協は許さないから……それは、同時に何を意味していると思う?」

「…………何ですか?」

「……誰かに見せたくない弱みを持っているということだよ。臆病な自分を、ね。自分の奥底の……無防備な自分を見られるのが怖くない人はいないよ

……きっと」

 

 そう私も、と三途は胸を手を当て、声しない言葉を己に向けた。

 一瞬自分を顧みた後、再び前を見直す。

 

「………君はさっき、私に負い目はどうにかしろと言ったね。千夜にも同じことを言えるかい? 過去を捨てろ、と………本気で、そう言えるの?」

 

 さぁ、どうする、と三途は挑むような気持ちで、蒼助を表面上は静かな様子で見据えた。

 この大きな揺さぶりに対し、返す答えを三途は身構えた。

 

「………なりふり構わずっすね、下崎さん」

「え……」

「タブーな手段を持ち出してでも、俺を試したかったんですか?」

 

 鋭い視線に、三途は心臓を刺される錯覚を覚えた。

 

 見抜かれていたのか。



 いったい今までその研ぎ澄まされた洞察力何処に隠していたのか、と三途はつくづく感服せざるえなかった。

 見開いた目で動揺を悟ったのか否か、蒼助は肩の力を抜いた様子を見せた。

 

「ま、そこまでさせたからには……収穫がなきゃ割りにあわねぇっすよね。………今の聞いても、やっぱり俺はさっきの発言を撤回する気も、

考えを変える気もないぜ。…………迷惑なもんは迷惑だ」

「……っ」

 

 落胆が三途の胸に落ちる。

 期待が削がれたという感覚は否めなかった。

 

 見誤ったかもしれない。

 やはり、自分は彼に過度な期待をしかけていたに過ぎなかったのか。

 所詮、この相手もその程度の器だったのか。

 

 沈んでいく心。



 しかし、

 

「過去が負い目だぁ? そんなもんを拒絶の材料にして、諦めろなんて言われても納得いくわけあるかっ……」

「……へ、ぇ?」

 

 続いた言葉に、思わず拍子抜けた声が漏れてしまった。

 蒼助もこちらの反応に対し、「ん?」と表情を緩め何かがおかしいことに気付いたようだ。

 

 話が噛み合っていない。

 

「………えっと……」

「あれ………これって、無駄だから千夜を諦めろって話、すよね?」

「………………」




 どうやら、違う取り方をされていたらしい。




「………そういうことで言ったわけじゃぁ、ないんだけどなぁ。…………あー、でもそう聞こえなくはないかもなぁ………」

 

 洞察力はすごいのに思い込みの激しさがちょっとなー、と別の意味で脱力しつつ、もう少し直接的な言い方にしようと思い直し、

 

「………今の聞いて、君は少しも気持ちが引かなかったの?」

「……さっきから、何が言いたいんですか?」

「少し、言い方は悪くなるけど…………千夜を、面倒な厄介な女だとは……君は思わないの?」

 

 言ってしまった後、仕方ないとはいえ千夜を悪く言い貶めた自分に嫌悪しつつ、蒼助の反応を今度こそはと、三途は待つ。

 ああ、そういうことっすか、とようやく三途の問いの意味が理解出来たと言って、蒼助の見せた返しは皮肉じみた笑みだった。

 

「………そりゃ、思いますよ。性格やら体質やら厄介だらけなのに、更に記憶が無いと来たらなぁ……」

 

 蒼助の言葉も、無理は無いと思う。

 憐れなほどに、千夜は『普通』とはかけ離れた存在だった。



 しかし、蒼助は落ち着かない気持ちの三途に言う。

 

「でもまぁ、俺としては……んなもんよりもっと困難な壁にぶち当たってましたから」

「……え?」

 

 今並べたこれらよりも、蒼助を悩ませた要因とは一体、と三途は検討つかない。



 蒼助は堪え切れない何かを押し潰すように拳を握り締め、ブルブルと腕と肩を震わせながら、叩きつけるように断言した。

 

 

 






―――――――好きになった女が、男だったという事実に比べたら他に何が来よう全然イケるっっ!!」






 

 

 

 店内の空気を震わすほどの叫びに近い声だった。




 呆気に取られる三途をよそに、蒼助は己の心に溜め込んでいた鬱憤をここで晴らすが如くの勢いで止まらない。

 

「俺、ニューハーフとオカマとホモは人類として見なしてなかったのにっ。まさか、自分がその危うい一線を行き来する羽目になるなんて思いもしなか

った。……そりゃ、何度も自分の正気を疑って自問自答しましたし、せっかく問題点だらけなんだから、そこばっか重視して何とか嫌気さそうと思いま

した。でも、段々何処見ても全然抵抗感なくなって、しまいにゃソコもカワイイんじゃねぇかとか思い至るようになっちまうし、女の姿を見てたら、

もういいっかなぁなんて―――――――

「……ぷふっ」

 

 

 列列(つらつら)と己の決心までの心境や迷いを真剣に語る蒼助の語りを遮ったのは、何かが吹き出す音だった。

 堪えきれず、吹き笑いした三途だった。



 蒼助は気分を害したのか、目を細めて、

 

「……笑うことねぇだろ、下崎さん」

 

 睨む視線の目元もほんのりと赤らんでいる。

 照れているらしい。



 しかし、三途が笑いを治めるのに少々の時間が要した。

 

「あははははは……っ、はは…………ふぅ、ごめん」

「ちょっと。まだ、顔が笑ってるっすよ」

「馬鹿にしたわけじゃないもん」

 

 本当のことだ。



 ただ、おかしかったのは確かだが、それは蒼助に対してではない。

 杞憂なことを悶々と一人悩んでいた自分が、あまりにも滑稽であったからだ。

 

「………本当、馬鹿なのは私の方だったから」

「…………下崎さん?」

「こっちの話」

 

 三途は肩の荷が降りた気分だった。

 

「………でもまぁ、驚いたのは確かですけどね。ちょっと前に、自分の昔のこと楽しそうに語ってたのからは、今の話は想像も付きませんでしたから」

「へぇ……千夜が」

 

 過去を他人に話した、という事実は三途に新たな驚愕を与えた。

 ほんの少しの嫉妬心を含んで。

 

「……今の話聞いて、嫌にはならなかったの?」

「んなこと言ったら、とっくに男だったって話で嫌になってますよ」

 

 どうやら、性別に関する壁の方が蒼助の中では問題らしい。

 懐が大きいんだが、狭いんだが、微妙なところである。

 

「それに、過去どうこう言ったら、俺だってあいつに知られたくない自分ありますから」

「………そう」

「どうしようもなく腐ってた時期があるもんで。それを知られても平気かとか聞かれたら、ちょっと頷けねぇな」

 

 千夜に比べたら、どうってことはない、とは三途は思わなかった。

 後ろめたい過去に、程度や比較など付けていいものではない。

 人には、それぞれの過去の何処かに痛みが疼く傷跡がある。

 それをどうこう評価をつける資格など、誰であろうと他者には持ち合わせられいない。

 

「曝される時が来たら、どうするの?」

「そんときゃ、今のマシになった素敵な俺でカバーする」

 

 迷いの無い言葉だった。



 ああ、本当に降参だなぁ、と手も足も出ない気持ちになった。



 不意に蒼助は席を立つ。

 

「それに、記憶があるとないとしても、やることに大差はねぇよ。あるとしたら……」

「………あるとしたら?」

 

 

「惚れた相手の過去を知るのが―――――――俺一人か、二人一緒でかの違いだけだろ」

 

 

 また明日、と後ろ手に手を振って蒼助は店内にベルの甲高い音を残して出て行く。

 三途は呆然とした心境で、それを見送り、暫くして頬に手を当て、溜息。





「………すごい台詞。若さには敵わないなぁ」





 しかも不覚にも、ちょっと惚れそうになった。









 ◆◆◆◆◆◆









 日が暮れてとうとう暮れて、周囲が薄暗くなった。



 玖珂蒼助は、下崎三途の店を出た後、帰途についていた。



 昨日まで世話になっていた千夜のマンションではなく、自分のマンションの部屋にだ。

 二日ぶりに帰る我が家と、二日間暮らした場所との落差が気になるところだ。

 

「たった二日間で、人間じゃなくなるまでに状況が変わるとはなぁ……」

 

 人でなくなる、と引き換えに追い求め続けた"澱"にようやく来るに至った。

 そして、最終目的も五日間というチャンスをモノにすれば叶うときた。

 失ったモノは大きかったかもしれない。



 だが、蒼助に不思議と後悔はなかった。



 もし後悔していたとしたら、何もせずにただ停滞することを受け入れてしまっていた場合だろう。

 黒蘭の言ったような、脳を常温で溶かされる退屈と退廃の中で、生きながらに腐り死んでいたかもしれなかった。

 

「それこそ、昔の俺に戻るところだったな……」

 

 勢いと目先のことだけに見ていた。

 否、何も見えておらず見ていなかった最低の人生の中の最悪の青い自分。



 価値観が狂ってしまったのかもしれないが、あの頃と人でなくなった自分を比べると後者を迷わず選んだ。

 少なくとも、目指すものは見えている今の自分を。




 ………とりあえず、明日からどうするかなだなぁ。




 一回ごとに瀕死は免れないであろう地獄の鍛錬のことではない。

 本日、わだかまりを生じさせたまま分かれてしまった千夜のことだ。

 三途にああも格好付けて啖呵切ってみたもの、知れば知るほど攻略対象の難易度は増すばかりである事実は曲げようの無いのは確かだった。

 まるで、使い古された漫画のような展開だ。

 古きよきものと飽きずに愛用されているが、何も現実に降臨することはなかろうに。



 しかし、いつまでも閉口しているわけにもいかない。

 

「………あれで、割と押しに弱いからな………粘れば幾らか崩せるんじゃ……―――――――ん?」

 

 物思いに耽りながら歩いているうちに、蒼助は異変に気付く。



 先程から人がやたらと自分を追い抜いていくのだ。

 それも、何処か急いだ様子で。



 興奮したように口にする一部の会話に耳を傾けてみると、

 

「おい、現場はあっちだよな」

「ああ。急がねぇと人だかりが出来て見えなくなっちまう」

 

 何かを見に行くこと目的であることが伺えた。

 しかし、目的となる対象が検討つかない。

 この時期、祭りや催しなどないはずだ。

 花見ももう出来ない。

 

 ならば、一体彼らは何を見に行くのか。

 

 だが、ふと気付く。

 前を走る彼らとその先、その後の通行人が行く道が、蒼助も進む方向であることに。

 

「………まさか、な」

 

 往く人往く人が向かう先が、一瞬予想として閃いたが即座に否定する。



 そんなわけがない。

 第一、理由が無い。

 

「考え過ぎだよ、俺」

 

 自身に言い聞かせる。

 既に急ぎ歩き、走り出している自分に。

 否定の考えに反するように、本能が急げと身体を突き動かす。

 疾走するごとに自宅への距離が縮まり、近づく。

 同時に鼻が異様な臭気を感じ取る。





 刺すような、焦げ臭さ。





 嫌な予感が一層強くなり、足の速度も上がる。

 そして、ようやく建物が見えてきた。





 

 ―――――――が。





―――――――





 そこには、見慣れた建物がある―――――――はずだった。





 しかし、今目の前に聳えるそれは、蒼助が知るものの面影はほとんど汲み取れない。

 

 まず、真っ赤に彩られていた。

 鮮やかな紅蓮にところどころ見える黒い部分は焦がされているものの残滓である。

 赤はそれを朽ちさせようとより一層と艶やかに身を火照らせる。

 

 

 

 

 言葉どおり、燃える(・・・)よう(・・)()

 

 

 

 

―――――――嘘だろ、オイ」

 

 

 

 発言の否定は、目の前の現実が言葉も無くおこなった。









 ◆◆◆◆◆◆









―――――――終夜さん、終夜さん」

 

 遠く耳に響く呼び声。



 千夜はハッと身を振るわせた。

 

「あ、はい……」

「院長が検査が終わったと呼んでいます」

 

 受付口から看護婦が顔を出して、待ち時間の終わりを告げている。

 頭に僅かに纏わり付く霞が、待っているうちに寝付いてしまったことを理解させた。

 

 疲れていたから、といえば理由には妥当である。

 今日という一日の中で、本当にいろんなことがあったのだから。

 それこそ、対処しきれないほどの多くのことが立て続けに。

 

「はあ……―――――――っっ」

 

 立ち上がる際に、床で踏ん張った右足の膝が軋みを上げた。

 悲鳴、と表せそうなその痛みは、ここで来るまでに他の箇所で何度か経験していた。

 この痛みが、まっすぐ家に帰るはずだった千夜の予定を変更させた原因だった。

 帰り道の途中で、片腕の肘が痛み出した。

 何処かでぶつけたのか、と思ったがそんな心当たりも覚えもない。

 しかし、腕の原因不明の痛みは不吉なほどに続く。

 家に帰って何かの拍子で朱里の前で顔にそれを出してしまったら、きっと余計な心配をさせるだろう、と念の為に行き付けの医院に寄ることにした。





 ―――――――久遠寺医院。



 院長である久遠寺黎乎(くおんじれいこ)と決して多くは無い霊的治療の術士たる看護士達によって運営されている―――――――"その手専門"のヤミ通りの

治療所である。

 術師として優れた精鋭揃いで、その医院の主である久遠寺女医は、最高位の使い手である―――――――が、やや倒錯した性癖を持ち合わせているのが

難点な人物であった、

 裏の住人でその名を知らない者はいないが、非常に患者を選り好みする。

 老若男女関係なく、美しい者が大層好みという幅広い趣向を持ち合わせており、万が一お目に叶ったとしても、必然と『精神的な大切な何か』を

引き換えにすることになる、と帰って来た者は虚ろに語るという。



 今のところ、何も失わずに病院を出入りしている千夜は、その変態女医とあまりおおっぴらに親しい知人と答えたくは無いが、事実そうであった。

 久遠寺黎乎は男の頃から千夜の顔を大層気に入っており、女となってからもそれは変わらず、茶でも飲んで顔を眺めさせてやれば、診察料はまけて

くれもする。

 おまけに只の変態ではなく、指折りの治療師、という何とも切り捨てるには惜しい部分に何度も世話になっており、なんだかんだでこの病院とは

それなりに長い付き合いが続いていた。

 

「……黎乎、入るぞ」

 

 歩き付いた見慣れた扉を軽くノックし、開ける。



 開けた診療室に最初に見えたのは、椅子に腰掛け、こちらに背を向ける黎乎の白衣の背中だった。

 その背中を見て、千夜は何処かいつもとは違う違和感を感じた。



 正体がわからないまま、千夜は後ろ手にドアを閉めて室内に入った。

 

「どうだった、検査で何かおかしな点はあったか?」

 

 問いながら、無意識に腕を摩った。

 黎乎が行った検査とは、血液検査であった。

 正確には、血液に含まれた霊質粒子の概念検査であり、特に外傷を負ったというわけではないと進言した千夜に、黎乎が下した対処であった。

 

「…………」

「……黎乎、どうした?」

 

 無言で返す女医に、やはり様子がおかしいことを確信する。



 しかし、正当な返事は間もなくして再び返ってきた。

 黎乎は背を向けたまま、

 

「………千夜、アンタ、今まで何をしていた?」

「……何をって?」

「自分の霊力なくしてから、何かしただろう?」

「………ああ」

「そうかい、じゃぁアンタ………何をしたんだい?」

 

 答えるのに、迷いを少し要した。

 しかし、いつもの黎乎とは違う、ただならぬ空気を発する目の前の相手に下手してはいけないような気がして、素直に答えることにした。

 

「………三途が作ってくれた霊薬を、毎日飲んでいた」

「…………その霊薬には、三途は何を使っていた?」

「三途の血から摂取した血清を……」

「っ、やっぱりそうかっ!!」

 

 ダァンッ、と業務机を力強く叩き、激昂が黎乎から放たれ、響く。

 滅多に見ない相手の激怒した姿に千夜は呆気にとられた。

 

「………何で、一言アタシに相談しなかったんだ……」

「おい、黎乎……どうしたんだ、さっきから……」

「どうもこうもあったものかいっ! アンタ、自分が今どんな状態になってるか、わかってるのかい!? わかってないだろうが!」

「おい、落ち着けよ………それなら、わかるように説明してくれ」

 

 と、言いながらも千夜もかつて見たこと無いまでに、黎乎の猛りように内心動揺していた。

 そして、黎乎にここまでさせる己の状態への不安も抱えていた。

 

「………そう、だね…………ちっ、年甲斐も無く熱くなっちまったじゃないか。どうしてくれるんだい、ええ?」

「知るか。それより早く教えろ」

「………検査でわかったことだけどね………あんたが訴えた体の一部の痛みの原因は―――――――拒絶反応さ」

「拒絶、反応……?」

 

 それだけでは、意味がわからなかった。

 

「アンタの概念属性は起こしている拒絶反応さ。己と対立する属性に向けてのね」

「何で、拒絶反応なんて……」

「アンタがそういうモンを摂取してるからに決まってるだろう………」

「………待て、三途の霊薬が原因だっていうのか?」

「それ以外にあるか………アイツもアイツだ、平和ボケにもほどがある……こんな基本的なミスにまだ気付いていないんなんて…………」

「いや、ちょっと待て………あいつは、言ってたぞ。自分の中には赤の概念も含まれているけど、それは一緒に調合した霊水で効力を相殺しているから

大丈夫だって……」

 

 確かにそう言っていたのに、と食い下がってみたが、黎乎は溜息で返すばかりだ。

 

「………霊水、ね。確かに、混じりッ気ナシの超純水にして清浄で限りなく原色に近い、同属性の【青】たるそれならば、それ以下もしくは同等の力量

の対立概念を抑えることだって出来るだろう、間違っちゃいないよ」

 

 考えそのものはね、と付け足し、ここからが本番だと言わんばかりに彼女はこちらに視線を強くして、向けた。

 

「………純粋ってのは、どういう定義で成り立つもんだい?」

「…………汚れていない、他に不純となりえるモノが含まれていないこと……か?」

「正解だ。純水は純粋であるが故に純水なんだ。では、調合の際に行う調整や添加ってのは…………純粋を不純に転化させる要因になりえない、と

言えるかい?」

―――――――っ」

「…………そうだ。霊水ってのは、調合すると本来の清浄な気質を保てなくなりその効果を失うが、宿る力そのものは残るから治療薬をつくるには

問題ない。だが、自らの清浄な気質を以って他の効力を抑制するという元の効果を失わずに調合するなんてことは、不可能だ」

 

 黎乎が言いたいことが、何なのかはもう理解できる。

 三途は霊薬の製造に失敗していた。



 千夜の概念属性は【白】である。

 三途の中に含まれる【赤】の概念とは水と油も同様、混じり合うは有り得ない。



 自身の中にある【白】と同列たる【青】の概念のみを含んだ霊力を譲渡しようと考えた策だったのだろうが、黎乎が言う言葉は正しいとしたら、

 

「………拒絶反応というものは、正確には俺にどういう影響を及ぼすものなんだ」

「概念とは、魂にも肉体にも、挙句には世界の根源たる力である霊質粒子にも影響する。世界の原則だ。この場合、身体の細胞一つ一つにも概念属性

ってのは備えられている。そこに対立属性の概念が流れ込んできてみろ………まず、元の概念が乱される。そして概念の宿る身体の器官、筋肉、神経、

脳の機能の支障に繋がる。肘や膝の関節で起きてるそれは、その影響の先兵だろうよ。いずれ……」

 

 黎乎の言葉が途切れる。

 先を言うのか、迷っているんだろう、

 迷う理由は、考えなくても千夜には理解できた。

 

「いい、言え。ついでに、今後もそれでも霊薬を服用し続けたら………どうなる?」

「………どうなる、だと? わざわざ言わせる気かい、このコは……」

 

 皺の寄る眉間に人差し指を置き、はぁー、と長く、重く、深い溜息を付いた。

 

 

 

「率直に言おうか。最終的には脳、と言いたいがその前に呼吸器官類か、心臓にクる。有体に言えば、次はないと思え。

 医者としての判断から言えば……やったら、

 ―――――――八割の確率でアンタは死ぬ」









 ◆◆◆◆◆◆









『緊急速報を御報せします。本日、五時頃。東京都渋谷区にある六階建てマンションから出火、建物全体の七割を全焼、約一時間後に鎮火しました。

周囲への延焼にも及び、逃げ遅れた上階の住人が四人死亡。免れた住人も重軽傷の火傷を負いました。尚、出火原因は未だ不明とのことです。次に……』

 

「……………」

「ねぇ、蒼助。帰るんじゃなかったの?」

「……………」

「蒼助ったら」

「…………はぁ」

 

 テレビで己の身に降りかかった事態を見ながら、蒼助は明日を思い溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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