約七秒。

 それが、千夜が蒼助の宣言による衝撃から我に返るのに要した時間だった。











 我に返った千夜は、湧き上がる感情に従い、行動した。







「どういうつもりだ、蒼助っ」

 

 千夜は胸倉を掴み、詰め寄った。

 驚愕と怒りが混沌と入り混じり、表情に険しく表れる。



 対して蒼助の返事は飄々としたものだった。

 

「どういうつもりも何も、なぁ?………決まってるじゃねぇか。わかるだろ?」

「………聞いているのはこっちだ。答えろ」

「わざわざ言わせるかよ……ったーく、しょうーがねぇな。………話は粗方聞かせてもらった。



 一つ。お前は妙な呪いを引っかぶっていて、そいつのせいで妙なもんを引き寄せちまう。



 二つ。お前はそれを一人で追っ払えるような態勢じゃない。



 三つ。よくわからんが一度でも抱かれたら、即そいつのものになる。



 四つ。それに俺が宛がわれようとしている。……大体こんなもんだろ?」



「……ああ」

「あ、それともう一つ。これが―――――――俺にとって絶好のチャンスだってこと」  

 

 その言葉の後、千夜の表情が凍りつく。



 失望の色を浮かせ固まった表情をその目で確認し、その心境を見透かしながらも、蒼助は発言を引っ込めはしなかった。

 かみ締めるように、千夜は唇がきゅっと結んだ。



 そして、感情を押し殺しきれない声で低く投げかける。

 

「………俺を失望させるな」

「は、俺は言ったはずだがなぁ…………もう、遠慮はしねぇ、って」

「冗談だと、言ってはくれないのか……?」

「絶対、言わねぇ。最も確実にお前を手に入れる方法が、今、目の前にぶら下がってるのにだぞ? それが例え食らいついたら最期の釣り針に

引っかかってる甘い罠だとしても……」

 

 言葉が途切れると同時に、伸びた手が頬を撫でる。

 愛でる仕草と共に言葉は再開する。

 

「こんなふうに……お前に触れることが当たり前に出来る権利が手に入るなら、手段なんか選んでられるか」 

―――――――っ」

 

 遠まわしに見えて、とんでもなく熱烈な愛の詞が千夜の鼓膜に響いた。



 しかし。

 身体と心を熱くさせるはずのそれは、むしろ鋭利に研ぎ澄まされた刃のように千夜の内部を深く抉りこむように突き刺さる。 



 刺さった箇所は、かつての古傷の上だった。

 

「あ、っ」

 

 貫くような鋭い痛みが、古き傷と新しきそれから発された。

 呻き、胸を押さえる。

 重ねがけるように、脳裏にフラッシュバックが起こる。 





 

 記憶。

 複数人の面影。

 笑顔。

 それが散りばめられた過ぎた日々の残影。



 そして―――――――■■■■。






「おい……どうし」

―――――――っ……あ」

 

 トン、と突き放すように胸倉から手を離し、身を引き、後ろへ下がった。 

 軽度の錯乱状態に陥る千夜の耳に、宥めるような声が届いた。





「千夜」





 黒蘭の声だ。

 その一言が千夜を我に返らせた。

 

「………」

「わかったわ……だから、落ち着いて。私の話を聞いて」

「今度は何だ……」

「貴女がそこまで言うなら、お互いの納得のいく処置をとりましょう。

 ―――――――五日間、彼と私たちに猶予を頂戴。貴女が望むところまで到達するための時間を。仮に出来なかったら、貴女の好きにするといい。

それに私も従うわ」

 

 黒蘭が何を言いたいのかはわかった。

 五日間で、蒼助を自分が認めざるえないところまで鍛えあげてみせるということだ。 

 

「たった五日間で………お前の過去の作品達のように仕上げられると? 随分と無謀な賭けだな」

 

 異例だ。

 不可能に近い挑戦である。

 

「本当ね。でも貴女にしてみれば、かなり有利なんだからいいんじゃない?」

 

 その通りであった。

 確かに、不可能に近いということはこの賭けは十中八九、千夜に軍配が上がるだろう。 

 ここで埒も明かず言い争うよりも、素直に黒蘭の要求を受け入れる方が得策であると千夜は考えに至った。 

 

「坊やもそれでいいわよね?」

「俺は別にかまわないぜ。それで、納得がいくっつーならな」

 

 然して迷う様子もなく賛成する蒼助に、千夜は頭が痛くなった。



 読みが浅い。

 この男は、その選択の先でどれだけの苦難が待っているかも知らないのだろう。

 自身を欲するということが、己の人生をどう転ばせるかさえも。



 五日間。

 何かを決めるには、長いようで、あまりにも短すぎる時間だ。

  

「だそうよ……千夜」

「っ………なら、勝手にしろ!」

 

 ドアの前に立つ蒼助を押しのけ、千夜は部屋を急ぎ出る。

 しかし、出る寸前で歩みは唐突に止まり、

 

「………明日から、五日間だな」  

「ええ。あ、貴女が勝ったら相手どうするかも聞いておこうかしら」

「抱く抱かないの前提は変わらないのか………ちっ、まぁいい。予防接種だと思うことにしてやる。………そうだな」

 

 悩み、思考。

 そして、





「………じゃぁ、お前」





 指が指し示したのは―――――――黒蘭。



 黒蘭以外の誰もが息を呑み、信じられないものを見る目で千夜を凝視した。

 想定外のまさかの選択。



 というより、女である。

 

「か、かずや?」

 

 衝撃から一足先に立ち直った三途が、戸惑いを露によろける。

 大袈裟な、と千夜は眉を顰め、

 

「………消去法だ。上弦は図体とかいろいろでかくてこっちの身が持ちそうにないし、クロを擬人化させるにして元を辿れば猫だ、俺のプライドが許さん」

「いやでも、黒蘭は……」

「その女は、常識の外側を歩く人外魔境だぞ。自分の性別くらい反転することが出来るだろう」

「さすがに黒蘭でもそれは……」

「お安い御用よ」

「ほら……って、えええっ!!」

 

 ケロリと答えが返ってきた。

 

「ふーん、そう来るのね……フムフム……その手もあったわね………―――――――うふっ」

「…………かず」

「言うな、三途。これでも目一杯ギリギリのところまで自分を抑えているんだ」

 

 予想としては、まだ見たことは無いが黒蘭が男を擬態しても、自分が苦手とする男臭さはあまり感じない所謂「美形」に仕上がるだろう。



 それに相手は黒蘭だ。

 黒蘭なのだ。 



 そう考えると、何故かあまり抵抗を感じなくなる千夜だった。

 すっかり機嫌を良くした黒蘭は、この提案をすんなり受け入れた。

 稀に見る満面の笑みの嬉しそうな顔で、

 

「いいわよ。貴女が勝った場合はそれでいきましょ」

「………をい」

 

 かなり不機嫌な声色が、異議ありげに割り込む。

 男のプライドをかなり傷つけられた蒼助であった。

 

「ナニ不貞腐れてんの。汚名返上で頑張ればいいのよ、頑張れば」

「ちゃっかり乗り気で応じたアンタに言われてもな………」

 

 不機嫌な蒼助を黒蘭が宥めている隙に千夜は、一言残して出て行く。

 

「せいぜい五日間、頑張れよ」









 ◆◆◆◆◆◆









 外に出れば、うっすらとした緋色が空を色染め始めていた。



 騒々しい昼間の出来事に空が幕を下ろしているように、千夜には思えた。




 

「………わざわざ壁伝いしてまで見送らなくてもいいんだぞ」

「いや、割と大丈夫だから」

「階段から転げ落ちたのは何処のどいつだったか……」

 

 部屋を出て一階の店まで来たところで、奥を遮るドアの向こうから何かが落ちる派手な物音をが響いたかと思い引き返した。

 すると、後を追ってきたらしい三途が階段から転落していた。

 神経が再生しきっていない片足引きずって階段を下りようなど無理があるのだから、当然といえば当然の結果であった。

 救助の後、二人は今、店の玄関前にいた。

 

「せっかくの日曜の休日が暮れていくな……誰かさんのおかげで」

「け、怪我人にこれ以上の追い討ちは……っ」

「何が怪我人だ。………死人になるところだっただろうが」

 

 後半の声のトーンが下がったところで、三途は伏し目がちになり沈黙した。

 

「……ごめんね」

「謝罪の誠意は言葉ではなく、今後の行動で示せ」

「うん………でも、言うね。ごめん」

 

 二度の「ごめん」は三途が自分の自己満足のための言葉であること理解し、千夜はそれに返す言葉は吐かなかった。

 

「ところで、お前はどうなんだ?」

「え……何が?」

「黒蘭の案に対するお前の意見だ。珍しく口を挟まずおとなしくしていたからじゃないか」  

 話をしている時の三途は、どこか一線引いていたように見受けられた。

 

「いや、勝手な行動した手前下手に何か言っても、嫌味の応酬喰らうだけだったしね」

 

 確かに、と千夜はその理由に簡単に納得を得た。

 弱みを握らせた黒蘭に勝とうなど、無謀の極みだ。

 

「それに、流されて正解だった」

「……なに?」

「結果的に、私が彼を殺さずに済んで、君の安全を高めるという現状では最良の選択の可能性が出てきた」

 

 その言葉の意味を察し、千夜は顔を顰めた。

 

「……三途、お前もか」

「正直、現段階でこれ以上の選択肢はないと思うよ。彼を救うには、黒蘭の力が必要だ。おそらく、黒の概念であの内のなる存在を抑え込む気なんだろ

うね。そして、黒蘭はそれを事質に蒼助くんを君の護衛に据える。………どの道、彼に危険が付きまとうのは変えようが無い」

「………」

「それに、彼はこの展開を望んでいたらしい。自ら澱に来ることを望んだ。向こうが自分で選んだ道だ、だから………君が、責任を感じることはないよ」

 

 慰めるような言葉に、千夜は目を閉じて息を吐いた。

 

「まったく、どうしてかな………俺の周りには変態と馬鹿と死に急ぐ奴しか集まらん……」

「皮肉らないでよ、もう……」

 

 自分のことも含んでいることを理解してか、三途は苦笑した。

 

「でもね、変態も馬鹿も死に急ぐのも………みんな、君が好きなんだよ?」

「……………だからこそ………だろうが」

「え?」

 

 なんでもない、と千夜は詮索を遮るように言葉を切り、背中を向けた。 

 変わりにポツリと、独り言のように言葉を零す。

 

「…………こんなことになるくらいなら、アイツを中の奴ごとあの時殺してしまえばよかったのかもしれないな」

「千夜っ?」

 

 千夜の突然の発言に、三途は声を上ずらせた。

 振り向き、千夜はニヤリと笑った。

 

「冗談だ」 

「…………あのね」

 

 性質の悪い冗談だ、と呆れる三途再び背を向け新たに問う。

 

「……なぁ、三途」

「ん?」

「…………続かないとわかっていても、それでも未練がましく執着する俺は……愚かなんだろうか」

―――――――え」

 

 表情を凍らせる三途。

 

「……妙なことを聞いたな。すまん、忘れてくれ………じゃぁな」

 

 三途の返事を待たず、千夜はその場を立ち去った。

 空の緋は一層、深みを増していた。









 ◆◆◆◆◆◆









 始めは気の抜けた炭酸飲料を飲まされているような気分だった。




 ひどく緊張感にかけた、締まりのない心地。 

 そんな感覚を抱かせる。




 それが千夜にとっての『日常』というものに対する印象であった。




 最初はひたすら馴染めなかった。

 精神と心が感じるのは、どこか苛立ちすら感じさせる居心地の悪さと、己が【この世界】で異端であるということの自覚であった。

 しかし、それは―――――――"ある時"から変わり始めた。

 大きな違和感の波はやがて小さな細波に治まり出し、不快感はなくなった。



 異端であった自身が世界に溶け込み始めた時に、気づいた。

 居心地の悪い違和感の正体に。

 

 それは―――――――"安堵"であった。



 千夜にとって、途方も無く縁遠い感覚。

 死と暴力と略奪に満ちた【かつての世界】に、そんなものが許されるはずがなかった。

 平穏という現実離れした代物に憎しみさえ抱いていた時期もあった。

 

「それが、今じゃ……この有様か」

 

 日暮れの通りにて、幾数人の通行人とすれ違いながらポツリと自嘲する。

 控えめなその音に、誰も気づくことなく通り過ぎていく。

 こうしていれば、自分も同じく立派な通行人Aであるのだな、と【以前の自分】との違いを認識した。



 かつては認識(・・)すら(・・)されなかった(・・・・・・)

 それが今と昔の違いであった。




 …………本当、何でこうなったんだっけか。




 何が自分を変えたのだっただろうか。

 あれほど憎んでいた平穏が今は愛おしく、大切に思っている。




 ―――――――否。

 一度失った。




 しかし、また―――――――大切になりつつあるのだ。

 そうなった原因は何であったか。



 考えた矢先、脳裏を通り過ぎる男の影。




 …………あいつのせいだ。




 あの男と出会ったところから、全てがおかしくなり始めている。

 一度断ち切ったはずの未練を、再びその糸先をこの世界に繋ぎ止めようとする男―――――――玖珂蒼助。



 千夜は噛み潰すように呟いた。

 

「ちっ……忌々しい……」

 

 拘るごとに何かを狂わせていく蒼助が。



 そして何よりも、あの男と出会わなければ、助けなければよかった、と。

 そう見切りをつけることが出来ない自分が―――――――憎い。



 過去のあの瞬間を、正そうという気にはなれない理由を考えたくなかった。

 考えて、その先で出る答えを知ってはいけない、と頭の何処かで制止の声がかかる。



 知れば答えを得ると同時に後悔の念も引き寄せてしまう、と。




 ………どうして、なんだろう。




 何故、またこの日常を想うようになったのか。



 此処には、もう己を繋ぎ止めていた『彼女』はいないというのに。



 執着の元がなくなったにも拘らず、胸の奥で再燃しつつあるこの気持ちはどうして生まれたのだろうか。

 

「今の俺を見たら………あんたは……愚かと言うか」

 

 その返事を一番に聞きたい人は、もはやこの世にはいない。

 考えても仕方ないとはいえ、千夜はどうしようもなく脳裏に浮かぶ残影の人物に会いたかった。






 

 『千夜』が生まれた日に死んだ、その(ひと)に。






 受け止める相手のいない問いは、風に吹き消された。



 胸の虚無感を抱き、千夜は夕日色に赤染められた道を歩き往く。





















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