「あら、おかえりなさい」
リビングに戻った千夜を、白々しい声が迎え入れる。
怒りの沸点がワンゲージ上がったが、それを知ってか知らずかその矛先の相手である黒蘭は、依然と飄々としている。
「………黒蘭」
「何その手」
千夜は黒蘭に向けて手を差し出していた。
「寄越せ」
「何を?」
「魔力殺しの呪具だ。あいつにやる。それでこの件は解決だ」
「今持ち合わせてないわよ」
「なら、三途に加工させる」
「…………千夜、私は」
言いかけた黒蘭の言葉を、千夜の硬い声が遮る。
「今更、関係ないヤツを巻き込むな。"アレ"は俺の問題だ。あいつが抱える問題に重ねがけるな」
「…………そんなに抱かれるの嫌なの?」
「そっちの問題じゃねぇだろ。着眼点逸らそうとするな、この馬鹿っ!」
「全然ってわけじゃないくせにぃ」
「っっ…………そうじゃないと言っている」
「今の間のせいで、説得力ないわよー」
遊ばれている、と千夜が自覚するには充分の経緯となる会話が成立した。
このままではきりがない。
そう思い抵抗を止め、折れた。
「………っ、あえて言おう。それもある。男に抱かれるなど…………吐き気がする」
汚物を吐きだすような勢いで紡がれた最後の言葉に、どれだけの感情と激情が込められいるかを知ってか、黒蘭は一瞬だけ笑みを消した。
そして、
「キスしてたくせに」
「―――――――」
爆弾が投下された。
「え、いつのまにそんなとこまで……」
「なんですとぉぉぉぉっっ!!???」
聞き入ってた三途や静観していた上弦は、それぞれ反応を示す。
それに後押しされるかのように羞恥心が千夜の中で膨張し、
「な、なななな、な」
何で知っているんだ、と言葉にならない訴えをしていると、
「もうびっくりしたわ………まさか」
「おい、一体いつ何で……」
「ん? ああ、今の学校に転入する前日………貴女が借りたビデオ返しに行った後に、なんか炭酸飲料飲みたくなったからついでに買ってきてもらおう
かと探しに行ったその時―――――――同居人は見た、ってな感じで」
ああ、そっちか。
安心してもいられないが、幾分マシな結果に―――――――
「びっくりよ? まさか出掛けがけに行きずりの男ひっかけてるなんて………」
―――――――ならなかった。
「もう少し言葉を厳選して選べ! アレは、帰り途中でなんか死にそうになってたから助けただけだ!!」
「そこから何でああいう状況に?」
「三途のところからパクった霊薬飲ませるためだ、キスじゃないアレはキスじゃないっっ」
「………どうりで一本足りないと」
別の秘密が露見してしまったが、この際どうでもよかった。
「そもそも俺がああいう場面に居合わせて、あいつと妙な縁繋がりになった原因は、あの日お前が借りたレンタルビデオギリギリまで放置していたのを
俺に返しに行かせたからだろうが! 大体何で毎度毎度AVなんだ!? しかも人格疑われそうなマニアックなものばっか借りやがって………店員が受け
取る際の俺に対するチラリ見がどんなもんかお前は知らないだろうがな!!」
「その後、何度か一部の男店員に欲求不満呼ばわりされた上モーションかけられて容赦なく半死半生にしているのは知ってるけど。あんなに男店員
ばっかり短期間で入れ替わるんじゃ、そろそろ店側も不審がるわよ?」
「誰のせいだ、誰のっ!」
「姫様、少し落ち着いてください。黒蘭さまも、いい加減になさってください。話が少しも進展しませんでしょうが」
いい加減このままでは収拾がつかなくなってきたのを見兼ねてか、上弦が間に入った。
実に慣れた様子で二人の間を仲裁していく。
彼ら三人にとっては、もはや恒例とも言える光景だった。
「お聞きください、姫様。私めとて、あのような男に貴女様を任せるのには心痛みます。ですが……ですが、その【呪い】はそのようなことを躊躇していられるほど生易しいものではないのございます」
宥めるように上弦が連ねた言葉に、千夜の高ぶる精神は水に浸されたように熱が収まりだした。
そこへ、黒蘭が更に被せるように、
「少しでも夜うろつけば、その【匂い】を小物の魔性が蟻のように集まってくる。それだけならまだよかったけれど、今、貴女は………それよりも
【厄介なやつ】に狙われている。対して、貴女は万全の体勢はおろか……。
―――――――【自らの霊力すら消失した状態】にある」
「…………」
「現状でも相当ヤな状況だけど………この先もっとヤバいことになるわよ。はっきり言わせてもらえば………貴女一人で切り抜けるのは無理だわ。
貴女だってそれがわからないほど、馬鹿じゃないでしょう?」
「もう十分な逆境だろうが。これ以上、何か起こっても俺はもう驚かないぞ」
「真面目に聞きなさいって。何度も口を酸っぱくして言ってるけどその呪いはマジで性質(たち)が悪いのよ。私が今まで見て知ってきた中でも………
それは存在しうる【呪】の中でも指折りの―――――――獰猛にして貪欲たる、凶悪にして、最悪の悪食なんだから」
多重の豪語。
ゼロが二桁つくほどの時を生きてきた黒蘭にそこまで言わしめるほどの悪質なものだということは、千夜とてそれを受ける身として十分に理解している
つもりだった。
「………いい? 一度よ、たった一度。僅か一度のミスでゲームオーバーなのよ、今の貴女は。それだけで、人から【道具】に貶められ、貴女の身は
貴女のものじゃなくなる。………貴女が毛嫌いする……何処の馬の骨かもわからない腐れた奴にm問答無用で力で全てを捻じ伏せられるのよ。以前の
貴女なら、ともかく今の貴女じゃこれから先降りかかるもの全てを退けることは無理……断言してもいい」
取り付くしまもないくらい言い切られ、千夜は別のところから話に差し入る。
「そこで、何で……蒼助を」
「人は病原ウイルスから命を守るために何をする? 予防、あるいは自らの身体の中で飼う免疫によってこれらを撃退する。彼に担ってもらうのは、
まさにそれと同じ役目」
「………まさか、お前」
「王とは常に一つの場所に一人が原則。その呪もそれに倣っている。貴女を所有できる資格の席は一つだけ。ならば、その席を―――――――私たちが
人材を用意し、先に埋めてしまえばいいだけのこと」
「―――――――っっ!!」
千夜の手が黒蘭に伸びた。
胸倉を掴み、ドレスの生地を引きちぎらんとばかりの勢いで自分の鼻先まで引き寄せた。
「姫様っ!」
「黙れ、上弦!」
蛮行に対し、制止に入ろうとする上弦をその場に留めさせる。
千夜は、鋭い眼光を目の前の黒蘭ただ一人に向けた。
「お前………それがどういう意味か、わかっている上で俺に言っているのか」
「何か問題でも?」
「…………お前がしようとしていることは、あいつを俺の前に置き………注意を逸らす。そうなれば………」
「ええ、間違いなく………―――――――あらゆる全ての殺意の標的になるわね」
表情一つ変えないまま、黒蘭はありうる先の未来を肯定した。
「………あいつを、生贄にする気か」
「まさか、それじゃぁ席を埋める意味がない。そんな役不足な人材は、こっちから願い下げよ」
「なら、どうして」
「さっき言ったじゃない。席に相応する人材で埋めるって」
「あいつがそうだというのか……?」
「合格点は取れてると思うわよ? 意思は申し分なく強い。ポテンシャルの高さも今のところはまずまずだし、この先も見通しがいい………素材は
それ自体が上質であれば、後は磨きようでどうとでも化ける。グロテスクな魚だって腕のいいシェフの手で洗練された料理に変わる。………それと、
同じ。今が相応でないなら……輝くことを知らない原石ならば、これから目一杯磨きかけていけばいい……昔の貴女のようにね」
黒蘭の言っていることは正しい。
魚の喩えはともかくとして、宝石の原石でいうなら、そのものは見かけ只の石ころに過ぎない。
外見だけで判断する輩は、それだけと見向きもしない。
だが、稀に見る目のある者に見抜かれれば、磨けば磨くほど洗練されてやがては、誰もの目に留まる輝きを身に着けていくだろう。
それは、人間にしても同じことだ。
才能を持っていても、それは発揮されなければ宝の持ち腐れでしかない。
「あいつがダイヤの原石か………随分と高く持ち上げたな」
「それは私よりも貴女が一番わかっているんじゃない?」
「…………」
世の中には、稀に戦いの中で己の成長の限界を超えて更に上を行ってみせることができる人間がいる。
限界を超える―――――――それは即ち進化。脆弱なヒトのみに与えられた、カミには無い『先へと進む力』。
ヒトはあらゆる面でその片鱗を見せるが、強さとて同じこと。
何事にも限界は存在する。
強さも例外ではない。
上へと登りつめるにあたってぶち当たる壁がある。
それが個人に用意された『限界』だ。
並大抵の者はそこで終わる。
だが、稀にそれを突き抜け、更なる極みに至る者も存在する。
その障害を超える為に必要なのは才能ではない。
それを磨く力―――――――可能性を信じてに費やす努力だ。
限界という途方もない現実を前にしても、それでも諦めなかった者だけが、その更なる先に進める。
千夜は二十年にも満たない短い人生の中で、それでも多くと出会い、別れてきた。
何人かそういう類の者にも出くわしたためわかる。
玖珂蒼助も―――――――そういう者である、と。
今まで誰にも見向きもされず、放置されていた―――――――まさに、気づかなければ石ころにように扱われてしまう原石のような存在。
磨けば見違えるほどに光沢を持った宝石となるだろう。
間違いなく。
【―――――】と【生きること】は同意義の世界の中で生きていた千夜にも、黒蘭の品定めが正しいということがわかる。
だが、
「………却下だ」
「あら、どうして?」
「仮に俺があいつに抱かれるとしよう。奴がお前の望む程度に育つまでどれだけの時間が費やす気だ? 守る存在を教育するその間に、俺を守るのは
誰だ? 力不足のあいつはどうやって身を守り、生き残る? 時間と手間の無駄だ、リスクも高すぎる。お守りをする相手を増やしてどうするんだ」
正論となりそうな要素という要素を徹底的に叩き上げ、一気に捲くし立ててやる。
幸い、黒蘭の案が欠点だらけであるのは事実だった。
この提案はあまりにも、お粗末だ。
「なーによー、やけに批判的ね。…………やっぱり、口じゃなんだかんだ言っても結構」
「黙れ、覗き魔。てめぇの勝手な憶測を突き進むな」
「………だって、自分から遠ざける……それが―――――――貴方の愛し方じゃない」
脳裏を過ぎる幾つかの残像。
過去の投影を振り払い、千夜はぶっきらぼうに呟いた。
「そうじゃないって言ってるだろ。関係ない………俺は、ただ………」
黒蘭は間違っている。
これは、愛なんかじゃない。
もう、この心は新たにそれを生み出せはしない。
だから、きっとこれは―――――――ただの、
「これ以上、余計なものを背負い込むような真似して、損するのは御免なだけだ。………もう、面倒はうんざりなんだよ」
我侭なのだろう。
どうしようもなく身勝手な。
自分のことのみを優先した望み。
自己満足に塗れた、或いはそれそのもの。
『―――――――たくない』。
ただ、それだけのことなのだ。
「だから、俺は必要ない。守ってくれる存在なんて必要ない。これから先も―――――今まで通り、お前らこき使うなりしてなんとかやっていく。
余計なことをするな」
自らの意思は揺るぎないことを表すが如く、千夜は強い眼差しで黒蘭の漆黒の双眸を射るように見据えた。
相変わらず憎たらしいくらいのポーカーフェイスでそれを受ける黒蘭は、ふと目を逸らし、溜息を吐いてから、言った。
「………頑固ねぇ。―――――――ねぇ、嫌なんですって。どうするー?」
それの言動は自分に向けているのではない、と千夜は自覚した。
だが、顔は相変わらず自分と向き合っている。
話しかける相手は三途でも上弦でもなく、そしてその二人も双方同じ方向を見ていた。
千夜に背後―――――――部屋の出入り口へ。
まさか、という予感を抱きながら千夜は黒蘭から手を離し振り返った。
「………そう、すけ」
予感は見事的中し、ドアに寄りかかるように予想の相手は立っていた。
「お前、いつからっ……」
「結構前から。お前が、俺の助けたのがエロビデオ返却しにいった帰りだってところあたりからずっと」
ほとんど最初からということか。
そんなに前からいたというのに気づかなかった自分の不甲斐なさが、これ以上に無く情けなかった。
「って待て、何であの部屋から出れたんだ」
「俺もそう思ったんだけど、よく考えてみたらこの建物の中ってそこの下崎さんの魔術で操作されてんだろ? 空間の間取りも魔術で構成されたってん
なら、ドアノブがぶっ壊れなかったのも納得だよな」
「…………」
失念していた自分に千夜は更に失望し、言葉を失った。
だが、その直後に気づいたもう一つの事実があった。
最初から聞いていたというのなら、黒蘭の目論みも耳にしていたはずだ。
それならば、話は早い。
自分が利用され、また更に利用されようとしていると知ったからには、この男も黙ってはいないだろう。
早々にこちらとのこれ以上の接触を断ちたがる。
それに加担していたと自分も判断され、男は距離を置くようになる。
「ま、何にせよ……いろいろ聞かせてもらった」
「それで? 坊やは………貴方は何を理解したのかしら」
「厄介な女は更に厄介を抱え込んでいたということと………俺自身、また利用されようとしてるってとこくらいはキチンと理解したぜ」
重要な点は十分に把握出来ているようだった。
ここまで出来ていれば、あとは簡単だ。
自身をいとうのなら、辿る道は一つ。
交渉を断る、と。それを意思として言葉にして宣言すればいい。
黒蘭が望まない結果であろうと、構わない。
支援は自分がしてやればいい。
「ふぅん………それじゃ、その点を踏まえた上でのお返事を聞かせてもらおうかしら。
―――――――この条件、呑む?」
呑むな。
千夜は心の中で念じた。
呑むな。
呑むな。
ここはお前が在るべき場所じゃない。
蒼助の居場所は、千夜が一度は諦めたあの世界にある。
学校。
友人。
昼間の街。
落ちこぼれという烙印を押されたからこそ、他が得られなかったものを得られた。
日常とは、そこにいて当然と思っている者には想像できないくらい脆いものだ。
何も自分から、こんなところで打ち砕くこと必要などない。
来るべき時は思った以上に早く来ただけなのだ。
此処が、今のこの瞬間が、自分と彼との分岐点となる。
自分にとっても、蒼助にとっても、これは二度とないチャンスだ。
もう終わりにしよう。
未練がましくぬるま湯に浸り続けるのも。
失くした一つの感情を思い起こさせるこの男との関係も。
終わりにして欲しい。
その一言で。
「………その前に、条件を確認しようか」
しかし、蒼助の口から出たのは、答えではなく先延ばしであった。
その言葉に千夜の心に動揺が生じる。
何故すぐに答えない。
今更、確認をしてどうするのか。
声にならない問いかけに答えが返るはずもなく、蒼助と黒蘭の会話は続く。
「あんたらは俺にこの女を守らせる。そして、俺は引き換えにこの身体の問題をどうにかしてもらう。つっても、さっきの聞いてる限りじゃ、あんたら
の要求の方が傾き気味な気がするんだが」
「千夜を受け取るということはそういうことだからね。で、確認したけど…………それでも、貴方はどう答えるの?」
交渉ですらない交渉。
これは黒蘭からのほぼ一方的な要求というのが正しい姿だ。
どれだけ相手の要求が多くても、蒼助は己の身体のために断ることはできない。
公言しなくても、拒否権は蒼助にはないことは明白だ。
「………そうす」
「―――――――いいぜ。利用したのはお互い様だからな」
自分がなんとかしてやるから応じる必要はない、と言いかけた時、予想もしなかった台詞を庇おうとした相手が言ったのを千夜は一瞬幻聴かと思った。
「利用……?」
「俺をここまで連れてくるのに利用したが、俺もここまで来るのにアンタを利用したからな。おあいこだろ? そんで、この交渉もその延長線の上に
あると考えりゃ別に俺はどうってことない。俺は一向にかまわねぇぜ」
蒼助の言っていることが理解できない。
混乱の境地立たされいる千夜を置いて、話は先に進められていく。
「おもしろいわね貴方…………でも、いいの? けっこー半端じゃないわよ………これから私が貴方に押し付けようとしてることは」
「そんくらいは妥当だろ。俺の身体の面倒を見てもらってとこいつを貰うんだ。どんなツケがきても文句いえねぇよ」
「ふふっ、やっぱりイイわね。アタリだわ、貴方」
くすくす、と楽しげに笑い、黒蘭は蒼助を見据えて言った。
「では、改めて聞きましょう。最後の確認よ。
―――――――この交渉、貴方の返事は?」
千夜は返答する側の蒼助を見た。
そして、凍りついた。
その問いかけを受け止めた男の、目に。
次の瞬間に、返答の際、口元に浮かべた笑みに。
返すその反応に。
思いもしなかった。
考えもしなかった。
予想もしなかった。
「利害があるのはお互い様だ……返事は―――――――当然、イエスだろ」
自分が世俗の世界に帰そうとしていた男が、『澱の住人の顔』をして有り得ない答えを返すなど。