「信じられねぇ……」
ベッドの上で心底そう思うと言わんばかりに呟きが吐き出された。
蒼助だ。
シングルベッドの広さの上で布団に包まった顔色は何故か青い。
身体は天井を向いていたが、その視線だけは傍らで不貞腐れた表情をしてそっぽを向きながら椅子に腰掛ける千夜を射抜いて離さない。
それは心無しか―――――――否、はっきりと恨めしげな色で滲んでいた。
「普通やるか………怪我人に膝蹴り。しかもあの状況で」
「いかなる時でも性犯罪を前に人類が屈してはならない………と、常日頃から考えることを実行しただけだが」
「性犯………ひでぇ。俺は、ただお前が続きしていいって言ったからキスしようとしただけなのに」
「………お前はキス一つするだけのために尻を鷲掴んで揉んだり、舌突っ込もうとしたりするのか?」
皮肉のつもりで言ってやると、
「―――――――え、しねぇの?」
「素で返すなっ!! 今までどんな恋愛経験積んで来たんだお前はっ!」
何がおかしいのかと言わんばかりの顔と言葉に、千夜は思わず声を荒げた。
しかし、蒼助は依然と冷めた様子のまま、
「………まぁ、セックスが恋愛経験だっていうなら腐るほど。でも、ま……それだけじゃ違うってんだろ?」
確かめるように問われ、自分が思っているものが果たして正しいのか―――――――と千夜は断言を少し迷ったが、思いのまま返答した。
「………まぁ、少なくとも、私が思っているのと違うのは確かだ」
人の恋愛価値観にどうこう意見できるほど千夜自身とて、経験が豊富なわけではない。
「ふーん……キスなんてもんはヤる為の前戯程度にしか思ってなかったんだが」
「おいマテ。だとしたらお前、あの時もさっきもした後、俺を………」
「あ、ヤベ」
口が滑った、と自らのしくじりを顔でわかりやすく露した蒼助の胸倉を無言で掴みあげる。
「ぐ、ぐえっ……わ、悪かったって………つーか、結局その先どころか、キスも出来てなかったんだからそんなに怒んなくても」
「そういう問題か! その歪んだ価値観叩きなおしてやる!」
怒りと激情に任せて口走った台詞に、蒼助は表情を一瞬固めた。
そして、ニヤリとイタズラを考えたついた悪ガキのような笑みを浮かべた。
真正面から捉えた千夜は本能的に嫌な予感を察し、ひょっとしたら今自分は墓穴を掘ったのではないか、と自分の犯した間違いを記憶を紐解き探す。
「いいね……じゃぁ、治してくれよ。手取り足取り一から………」
「……何をだ」
「トボケんなよ、たった今自分で言ったじゃねぇか。―――――――俺の間違った恋愛価値観、治してくれんだろ?」
その瞬間、尾上の背筋に寒いものが走ったのを千夜は確かに感じた。
「よっし、そんじゃセンセイ。まずは正しいキスの仕方から」
「何だセンセイって!? 俺を置いて勝手に話を進めるな!」
「お前が言い出したんだろが。俺はアッチの腕前は超一流なんだが、生憎【恋愛経験】はペーペーなんでね。…………意外なことに恋人がいたという
先輩の千夜セ・ン・セ・イ………教えてくれよ」
胸倉を掴まれて顔が近いことをいいことに蒼助は、千夜の耳元に顔を寄せて、わざと息を吹きかけるように囁いた。
ぞくり、と先程とは違った得体の知れない何かが千夜背中を伝う。
「っ………冗談じゃ」
「それに、まだあの約束終わってないし」
「……それはっ………さっきしただろっオイ!」
「あんなの寸止めと一緒だっつーの。俺がしたい続きってのはあんなんじゃねぇし。……あの約束ってのは、そーゆーもんだろ?」
ぐ、と反論もできず、押し黙る。
確かに、蒼助の言う通り『あの続きをしてやる』という発言は、倉庫でキスを求めた蒼助の意志が望んだ通りにするということに理屈が通る。
「………キス、だけでいいんだな?」
「お前から、でな。まぁ、これをいいことにもっといろいろさせたりしたりしちゃいたいところだが………さすがにそれは俺も気が引けるからな。
この約束は、キスまでってことにしとこうか」
言葉の中にいろいろ引っかかる部分が見受けられたが、とりあえず危惧するような要求は、これ以上されないとわかっただけでも一安心だったが。
「………私が、するからな」
「なんかやらしく聞こえんな」
蒼助のからかいを無視して、千夜は胸倉を掴む手を離した。
代わりに両肩に手を置いて、その顔を見据えた。
「…………絶対に、何もするなよ。指先一つでも動かしたら……」
「わーかったって。つーか、お前が制限かけたら約束通りにならないんじゃ……」
「うるさい!」
一喝の後、はいはい、と蒼助は口を閉じて、迎え入れる気持ちを示すように目を閉じた。
ようやく望んだ状態となり、千夜は一息。
これさえ済めば、自由だ。
今だ途惑う自身に言い聞かせる。
そして、一仕事に挑んだ。
鼻先同士の距離を自分のペースで徐々に縮めていく。
同時に、蒼助の顔が近づくにつれて心臓の脈の乱れが大きくなる。
「………っ……」
今度はそんな自分に動揺した。
しかし、それに対し千夜は無視を対処として選択した。
するべきことを目の前に別に存在していて、それを探ってはならないと何かが警告していたからであった。
だから、無視した。
無視して、そして―――――――
「―――――――」
考えを打ち消すように、衝動に任せて踏み切った。
合わさる唇。
押し付けるようなキスが成った。
される形となった蒼助は何も反応を返さず、言われたとおりに黙って動かずされるがままにしている。
互いの体温を合わせる。
見方を変えれば、そんな行為とも考えられるキスであった。
長くも短くもないその時間は、する方がゆっくりと離れたことで終止を迎えた。
瞼を開けると千夜は一足遅れて目を開ける蒼助と視線を交わらせた。
開口を切ったのは、気まずく口を開いた千夜だった。
「………気は、済んだか」
「―――――――ガキがするみてぇなキスだな」
もう殺そうか、と殺意が芽生えかける。
が、そこに付け加えが入る。
「でもま、悪くはねぇ。相手がお前なら、他の女と舌突っ込んで長ったらしくするよる断然ヨカッた」
「………褒めているのかそれは」
「純粋な感想だ」
あっけらかんに言い切って、蒼助は憮然とした表情の千夜の手をとって口付けた。
「いずれもっと深くて長いのを俺が教えてやる」
「いらねぇ」
「遠慮すんなって」
ここに来て何度目かの溜息を千夜は吐き出し、
「お前………なんかキャラが変わっていないか?」
今日ずっと抱えていた疑問を、このタイミングをもって吐き出してみた。
すると、蒼助は平然と質問に対し「否」と返す。
「スイッチが入っただけだ。けど、あえて言うなら………お前の前じゃ結構猫かぶってた。転入初日のお前みたく」
「何で………」
「それ自覚したのは、江ノ島から帰ってきた時だったけどな。お前といる時とかお前が話しに絡んでくると俺はいつも調子が狂ってた。らしくねぇ俺を
お前に見せててよ。単純に考えてみたら答えは簡単なんだよな……………ただ、お前に……好きになった女に嫌われたくなかったんだわな」
千夜の手を弄びながら、蒼助はなんてことないようにとんでもないことを述べた。
蒼助にとってはなんでもなくても、千夜にとっては大問題だった。
おいおい、ちょっと待て何でいつのまにか口説き文句に入ってんだコイツは。
自分が今異常な状況下に置かれていることを千夜は嫌というほど理解していた。
次々と蒼助が衝撃的な新事実を浴びせてくるせいで、千夜の思考回路は精密な情報処理及び思考作業に支障をきたしている。
「最初はなーんでこんなおっそろしい奴を、なんて自分の正気を疑ってたりなんだりしたけどよ。やっぱ、惚れた弱み……いや、欲目っつーん
だっけか? そーゆーのが作用すると、お前が可愛く見えて仕方なくって―――――――」
「ちょっと待て! いいから待て!」
耐え切れなくなって、ついに制止に出た千夜は弄られる手をブンっと振り払う。
肩で息をして、落ち着く。
「………ちょっと前からかと思っていたら、大分前からおかしなことになっているお前にいくつか聞きたいことがある」
「おう」
「俺が男だったっていうのは知ってるよな?」
「見たし、触ったし」
「…………五日に一度、男に戻るんだぞ?」
「水をかぶるたび性別変わるよか安定してる。気にすんな」
「俺は、女が好きなんだけど………」
「意識改革が必要だな」
ぶつ、と頭の中で何かが切れる音と共に千夜は理性を放り投げた。
「―――――――だ・か・らっ! 遠回しにお前をそういう目じゃ見れんと言っとるんだ、俺は! 察しろよ!」
「んな回りくどい言い方じゃわからねぇって」
「そんなんで女と別れる時どうやってんだ!」
「俺がフラれたことなんてねぇし」
「……………」
つまりは、一方的に捨てているということらしい。
意外と女に対しては酷い奴だ、と認識を変える。
多くの女と関係を持っているくらいだから、博愛主義とかそういう類の恋愛主観の持ち主なのかと千夜は思っていた。
だが、そんな男が何故今更自分などを、と思考が原点に還ったことをきっかけに再び口を開く。
「いいか………俺は表面上は女として生きていくことを余儀なくされた身だが、男の主観までは切り替える気はない。つまりは、だ。俺は男を恋愛対象に
しない。だからといって、今更この身体で女を好きになろうとも思わん。この先、もう誰かと恋愛関係を持とうなんて考えはないんだ。わかったか?」
息をつかず一気に言い切る。
一部たりと付け入る隙もない拒絶だった。
一息ついた後、千夜は蒼助の様子を伺った。
目を伏せて、無表情で何か思案するように考え込んでいた。
そして、
「………俺のことは?」
「は?」
唐突な問いかけに、千夜は相手の意図が汲めなかった。
「お前が恋愛に関してどういう姿勢でいるかどうかは大体は言われなくても察しついてた。俺がお前の口から聞きたいのは、お前は言うべきなのは、そんなわかりきったことじゃなくて、相手である俺に対する感情がどういうもんかじゃねぇのか? 何でそんなわかりくどい言い方しかねぇんだ、千夜」
まっすぐな言葉を突きつけられ、千夜は思わず息詰まった。
すかさず、蒼助は追撃をかけるように言い放つ。
「で、どうなんだ。俺のこと、吐くほど嫌いか抱かれたいほど好きか。
―――――――どっちだ」
何でそんなに選択肢が両極端なのか。
かつてこんなに難しい二択に遭遇したことがあるだろうか、と千夜は過去の経験を思わず振り返った。
無い、と事実を受け止め、一瞬の現実逃避から帰還した千夜は言葉を濁しながら、
「…………嫌い、なわけがあるか」
「………で?」
「どちらに傾くかといえば………好きだ―――――――だが」
答えを出した後、千夜はすぐに対立の接続の意を示した。
「お前のいうものとは違う。俺はお前を気に入っている。一緒にいるととても楽しい。出会えたことを、心から幸運と思える存在だ。
大事な、友人だと……思っている」
目の前の存在に対し把握している己の感情を、有りのまま告げる。
そして、呼びかけるように次を放った。
「………それじゃぁ、ダメなのか? 俺と同じように、お前は俺を想うことは出来ないのか?」
「無理」
即答であった。
しかも断言。
気持ちを込めた多くの言葉を僅か二文字の一言で拒否され、千夜は再び堪忍袋を切らしそうになったが、グッと堪える。
その努力が肩に痙攣となって表れたが、原因と男は気づくこともなく、
「まぁ、俺もそう考えたことがなかったわけじゃねぇんだぜ? つーか、昨日までがんばってた。男のお前を見て、自分の頭のおかしさ実感して………
諦めようって決心固めかけてた。もし欲情しちまったら、一晩に何人女はべらしてでも気持ち忘れて、次の日にはまた友達面してお前の隣に立てる
ようにしようって。どんな形でもいい、お前の隣にいる権利がもらえるなら………何だってよかった」
するり、と伸ばされた手が頬を撫でた。
怖いくらいに優しい手つきはまるで愛でるようだった。
真剣な眼差しと合い、千夜は何も言えなくなった。
「―――――――と、そう思えたのは昨日までの話」
「………あ?」
「いやもう無ー理。勢いでした告白で箍が外れちまったみたいでな。今じゃ、もうそんな意見却下却下。先の希望は、エロエロな男と女の関係。もうそれ以外は無し。
―――――――だ・か・ら」
突然腰に力が加わり、力強く引き寄せられる。
抱き寄せられたと気づいた時には、既に蒼助の腕の中に千夜はいた。
それをした蒼助は、耳元で言葉をその小さな穴に吹き込む。
「もう遠慮はしねぇ。必ずオトす。抱いてくれって言わせてやる。絶対に俺のモノにしてやるから覚悟しとけ」
そう宣言するなり蒼助はぬるり、と千夜の耳に湿った舌を這わせ舐める。
濡れた感触を離したかと思えば、ふっくらとした耳朶を口に含み吸いつくようにそこにキスをした。
まるで手始めといわんばかりの仕打ちに千夜は、
「―――――――っっ!!!!!」
何も言わずにその鳩尾に拳を叩き込んだ。
迷いのない一撃であった。
◆◆◆◆◆◆
「………うぐぅ……」
やりすぎたか、とベッドの上で蒼助は反省に浸っていた。
ズキズキと鈍く、されど確かな存在主張をせんとばかりに痛みは鳩尾あたりで疼く。
感情に放った一撃だったのだろう。
危うく胃液が逆流するところだった。
「俺、今日飯食えっかなぁ………つっ」
溜息をついたら腹に響いた。
蒼助は今部屋に一人でいた。
千夜は殴った後、そのまま部屋を勢いよく出て行ってしまった。
「ま、これぐらいのリスクは…………な」
殴られることくらいはある程度覚悟していた。
相手にそれだけのことを強いている、ということだ。
勝負にリスクは付き物だ。
問題は、最後に勝つか負けるか。
大事なのはそれだけだ。
「………にしても、ここは一体何処だってんだろうな。……あいつんちじゃねぇし………だとすると後は」
必然と三途の家、という憶測が出る。
一階は店でその上は自宅と聞いている。
外観を元に組み立てられるイメージから大きくズレた実際の広さも、魔術か何かが作用しているせいだろう。
「俺……これからどうなんだろうな」
この家の主は自分の命を狙った。
無論生きているのだから失敗したに決まっているが、問題はその後自分をどうするかだ。
また殺そうとするだろうか。
もうそれはない、とは言い難い。
何故なら、まだ終わっていない。
そう、
―――――――【奴】は今もこの身体の中に在るのだから。
蒼助にはわかる。
こうして今は身体を取り戻したが、【取り戻しただけ】に過ぎない。
あの男は消えていない。
三途が殺したがっていたのは自身ではなく、あっちの方だったようだからそれを知れば自分をまた狙う可能性は高い。
まったく災難だ。
この身体の中の疫病神のおかげで、品揃えのいい店の気のいい店主には命を狙われるようになってしまうとは。
前途多難だ。
「これも【澱】ってやつなのかねぇ…………っん?」
ふと沸いた違和感に、蒼助は身体を起こした。
首を鳴らしてみたり、腕回しなど、唐突に準備運動のような素振りをし出した。
それらを終えた後に、右手の五指を動かしながら手の平を見つめる。
「…………何で……」
呟きかけた時だった。
閉じたドアが外部から開けられた。
そこに見えたのは、
「千夜………? お前、出て行ったんじゃ」
「その家出した妻みたいな呼ばわりは止めろ。寒気がする」
酷い返しをしながら後ろでに扉を閉じると、こちらに歩み寄ってくる。
閉じた方と逆の手には、盆の上に乗った中で水が揺れるガラス容器と、コップが一つ乗っていた。
「………これを取りに行っていただけだ。腹減っているだろう? 今、向こうで茶漬けつくったからそれも持ってきてやる。これ飲んで少し待ってろ」
「……………」
「何だ」
「いや、お前って捨てられた犬とか猫とか絶対素通りできないタイプだろうなぁって」
「余計なお世話だ」
「別に悪く言ってねぇだろ。俺のことも拾ってもえらそうだし」
「お前のような計算づくな駄犬は論外だ。去勢するぞ、馬鹿犬」
コップに水を注ぐ。
五分の四ほど面積を水が満たすと、それを蒼助に差し向けた。
「ほら」
ぶっきらぼうに差し出された。
こいつのこういうところいいよなぁ、などと暢気に思いながら、蒼助はそれを受け取ろうとした。
―――――――……パリン……っ……。
細く透き通った音が響いた。
ガラスの割れ音だ。
「っは?」
それは蒼助の手の中で起きたことだった。