「―――――――蒼助ぇっっ!!」
千夜は叫びに乗せて、求める相手の名を呼んだ。
呼ぶを形にする言葉を、喉の奥から張り上げた。
いつも呼ぶ際に口にしている姓ではなかった。
人が生まれてくる時に、誰もが最初に与えられるその人である証明―――――――名前。
与えられ、呼ばれることを当然と普通なら気にも留めないことであったが、千夜は知っていた。
名前は、その人間にとって二物と与えられることは決してない唯一無二のモノ。
それを呼ぶのは、その人にとって特別な人間だけが出来る行為だと千夜は認識していた。
故に今まで、千夜は蒼助を名で呼んだことは一度たりともなかった。
そして、これからもそんなつもりはなかった。
もうこれ以上、名前で呼ぶような深い関係を築く気はなかった。
その行為を禁じるのは、自身の中の"戒め"としていた。
もう二度と誰にも己の中には踏み込ませない―――――――と。
だが、今はそんなことはどうでもよかった。
あれほど固く決めていた決意すら、もはや余計な考えとその地位を墜落させていた。
それよりも、もっと重い決意を優先させる。
―――――――もう二度と、誰も失わない。
己の何を代償にしてでも、為さなければない自身への誓いだった。
呼んでしまえば、一つの事実を受け入れ認めることになる。
だが、そんなことは失うことに比べればまだ取り返しがつく。
気が付いたが、既に久留美で既にその禁忌を破ってしまっている。
千夜はやけになった。
後のことは後で考えればいい。
今はただ、一人の男を取り戻すことにのみ意志を集中させる。
「蒼助っ! 聴こえているなら戻って来いっっ!!」
面倒なことになった。
本当に面倒だ。
けれど、それでも―――――――絶望するよりは遙かにマシだと千夜は思い、希望の言葉を叫びに変えた。
◆◆◆◆◆◆
拡声器もないのに、空気が震えるほどの叫びが木霊する。
異変はその直後に起こった。
「―――――――うっ!」
ハンマーで殴られたような揺らぎが、男の脳を荒々しく訪問する。
同時に、心臓が痛いほどに大きく脈を打った。
己の内から来る一斉の奇襲に、男は目を白黒させて驚愕した。
「っ、これは……」
「あら、やっぱり効果絶大ね」
頭を押さえて苦悶の表情になる男に、してやったりの笑みを浮かべ、クスリと哂う黒蘭。
男は知っていた。
それは、己の姦計が上手く運んだ時浮べる嘲笑だということを。
「………貴様、何を」
「私じゃないわよ。ちなみにあのコでもないから。私達はきっかけに過ぎないの。………大きな原因はアンタが消したと勝手に思って自己完結させられ
ている……―――――――彼よ」
何を指しているのかは言わずもがなだった。
「馬鹿な………奴は完全に消したはず」
「バーカ。消えるわけないじゃない。―――――――アンタが存在する限り、ね」
その時男は黒蘭が何を言っているのか、理解できなかった。
しかし、思考する暇は与えられなかった。
離れた場所にある声は再び糾弾するように声を張り上げた。
揺らぎが再び訪れる。
先程よりも大きい。
「おのれっ……」
このままではまずい、と本能が促すがままに自身が掻き消えそうな揺らぎを生み出す元へ接近しようと考える。
しかし、不幸なことに行動へ移そうとしたのを遮る存在が男の前にはいた。
「―――――――させないっての♪」
非常に楽しげに笑いながら、その身を光に変えながら光速で接近した黒蘭は、動揺によって隙だらけとなった男の顔を鷲づかむ。
そのまま突き出した手を男ごと地面に叩き付けた。
割れる大地。
「………ぐ、ぁ……っっ」
後頭部を地面にめり込まされ、ギシギシと更に圧力が頭部に加わる。
リンゴのように砕けるか砕けないかの―――――――ギリギリの加減で。
わざとではなかった。
小刻みに震える腕がそれを証明していた。
「………このまま砕いちゃいたいけど………我慢我慢、と」
欲望の暴走を食い止める理性に力を奮わすように、黒蘭は呪文のように呟いた。
「黒蘭っ………」
「うふ、イイかっこう………手じゃなくて足だったら、靴をお舐めとでも言ってやりたいわ」
「………何故だ」
男は呻くように問いかける。
「………何故、ひとおもいに吾を殺さない」
「……………」
「昔から、貴様が吾に抱く感情は一つだった。昔ならともかく………今となっては貴様に吾を生かしておく。………その殺意を抑える理由などないはずだ」
先程から抱いていた疑問であった。
戦闘を開始してから黒蘭は、言動と視線に相変わらずの殺意めいたものを仄めかせる。
だが、行動にそれは現れていなかった。
容赦のないようで、何処か手加減がかけられた攻撃。
その証拠に、彼女は黒の概念属性の象徴ともいえる能力の【概念喰らい】は使っていない。
概念の使用は、そのワンランク下の【概念殺し】で自分の雷撃による概念攻撃を相殺するのみであった。
本気で戦っていない。
男にとって驚くべき事実は、疑問へと姿を変えた。
「確かに……そうね。………あのコ、もうアンタのこと綺麗サッパリ忘れちゃってるし、泣かれたりはしないから遠慮する必要はないのよねぇ?」
「………っっ」
顔を歪める男を心底楽しげに見つめていたが、ふと眼差しは真摯なものへ変わる。
「けど、そういうわけには行かないのよ。私の目的には、アンタ達―――――――【玖珂蒼助】が必要不可欠なのよ。………だから、我慢」
黒蘭の言葉に男は目を見開いた。
「"吾達"……だと? 一体何を……」
「アンタ、わかってなかったの? ………あの時の契約の儀式で造り出される【切り札】の材料に使われたのは、彼じゃなくてアンタの方だってこと」
「―――――――っ」
絶句する男の表情を見て黒蘭はおかしくて、愉快で仕方ないと言わんばかりに肩を震わせてクスクスと声を漏らして笑った。
「滑稽な男………忘れたからといって、全てがなかったことになるがないじゃない……。当然の報いよ。……せいぜい消えることも出来ず、想いを昇華
することもできず………あのコがアンタじゃない別の男と幸せを手に入れるのを指咥えて見てるがいいわ。……………わかる? これが四百年の年月を
経て与えられる―――――――」
―――――――アンタが犯した罪に対する罰の形よ。
赤い瞳には、再び憎悪が仄暗く揺らめいていた。
まるで―――――――悠久に絶えることのない煉獄の炎ように。
◆◆◆◆◆◆
何度目かの発声の後、千夜は叫びを一旦止め息を切らせながら様子を伺う。
目にした光景に息を呑む。
「っ、よせ黒蘭!」
相手を引き倒し、優勢のポジションをとる馬乗りの黒蘭の体勢はトドメを刺そうとしているように千夜の目には映った。
もう少し冷静であれば、黒蘭からそれを匂わせる殺気が立ち上っていないことに気付けただろう。
しかし、今の千夜は通常では在り得ないほど焦りを募らせていた。
そして、察した危機感によってそれに拍車がかかる。
「………っ、どうした蒼助! いつまでそんな奴に自分の身体を好きにさせておくつもりだ! お前はその程度の男ではないはずだろう、玖珂蒼助!!」
立て続けに叫びを生んだことによって、喉の痛みが走る。
それも無視して尚も声を張った。
「沈められたならもがけ! もがき出て、お前の上にのさばってるそいつを引きずり込んでしまえ! 出来なくてもやれ、やるんだ!
―――――――蒼助っっ!!」
無茶苦茶なことを口走っている。
それは自分でも理解できていた。
だが、無茶であっても叶わないなんて始末は許せなかった。
このまま終わるなど認めない。
絶対に認めない。
―――――――馬鹿なことを。どうしていつも損なことばかりする?
お前のやっていることは損なことである、と頭の隅で冷めた自分がぼやく。
―――――――放っておけばいいじゃないか。どうせ、あの男だっていつかは手放す気だったのだろう。
五月蝿い、と制しても声は尚も囁く。
―――――――馬鹿な奴だな。そうやって余計なことばかりして、自分から傷つきに行く。いい加減、学習したらどうだ。
学習するのはお前の方だ。
嘲る自分を更に哂う。
そうやって自問自答して出る答えは、いつだって同じでこれからも変わりはしない、変える気もない。
どうせ同じ気持ちでいるのなら、馬鹿なのはお互い様だ。
「………俺は、俺の望むままに進むだけだ。その先でいくら傷つこうが、自分で決めたことだ。………意志を通せたのなら、本望だ」
独白を周囲に聴こえない小さな声で呟き、顔を上げた。
ここであの男を取り戻せるのなら、自分の何を代償にしても構わない。
決意は、千夜の意志に決定打をぶつけるべく促した。
「………戻って来いっ蒼助!! さっきの続きを…………っしてやるから、ここに帰って来い!!」
今はただ、千夜は願う。
彼という存在が再び自分の前に確立することを。
会いたい。
取り戻したい。
そして―――――――
「―――――――本当だろうな、それ」
大して間も空いていないというのに久しぶりに聞いた気がする声が聞こえた。
◆◆◆◆◆◆
男が【己の内で起こる異変】を察する前に、【異変】は現れた。
足首を強い力で掴まれる、という予想できるはずもなかった出来事ととなって。
錯覚であった。
押さえつけられる顔の自由が利かないまま目だけを動かし見遣った先の足には、それらしき圧力をかけるものは見る影もない。
怪訝に思う男の上からクスリ、と哂い声が振ってきた。
元に戻した視線は、笑みを浮かべる黒蘭を捉える。
「ほら、アンタが消したと思ってた彼がお呼びのみたいよ? ―――――――いってらっしゃいな」
枷にように張り付いていた黒蘭の手が離れる。
手の平が軽く額をトン、と叩いた。
他愛もない力のない衝撃とも言えない衝撃。
だがそれは、男の意識を己の内の深い場所―――――――かつて長い時を過ごした意識の深層―――――――に落とした。
暗い天上と足元に水が張るだけの何もない空間。
現実に存在すれば、人の精神など容易く狂わせるであろう【果てのない世界】に男は戻ってきていた。
「くそっ……女狐め―――――――」
悪態をついたその時であった。
「――――――――――――――っっ!?」
足首を何かが締め付け、強く引いた。
今度は錯覚ではない、確かな感覚だった。
男は反射的にその問題の部位に目をやった。
そこには―――――――水面から伸びる手が男の足を掴む光景。
目を見開き、男は驚愕を露にした。
「ぐっ……!?」
千切らんとばかりに強い力で握りしめ、引き寄せようとしてくる足を蹴り払おうとするが、途端足場がなくなる。
片足が沈み込み、代わりに出てくるものがあった。
それは新たな手だった。
一対となった二本の手は。男の身体をツテに這い上がってくる。
手は二の腕まで出てきた。
そしてすぐに腕全体が。
水面に浮かんできた顔を見て、男は声をあげた。
「貴様っ―――――――」
二度と目にすることはないはずだった顔。
それはにやり、と口端を吊り上げると、水面から顔を出した。
「―――――――……よぉ、随分好き勝手やってくれたじゃねぇか……」
ずるり、と【それ】は肩から上を水面から這い出させた。
その目はギラギラと欲望に飢えた獣ような強く揺らめく光を宿し、男を強く見据えて離さない。
馬鹿な、と男は信じられないという想いが込もった動揺を口端から溢した。
「……何故だっ。……貴様は消したはず………っっ!!」
「ナニ、三流悪党みてぇな台詞かましてんだぁ? ちと、ここまで来るのに手間がかかっちまったが……そろそろ舞台を降りてもらうぜ、三文役者」
くくっと悪党のそれのような凶悪な笑みで表情を彩らせた【それ】―――――――蒼助は凄むように男を掴む手に力を込めた。
すると、男の身体はずぶりと腰まで水に沈んだ。
それだけでは済まず、徐々にもがき波立つ水の中に吸い込まれるように更に侵蝕されていく。
「っぐ………おのれっ残り滓風情が……いつまでも執念深くこびり付くかっ!!」
「ごちゃごちゃワケのわかんねぇこと言ってんじゃねェよっ」
ぐい、と暴れる蒼髪の男の首を掴み、もう片方の手で固定し押し沈める。
存在として有利であるはずの自分を圧す力が、非力な人間としての人格―――――それも、あの男の残り滓であるはずの存在の何処にあるのだろう。
自身の身に降りかかっている事実に、男は驚愕に打ち震えた。
「……おい、コラ……元の鞘におさまる前に一つ覚えとけ。てめぇが、散々馬鹿の一つ覚えみたく残り滓呼ばわりしやがった……この身体の持ち主の
名だ。………一度しか言わねぇ、忘れねェよう脳みそに直接みっちり隅々まで書き込んでおけ………」
噛み締めるように一句一字に力を込める。
『彼女』によって自分を呼び起こす原動力となったその名を。
「俺の名はっ………玖珂、蒼助だあああああああぁぁぁ――――――――――――――っっっ!!!」
咆哮。
意志と個の主張を絶叫し、蒼助は拳を振りかぶり眼下の敵に打ち下ろした。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――げ、やばっ」
千夜は、蒼助の上に跨る黒蘭が少し焦ったように呟くを聞き取った。
何事だ、と声を張り上げるのを中止して千夜は反射的に駆け寄ろうとする。
が。
「っ!」
その行動を為す前に黒蘭が蒼助から跳びのいた。
一跳躍で千夜の前に降り立ち、
「伏せてっ」
「な―――――――」
小柄な身体が胸に勢いよく飛び込む。
急な事態に対処出来なかった千夜は、その衝撃に耐えることが出来ずそのまま後ろに倒れこんだ。
受身もとれず背中を地面にモロに打ち付けた千夜は、痛みに眉を顰める。
「黒蘭様っ!」
「上弦、伏せなさい」
逆さまになった視界で、上弦が他の二人と共にそれに従うのを千夜は見た。
黒蘭の焦り。
それを見たのは本気で千夜がキレて、口も利かなくなった時くらいだ。
変わらず笑顔だったが、やることなすことに余裕は見れなかった。
その時と同じだ。
地面に這い蹲るなど、実はプライドの高い黒蘭が進んでやるはずがない。
ならば、この状況は否が応にもやらざる得ないという事情から、ということになる。
一体これから何が起ころうとしているのか。
黒蘭は何を警戒して退いたのか。
全ての疑問を解き明かす答えは、次の瞬間、千夜の前に曝された。
「―――――――っっがああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
アアアアアアアアアああああアアアアアアアアアアああアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああっっっ!!!!!!」
空気を震わせたのは、先程まで黒蘭がいた場所から放たれた咆哮だった。
ビリビリと大気が小刻みに揺れ動くのが、肌に痛いほどに伝わる。
まるで獣が発するような叫び。
しかし、これを発しているのは人間―――――――であるはず。
「そうす……―――――――」
「目、閉じて。ツブれちゃうわよ」
呼びかけを遮るように黒蘭の手が目を覆ったその瞬間、眩むような閃光が視界を、そして周囲を呑み込んだ。
その刹那の間―――――――空間から音という音が消え去り、無音の世界が生まれた。
◆◆◆◆◆◆
聴覚も視覚も閉ざされた時間は、それほど長く続きはしなかった。
その時間に終止符が打たれたのは、両目を覆う黒蘭の手が退かされた瞬間にだった。
「もう、いいわよ……千夜」
身体に被さっていた重みがなくなる。
目を開けると、黒蘭の顔があった。
「黒蘭………今のは………」
「暴発、みたいなものかしらね………周り、見てごらんなさい」
身体を起こし、千夜は飛び込んできた光景に愕然とした。
―――――――あちらこちらの地面に出来た無数の大きなクレーターが、大地を大きく変形させていた。
それだけではなく、周囲に生えていた木々も僅か前までの緑色に茂る葉は消し飛びその胴体は黒く焼け焦げ炎をちらつかせている。
視界を閉ざした僅かな時間の間に、代々木公園の姿は見る影のなく変貌していた。
言葉を失う千夜の横で黒蘭はやれやれ、と溜息混じりで呟く。
「ほんの一瞬の同調(シンクロ)でこの有様………。反発し合ってのことであっても、一瞬にしてここら一体全ての霊質粒子を共震させるなんて…………
これが禁忌の【重ね塗り】の概念色の力ってわけね……」
「黒蘭……?」
ぼそり、と聞き取れない音量で何かを口走った言葉に反応し、訝しげに眉を顰めた。
黒蘭は、千夜の注意を逸らすように別の言葉で発言を塗りつぶす。
「これは、三途のボロボロの結界のままにしといたら修復不可能だったわね。もしもの為に私の結界上重ねしておいてよかったー………ちょっとー、
そっち大丈夫ぅー?」
なんとかー、と上弦が背中ごしに返事を返す中、千夜は一人別の方向を向いていた。
見据える先で何が動いた気配を機敏に感じ取ると、思考が理解するよりも早く身体が反応し、行動に出た。
一際大きなクレーターに向かって駆け出した。
平面を失った大地に足をとられながらも、意志は一箇所をただひたすら目指す。
そして、すぐ前まで迫った時、
「―――――――っは……!」
荒く息を吐き捨てる声と共にクレーターから出た手が、地面を掻くように掴んだ。
千夜は足を止め、それを緊張した心持ちでジッと見つめた。
現れるのは、本当に蒼助だろうか。
それとも―――――――。
千夜は暴れ狂う胸を押さえつけ、その姿が現れるのを待った。
「………ぐ、ぅ……はっぁ…」
呻きながらも這うように登りつめたその髪は―――――――砂に塗れていながらも金に見間違うほどに薄い茶色。
長さも千夜の見慣れたそれであった。
目を大きく見開き、千夜は口を開けた。
「……蒼……助、か」
「―――――――それ以外誰だってんだ?」
聞き慣れた声がふてぶてしく言う。
上げた顔には、見慣れた口端を吊り上げるシニカルな笑みが彩られていた。
「ったく……無茶苦茶言ってくれたじゃねぇか?」
「………無茶なもんか。出来ると思ったから言ったんだ」
「出来なかったらどうしたんだよ」
「出来たじゃないか」
「すっげぇしんどかった………」
「でも、おかげで勝利の実感は一押しだろ」
「そういう問題かよ」
「そういう問題だ」
他愛のない会話がぽつりぽつりと二人の間に溜まっていく。
「手間かけさせ過ぎだ………馬鹿が」
「ひでぇ………でも」
蒼助は、立ち上がろうと身体に力を込めた。
自分の知らないところで散々酷使された今の身体にどれだけの負担と無茶がかかっているかは、ギシギシと身体の中で響く軋み音で、自身がよくわか
っていた。
顔を俯かせ、見えないところで歯を食いしばる。
立て。
立って言うんだよ。
咽び泣くような足の震えも無視して、蒼助は二本の足を地面に突き刺すようにして立った。
素振りも見せず、息を吐き、
「―――――――ただいま、帰って来てやったぜ」
そこで蒼助の意識はぷつん、と張り詰めた糸が切れるように途切れた。
力と意志を失くした身体は自然と前へ傾き、倒れこんだ。
一気に押しかかってきた重みに、千夜は後ろに倒れかけるがなんとか持ちこたえた。
緊張は、耳元で短い一定の間隔で繰り返される寝息で解けた。
「………ひやひやさせるな」
力尽きたのだろう。
恐らく本人は悟らせないように気をつけていただろうが、クレーターから這い上がってきた時点で身体は限界だったはずだ。
気力だけで言葉を交わしていたのだ。
その鋼の如き精神力に千夜は恐れ入った。
腕からずり落ちそうな身体を抱き直す。
名前を叫び通した相手が腕の中に確かに存在しているのだと、実感し千夜は目を閉じた。
そして、一言呟いた。
眠りの中にいる届かないであろう、その相手に。
「―――――――おかえり」
それを遠くで眺めていた黒蘭は驚くほど柔らかく笑い、指を動かしパチン、と小気味良い音を鳴らす。
その瞬間、惨状と呼ぶに相応しかった変わり果てた代々木公園は、塗り変わるように元の風景を取り戻す。
黒蘭の敷いた結界は、その存在の消滅にその懐に抱いていたもの全てを持ち去っていった。
後に残ったのは、【平和な公園の姿とそれを描く人々だけ】だった。