『男』は生まれながら恵まれていた。


 極道という環境に、権力という絶対の力に。






 物心をつく前から周りに存在した男に媚びへつらい、従う者達。

 彼らは命令すればなんだって言う事を聞き、言う通りにした。

 理由は考えるまでも無く決まっていた。逆らえないから。

 それは幼かった『男』を慢心と確信に至らせた。

 自分には、人を思うがままに出来る権利と力がある、と。



 時と年を経ても、『男』の周りは何も変わらなかった。

 変わったのは、ますます膨れ上がった慢心と傲慢さ、そして残酷さ。



 傍には、『男』の後ろ盾に引き寄せられ権力のおこぼれを賜ろうと尻尾を振る者達。

 それに付け加え、『男』は曲がりなりにもそこらの連中よりも強かった。

 自分たちよりも強い者に惹かれた、という一理もあった。


 駒と力を手に、『男』は王座に座っていた。

 欲しいものは何でも手に入り、目障りなものは捻り潰せた。

 望めば全てが自在に操れる。

 己の思うが侭の世界。




 そんな世界はある日、一人の男に完膚なきまでに叩き壊された。




 中学の時、『男』はそれに出会った。

 それは奇しくも『男』と同じ境遇、同じ環境、同じ力に恵まれていた。


 『男』にはそれが気に入らなかった。

 同じ王の素質を持つ人間。

 生憎、同類だ、仲間だ、と男は喜んで歓迎出来る人間ではなかった。



 王の座は一つ。

 それに座るのはただ一人。

 同じ人間は要らない。

 それが男が独りよがりな考えで導き出した結論だった。



 おまけにその人物は『男』の領地を荒らす無法者だった。

 周りから一目置かれているその男を潰そうと決めるのに、さほど時間はいらなかった。



 思い上がった身の程知らずに、自身の程度を思い知らせてやるつもりだった。    

 粛正を下し、ひれ伏させるはず、だった。







「が……はっ」



 多数に対して相手は一人だった。

 『男』が圧倒的に優勢だった。



 なのに―――――――倒れていたのは『男』の方だった。



 周りには、同じように再起不能にされて地面に突っ伏して呻く舎弟たち。

 そして、呻く肉が転がる中で―――――――たった一人だけが立っていた。

 数分足らずで、自分たちを地べたに這わせた男。

 つまらなそうにこちらを見下ろして、ただ一人立っていた。

 ズタボロの十数の自分達に反して、ほとんど無傷で。



「…………つっまんねぇ。……周りの奴らが黙って放っとくから、どんだけ強いかと思ったら。


 ―――――――全然大したことねぇな」



 期待外れ、と吐き捨て、その人物はもはや倒れ伏す『男』達に興味を無くしたように、背を向けて去ろうとする。

 その人物を、『男』は痛めつけられた身体に鞭を打って引き止める。 



「待ち、やがれ………。っ、このままで済むと……思ってやがるのか……。俺の親父が黙って……」

「……あぁ?」



 四つん這いの男の腹を爪先で蹴り上げた。



「ぐわっ……あが!」



 半回転し、仰向けになった男の胸をぐりぐり踏みにじりられる。

 そして、その男は虫を踏み潰すような作業の片手間に、心底厭そうに言った。



「んだよ………だから、下手に手ぇ出さねぇようにしてたのか。くだらねぇ」

「……ど、いう意味だ、……ぐぅっ」

「わかんねぇのかよ。おめでてぇやつ。周りが怖いのはお前じゃなくて、てめぇの父親の権力なんだよって話だ。転がってる連中につけてもな。てめぇは自分がエラい、

強いとか勝手に思い込んでただけ。はっ、―――――――とんだ裸の王様だったな……」




 『男』は、自分の中の何かが砕ける音を聞いた。




 絶句する『男』を捨て置いて、いつの間にか衝撃を与えた人物はいなくなっていた。



 初めて味あわされた敗北。

 その日、『男』は築いた地位、得ていた信頼、己のものと信じてやまなかった王座を失った。

 

 そして、それが『男』―――――――神崎陵が抱いた憎悪のハジマリ。


 全てをぶち壊した男―――――――玖珂蒼助への昏い感情の胎動だった。









 ◆◆◆◆◆◆









 昼間の喧騒も失せ、都会の中心であることが嘘のように静まりかえった新宿中央公園。



 その中を、一人の男が歩いていた。



 瘴気めいたものを撒き散らしながら歩くその姿に、近寄ろうとする者などいない。

 運悪く通りすぎる羽目になった者も道の端へと避け、小走りで去っていく。



 それらの者を一顧だにせず、男は酩酊したような足取りで偽りの光に満ちた歌舞伎町の方へと向かっていた。

 その様は、まるで―――――――灯りに誘われる蛾のよう。



「……終夜、千夜………」



 薄く開いた口から紡ぎ出されたのは今、男の心の過半数を占める存在の名。

 二日前、転校生として男が通う高校に現れた少女。



 誰もがハッとするような存在感とその容貌に一目見た瞬間に目をつけた。

 さっそくとばかりに接触を試みた。

 しかし、最初のそれとなった昼休みの食堂では、粉をかけたが無視された上に邪魔が入った。



 向こうに真っ正面から行っても相手にされないと察した男は、方法を変えた。

 そうして、女とは屈服させ所有するもの、と前近代的な考えしか持ち合わせていない男は、全ての舎弟を連れて放課後の教室に乗り込んだ。

 約束の相手を待って、一人教室に残る千夜の元へ。

 保険として手に入れたその『約束の相手』を連れて。

 計画は完璧なはずだった。



 しかし、完璧だったはずのその計画は――――――― 一つの『誤算』によってあっという間に崩れ去った。



 誤算は千夜という存在を完全に捕らえ違えた事だ。



 追い詰められた途端、少女の発する雰囲気ががらりと変貌を遂げたのだ。

 一瞬の事だった。

 そして、たった一撃で男は反撃も出来ず地面に伏された。

 それは―――――――他でもない千夜自身の手で。



 見事に欺かれた。

 彼女が被っていた仮面に。




―――――――殺すかもしれないぞ』




 そう言った時、己に向けられた言葉と視線に込められていた感情。

 悪意や敵意などと、そんな生易しい程度ではない。



 あれは―――――――殺意。

 確かな殺意だった。


 炎のように刹那的に燃え上がる激しいものではなく、研ぎ澄まされた刃のように鋭く何処までも冷たくあり続ける。

 静かな、されど確かな『殺す』という意思がひしひしと肌に伝わって来た。



 普通の者なら、戦意など掻き消えひたすら許しを乞う。

 そして、二度と関わらないと心に固く誓うだろう。



 だが、男は違った。



 逆にそれは、今まで男が見て、抱いて、犯して来た女には無い魅力として映った。そのギリギリの危うさは、酷く感情を掻き立て、惹きつけた。あの時見せた殺気すら、

男には終夜千夜という女の魅力を更に見栄えさせる装飾に思えた。

 欲しい、と内側の奥底から渇望が湧き上がった。ぐつぐつとマグマのような灼熱の熱さで、あの日以来男の中でその想いは煮えたぎっていた。

 まるで、ウィンドウに飾られたオモチャを強請る子供のような感覚。

 他に話せば、ゲテモノ食いと笑うだろうが、そんな事は知った事ではない。

 それにあの手のタイプを犯して壊した時、どうなるのかひどく興味を惹く。もう何度妄想の中で犯しながら想像しただろうかわからない。



 冷徹な表情を悩ましげに妖艶に悦び、喘ぎ、縋るのか。

 壊される恐怖に顔を歪ませ、苦痛と快楽の中でひたすら泣き叫ぶのか。



 歪んだ笑みを口元に浮かべ悦に浸ろうとしたところで、男の脳裏をある男の顔が横切る。

 途端、男の笑みは強張った。



「………ちくしょう、玖珂の野郎っ……」



 男は溜まった唾と共に、その名を吐き捨てた

 そうすることで忘れようとした忌々しい顔は、逆に鮮明になってしまった。



 玖珂蒼助。

 思い浮かんだ男の顔は、悪意に満ちた笑みを浮かべていた。


 千夜を奪って行った男。

 自分を見下し嘲笑っていた男。



 そして、かつて男の全てを奪っていった憎悪の対象。



 またしてもやられた。

 いつもそうだ。

 気紛れに現れては、男が欲しかったモノ、築いたモノを壊し、奪っていく。

 苦労して作った砂の城を悪戯気分で一瞬にして壊すように。

 憎んでも憎み足りない。

 殺したいほど憎いのに、それも叶わない。



 だから、ただ―――――――憎むしかない。それだけしか、出来ない。



「くそっ……どうすれば奴に」



 どうすれば、勝てる?

 あの女を手に入れる事が出来る?


 自覚のないまま口を動かし、憎しみを形にする。

 その鬱憤を僅かでも晴らすべく、刹那的な快楽を求めて歩を進める。



 そんな時だった。



「…………力が欲しいか、人の子よ………」

「誰だッ!」 



 男の耳に、突然囁きかける声があった。

 立ち止まり、辺りを見回す。



 誰もいない。

 気配すらない。



 薄暗いとはいえ、電灯もある。

 人影程度なら容易に識別出来る公園内にあって、声が幻聴であったかのように周りには自分以外誰もいなかった。



 気に入らなかった。

 姿を見せないのも気に入らなかったし、己の内心を覗かれたのも気に入らなかった。

 どす黒い欲望を些か晴らしてやろうと、男は必死に声の主を捜し求めた。



 しかし、声は耳のすぐ傍から聞こえていたというのに、人影は何処にも見当たらなかった。

 苛立ちを募らせる男に、更に声は語りかける。



「貴様という存在の内から放たれる生命の波動は今、その深い怨恨によって黒く澱み………"人"の枠からの解放の兆しを見せている。選ばれし者よ…………あと一歩だ。

あと一歩踏み込めば、貴様は"こちら"に来る事が出来る………」



 言っている言葉は半分も理解(わか)らなかったが、声は奇妙に心を安らがせる響きを帯びていた。

 苛立ちを心安さが覆っていく。



「憎い者がいるのなら、嬲り、殺せば良い。欲しいものがあるのなら、思いのまま、奪うが良い……」

「奪う……殺す……?」



 何と快い響きか。

 生きる為に喰らい、牝を手に入れる。

 己の欲望の赴くがままに生き、他社から奪う事は、牡の、獣の本能だった。



 脳の最も原始的な部分を刺激され、男の心が緩む。

 その瞬間に、声はぬるりと忍び込んだ。



「そうだ、"人"の常識に囚われるな………目覚めの妨げになるのならそんなもの棄ててしまえ。


 ―――――――さぁ……檻たる殻を突き破り、人を超越しろ。…………"選ばれし者"よ、己の内渦巻きし暗き念に身を委ねるが良い」



 侵入してきた声が頭の中を食い荒らす。

 それは、酷く甘美な感覚だった。



「……ぐぉっ!」



 男は地面に膝をつき、頭を抱える。



 だが、次にの瞬間には奇妙な感覚なすっかり消え失せ、声も聞こえなくなっていた。

 男は首を傾げ、訝しく思い、苛立ちに見舞われつつも立ち上がり、その場を去ろうとした。



 が、そこへ少し離れた茂みから女の声が聞こえる。



「……あ、ちょっとっ…………ダメよ……ん」



 喘ぎ混じりの否定しつつもそんな意思はまるで感じない女の声。

 その中、その反応をからかうような男の声も聞こえる。

 どうやら、人気がないこの時間帯を利用して性交を行おうとしているらしい。



「……ちっ……クソがっ」



 こちらの気も知らずイチャつくカップルに毒づきつつ、その場を一刻も早く去ろうと大股で一歩を出口の方角へ向けて踏み出すが、




 ―――――――………え……ろせ………。




 突如、あの声は再び聞こえる。

 違う。

 響いたのだ。男の内側から。

 動揺する男を他所に、声はだんだんはっきりと大きく反響する。





 ―――――――喰らえ、殺せ………奴等を目覚めの糧とせよ。





 声が響く度に男の中の憎しみ、殺意、欲望が増幅していく。

 思考の隅々まで声はその淫靡な触手を伸ばし、男から理性も何もかも奪っていった。



「ぐぅっ………こ、殺す……っ」






 ―――――――そうだ……そして我等の同胞となった暁には、彼の『姫』を手に入れろ。 





「ひ……め………っだと……?」



 ―――――――その霊力は、神力に劣る事無し。現世に生まれおちし神姫。力求める者が手にする至高の存在。手に入れ契りを交われば、その恩恵により更なる強大な力を

手にする事が出来る。




「だ、誰だ、そいつは……っ!」




 ―――――――ほれ、"ここ"におるではないか……。




 男の脳裏に突如フラッシュバックが起きる。

 その一瞬に現れたのは―――――――



「っ…………………は、はは………そうか、こりゃいい………なんて運が良いんだ、俺はっ!」



 男は事の愉快さに笑う。瞳に狂気の光を宿しながら。


 そして、相も変らず聞こえる声のその発生源たる茂みに目をやる。

 その目は獲物を求める獣そのもの。




 最早、迷いなど一切なかった。




 ―――――――思うがままに…………。




 頷き、完膚なきまでに砕け散った理性の破片。

 それを踏み越え、男は行動に出た。




 静まり返った静寂の公園に、響き渡った悲鳴と絶叫。

 しかし、その夜の外の賑わう人々の声に掻き消され、何者にも届く事はなかった。









  

 ◆◆◆◆◆◆









 酷い夢を見た。

 悪夢、と一言で片付けるには生易しいすぎる。



 とにかく酷く気分を悪くさせられる夢。




「う…、……気持ち悪………」



 寝苦しさに耐えかねて目覚めた瞬間、千夜はまずそう呟いた。

 それしか口に出来なかったと言うべきか。


 首筋や額が、じっとりとひどく汗ばんでいた。

 着ている寝間着が湿るほど。

 体が変に熱を持っている上に猛烈に吐き気がする。


 それを堪えてベッドの横の目覚まし時計を見た。  

 時間は二時三十五分。

 夜中のど真ん中でまだまだ寝れる時間だった。


 カーテンの隙間から見える外の様子もまだまだ日の出の気配すらない。


 もう一度、寝直そうかと思ったが、身体は足先まで汗でベトベトの状態。

 とてもそんな気にはなれなかった。

 隣で寝ている小さな身体を起こさないように、千夜はそっとベッドから抜け出した。

 気分転換にシャワーを浴びよう、と。









 ◆◆◆◆◆◆









 栓を捻ると程よい熱さの湯が出る。

 頭から壁に両手を付いて立つ千夜の一糸纏わぬ肢体に降りかかった。

 身体に纏わりついていた汗を流していく。

 粘着質な嫌な熱と一緒に。



「……ふぅ」



 気持ちがいい。

 顔を洗って済ますよりこっちにして良かった、と千夜は選択の正しさを改めて認識する。

 このまま湯船にも浸かろうかとも考えてみたが、風呂の栓を抜いていたのを思い出して断念。

 湯船に向けていた目線を、再び湯が流れていく足元に戻した。



 そして、ふと先程までまどろみの中で見ていた『夢』を思い返す。



 暗い闇の中だった。足がついているのかさえもわからない、気味の悪い空間。

 その中にいた。何故か全裸で。

 やがてただ漂っていただけだった辺りの闇が蠢き出して、身体に纏わり付き始めた。

 それがなんとも言えない気持ち悪さだった。まるで退場の毒虫に這われているようで。

 もがけばもがくほど、身体をきつく戒める。



 挙句、下の方から中に侵入して来ようとするところで、目が覚めた。

 まさに危機一髪。悪夢から淫夢に切り替わる寸前だった



「悪趣味だったな今回のは………」



 しかし、転校三日目にしてこれか、と肩を落とさずにはいられなかった。

 もう足が付いてしまった。

 連中の鼻の利き具合には、呆れを超えて思わず拍手だ。



「一体どこで嗅ぎ取るんだか………」



 溜息一つを吐いて、シャワーを止めた。

 温かな水滴を先端に滴らす黒髪を掻き上げ、まずは水の滴る足をバスルームから出す。

 手前に引いておいた足拭きタオルに、その水分を吸い取らせながら、



「…………」



 鏡。


 洗面所にて構えられた大きなそれは、千夜の何も纏わないあるがままの上半身を写す。

 それが目に付き、千夜は気がつけば鏡で自分の身体を凝視していた。



 白い肌は、温水を浴び続けたせいか薄く赤みを持ち、水滴をところどころに身につけていた。

 そして―――――――




「…………どうして」




 それは、口にしても意味のない言葉だと途中で自覚し、そこで終止符をつけた。

 考えても、疑念しても意味の無いこと。


 ただ、現実は確かな形として存在する。

 今、自分がすべきことは―――――――この状態で、どう現実を切り抜けるか。




「……それでも、立ち止まれない」




 そして、立ち止まりたくない。

 何が来ようと。

 何になろうと。



 それだけは、"こうなった今も"―――――――譲れない一線として千夜の中にあり続けた。






















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