千夜が異常を知ったのは、腕の中の黒猫が突然と冷たくなり始めた時だった。













 ふさふさとしていた毛並みの感触は、黒の中に白い霜を立て凍り始めて。

 柔らかかった肉の触感は、足先から岩のようにゴロリとした硬さに変貌。




 何の前触れの無く起こり始めた事態に、千夜は思わず走りを止めた。

 

「クロっ………これは」

 

 四肢を強張らせる猫は驚く千夜に、B.Sは悶え苦しみながら声を発する。

 喉もまともに動かないのか、途切れ途切れの苦しげな言葉が、

 

「ま、ず……いっ………三途が………」

「三途が、どうした」

「……最終手段に……入っ、た…………あいつもろとも………―――――――死ぬ、気だっ」

 

 

 

 

 B.Sのその言葉を聞いた瞬間、千夜の理性は一瞬で弾け飛んだ。

 

 

 訪れた衝動的な感情に駆られて、依然と苦しむ状態のB.Sすら気にかけず、再び走行を再開した。

 その最中、千夜はB.Sに問いかける。

 

「クロ、死にそうか?」

「何そのヤな質問……」

「いいから、答えろ」

「……ぶっちゃけこれ以上にないくらい死にそう。つか、死ぬ」

―――――――よし」

 

 え、何が?と不意に降ってきた呟きに不吉を感じたB.Sは、ガチガチに強張った首を無理矢理上げて、千夜を見た。



 見上げた顔は何故か無表情。



 得体の知れない恐怖をB.Sに与えるには充分だった。

 千夜は表情をそのままに、B.Sを見もせず言う。

 

「今がこれ以上にないというのなら―――――――これから起こることなんてワケないよな」

 

 何を起こすの?と視線で問うと千夜は、B.Sの小さな身体を抱える状態から背中を掴むそれに変え、










「お前なら出来る―――――――逝ってこい」

「字がちがっ、ああああああああああああああっ!!!!???」










 千夜が【目標】を視界に捉え叫ぶ瞬間、猫は豪速の投球となって風を切った。









 ◆◆◆◆◆◆  









 声の直後、三途の薄らいでいた意識は驚愕という衝撃に、はっきりと輪郭を取り戻す。

 嘘、どうして、と思った三途の耳に、「ぁぁぁあああああっ」と叫び声が徐々に音量を上昇させて行く様子で届いた。

 

 近づいてきている。

 

 思わず直で聞こえる左耳の方向に顔を向けた。

 視覚神経が麻痺した目には、ほとんど何か判断できない。

 だが、唯一まだ機能している色彩判断を神経が脳に送り届けた。






 黒。






 脳に届いた瞬間、顔面に衝撃と最大音量の絶叫がぶち当たった。

 

 

 痛いと感じる前に、三途の力尽きる寸前の体はぶつかった【モノ】の勢いを殺せず、そのままゴロゴロと掴んでいた氷柱すら離して地面を数回転がった。

 顔が下に来る度に、その下で「みぎゃっ」と呻き声が聞こえたがそれどころではなかった。

 ようやく勢いがおさまり、片足が欠けた身体が俯せに静止した頃には三途の思考は、何回と響いた絶叫の主を解明した。

 

「………く、クロ?」

 

 疑問系の三途の言葉に返事はない。

 視界が利かなくなった三途を余所にボロ布にようになって黒猫は気絶していた。

 

「…………何だ、今度は」 

 

 突然の乱入者に状況を見失っているもう一人―――――――青色の男は、誰でも良いからこの事態について説明してくれる存在を求めていた。

 男の願いは叶えられたのか、





「おい」

「っ!」





 耳元で不機嫌そうに囁かれた声に男は驚き、振り返る。

 だが、確かに聞こえた声は、主ともどもそこには存在していなかった。

 

 

 直後、 

 

 

「邪魔だ」

 

 

 一方的に声が投げつけられたのは、男の振り向いた体勢から更に背後。

 捩った上半身を元に戻した男の蒼い両眼にに映り込んだのは、







 ―――――――折り曲げた片足を上げる黒髪の少女の姿だった。  







 少女―――――――千夜は目付きを鋭く尖らせて言う。

 

 

 

「お前は、あとだ―――――――ちょっと、どっか行ってろ」

 

 

 突き刺すような蹴りが、三途によって注ぎ込まれた凍気によって凍てついた状態から立ち直っていない男の胸目掛けて放たれた。

 指一本動かせない男に回避の術など与えられなかった。

 

「ぐっ………―――――――!」

 

 一瞬の呻き声を打撃音で掻き消し、己の蹴りで数メートル先まで立ったまま地面を滑りながら吹っ飛んでいく男を見届け、千夜は背を向けた。

 とりあえずのところは大丈夫だ、という確信が千夜にはあった。 

 

 第一に、己の攻撃に対し甘んじたこと。

 たった蹴り飛ばしたのが、いつぞやの【あの男】であるなら今の攻撃に対し避けるなり衝撃を殺すなりの行動は出来たはず。

 それをただ受けたのは、身体の自由が利かない状態にあるからという結論に行き着ける。

 

 第二に、三途によって道ずれにされかかっていたということ。

 下崎三途は計算高く、やる事がイチイチ狡い。

 大方、使い魔であるクロが此処に来る途中で何度か奇怪な悲鳴をあげたり身悶えをするような目に進んで遭い、罠に嵌めて畳をかけたのだろう。

 それによって捨て身だった三途はもちろんだが、男の方にもタダでは済まない被害が及び肉体に支障が出ている。

 

 なんにしろ、三途がやったことだ。

 そう簡単に立ち直れやしないだろう。

 

 男にことについては、一時そう片付けて、千夜は今相手にすべき存在へと足を運ぶ。

 その相手は完全に目を回している黒猫をうつ伏せた状態のままその両脇に手を入れて揺さぶっている。

 

―――――――三途」

 

 相手―――――――三途は呼ばれたことに反応し、その拍子に黒猫をボトッと地面に落とした。 

 肘を地面に付いて、顔を上げる三途は千夜を見ていたが―――――――それは明らかに不自然だった。

 

 何故なら、焦点が合っていない。

 こちらを見ているように見えるが、実際ほとんど視力は無く姿は見えていないのだということを証明していた。

 

 

 

「かず……や……?」

「ああ」

 

 

 

 確認の声に応えながら、千夜は三途という存在の全体をその目に捉える。

 

 ボロボロの下崎三途。

 着ていた服はベージュのブラウスは血だらけ赤黒く変色していて、それもそこらかしこが破けて千切れてボロ布も同然となっている。

 そして、決定的に使用前と異なるのは下半身の更に下―――――――足。

 

 片足が欠けていた。

 その不揃いの断面からは血は出ていない。

 欠けた、元は足だった一部もまるで陶器を割ったかのように【砕けていた】。

 

 どのようにしてそうなったのかは、曖昧にだが予想が付く。

 

 ふつふつ、と感情が沸騰し出す。 

 そして、それはとうとう沸点に達し、

 

 

「この、―――――――

 

 

 ギュリっ。

 

 

 硬く握り締められた拳。

 ぐん、と頭上まで上げられたそれが目指し、軌道に沿って下ろされたのは―――――――

 

 

「っっっ馬鹿があぁぁぁぁ―――――――!!!」

―――――――っっっ!!!??」

 

 三途の脳天。

 そして、再び意識を激しく揺るがすような衝撃。

 頭蓋の中身が縦に揺れたのを三途はこれ以上に無く実感し、天辺の患部を両手で押さえてプルプル痙攣を繰り広げながら、

 

「な、何を………か、軽く意識がイっちゃいましたよ……と、ゆーか私、怪我人……」

 

 か細い声の反論を、しかし千夜は歯牙にもかけず、

 

「怪我人飛び越えて、死人になろうとしてたヤツが何を今更なこと抜かしてる。


 ―――――――てめぇ、三途」

 

 途端、口調が一変した。

 それに三途の危機感知が反応を示す。 

 まずい、とさっき殺されかかった時よりも心境が千々に乱れる。 

 

 目がほとんど見えてなくなっていても気配だけでもわかる。

 

「あ、あの………千夜さん?」 

 

 ひょっとして、怒ってます?と三途が恐る恐る尋ねた。

 答えは予想済みで、多分当たってると確信付きながらも。

 

「言いがかりだ。怒ってなどいない………ただ、腸煮えくり返っていて、お前をぶっ殺してやりたいだけだ」

「いや、それを怒ってると言………ぐぇっ」

 

 最後まで言う前に、何かの圧迫によって首が絞まる。

 服が引っ張られていることから、締め上げられているのだろうと三途は酸欠状態になりながら理解した。

 その締め上げ方といったら、重傷を負った瀕死の相手にも一切の容赦がない。

 意識を引っ張り上げた相手によって、再び三途のそれは霞み出す。

 

「………前に言った気がするがな………俺は、隠れて裏でコソコソ何かされるのが死ぬほど―――――――大嫌いだと」

「……ぐ、……え、それ……嘘つかれること、じゃ……」

「だ、ま、れ。知らなかったなら、今後の教訓として脳に直接書いとけ。大体なんだ、そのザマは………。隠れてまで通したいことなら、最後まできっちり完璧に完遂しろ

よ、情けない」

 

 理不尽だ、と圧倒されながら三途は思った。

 普段から理不尽だが、怒るとその極みに達してこの上なく理不尽だ。

 こうなると、悪くないことまで悪いように思えてしまうのだから不思議な話だ。

 

「そ、そこまでっ。………き、君ね………私は成り行き上仕方ないとはいえ………どーせクロが喋ったと思うけど……玖珂くんを、君の友人を殺そうとしてたんだよ? 

それを完遂って………あれ、そもそも君それに怒ってて邪魔したんじゃ………」 

「……………」 

 

 その言葉を聞いて、千夜は呆れと怒りが入り混じった表情を浮べた。

 

 違う。

 それもあったが、そうじゃない。

 

 怒鳴りつけようと思ったが、それがどれだけ恥ずかしい科白か口を開いた直後に気付き、声を引き止め、 

 

「ああっ、もういい!! おい馬鹿、口開けろ」

「せめて名前で……あがっっ」

  

 開ける前に開けさせられた。

 入り口に硬い異物が差し込まれると強制的に口を閉じさせられ、歯に当たった。

 

「むぐぐ〜〜っっ!?」

「お前の調合した【えりくしる】だ。死に損ないはこれ飲んで大人しくしてろ」

 

 途中咽る様子も無視して、瓶の中身を全部喉に通すのを見届け、その場に三途を放置し、

 

「おい、起きろ猫。いつまでも寝てないでお前の主人のお守りしてろ」

 

 依然と白目剥いて仰向けになった状態で伸びている黒猫―――――――B.Sの腹をグリグリと踏みつける。 

 右足の前後運動を何度か繰り返すと、猫はビクビクっと薬切れの中毒者の症状のような痙攣を見せ、

 

―――――――っっ、止めるんだカーネルサンダース!! ………って、あれ?」

「……ケンタッキーのおじさんがどうしたって?」

「か、カーネルさんが、カーネルおじさんが油で鶏を………それを邪道だって僕は生が一番と主張して」

「邪道はてめぇだよ野生の王国。あーもーいいから、もういっぺん寝てろよ」

 

 ワケのわからないことを寝ぼけのたまう黒猫を、三途の方に問答無用で放り投げた。

 手元が狂って三途の一歩前の地面に直撃したのが、背を向ける際にちらりと見えた気がしたが、この際無視することに越したことはない。

 にゃーにゃー、と叫び声と共に黒いモノが転げまわる姿を背景(バック)に、

 

 

 

 

―――――――さて、待たせたな」

 

 

 

 背後の三途達から、距離を開けるように千夜は前へと進み出て、

 

 

 

 

「とりあえず、蹴っておいてなんだが………まぁ、まずは……あれだ」

 

 

 

 コキコキ、と首を動かし鳴らす。

 左に傾けた状態のまま、 












―――――――また、会ったな」

 

 

 

 挑むような目付きで微笑った。















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