首筋に伝う濡れた感触。

 汗ではない。

 それよりももっと、粘度がある液体で、鉄臭さが香る。



 そして、頬がチリリと疼くように痛んだ。




 

「………あ」





 身じろぎはおろか、瞬きすら出来ずにいた。

 目の前の光景はあまりにも衝撃的過ぎて。



 蒼助に向かうは黒い銃口。

 そこから立つ―――――――硝煙の臭いと白い煙。





 

 それを携えるのは、先程まで談話していた下崎三途。






「避けられるとはね。この距離なら一発で終わると思ったのに」

 

 無感情な言葉が、冷水のようにふりかかる。 

 そこには、もう既に穏やかな笑みを湛えていた喫茶店の店主は存在しない。

 ただ冷徹な光を宿す鋭い眼差しの魔女が、蒼助を冷たく見据えている。  

 

「何の……冗談ですか? 実弾は……ちょっと、きついっすよ……」

 

 声帯がうまく機能しない。

 一体この事態はどうなっているのか。

 何故、彼女は自分に銃を向けているのか。

 今、蒼助の全てが対応できていなかった。 

 

 混乱する蒼助を叱咤するように、三途が否定を示す。 

 

「悪いけど、冗談じゃないよ」

 

 同時の銃声。

 音の自覚と目の前で起こった現象に対する認識よりも速く、身体が回避に出た。

 後ろに倒れこむように反った身体は、そのままベンチから落ちた。

 

「っぐ……」

 

 背中と頭を打ち付けた痛みを堪え、未だ三途が着座するベンチから一歩距離を取る。

 それ以上ができない。

 背を向ければ容赦なく銃弾を浴びることが目に見えていた。

 ただ、威圧感(プレッシャー)に押されないための視線での応戦が、せめてもの抵抗だった。

 

「二度目か……まぐれじゃないみたいだね。やはり、君の中の【モノ】はその身体に馴染みはじめている」

 

 その言葉に蒼助は身体を強張らせた。

 何故、それを知っているのか。

 目を見張らせた蒼助を見て、

 

「自覚はあるんだね。………それだけに抵抗も長引いていたわけか」

「……あんた、何で」

「君が店に来た日から使い魔に監視させていたんだよ。思い過ごしで済めばいい、と……クロが怪我を負って帰ってきた昨日までは、万が一を思って念を押してのことだった。……彼はね、君にやられたと言ってきたよ。正確には、君の身体を使ったその中にいる【モノ】に……とね」

「…っんな馬鹿な!」

「一概にそう言えるかい? 乗っ取られている間、君には意識がなかったとしたら……」

 

 ぐ、と押し黙る。

 そう言われてしまっては反論の余地がない。

 知らぬ間に身体を一時的に乗っ取られていたら、蒼助が否定できる要素は皆無だ。

 

「随分凶暴なモノがいるらしい。……それでいて、酷く狡猾で残虐だ。もはや、君の身体をすっかりつくり変えているのに、じわじわと確実な君の人格の消滅を狙っている」

「俺の身体が………? 何の話だ!」

「たった今、証明してくれたじゃないか。言っとくけど、確実に急所を狙ったんだよ? さっきも今のも。普通の人間に出来ると思う? ゼロ距離にほぼ等しい間隔から発射された0.1秒速の弾丸を避けるなんて、離れ業が」

 

 絶句した。 

 言葉と照らし合わせた先程の自分の行動に。

 何故、あんな風に動けたのだろう。

 考えて全神経に行動を促しても、許容範囲外の無茶な動きだ。

 

 ………俺は、さっき何した?

 

 身体は危機感に反応し、本能で回避に動いた。

 本能に応えた身体が為した動きは人間のそれと言えるのか。

 

「境目になる身に覚えはあるんじゃない? 身体に何らかの異常として現れたはずだ」

 

 

 ………異常?

 

 言われて、蒼助の思考に記憶の残像が凄まじい勢いで駆け抜ける。

 二日に渡って重ねがけられた溶解せんばかりの高熱。

 灼熱の炎に焼き尽くされているかのような苦痛。

 

 まるで自分の身体が作り変えられているような感覚さえ覚えた―――――――

 

 ………まさか、あの時かっ。

 

 蒼助の表情の変化に、三途はその奥の事実を見透かしたように目を細め、

 

「……自覚はあったみたいだね。どんなことがあったかは知らないけど、それでここまで自我を保ち続けてきたのは大したものだと思うよ。

 ―――――――それもここまでだけどね」

 

 瞳の奥の冷ややかな光が、一層強く輝きを増す。 

 まずい、と本能が警笛を吹くのを蒼助は聴いた。



 逃げるという選択を肉体が行動に起こそうとしたが、

 

「……っが、あ……!?」

 

 蒼助は驚愕に目を見開いた。

 足はおろか指先一つすら動かない。

 逸らすことが出来なくなった視線が、硬直に抗いながら捉えたのは目の前の三途の双眸。

 いつのまにか眼鏡を外されたそこにあったのは―――――――二つの紫紺の輝き。

 

「さっきみたいに逃げられちゃ困るからね、少しの間そうしていてもらうよ」

「……な、に………をっ」

「魔眼だよ。聞いたことない?」

 

 魔眼?と蒼助は聞いたことない単語に動かない瞼で瞬く仕草を見せた。

 

「知らないか………まぁ、そうホイホイ転がってる異能じゃないしね。何かの話で聞いた事はない?神話でよく出てくる(イビル)(アイ)ってあるだろう? あれの親戚のようなものだよ。といっても、あのメドゥーサの石化はこっちの変異例なんだけど。概念属性の法則に乗っ取った先天性異能。外界から情報を得るために眼球そのものを異能の媒体とし、その使い手の視界と眼力を以ってして力の発現を為す。結構レアな能力だよ? 何しろ上位のカミと異種族との混血にしか憑かない、その存在の目印みたいなものだからね」

 

 その思いがけない言葉に、蒼助は見開いたままの目を震わせた。 



 異種族との混血。
 即ち半妖。

 ならば、三途は氷室と同じ―――――――




「まるで動けないでしょ? 動きたくても動けない。命令に逆らえない。それが概念属性において【聖域】に分類される青系統の魔眼の特性―――――『服従』。強力なやつだと複数にかけたり、精神崩壊させることだって出来る。これを防げるのは、よほどの強固な精神力を持つ者か、同じ魔眼憑きのみだよ」

「っ……精神、力には……じ、しんが……あったんだ、けどっ……な、……」

 

 強がるように言って見せた言葉に三途は苦笑い、 

 

「いや、大したものだよ。結構強力なのかけたのに、まだ口が利けるんだから。―――――――本当に、殺すのが惜しい」

「だったら……」

「ごめん」

 

 切り捨てるかの即答。

 それは蒼助の要求ではなく、自分の中の何かを吹っ切ろうとしているようにも聞こえた。

 

「なぁ……何で、俺を……そこまで、して……っ」

「………大事なものには順位がある。一番とそれ以下の数字。一番を残しておくのに、それ以下を切り捨てなければならないなら………君ならどうする?」

「…………」

「出来れば、君には残っていて欲しかった………だって、君は………」

 

 そこまで言って、無理矢理区切るように三途は口を噤んだ。

 

「喋りすぎたね……そろそろ終わらせよう」 

 

 一度は下ろされた腕が上がり、銃口は再び蒼助に牙を剥いた。

 もう下ろされる気配のないそれはゆっくりと殺気だって行く。

 

―――――――っ!」

「もう外さない。大丈夫一発で心臓をぶち抜いてあげるから」

 

 苦しまずに、を意図しているのは私怨ではないからだろうか。



 状況にそぐわないやけに冷静な思考が、そう叩き出した。

 そうあるのは、あまりにも三途の顔が自分よりも辛そうに歪められていたせいか。

 

―――――――せめて、良き黄泉路を」

 

 見送りの言葉と共に、無情な別れの合図が響いた。

 









 ◆◆◆◆◆◆









 

 ごしごし。

 きゅっきゅっ。




「………………」




 

 ごしごし。

 きゅっきゅっ。




「…………あのさぁ」

 

 見るに耐え切れなくなり、物置の中で作業に没頭している千夜にB.Sは声をかけた。

 ん?と我に返ったかのように振り向く千夜に指摘を放つ。

 

「気づいていないようなら言うよ。いつまでその壺拭いているの? 二人が出てってから二十分くらい経ってるけど、ずっとそれ擦ってるよキミ」

「む、そうか………ありがとう」

 

 と、手にある壺を床に置き、別の壺を取り付近で擦り始める。

 ああ、と嘆きと呆れが入り混じった溜息を吐き、くてん、と長い尻尾を項垂れさせた。



 昨日今日で偉い変わりようだ、とB.Sは思わざるえなかった。



 いつもは異様に我の強い彼の主人の盲愛の対象たる人物が、おかしなことになっている。


 一つの作業に入ると、ひたすらそれを続ける。

 熱中しているというわけではない。

 何か物思いに耽りながら別の世界に意識を飛ばし、手がただ動く。まるで、心ここに在らずとでもいうかのように。

 

「…………どうしたの、千夜」

「何がだ」

「おかしいよ、今日のキミ………いや、それはいつものことだけど、今は殊更」

―――――――猫は非常に柔軟な生き物らしい。高い所から飛び降りても無傷だそうだ。今度試してみるか……………高層ビルで」

 

 恐ろしいことを独り言のように口走られ、身の危険を感じたB.Sは本能的に口を噤む。

 猫が黙ったのを見ると、千夜は一息。

 そして、新たに開口を切った。

 

「……なぁ、クロ。ちょっと聞いてくれないか」

「…………いいけど」

「最近な…………おかしいんだ」

「は?」

 

 何がおかしいというのか、と首を捻らせるB.S

 おかしいと言えばこの女は常人とは大分かけ離れた領域に立つ大変な変人だと思う。しかし、それを口にしたら、確実に生命の危機が直後に訪れるのは経験上間違いないので緩い口を結んでおく。

 冷静な判断がB.Sの中で下されている中、千夜は陰鬱な表情で、

 

「………男に、ときめいたんだ」

「……突然ナニ」

「それはこっちの台詞だ。ついこの間まで男だったっていうのに………昔から男によく目をつけられてはいたが、この体のおかげで最近別の意味で目をつけられるようになるし。………挙句の果てには、気に入っていた男に告白されて、更に不覚にもときめいてしまって………いい加減許容範囲にも限界がきてるんだ、こっちは!」

 

 だんっ、と聞いている側にはわけがわからない不満をぶつけるように壺を床に叩き置いた。

 瞬間に壷の底から不吉な音がB.Sの耳に届いたが、あえて無視した。

 

「そうだ、何でときめいたりなんかしたんだ。………おかしいだろ、あそこは殴って当然の状況だったはず………なのに」

 

 あの時、自分はおかしなことに胸を高鳴らせてしまった。

 あろうことに、嬉しいなどと感じて。

 

「何なんだこれは……これじゃ、まるで………」

「女だね。つーか、ふつーじゃん」

 

 さっきも蒼助に言われた言葉に、千夜の思考に火が点いた。

 

「普通なわけあるかっ! 俺は……」

「一人称、戻ってるよ」

「ほっとけ! ……確かに、今は女になってしまったわけだが………はいそーですかと簡単に中身まで切り替われるかっ。変わったのは、身体だけだ! 俺は、ずっと俺のままだ……」

 

 纏わりつく何かを振り払うように頭を振る千夜を観察するように見て、B.Sは思う。

 どうやら、男であるはずの自分が男にときめいたことが悩みの種らしい。

 そして、身体は女になっても中身は男のままであるはずだと。

 考えて、猫は自分なりの答えを主張した。

 

「……確かに、君は性別が変わっても善からかけ離れた性格はそのままだ。変わっていない。………でも、変わったと僕は思うよ」

「………はっきりしないな。どっちだ」

「どっちもだよ。まず変わったのは………雰囲気だ」

 

 ぱちくり、と瞬く千夜に雰囲気の変わりようを説明する。

 

「ここ短期間で随分変わったと思うよ。前は、確かに女のはずなのに、男っぽさが抜けてなかった。どーゆーことかは知らないけど、この前に店に来た頃からかな、なんだか女っぽくなったよ君」

「馬鹿なこと……」

「そう思うならあとで三途にも聞いてみるといいよ。多分僕よりずっとねちっこく君の変化を見取っているから」

 

 ねちっこいのは嫌だな、と千夜は思いつつ内心信じられない気持ちだった。

 女っぽくなっただと?

 この俺が。

 

「……女っぽくなったって………具体的にはどうなんだ?」

「雰囲気に丸みが帯びた。柔らかくなったっていうんだろうけど………男特有の荒々しさが、今の君からはあまり感じない。女だけが持つ空気って奴があるだろ? 今の君には代わりにそれがある」

「冗談だろ………」

 

 堪えるように頭を抱える千夜にB.Sは意見した。 

 

「どうかな。僕はおかしくなんかないと思うよ。身体に性別の特徴をはっきりさせる為の第二次性徴があるように、それに伴って精神にだってそれは現れる」

「だったら、何か? 身体が女になったことで、精神状態も女のそれになりつつあると言いたいのか?」

「断定は出来ないけど………考えるとそういうことになるね」

 

 馬鹿な、と千夜はその意見を足蹴にしたくなった。

 そんなはずがない。

 きっかけとなる事件から三ヶ月。これまで、一度だって男に興味や恋愛感情的な関心など欠片も抱いたことなどなかった。

 そうだ、と取り巻く全てを振り払うように否定した。



 自分は正常だ。何も変わっていない。

 今までだって、一度たりと―――――――

 

「………クロ」

「何?」

「俺の、恋心はとっくに死んでるんだ」

 

 彼女と共に。

 そう呟いて、千夜は深く項垂れた。 

 

「………男としてはね、なら―――」

 

 【女】の今の君のはどうなのかな?

 

 呟きかけたところで、B.Sは喉で出かけた言葉を引き止めた。

 危うく余計な事を口走ることだった。  



 千夜はここまで来ても気づいていないようだが、B.Sにはもう完全に理解できていた。

 しかし、先程は危ういところだったが寝ている赤子を起こすようなことをする気はない。

 千夜が煩わされているその相手は、もうあと十数分後には生きていないだろうから。 



 皮肉な話だ。

 過去の負い目によって、再び訪れた形作り始めている想いを無意識に否定し続けているばかりに、また傷が増えようとしている。

 それが己の主が守るが故に引き換える代償だとしても、決してはその傷は浅くはないはずだ。

 きっと、この少女にとっては死ぬよりも辛いこと。

 

 B.Sは覚えていた。 

 かつて、【少年】の中で慈しまれていた無垢な恋は無惨に刈り取られたことを。 

 そして今、【少女】に芽生え始めている恋心は再び摘み取られようとしていた。




  

「なぁ、クロ……」

「なにさ」

「それとも俺は………男に欲情する変態になってしまったのかな」

「…………」
















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