志摩は恐怖に汗を滲ませていた。



 厚くも無いのに脂汗を額に浮かばせる原因となる恐怖の対象が彼の意思を捩じ伏せ、近づきつつあったからだ。



 それは凶器だった。
 小さくとも見た目からは想像もつかないほどの威力を誇るそれはまもなく訪れる。


 拒否は無情なこの相手には通じない。どれだけ命乞いをしようと、この目的の為なら冷酷無慈悲に徹することも微塵も厭わない。

 凶器はもう目と鼻の先。





 そして、ついに―――――――その瞬間は来た。





 ぶちゅり、と液体をたっぷり含んだ白い物体を口端の傷に押し付けられ、

 

「つ゛ぁっ」

「やかましい。男がこれくらいで悲鳴あげんじゃないよ、オラオラ」

「やめろぉぁ〜っ擦り込むなぁぁぁぎゃぁーっっ」

「擦り込まなきゃ意味ないだろ、消毒液ってのは……こら、暴れんな。イイ年して恥ずかしくないのかいこの親父は」 

 

 みっともなく暴れる志摩を看護婦二人がかりで押さえつけさせ、綿に染み込ませた消毒液をピンセットでその抵抗に見合わせるかのようにやや粗雑にグリグリと押しつける。

 終わった時には、看護婦も患者(?)の志摩も息が上がっている始末だった。

 若干息が荒い女医は、忌々しげに舌打ちして椅子に腰掛けた。



 黒の中に一筋の白が入ったオールバックの長髪が、白衣の上を波打つ。

 そして、白衣の下は鳳凰の見事な刺繍が為される深紅のチャイナドレス。
 太股を大きく露出する深い切れ目の入った見事なプロモーションを浮かび上がらせる。



 真っ赤なルージュに彩られたぽってりした唇が煙草を一本加え、白衣の裏に手を突っ込み取り出したライターをカチン、と手首のスナップで蓋を開けて慣れた手つきで火を点けた。

 ギシリ、と背凭れを撓らせ、

 

「ったく、治療してくれっつーからしてやってんのに、暴れられちゃこっちの立場ないんだよ」

「だーから、何で治癒術で治してくれないんだよ。その方が早いし、こんな傷お茶の子さいさいだろーが」

「馬鹿かい。そんなちゃちぃ傷に霊力無駄遣いできるか」

「ケチババアめ……―――――――あちぃーっっっ」

 

 眉間に煙草をジュッと押し付けられ、診察室の中をグルグルと走り回る志摩をイイ気味だとフンと鼻を鳴らす。

 

「レディに失礼な発言するからだよ。この久遠寺黎乎(くおんじれいこ)の前で、目の黒いうちはその禁句(タブー)は気安く言わせないよ」

「へーへー……くぅ〜、傷が増えちまった」

 

 赤くなった眉間を摩る志摩に、黎乎は呆れの意を込めた半目を向け、

 

「どーせ、その傷だって三途に変なポカやらかしてやられたんだろ?」

「だから難しい顔してるから、胸部マッサージを………」

「鉛球ぶっ放されなかっただけマシだと思いな。……ったく、羨ましい真似を」

 

 アタシだってまだ揉んでないのに、とぶつくさ呟く黎乎に今度は志摩が問いを放った。

 

「黎乎さんよぉ、聞いていいかい?」  

「なんだい」

「あんた、あの娘のことは知ってるのか?」

 

 僅かに目を見開いた後、名前を出さなくても察したのか、

 

「ああ、アンタも会ったのかい。どうだい、イイコだったろう。……若さ弾ける実にプリプリしたいいカラダしてたねぇ、思い出すだけで涎もんだよ」

「そっちかよ。………で、あんたは知ったのいつぐらいだ? 三途に紹介されたか?」

 

 すると、いんや、と首を振ったので、志摩は訝しげに眉を顰めた。

 

「アタシは三途よりも先にあの娘に会ったよ。アタシの前にあの娘を連れてきたのは、アタシより先に……恐らく仲間内で最も早くあの娘を再会した人間だ」 

 

 誰だよ、と疑問視してくる志摩に黎乎はもったいぶるように呟いた。

 

「それにしても、大したもんだ。誰も手も借りずに、偶然とはいえ見つけ出すとは…………立派な"母親"だとは思わないかい? どっかのボンクラ親父と違って」

「ぐ、人の痛いところを………って、今何つった!?」 

 

 ガタン、と椅子を引っくり返し、荒々しく立ち上がった。

 

「あんた………【彼女】に会ったのか?」

「ああ、会ったさ。アイツが死んで以来、行方知れずだったのが、【死んだはずの人間】を連れてきた時は、アタシは一体何がどーなってるのかさっぱりだったよ」

「【彼女】とは………?」

「暫くあの娘を通じて連絡とってたけどね。………ある日、一本の電話がかかってきた」

 

 何つってたんだ?と志摩が先を促す。

 

「"何も知らないあの子をよろしくおねがいします。もう、何も知らずにはいられないだろうから、その時は知る手助けをしてあげてください。―――――――あと、セクハラはしないで下さい"とね。最後の方は承知しかねる内容だったがね。それで………次に会った時には、土の下で永遠のおねんねしてたよ。昔からよく寝る娘だったから………本望なんじゃないかね」

 

 最後の台詞が若干湿っているように聞こえたのは気のせいではない、と知っていつつも志摩は、ただ「そうか」と相槌を打つだけにした。

 

「ところで、何も知らないったーどういうことだ?」 

「そのまんまの意味さ。なんも知らないんだよ、あの娘は。アタシと会った時に何て言ったと思う? 

 ―――――――"アンタのそれ、不老化処理だな。何者だ、アンタ"だとよ」

「あんたの正体見破るたぁ大したもんだな。…………つーか、前半と後半どっちに注目して欲しいんだよ」

「黙って聞きな。アタシと初めて会ったと言わんばかりだった。そして、自分をここまで連れてきた実の母親に対しても同様にね。恐らく三途にもそーだったんじゃないかね。アンタは?」

「……俺は一度きりしか会わせてもらえなかったからな、アイツ。テメェの存在はオレの娘に悪影響及ぼすとかごねて」

「親馬鹿の感はなかなか侮れないからね。ウチの死んだ娘は孫がアンタみたいに節操なしになったらどうする、とか言って会わせるの嫌がってたが…………危惧は当たっちまったよ参った参った………っと、話が脱線したね。つまり、はっきり言えばあの娘はアタシらの前から姿を消す以前の………【普通の生活】をしていた頃の記憶がまるで抜け落ちているのさ。綺麗サッパリ、掃除されちまってんだよ」

「所謂……記憶喪失ってやつか?」

「そういうこと。………一つ確かと言えることは、アタシらの知らないところでいろんなもんが動き回っていたつーことかね」

 

 沈黙した二人の脳裏に浮かんだのはただ一人の存在。

 全ての裏で暗躍する、常に微笑たたえる漆黒の人外姫。

 

「なぁ、あんた"も"か?」

「あの娘の存在を知っているということは、黒蘭の手が及んでいるということさ。アタシも、一足先に手駒になったよ」 

「………珍しいな。面倒くさいことは嫌いだろう」

「それはあの娘の母親の方だろう。アレはこの病院でアタシが取り上げたガキの一人だ。アタシの娘みたいなもんだ、気に入ってんだよ………アンタは何でだい、なんて聞くまでもないね。【娘】が大事なのはアンタも同じだったね」

「損ばっかする馬鹿な生き方しか出来ないみたいなんでな………目が離せねェンだよ」

 

 互いにシニカルな笑みを浮かべ合い、

 

「損してるのはアタシらも同じじゃないか」

「そういやそうか。ま、お互い精々こき使われてやろうぜ。



 ―――――――次代の馬鹿どもの為に」









 ◆◆◆◆◆◆ 

 

 

 時刻が午後一時に達した頃。

 晴れた空の下で蒼助は己の状況に()視感(ジャヴ)を感じていた。

 両手には抱える、といっていいほどの大荷物。

 何故だろう。あの女に拘ってからというもの、こんな役割が廻って来るようになった。

 晴れた蒼天を憎々しく思いながら、蒼助は両手に容赦なくかかる五キロのコーヒー豆の重量と闘いながら己を連れて歩く女性の隣に伴われていた。

 

「ん? どうしたの? 荷物重い?」

 

 女性―――――――下崎三途は首を捻って気遣うように蒼助を見上げた。

 

「あ? ……あー、大丈夫です。別に重くてしんどいとかじゃねぇっすから」

 

 気にしないでくれ、と言った後、自分の心中に本音を撒く。

 

 ………ただ、俺の状況も随分変わったなぁ。

 

 前なら絶対に女の荷物持ちなんて真似はしなかったし、そんな女は周りにいなかった。 

 しかし、最近自分の世界(じょうきょう)は変わり始めている。

 徐々に。しかし、確実に。世界は変貌し始めている。

    

 ………つっても、望んだのは俺だけどな。

 

 く、と小さく笑う。皮肉さが滲んでいた。


 今までどんなことにも揺らがなかった自分の人生。 

 それが今、一人の少女が踏み込んだことで急激に変わりつつある。



 否。



 これから変わる。

 今まで見ていた光景そのものが、今こうして見ている景色が全く違うものに塗り変えられるだろう。


 そして、その時こそ、彼女と同じ世界を共用できるのだ。

 俗世(にちじょう)(ひにちじょう)を隔てる壁を越え、その向こうの世界を。

 

 ………それにしても、惜しかったなさっきのは。

 

 さっきというのは、倉庫での一件のことだ。 

 言葉が思うように言い出せず、行動で示そうとした。


 多少強引で、しかも未遂で終わってしまったのは実に惜しかったが、収穫が全くなかったわけではなかった。

 キスをしようとした時、千夜は抵抗を衰えさせた。

 あの拒絶にも、拒否感というよりも戸惑いが大きく浮き彫りになっていたように蒼助の目には映った。



 昨日の反応と今日の反応で、確信が得られた。

 

 ………少なくとも、全く気がないってわけじゃないみたいだな……。

 

 そう結論付けが出来る。

 ならば、どうにでもなる。可能性があるのなら、これからどうにでも。

 さてどう攻めてようか、ととても恋心を抱える者とは到底思えない悪巧みを目論む笑みを浮かべていると、

 

「蒼助くん………なんかすっごい悪い顔になってるよ?」

「え……あ、何でもないっすよ………あははは」

 

 笑って誤魔化している蒼助に、三途は然程気にしていない様子で曖昧に笑った。







「ねぇ、―――――――少し休もうか?」
















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