朱里は一週間の中で日曜、それも朝が一番好きだった。




 嫌いな勉強を受けに学校に行かなくていいから、というのもあるが―――――――本当の理由はもっと別にある。


 時間に急かされることなく大好きな姉とゆっくり朝御飯が食べられるからだ。

 それなら土曜も同じと言われれば、それは違うと言いたくなる。

 土曜はダメだ、姉は平日に溜まった疲れの鬱憤を晴らすかのように昼過ぎまで寝こけている。


 だから日曜日なのだ。


 土曜日さえ辛抱すれば、姉はその翌日は自分よりも早く起きて朝食を作ってくれる。

 時の流れは変わらないのに急ぐ必要のないその日の朝食の時間は、平日のそれよりずっと遅く感じる。

 その長く感じる時間の中でする姉との何気ない交流の刻が、朱里にとって最高の幸せの一時。

 

 ―――――――の、はずだった。

 

 そんないつもは幸せのはずのこの時が、『今』は早く終わって欲しくて仕方ないと感じるのはなぜだろう、と朱里は目の前の光景を見ながら思った。


 今回の日曜の朝食はいつもと少し違った。

 まず、この場に居合わせているのが姉と自分だけではないということ。

 朱里の隣の席には、一人のイレギュラーの男が座っていた。

 二日前からこの家に居座っている自称・姉の友人―――――――『玖珂蒼助』。 


 そしてもう一つ、この朝食がいつもと違うものとさせているモノがあった。



 それは、



「……朱里、ドレッシング取ってくれ」 

「あ、うん……んーっ」



 頼まれたものの、生憎ドレッシングは朱里の手が及ばない距離を置いた場所にあった。

 それでも何とか取ろうと手を伸ばしていると、



「何してんだよ………ほら」



 不毛な足掻きを見かねた蒼助が傍らのドレッシングを手にし、千夜に差し出す。

 その一瞬、姉の目に躊躇が映されたように朱里には見えた。

 しかし、姉はそのまま差し出されたドレッシングを受け取ろうと手を伸ばす。

 受け渡しの瞬間、僅かながら蒼助の手にその手が触れた。

 その時だった。

 

 ―――――――ばっ……ボトッ。

  

 まさに一瞬のことだった。



 触れた次の瞬間に、姉は―――――――空気を切り裂く勢いで伸ばして(・・・・)いた(・・)()()引いた(・・・)()()



 蒼助の手が離れるタイミングと重なって、支えのなくなったドレッシングは真下のサラダの中に為す術なくダイヴ。


 唖然。朱里も蒼助も。 

 無論、ドレッシングがサラダの中に埋もれたことにではない。



 千夜の反応に、だ。





「あ、す、………すまん」



 更に唖然。これは朱里自身が特にショックが大きかった。

 あの姉の口から蚊の泣き声のようなか細い声が漏れた。


 しかも、顔は暑くもないのに不自然に赤らんでいた。


 何故、と動揺する思考が疑念で埋め尽くされる。

 無意識のうちに、視線は隣の蒼助に移動した。



―――――――……っ!」



 そこに衝撃が待ち構えていた。



 蒼助がきまずそうに視線を逸らした。

 こちらもやや頬を赤くして。 

 バッと視線を姉に戻す。

 以下同じ。



「………っ……っ……」



 これは一体どういうことだ。

 パクパクと口が動くばかりで、肝心の言葉が喉の奥から出てこない。

 ようやく理解したもう一つの異なる朝の原因に気づいた朱里は考えた。

 

 落ち着け朱里。

 まず昨日を振り返れ。



 起きた朝から夜寝るその瞬間まで、こんな空気は一瞬たりともなかった。

 鳩に気を取られて公園で二人にしてしまった時だってそうだった。 


 いつだ。



 一体、いつ変化が起き――――――― 

 

 ぐるぐる思考を巡らせていた最中にハッとした。

 まさか、自分が惰眠を貪っている間か、と朱里は一気に核心に近づいた。

 一晩の間に、互いを意識し合うほどのことが起こったということ。

 そして、一体何が起こったと言うのか。 

 若くてピチピチの無限大の想像力が、考えを無限大に膨張させていく。

 

 まさかまさかまさか。

 このケダモノに押し倒されて悪代官も思わず平伏して崇めてしまうようなあんなことやこんなことを!?

 あ嘘信じられない、そんなハードなプレイまで………!

 

 二人が気まずい空気を生産し、一人が己の想像に勝手に慄く混沌の空気の中、 



 ―――――――気遣いも遠慮もなく電話が鳴った。 









 ◆◆◆◆◆◆









 電話が鳴った瞬間、全てがゼロに戻った。

 そして、その場にいた人間の注意はズレることなく同じものに集中した。

 最初に動いたのは家主である千夜だった。

 が、動いた拍子にコップが倒れ、中身の牛乳がテーブルの上一部と一面にぶちまけられた。



「あ、くそ………すまない、蒼助。出てくれないか」

「……俺かよ」

「イイから早く。向こうの言うこと一言聞いて、キレるだけでいい」

「…………」 



 知り合いだったらどうするのか、と思いつつも、言われたとおりにするべく席を立った。

 ワイヤレスのそれを取り、



「はい、終夜です」 



 とりあえず、と思いこの家の苗字を名乗ると、



『あ、千夜………―――――――って違うね。誰?』 



 受話器を通して聞こえた声は覚えのある人間のものだった。



「………あの、下崎さんっすか?」

『…………蒼助くん?』



 向こうも思い当たったのか、確かめるように口にした言葉にそうですと肯定した。



『………えーと、どうして君がこんな朝から千夜の家にいるのかなぁ……』

「え……、あ、いや……ちょっといろいろあって………べ、別にやましいことはまだ何をしてませんよ誤解しないで下さいマジで」

『…………まだ?』



 こんなところで墓穴を掘る自分が、我ながら恨めしくなった。

 沈黙すると、耳に届いたのは笑い声。 



『っふふ………ゴメンゴメン。そんなに必死にならなくても大丈夫だよ、変な風に捉えてないから。本当に何かしていたら私とこうして話していないだろうから」



 さらりと恐ろしい事を言ってくれる。



「で、用件はなんすか。伝えときますよ。千夜? ああ、今、家主はドジ踏んでその後始末でそれどころじゃないすよ」



 ひゅん、と風を切る音がした。

 瞬きの後、目の前には蒼助の顔すれすれのところの壁にぶっさり突き刺さったフォーク。 

 朝から血圧が下がる体験をした矢先、蒼助の耳に三途の声が届く。



『ああ、じゃぁお願いしようかな。お昼にウチの店に来るように伝えて』

「はい。じゃぁ……」

『あ、待って。それと………』



 まだ何かあるのか、と切る寸前で押し留め、聴く。





『………君も、一緒に来てくれないかな』





 付け足すようなその言葉を紡いだ声が、何故か背筋が凍るように冷たく無感情に聞こえた。















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