鼓膜を叩く音がある。

 それは、二種類。


 水の流れる音。
 そして、その先で地を打つ音。



 徐々に目覚めつつある身体の機能で、最初に働いたのは聴覚だったようだ。

 次に触覚が肌に触れているモノの感触を感じとる。

 柔らかい。
 それは湿り気を含み、吸い付くような感触だ。
 どういうワケか酷く冷えているが、それは間違いなく人肌の感触だった。



 重い瞼を開くと、視界が開け光が戻る。



「……ん……」



 身体の全機能が戻りつつある。

 その時だった。



「っ、気がついたか」



 耳元で聞こえた―――――――何処かホッとした様子が伝わる声。

 酷く聞き覚えのあるものだった。

 人肌の感触が離れて行く。

 名残惜しく思っていると、肩に顔を埋めていた誰かと正面向き合う形になった。



「玖珂……私がわかるか?」

「…………」 



 ぼやけていた視界が段々と輪郭を持ち、明確なものとなっていく。

 そして、立ち直った視界は"誰か"を映し出した。



「………千夜」

「ああ、そうだ……」



 穏やかに笑う千夜に、思わずつられて笑みを浮かべそうになったところで、問題が起きた。

 正常に近いところまで回復した意識が、状況と目の前の千夜の姿を捉えたことで。 



「……っぶぉぉっぁ!?」



 奇妙な叫びをあげて仰け反った。

 慌てて後退しようと勢いづいた後頭部が、勢い余って背後の壁に直撃。

 悶絶の陥る。



「なにやってんだ……」



 意識を取り戻すなりテレビで見る珍プレイ特集のような行動を取る蒼助に呆れる千夜は、それでも一息ついたばかりにと腰を床の上に降ろした。

 痛みから立ち直ったとは言い難いが、蒼助はそこをなんとか堪える。

 それよりも、顔が信じられないくらい熱い。

 現実に帰ってきて早々いきなり何だろうか。

 蒼助は、目の前に座る『疑問』思いきり言葉にして叫びたかった。






 何で、風呂場に半裸の千夜がいるんだ!!

 

 ―――――――と。






 しかも、蒼助自身も上半身何も来ていない。 

 冷たい冷水が今も尚降り注いで寒いのだが、今はそんなこと些細な問題だった。



「お、まえ……何して……」

「ん、ああ…………言っておくがな。話すが、何か一つでも変なこと言ったら風呂に沈めるからな」



 いきなり脅しか。

 大人しく頷いておくのが無難なのは馬鹿でもわかる選択をし蒼助は千夜の言葉を待つ。



「夜中にシャワーの音がするから奇妙に思って浴室覗いたら……お前が倒れてて。……何事かと思ったら、赤熱化した鉄みたいになってるから………これはまずいだろう、となんとか冷まそう思って……」



 ぽりぽり、と頬を掻き、



「冷水かけてもちっとも熱が下がらないから。……水で冷やした人肌でじっくり冷まそうと……まぁ、そんな感じだ」



 どんな感じだ。

 人肌で体温を冷ますという言葉から、蒼助の中で言葉の意味の解釈が始まる。



 ………つまり、今の今までずっと……?



 上半身裸で抱きしめられていたということ。 

 必然と行き着いた答えに、蒼助は唖然とした。



「………ずっと、その格好でか?」



 呆然と尋ねた蒼助に、ギロリと千夜は睨みをくれて、



「まだ冷め切らないなら、存分に冷やしてやるが?」



 と、何を思って怖い目をするのか、現在進行形で流れ続けるシャワーの冷水を頭から浴びせられる。



「ぶわっ……っっつめて!!」

「よかったじゃないか。それがわかるなら体温はもう正常だ」



 からかうような口調の中には、何処か安堵を孕んでいるように蒼助の耳には届いた。

 滴る水を目元から拭っていると頬に何かが触れる。

 千夜の手だった。

 冷水に当たり続けてすっかり冷え切ったそれが、そこに蒼助がいることを確かめるように頬を撫ぜた。



「よかった……」 



 心の底から、と言えるほどその吐息のように漏れた言葉は感慨に満ちていた。

 見つめられた蒼助はギシリ、と石のように固まった。

 いつのまにか周囲に流れている奇妙な空気が、そうさせた。



 ………何だ、この空気は。



 背筋がくすぐったい。

 そもそも【この状態】が問題だ。   


 視線釘付けの相手である千夜は上半身は何一つ身に付けていない。

 目にする機会は悪戯にもあったが、じっくり見たことなかったそれは溜息をつきたくなるほど見事な曲線(ライン)を描いた肢体だ。

 隠すもののない―――――――こんもりと胸部に乗った撓わに実る二つの果実は、標準の大きさを遙かに超えた代物。生唾ものだ。

 肌を伝う無数の水滴が妖艶さを煽り立てる。


 目覚めたての意識には非常に"毒"な絵だ。

 ごくり、と唾を呑み下し、蒼助は千夜の無自覚の誘惑を振り切ろうと、



「っ……いつまでその格好でいるつもりだ。服着ろ、服!」

「いや、もう濡らしちゃったから」

「ないよりゃマシだ!」 



 俺には、と心の中で付け足して、言葉どおりビショビショに濡れ細ったそれに強引に腕を通させる。

 怪訝な表情を浮かべつつも、特に抵抗はせずに好きにさせていた千夜はいざ着ると顔を顰めた。



「服がびっとり貼りついて気持ち悪いんだが……」

「なら、向こうで着替えて来りゃいいだろっっ」

「復活した途端煩い奴だな。………さっきから一体何なんだ、玖珂」

「う、うるせぇな。……いいからとっとと向こうに行けよ」



 顔を逸らしたまま素っ気無く言い捨てる蒼助の顔が赤いことに、千夜は気付いた。

 それがどういうことなのか察したのか、ニヤリと底意地の悪い笑みが浮かぶ。



「お前……もしかして私の裸見て興奮したのか?」

「っっ………何言って」

「なら、こっち見ろ」



 ぐいっと顔をがっちり手で固定させられ、否が応でも豊満なそれを見なければならなくなった。

 ぺっとり、と肌に貼り付いた服から浮き出るその様は着せる前よりもエロさを増していた。

 絶句する蒼助を見て、千夜は呆れ混じりの笑いを口から漏らした。



「ぷっ………変な奴だな。お前、女の身体なんて腐るほど見てきたくせに、何を今更私の身体見て真っ赤になっているんだ? 


 これでも―――――――元は男なんだぞ、私は」


―――――――




 極度の興奮状態に陥っていた蒼助の思考は、千夜の科白の片鱗たる言葉で一気に冷え始める。



 そして、同時に怒りの沸点を上げ始めた。







 ………何もわかっちゃいねーんだな、本当に。







 この女は何も知らない。

 自分がどういった目で見られているのかも。

 蒼助がどんな感情を抱えて葛藤していたかも。



 元は男?

 そんなことはわかっている。






 だが―――――――それがどうした。






 元が何であれ、今は【女】であることはその身体が証明しているじゃないか。

 何で、何も感じないと思う。



 静かに熱くなっていく怒りに押し上げられ、蒼助は顔を掴む千夜の両手を己のそれで捕らえた。



「……、玖珂?」

「全くお前の言うとおりだな。………女の身体なんざ見飽きるくらい見てきたのに、お前みたいな変体女に馬鹿みたいに欲情してる。………どーかしてるわ本当」

「…………?」



 日付が変わったのだろう―――――――寝る前までは男の身体が女のそれに戻っている。

 本当にデタラメな奴だ。

 せめて今のこの瞬間、男の姿でいてくれたなら自分を抑えることも出来ただろうに。


 もし、と蒼助は千夜という存在を視野に考える。




 もしも、千夜が普通の男だったら、と。




 男という箇所だけ置き換え、あの出会い、あの再会を果たしていたら。

 昶と自分と三人で男の信頼関係を築けたのではなかっただろうか。

 そんな思いを馳せ、次の瞬間には下らないと自ら一蹴した。


 今更『IF(もしも)』などと考えても、何にもならないというのに。



「なぁ、お前気づいてたか? 俺の目にお前がずっとどんな風に映ってたか……」

「………」

「お前、前に言ったよな。女に苦労していない俺は無闇に自分に手を出したりはしないって」



 記憶を思い返し、嘲笑う。



「んなわけねーだろ。知ってっか? 俺、あの夜実はすっげー欲情してたの。着替えさせた時に見たお前の裸思い出して。そんで、寝てるお前に夜這いかけようとした」

―――――――なっ?」

「あん時はさすがに未遂で終わったけどよ。……でも、今度は無理だな」



 明かした事実に驚愕して一瞬の隙を晒したその身体を、蒼助は両手に片方ずつ掴まえた千夜の手を押した勢いに自分の体重の追加をかけて、濡れた浴室の床に押し倒した。

 

「っ、」



 何も纏っていない背中を打ち付け、骨に伝わる痛みに千夜の顔が顰められた。

 これからもっと痛い思いをすることをこの少女は予測出来てはいないだろう、と蒼助は不思議なくらい冷静な思考で思った。



 陳腐な科白で、こんな言葉があったな、とふと思う。

 心が手に入らないなら身体だけでも―――――――と。



 馬鹿な科白だと小馬鹿にしていた言葉を今まさに行動しようとすることになるとは、その時の自分が知ったらどう思うだろう。

 物思いに耽っていたら下に組み敷いた千夜が、当然と言える怒ったような口調で下から睨み抗議を上げた。



「お前、ふざけるのもいい加減に……」



 その言い終えることもなかった言葉がトドメになった。



「ふざけてんのはどっちだ……」



 ぎり、と力むと歯と歯が痛いくらい噛み合う。



「何で悪意にはこれでもかってくらい敏感なくせに、好意には激ニブなんだよてめぇは」

「それとこの状況にどんな関係が……」

「あるに決まってるだろ!!」



 熱くなった思考が勢いで言葉を弾き出す。



「お前が元が男だからどーした! 飽きるほど女抱いてるからなんだ! そんなもんが、どーして俺がお前を女として見ない理由になるっ!?」



 激しい奔流に呑まれた蒼助の勢いは止まらず、



「初めて会った時から俺の目に映るお前はずっと【女】だった! 今まで出会った腐るほど大勢の女なんか及びもつかないほどに……誰よりも“女”だって感じてたんだ!!」

「何を言って……」








 そして、

















「まだわかんねぇのかよっ……―――――――俺はお前が好きだって言ってんだっっ!!」















 血を吐くような思いと共に、蒼助は奥にずっと溜め込んでいた言葉と想いを吐き出した。 



 一時の快楽などで終わらせたくなかった。

 互いの名を呼び合うことにさえ喜びを感じれるような絆。


 欲しかったのはそれのはずだったのに、



 ………もう、無理だろ。



 それを望むことも。

 何もせず、ただ身を退くのも。



 だから、せめて自分の痕を彼女に残したい。

 傷でもいい、恨みでもいい。

 どんな形でも良いから、千夜の中に【玖珂蒼助】を刻み込みたかった。



 眼下にある存在をめちゃくちゃにしたい衝動に駆られ、蒼助が見据えたのは、
















「…………ぇ?」
















 蚊が鳴くような掠れた小さな疑念の声。
 それを漏らしたのは、顔を茹でダコの如く真っ赤にして目を見開いて自身を見つめる―――――――千夜だった。

 予想外の域を軽く一っ飛びした反応に蒼助は一瞬、思考を止めた。



 ………え?



 奇しくも己の中で千夜と同じ台詞を漏らした。



 何故、こんな反応をするのか。

 仮にも犯そうとしている人間相手に。



 怒って嫌がって抵抗するのではないのか、普通は。

 なのに、現実はこうだ。

 これではまるで、



 ……告白されて、嬉しい………みたいな?



 どうにも動けなくなった。


 互いに凝視し合ってどれほど経ったのか、時間を経て先に動いたのは千夜だった。

 真っ赤になった顔をそのままに、弱まった拘束を解いてずるずると硬直状態から抜け出す。

 そして、何事もなかったように押し倒された際に床に投げ出されたぐっしょりと水を含んだ重いワイシャツを持って浴室から出て、ドアを閉めた。 



 一人残された蒼助は出て行く過程をドアが閉まるまで止めることも声をかけることすら出来ず、ただ見送った。

 その後、脱力したように四つん這いから胡坐をかく体勢に移行し、






「………どういうオチだよ、これは」






 疲れ切った声が溜息のように吐き出され、浴室に響いた。















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