部屋の外から聞こえた物音が千夜の目覚めの促しとなった。





 物音の正体は水だ、と覚醒しきらない意識が謎を解明した。
 徐々に眠っていた部分が醒めていく中、浴室のシャワーのものと細かい判断も可能となった。


 想定外の起床を強要した事象。
 ベッドの中で重たい瞼をこじ開けた千夜は怪訝に思いつつ上半身を起こした。

 風呂の戸締りは出る時にしっかりチェックしたしたはずだった。

 こんなに時間に浴室から物音がするのは誰かが使っているから、と答えは決まっている。


 そして、その誰かもほぼ確定していた。

 

 ………玖珂か。

 

 また夜中に起きたのだろう。

 何故こんな時間に、という疑問もあったが、人によっては夜中にシャワーを浴びる習慣だってあるのだからなんらおかしいことではない。

 何も気に留める必要のないことだ、と自身の関心に区切りをつけ、再び眠りに落ちようと枕に頭部を委ねた。



「…………」



 シャワーの水音が耳についた。

 それは眠りに落ちようとする千夜の意識をあと一歩のところで、引き止める。

 そう、あと一歩を踏み出せない。



「………っ、ああもう」



 痒い感覚での僅かな思考の後、とった選択肢は『観念』だった。

 気になって寝れない。


 恨めしげに薄く開いた不可視の扉の向こうを睨み、千夜はベッドから降りた。 

 扉を開くが、廊下は一切の明かりはついていなかった。

 無論、浴室も。

 しかし、確かにシャワーの音がする。



「………? ……っ!」



 一歩踏み出した先で、足に衝撃となんとも耐え難い痛みが走る。



「つぅ〜……まさか、ドアに小指ぶつけるとは。………やっぱり力落ちてるな……」 



 長く響く痛みを堪えつつ、壁に手を這わせて歩いた。

 暗闇の中を進み浴室に近づいた途端、辺りの空気の温度が急激に上がった。

 湿度を多く含んだ温かさだ。


 この感覚は、



「まさか……ドア、開いてるのか?」



 急いで壁のスイッチを押して電気をつけた。

 カチリ、という機械的な音と共に視界が浴室が明るくなる。

 目にした光景は千夜の目を驚愕で見開かせた。



「な、何だ?」



 浴室の中を白い蒸気が中を覆い隠し、溢れかえらんばかりにもんもんとしていた。



「……玖珂、いるのか?」



 呼び声に対し、返事はない。

 踏み入れた足先に伝わったのは、



「っ、冷たい?」



 こんなにも湯気が満ちている空間で、足元の水は冷たかった。

 不自然すぎる。 

 そう思いながら、蒸気を掻き分けた先で答えは置かれていた。



―――――――っ玖珂!?」



 シャワーから流れ出る湯を浴びながら床に衣服を着たままうつ伏せに倒れる蒼助がそこにいた。

 反射的に身体はすぐさまその元へ駆け寄った。 

 その際に浴びた湯は、



「な、これ冷水じゃないかっ……こんなものどうして」



 すぐさま水の勢いを止めて、動かない蒼助の容態を確かめるべく首筋に手を触れる。

 しかし、



―――――――あつっ!」



 短い悲鳴をあげて、触れた手を引っ込めた。

 その手を思わず見つめ、そして蒼助と交差に見た。

 触れた途端、肌を通して神経に伝わったのは沸騰したてのやかんに触れた時のような強烈な熱さだった。

 しばらく考え込むように蒼助を凝視して、まさか、と思い風呂の蓋を開けて転がっていた手桶で中の生ぬるくなった湯を掬い蒼助の上にかけてみた。



「っ!?」



 浴びせた湯はあっという間に蒸気となって白く立ち昇った。

 まさかの予感は当たった。

 この周囲の大量の蒸気は蒼助が浴びた冷水をその高温の体温をもって蒸発させ、気化させて出来たものだ。



「ったく、夜中に何ワケのわからないことになっているんだお前………」



 昼間は大荷物を持って歩けるくらい元気だったというのに。

 まさか、気取られないように不調を隠していたのか。だが、そうだとして反動がこれでは割に合わない。



「って………考えている場合じゃないな」



 目の前の身体を食い入るように見つめる。

 高熱に侵される状態を放っておいていいわけがない。この燃え上がらん限りの熱を放つ身体が本当に人体発火を起こしてしまうかもしれない。

 今のこの場ですべき対処は、このめちゃくちゃな熱をどうにかして下げることだ。

 千夜は再び詮を捻り、シャワーから冷水を出した。

 蒼助の身体の向けて降り注ぐ大量の冷え冷えとした水は触れるが、すぐに蒸発してしまう。

 あっけなく蒸気と化していく結果に、千夜はそれでも冷静に思案した。

 

 ………手っ取り早く済ませる方法は駄目か。

 

 他に方々があるとしたら、じっくり、と熱を奪っていくしかない。

 何がある、と可能性を形にする術を思考で練る。

 

 ………何か、ないのかっ?

 

 冷静。

 考えれば考えるほど、その言葉が遠ざかっていく。


 時間がない。

 一体いつからこの状態でいたのか。

 気づかないで朝を迎えていたらどうなっていただろう。

 考えただけで寒気がした。



「くそっ!」



 焦りが思考の機動力を妨害する。

 どんな状態、状況下に陥っても、焦りは禁物である、と普段言い聞かせている言葉がこれほどまでに無意味にはなるとは思いもしなかった。



「………っ」



 千夜は垂れ流しだったシャワーを自分の頭に浴びせた。
 一瞬、感覚を狂わせる冷たさが痺れるように脳天から伝わる。



「……はぁ……」

 服に染みていく水の冷たさで思考の落ち着きを取り戻そうと測ったのだ。

 それは同時に、千夜にある記憶を引き出させた。

 



―――――――ねぇ、姉さん』


 

 それはいつかの他愛ない記憶。

 

『雪山とかで遭難した時、どうやれば温かくなれるか知ってる?

 

『なんだ、突然。……必要以上に動かないとかか?』

 

『ブッブーっ。正解はお互い裸になってつっつきあうことでしたー! あれ、くっつき合うだっけ?』

 

『後者であることを祈るがな。……それより、そんなこと誰に教えてもらったんだ?』

 

『これ読んだの。えーとね、月刊【オトナの階段】。すっごい面白いのよ、いろんなシチュエーションの話が揃ってて、よくわかんないけど最後はどれも皆裸になって抱き合ってるの。キャッチフレーズは【いつかは来る少女の大人へのステップアップ聖書(バイブル)】。姉さんも読む?

 

『はは、姉さんは少女漫画好きじゃないからいいかな。それより、それは誰が?

 

『ランランがくれたの。退屈しのぎにも勉強にもなるわよーって』

 

『……そうか。………おい、上弦。あの馬鹿呼んでこい』

 

 回想が終わる。

 必要な知識は拾えた。

 それは、



「冷えた肌で暖めあう……か」

 

 ―――――――ならば、逆はどうだろう。

 

 可能性がないというわけではない。

 普段の自分ならアホらしいと切り捨て、もっとマシで確実な方法を探すだろうが。

 今はそんな場合ではない。



「やってみる価値はある………」



 千夜の内で一つの決意が生まれた。

 ぐっしょりと濡れたワイシャツを脱ぎ捨てる。

 シャワーは元の高い位置に戻す。

 降り注ぐ冷たさを無視し、上半身を露にした千夜はうつ伏せに倒れたままの蒼助の身体を起こそうと抱える。



「……くっ…ぅ」



 灼熱の熱さが千夜の冷えた肌に熱による痛みで嬲る。

 顔を歪めつつも、悲鳴を口の中で噛み殺し、抱き起こした身体を壁にもたれさせる。

 閉じた瞼。力なく項垂れる頭が不安を掻きたてるがそれを黙殺し、濡れて本来の藍色から紺に染め変わったワイシャツを脱がした。   

 触れないように距離を気をつけて、頬に手を添える。

 直接触れてもいないにも拘らず充分に熱気が伝わってくる。



 一呼吸の間。

 残っていた躊躇を振り払う時間だった。

 息を吐き出した後、両腕を蒼助の首に回し、充分に冷え切った上半身を可能な限り蒼助のそれに触れさせた。




「……っっ……あ!」




 熱い。痛い。意識を失うまでこの二重重ねの苦痛を蒼助は気が狂う思いで味わっていたのだろうか。

 触れている部分に焼け石を押し付けられているかのような熱さが執拗に襲う。



「くっ……」



 前門の熱さ、後門の冷たさ。

 異なる責め苦にも耐え、千夜は離れようとはしなかった。
 痛めつけられた肌がジンジンと痛み出しても、それでも蒼助の身体を手放しはなかった。



「……、あっ……頼むから起きろよ。………目が覚めて、この状態を見て痴女扱いしても一発殴るだけで……勘弁してやるから」 


 だから、と抱きしめる力を強め、より密着度を高めた。


 こんなにも必死になる理由はなんだろう。

 最中にふと思ったささやかな疑問だった。



 しかし、その疑問も床を打つシャワーの音に掻き消されていった。 















  


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