豪勢にする、と予告をもらっていたその日の夕食は鍋だった。
しかもキムチ鍋。
何故にこの季節に。暖かな春の季節に何故鍋なのか。
一瞬、遠回しな嫌がらせかと思ったが、千夜の家では気が向けば年中鍋をやるとのこと。
太陽の陽射しギンギンの夏でもやると聞いた時は正直それはどうかと思ったが、北海道の人間が真冬に暖房のかかった部屋でアイス食う感覚と同じで冷房かけた部屋で熱い鍋を食べるらしい。
正直、意味がわからなかったが。
キムチ鍋にしたは、病み上がりの蒼助に精をつけようと思ったのだと千夜は言った。
ぐつぐつと煮えたぎる鍋の熱気と強烈な匂いに食欲が一歩引いたが、隣の朱里が平気な顔して食べている様に妙な対抗心が芽生え、意地でも食ってやると思いいざ口にしてみると結構いけるものだった。
暑い時には熱いものを食べる、と言うが、ただの馬鹿のやせ我慢だと思っていた。それも多少覆った。
具も何でもアリな種類豊富。味付けも辛さを基調に濃厚さが目立ったが万人向けの美味さですいすい食べれた。
一通り具を食い尽くした後のうどんで、夕食は締めくくりとなった。
久々に腹を膨らます目的の夕食ではなく、味わう夕食をしたことで気持ちは存分に満ち足りていた。
―――――――そして、その食後。
「ほい、これが最後の食器」
「ん。そこに置いてくれ」
流しに置かれた食器を洗う片手間の千夜の返事を聞き、要求どおりにする。
これで蒼助の役目は終わった。
しかし、蒼助はその後もその場に留まり、
「………何だ?」
「いや別に」
「向こう行けよ」
「…………ちょっと、失礼」
ぺたり、と千夜の頬に蒼助の筋張った手の指先が触れる。
そのままついっと自分の方に動かした。同時に千夜が首だけこちらを振り向く形になる。
何だ、と言わんばかりに目を丸くしている千夜に構わず、そのまま指先を輪郭をなぞるように滑らす。半月を描くが如く180度で止まるそこか90度戻り、喉に降りる。
喉仏をその存在を確かめるように摩る。
ん、とくすぐったそうに喉を鳴らす反応で、離れた。
「はい、ごくろーさん」
「………何だ、一体」
「気にすんな気にすんな。もういいぞ」
釈然としなさ顔に出しつつも、千夜の顔は元の向きになる。
そうなったところを、
「うわっ」
後ろから抱きついた。腕は胸に当てて、顔を首筋に埋めた。
探るように服の上から胸を揉むように撫でる。
………カタい。
滑り落ちるように位置を下げて、腰。腰囲を測るように腕の下から触る。
崩れやたるみのない腰つき。しかし、細いというわけではなくしなやかに筋肉もついている。
顔の輪郭。胸板。腰つき。何もかも【男】のものだ。
目の前のいる彼女は、今は男。
………やっぱ男なんだなぁ。……匂いはこんななのに。
男の汗臭さや体臭とは無縁の柔らかい香りを首筋あたりにかかる髪から嗅ぎ取る。
摺り寄せた鼻にさらりとした髪の繊細な感触が触れる。
まずいイイ加減歯止めかけんと理性がふっ飛びそうだ、とギリギリのところで離れる。
離れると千夜が全身をこちらに向けてぐるりと反転させて、怪訝な表情で、
「さっきからなんだ、人の身体にベタベタ張り付いて。会社に一人はいそうな全体的にねちっこい上司のセクハラみたいに……」
「そこまで言うか。………まぁ、スキンシップを兼ねた確認を」
「ホモ度チェック?」
「誰のだ、違うッつってんだろ。……お前のオトコ度チェック?」
「はぁ」
わけのわからんという表情。
言ってもわかるまい、と蒼助はそれ以上は触れないことにした。
「ま、そんな顔でもやっぱ……オトコってことだな」
「何を当たり前な………」
「小さい頃から男になりたくて拾った本に宿っていた悪魔に男にしてほしいと願いごとして元・男と思い込まされた女かなんじゃと希望を持ってみたが………無駄か」
「本当に無駄だな。ちょっと危ない人の思考だぞ、それは………大丈夫か?」
気遣うように手を伸ばしてくる。
蒼助はぼんやりと千夜を見た。
180越えの自分より少し低いが、男の平均以上はある背丈。
細身ではあるが、立派な男の身体。
額に押し付けられたしなやかな五指を生やした手も―――――――
男。
そして、身体だけではなく心も。
「熱は………もう無いな。おかしいな」
「だから熱に浮かされて走った行動じゃねぇっての。体力も取り戻したし、明日にでも家に帰れるぜ」
「そうか。………そうか、それはよかった」
「お前にゃ二日間いろいろ世話になったな。アイツに言っといてくれや。お前と愛しの姉ちゃんとの生活に割り込む居候とも今日限りだとよ」
「ああ………」
そう受け答える千夜の表情が若干曇る。
「……千夜?」
「……っあ、いや…………その、ちょっと淋しいな…………あんまり賑やかなのは好きじゃなかったんだが………お前が入り込んだこの時間は……結構楽しかったから」
照れくさそうに笑うその様に"決意"が少しグラついた。
「っは、何言ってんだよ………夜中に徘徊し出してコップを一個ダメにしたような奴がいちゃ疲れるだろ」
「それもそうだな」
「そこは即答!?」
額に張り付く、先ほどまで水に触れてひんやりと冷たい手に名残惜しくも別れを告げる。
離れて一歩引く。
「俺、今日はこっちのソファ使わせてもらうわ」
「え、別にまだ……」
「いつまでもお前の寝床奪っとくわけにも行かねぇだろ。気にスンナ、俺はガキの頃はほとんど山の中でいつ夜襲かけられるかわからない中で熟睡したことがある」
「その状況で寝なければなくなる経緯についてはまたの機会に遠慮しておくが………まぁ、お前がそう言うなら」
「おう、後で毛布一枚くれりゃいいからよ」
背を向ける寸前、蒼助は笑顔で言った。
『全て』に踏ん切りをつけるが如く。
「そんじゃ、一足先におやすみ」
短い距離を歩き、蒼助はソファに寝転んだ。
身体は夕方の作業の後の後遺となる疲れも大して残っていなかった。
病み上がりの身体はすっかり全快していた。
それは幾つかの終わりを示していた。
………本当に終わりなんだな。
この新鮮で、居心地の良かった生活も。
千夜と過ごす時間も。
―――――――千夜に対する想いも。
初恋は実らないとかなんとか誰かが言っていたがまさにその通りだ。
実際、自分はよくやったと思う。
相手が男嫌いだったり、元・男だったり、性別変換体質だったりする女。
その時点で挫けなかったのが正直不思議なくらいだ。
理由を考えれば、簡単だった。
自分は外見や性別を差し引いて、『終夜千夜そのもの』に惹かれ、恋をしたのだ。
大事なのは顔ではなく中身だ、などとほざく連中を嗤っていた自分がそうなるとは思いもしなかったが。
身体も欲しくないわけがなかった。だが、もっと欲しいのはその心だった。
らしくもなくこの恋に対し、蒼助は酷く初心に接していた。
酷く臆病に、触れればあっさり壊れてしまいそうなまでに繊細に作られた硝子細工を扱うように。
それほどまでに、愛おしいと感じていた。
だが、それも終わりだ。
千夜の心は既に他人のものとなっていた。
それも"死"という最悪の鎖で縛られていた。
ダメだ、と蒼助の中で絶望を釘で打ちつけたのは夕刻の買い物帰りの会話だった。
死んでしまった、とあの写真の女のことを口にした千夜の目は遠くを見つめていた。
よく知る誰かのそれと酷似していた。
己の母親という最愛の女を失ったあの父親が時折見せる眼差しと同じ、死者に想いを馳せている様。
死とは、最高に卑怯な思いの残し方であり、害悪なまでの束縛。
他者が断ち切る術はないに等しい。
縛られる本人が自ら断つ以外に決して切れない強固で頑丈な鎖。
その証拠に周りにどれだけ上等な女が集い言い寄ろうと、少しも心を揺り動かさない。
縛られることを幸せと言わんばかりに。
そんな前例をよく知っている蒼助は千夜もそうだと考えた。
自分の負けは確定だ、と。
潮時だ。
今、千夜が男でよかった。
女でいられたらとても諦め切れそうにはなかったから。
千夜達が寝付いた頃を見計らってこのマンションを出て行こう。
家に帰って寝て、起きたらこの恋慕を忘れて元の自分に戻る。
何が何でもこの気持ちは忘れるのだ。
一晩に何人抱いてでも、この恋情を忘れ想いは友愛に変換。
そして千夜と接する。
想いが良からぬ方向に走ったらまた女を抱く。
すぐにとは行かないだろうが、繰り返しているうちにいつかは千夜をただの友人としか思えなくなるはずだ。
そして、このあまりにも苦味の強すぎる経験の中の僅かな甘さを胸に、いつかきっとちゃんとした女と今度こそ何の異常もない形で恋を成就出来るはずだ。
………グッバイ、俺の初恋。なかなか悪くなかったぜ。
「期間一ヶ月足らず……か。………短け」
「ん? 今何か言ったか?」
「言ってねぇよ」
蒼助は目を閉じ、短い眠りに落ちた。
その短い眠りの終わりは、僅か五時間足らずで迎える。
◆◆◆◆◆◆
蒼助は目を覚ましていた。
それは全身に灯った熱が意識に苦痛を与えたからだった。
熱い、と感じると同時に例えようのない痛み。
頭からつま先まで。
不覚の事態に思い浮かぶのは疑問ではなく、答えだった。
「―――――――っっっあ、あ゛!」
仰向けに寝た状態で仰け反り、胸を掻き毟る。
最大のにして最苦の熱と痛みがそこにあったからだ。
もがき苦しむでのた打ち回った挙句、身体は反転した勢いでソファから落ち、絨毯とキス。
鼻を打ったが全身を満遍なく痛めつけるモノに比べれば、そんなもの痛みのうちに入らなかった。
亀のように四つん這いになった姿勢で熱が籠った灼熱の吐息を吐き出す。
「あ、あ゛、あ、あ゛あ゛あ゛っ」
灼熱の熱さに苛まれるこの苦痛に覚えがあった。
それは侵食の感覚。
「くそっ…………ま、たかよ、ぐっ」
今にも全身が燃え上がりそうな熱さに、何故また、などという疑問は一瞬にして溶解して形を失くした。
熱は精神まで焼き尽くさんばかりに勢いづき、収まらない。
喉の奥が信じられないくらい渇いていた。
呼吸すらままならないまでに、カラカラに。
「はぁ……はぁ……は、ぁ……っ」
立つ、など到底できず。
両手両膝をついたまま、蒼助は這うに近い動きである場所へ移動した。
苦心の果てに往きついた場所は―――――――浴室。
身体に触れた床の水が一気に水温を上げ、蒸発していく。
まずい、と思い、苦痛と熱さの鬩ぎ合いの中最後の力を振り絞り、シャワーの詮を全開まで捻った。
留めなく溢れ出し、降り注ぐ冷水を浴びながら蒼助の身体はそこで力尽きた。
水で濡れた床の上にうつ伏せに倒れこんだ身体から立ち昇る白い湯気。四十度を遙かに上回った体温を宿した蒼助の身体の熱に冷水すら蒸発せざるえないのだ。
「……くそ、やっべ……脳ミソ溶けそ……」
正直な話、脳味噌どころか身体まで溶けたアイスのようにドロドロに溶解してしまいそうな気さえする。
【最初の時】よりも酷い。
これではまるであの苦痛がほんの前触れでしかなかったように思える。
それから考えると、今のこの痛みは“あの男”がメインディッシュを食べる勢いで本格的に侵蝕を始めたということになる。
「こ、れが……てめぇの本気とでも、……っ言いたいのかよ」
強烈だ。
何処までも容赦なく、獰猛。
それを不意打ちでやられたらこちらに為す術はない。
あとは、ただ食われるのみ。
それが残された道。
「っざけんな、こんなんで……俺の人生終わっちまうのかよ……取られちまうのかよ、こんな簡単に……」
………ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。
冗談じゃない。
初恋は破れたとはいえ、まだ千夜と並ぶことを諦めたわけではない。
恋人がダメなら相棒でもいい。親友でもいい。
どんな形になろうと彼女と生きると決めた。
どんな形で居ようとも、最高の人生となるであろうその道を選んだばかりなのだ。
それをこんな、ワケのわからない奴に、中途半端なタイミングで邪魔されてたまるか。
「っそー……簡単に上手くいくと、思うなっ……よ。…………みっともなくても、絶対に……足掻いてやるか、ら―――――――な」
そこまでが最後の言葉となった。
動かなくなった蒼助の身体から発生する白い蒸気が浴室一杯に溜まり、やがて蒼助自身の身体すら埋め尽くしていった。
シャワーから流れ出る水音とそれが床を打つ音だけが、深夜の時間に響いた。