一室を充満する湯気。

 煙のように上へ昇っていくわけでもなく、呼吸器官を侵すわけでもない。

 ほんのり温かでさえあるそれが満ちる空間―――――――バスルームに蒼助はいた。



 自宅のより遙かにサイズの大きい風呂の中で、適度の温度の湯の中に浸っていた。


 十分に足の伸ばせる広さの中で、蒼助はゆったりと寛いで―――――――

 

「もうちょっと、そっち行ってよ。陣取りすぎ」

 

 ……いなかった。

 

 蒼助の安らぎ気分を見事ぶち壊してくれた朱里は“その隣”でムスッとした顔で居座っていた。

 彼らは何故か、一緒に居た。



 一緒の風呂に入って。









 ◆◆◆◆◆◆









 時は僅か五分ほど前に遡る。



 買い物からの帰宅後、千夜の最初の開口が全ての発端となった。

 

―――――――玖珂。お前、今すぐ風呂入って来い」 

 

 帰ってきていきなりの台詞に、「は?」と蒼助は眼を瞬いて千夜の顔を思わず見た。

 突然何を言い出すのか。



「昨日風呂入っていない上に、汗かいてそのまんまなんだろ。いい加減ばっちいから洗って来い」

「何でまたいきなり……飯食ってからでもいいだろ別に」

「却下。汗臭さと不潔さで混沌の化身と化している奴に食わす飯は無い。つべこべ言わすにさっさと行け」

「なっ……」



 有無も言わないという口調に反感を覚え、言い返そうとするが、



「玖珂」



 突然、千夜の目が厳しい目付きになる。

 ビシッと指を蒼助の鼻先に突き付け、



「郷に入ったら郷に従え、という言葉がある。うちに踏み込んだからには、うちにいる間はうちの決まりに従ってもらう
 
 ―――――――
朱里、この汚物を風呂に叩き込んでやれ」

「はーい」



 終いには手下(朱里)を使った実力行使でバスルームに連行された。

 そして、どういうわけか、

 

「…………何で、お前まで入ってんだよ」 

「姉さんが……直前でついでに一緒に入って来いって耳打ちしたのよ。…………私、ヤダって言ったのにぃ」



 さめざめと涙を湯の中に垂れ流す朱里を傍目に、蒼助も何が哀しくて小学生に風呂に付き合ってもらわなならんのか、と泣きそうだった。

 そんな二人分の虚しさと切なさで、風呂の中の空気が湿っぽくなった時、



「……洗うか」  



 ゆっくり足を伸ばせないのなら、と蒼助は湯の中から出た。

 身体を洗うべく湯船の外へ移動。

 その過程を観ていた朱里がゲッと顔を顰め、



「うぅわー……グっロテスクな色ー。……どん引きなんだけど」

「……俺は小学生に自分のモノ見られて実直な感想言われてどん引きなんだがよ」

「ねー、それって元からそういう色なの? 使いこむとそういう風になるの?」 

「後半の台詞が出るあたりでもう手遅れもかもしれないが、小学生はそういうこと知らなくて良いの」



 一体千夜は妹にどんな教育しているんだろうか。

 耳年増な小学生を傍らに、風呂場のイスに腰を下ろした蒼助は湯の詮を捻った。

 流れ出た湯で濡らしたタオル片手に石鹸を擦り付けていると、



「………」

「なんだよ」



 まだジッと見てくる朱里に蒼助は手を止めて、怪訝な表情でそちらに視線を向ける。

 幸い視線は高さからして先程の対象とは別のモノを見ているのは確かだった。 

 食い入るように見ていた朱里がふと口を開けた。



「すっごい筋肉………漫画で見るみたいにボコボコしてないけど」

「あん? あんなんボディービルダーくらいしか現実にはいねぇよ、一緒にすんな」

「何、ボディービルダーって」



 ガクリ、と項垂れる。



「お前……歳不相応な余計な知識持ってるくせにそんなんも知らないのかよ」

「むぅ、知ってるならちゃっちゃと教えてよ」



 知ってどうするのか、と疑問に思いつつも、この歳の子供は何でも聞きたがる、そうして大人になっていくのだ、とどっかで聴いたような聴かなかったような事を思い出して自分を納得させ、



「モテねェ可哀相な男が、筋肉鍛えて下克上したろうとか馬鹿な考え持った挙句の成れの果てだ」

「……成れの果て?」

「ようは筋肉バカだ。お前そーゆー男にだけは惚れるなよ。筋肉は鍛えられても頭の中は鍛えられてないからな」

「ふん、言われなくても。朱里は姉さんみたいな美形が好きだもん」

「あーそうですか」



 アレと同じレベルの美形なんてそんじょそこらで転がってるもんじゃないだろうに。

 これは結婚が遅くなるタイプだ、と傍らの少女の将来を柄にもなく心配してしまう。

 ゴシゴシ、と泡立ったタオルで身体を擦っていると今度は何か発見したように、



「そういえばよく見ると、蒼助って割と美形なのね」

「はっ、今になって気づいたか」

「姉さんには劣るけど」

「オイオイ、そりゃお前………ありゃぁ別格だろ別格」



 完璧すぎるといっても過言ではないあの美貌を前にしては、そこらの俳優も裸足で逃げるしかないだろう。



「……そういや、お前も……」



 蒼助にも会話の中で朱里の顔を見ていて、気づいたことがあった。

 確かめるように顔を近づけ、



「よく見ると結構似てんのな」

「似てるって……誰に?」

「お前の姉ちゃんにだよ。最初はその真っ白な髪に気ぃ取られて気づかなかったけどよ………やっぱ、キョウダイって感じするよな」



 目鼻立ちはやはり何処か千夜に似ていた。

 良かったな顔は将来有望で、とわざと場所を特定して言ってやる。

 挑発に乗って突っかかってくる反応を待っていたが、それは来なかった。

 

 きょとん。

 朱里は怒りはせず、固まっていた。

 その表情は純粋な驚愕。

 確かめるようにその小さな口は動き問いを形作る。



「……本当に? 朱里は、姉さんと似てるの?」

「あ、ああ………今気づいたけどよ」



 それを聞くと朱里は、ほんのりと顔を赤らめ、感慨深げに呟いた。



「そっか……似てるんだ、ちゃんと。……………良かった」



 その言葉から察するに、朱里自身も自分の容姿について悩んでいたことが伺えた。

 やはり自分の目から見ても、己の容姿は姉である人物とは共通しているとは言い難いと思っていたらしい。



「………気にしてるのか?」

「…………」



 問いに対し目を伏せた。

 肯定のようだ。

 気にしない、という方が無理な注文であるとはわかっているが。



「皆、キョウダイって言うと変って言うの。似てないし、朱里はこんなだから………だから」



 無神経な大人たちの陰口。

 悪気のない子供の無垢な刃。 

 大勢の人間の悪意たるそれがこの小さな少女にどれだけ降り注ぎ、傷つけただろう。



「朱里は、朱里だけが悪く言われるなら別に平気………でも、関係ない姉さんまで悪く言われるのだけは、許せない」 



 傷ついているのは自身であるはずなのに、それでも尚気遣うのは最愛と慕う姉。

 強がっているのはほんの一面で、本質はとても献身的なのだ、と蒼助は少女の芯を理解した。



「……別に、いいじゃねぇか。血は繋がってんだろ?」 

「………わかんない」 

「わかんないって………オイ、待てずっとアイツと一緒だったんだろ?」 

「……一緒に暮らし始めたの、二年前から。物心ついた頃には、それまで一緒暮らしてたお母さんは私を孤児院に入れてそれっきりだし。その後も、ワケわかんない変な施設に入れられちゃったりしてワケのわからないこといろいろされたし………おかげでちっちゃい頃の記憶も今じゃ殆んど曖昧だし」



 何だワケのわからないことって。

 急激に話の雲行きが怪しくなってきた。それも同時に人には軽々しく言えない暗い過去まで明るみになった。

 気のせいか、風呂場の空気が異様に湿っぽくなって来ている。 



「でも」



 どろどろとした空気の生産がそこで止まる。



「いろんな事の中で、自分の名前とかお母さんの顔すらわかんなくなってく中で、ずっと忘れてなかったことがたった一つだけあるの。お母さんがね、お別れ時に言ってた。"お母さんとはここでお別れだけど、何があってもこれだけは忘れちゃダメよ。いつか、必ず朱里を迎えに来てくれる人がいるということを。朱里の中の一握りの記憶とこれだけは、お母さんや自分が誰なのかを忘れても忘れちゃダメだからね"って」



 手すりにかけていた手を外し、ちゃぷりと水音を響かせて肩まで浸かる。



「施設に入るまでの記憶はもう殆んどぼやけてちゃってるだけど………赤ちゃんの時の事はちょっとだけ覚えてるんだ、はっきりと」



 普通それこそ覚えてねェだろ、と突っ込みたくなったが、さすがにシリアスな中にそんな横槍はまずいだろうかと思い直し、蒼助は無言を維持する。



「揺りかごの中の朱里を誰かが覗き込むの。今の朱里よりもう少し小さい子供が。男の子だったか女の子だったかはそこまではわからなかったけど、朱里の事をこれが自分の妹かってもう一人いる誰かに聞くの。そうだよって、誰かが言って……その子供が誰かを向いている間に朱里は頬っぺたつんつんしてた指を握るの。その指がすっごく温かくて、安心して………そんな記憶だけは……ずっと、覚えてた」



 うっとりとした表情で、その赤い目は何処か遠くを見つめて、



「名前も思い出せなくなって、お母さんの顔も忘れちゃった頃に………姉さんがね、私のところに現れたの。最初は、ちょっとびっくりしたけど……優しく姉さんは朱里に向かって笑って、手を差し伸べて……迎えに来たよって、待たせてゴメンって、これからはずっと一緒だよって。………突然すぎて頭の中の中ごちゃごちゃでワケわかんなかったけど、その手は取らなきゃいけないって思って………そうして取った手がすっごく温かくて……その温かさが記憶の中のそれと同じで。………この人がお母さんが言ってた人なんだって。お兄ちゃんか、お姉ちゃんなんだって………って、今はお姉ちゃんだけど」



 付け足しの後、一息置かれる。 

 息を吸い、語り手たる少女は再び言葉を紡ぎ出した。 



「周りが朱里の見かけとか姉さんとのことで何か言って、それで朱里が泣くと姉さんは言うの。"無駄に細かい馬鹿のいうコトなんか気にするな。朱里が私を兄だと思って、私が朱里を妹だと思う。その認識が成り立ては立派なキョウダイで家族だろ。世の中には血が繋がってたって認めないとか喚く例だっているんだ。そんな連中より私達の方がずっとキョウダイらしいじゃないか"って。だから、周りのいうコトはムカつくけど朱里は平気」

「………なら、いいじゃねぇか」



 黙っていた蒼助の開口に朱里は水面に俯いていた顔を上げ、見る。

 視線が捉えた自分と同じく裸体の男はシニカルに口端を上げて笑っていて、



「アイツは他人の無駄口いちいち気にするような柔な神経してねぇってのは【妹】のお前ならよく理解ってるんだろ? ったく、同感だぜ。てめぇの悪口にゃ野生動物みてぇの反応しやがるくせに、他人のことにゃ何も考えてやしねぇ。……あーゆークソな連中はツラ見てると鼻へし折ってやるたくなるね」



 うんざりげに話す蒼助を見ていて朱里はハッと我に返った。

 自分は何をしていたのだろう。

 こんな他人に自分の内情をペラペラ口を滑らせてしまうとは。

 湧きあがる羞恥心が浸かる湯以上の効果を出し、顔の熱が一気に上昇する。

 自身の不覚とそうなる筋に誘導した蒼助に対し、やや理不尽にも怒りを向けた。



「なによ、わかったような口聞かないでよっ。アンタみたいにチャラチャラした奴に、朱里みたいなのの気持ちなんてわかりっこないもんっ……」 

「残念だな。生憎、わかるんだわ―――――――俺もそうだったからな」



 思いもよらない言葉が蒼助の口から出た。

 その瞬間、理解を要した朱里の思考が僅かな時間停止した。 

 今、この男は何と言った。

 この特に異質な点が見れない人物がかつては自分と同じ思いをした、と。

 そう言ったように聴こえたのは気のせいか。

 言葉を失う朱里に構わず、蒼助は特に感情の起伏なく語り始めた。



「俺は由緒正しい血統だがなんだかの退魔師の名家に生まれたんだが霊力が全然名前負けしててな。普通ならそーゆーデカイ家は親戚内で結婚するらしいが、ウチの親父は何処の馬の骨とも知れねぇ家の女と反対振り切って結婚しちまいやがってよ。そんで生まれたのがこんなだから散々言われてな。中でも酷かったのが、俺が親父の子じゃなくてヨソの男の子なんじゃねぇかって奴だな」



 朱里の表情が強張る。



「今思い出してもかなり手痛い言葉だったな、ありゃぁ。くだらねぇ、と一言で片付けばなんてことなかった。だが、そうは行かなかったんだな。そうならなかった原因は俺だ。俺は親父にちっとも似てねぇガキだった。しかも、親父の家の血筋は皆霊力に個人差はあれど恵まれてるのに対して俺は出来損ない。デマカセでしかないはずの一言も一応は筋が通っちまう」

「……………おとう、さんは?」



 それに対し何と言ったか、と問いたいのだと蒼助は意思を受け取る。

 父親は朱里が心配しているような、蒼助とその母親を捨てるなんてことはしなかった。

 それは有り得なかった。


 何故ならあの男は母親に盲目なまでにベタ惚れ。若くして既婚者であった父・善之助は前妻と離婚してまで蒼助の母親と一緒になったくらいだ。  

 蒼助の母に出会って以来、善之助の世界は彼女を中心に廻っていたと言っても過言ではなかった。 



「あー、親父なぁ………んーと」



 少し迷った。

 この先は小学生は立ち入り禁止のR指定仕様が若干含まれている。

 言っても教育に悪影響はないだろうか。

 躊躇の末、結局、



「キレた。溺愛してる女房とそのガキにケチつけられたんだ。ましてや、夜一生懸命作った女房との共同作品。それを他の男との、なんて言われちゃな…………馬鹿なこと口走った奴は一応生きてるぜ。片腕だけどな」



 ひっ、と血の気の引いた脅えの青に染まった顔で小さく悲鳴をあげた。

 やはりグロ系は別か。失敗だ。

 しかし、中間部分の言葉の表現は控えめにしようと試みたが、返って生々しくなった気がする。

 やはり自分に国語的表現力はないのだろうか。

 ダメと言ったら勉強全般に及ぶが。 



「当主……ボスのお怒りを目の当たりにしたその他はそれで表面的には大人しくなった。ま、陰口は相変わらずだったが、マシな方だったかな」

「………蒼助は……辛く、なかったの?」



 気持ちがわかるのか、しんみりした様子で朱里が尋ねる。



「昔はそれなりにな。今じゃ耳にタコだよ。元々、家を継ぐとかそういう面倒くさいのには興味なかったし、そんなに五月蝿く言うなら出てってやるよな感じで今は一人暮らししてんだ」

「………結構、苦労してんだ」



 重さを感じさせないように気楽さを強調して蒼助は話したのだが、軽減にはならなかった。やはりちょっとやそっとではこの手の黒い話は軽くはならないようだ。



「ま、こうして自分の身の上話まで出して俺が言いたいのはだな。皆それなりに不幸なんだってことだ」

「………?」

「お前が一人が世界中全部の人間の不幸背負い込まされたわけじゃねぇんだ。現に俺のことだって今可哀相だとか思っただろ? お前を可哀相だとか思ってる奴こそ自分がそれなりに可哀相なんだって気づかねぇ馬鹿なんだよ。そんな可哀相な連中が何言おうと気にすんな。ムカついたらぶん殴ってやれ。言いたいことも言えないで我慢して苦しい生き方するよか、その方が楽しいぜ」



 そう言って笑い、降り注ぐシャワーを頭から被る。

 朱里は暫し蒼助が見せた笑顔を脳裏に反映させ、見惚れた。  

 自分のように辛い境遇で生きても尚、それが欠片も見れない笑顔を浮べられる蒼助が羨ましく思えた。

 この男のように、楽しく生きて笑いたい。

 と、思ったところで我に返った。  



「え、偉そうな事言わないでよ馬鹿っ! アンタなんかに言われなくたって、朱里のこと何もわかってないやつらなんかに負けないんだからっ……このお節介!」

「ったく、本当可愛くねェガキだな。………他人が折角励ましてやったのに……」

「うるさい、うるさーいっ。そんな事して点数稼ぎしようってしても無駄なんだからね!」



 バシャーッと勢いよく立ち上がり、朱里の人指し指が蒼助にビシっと突きつけられる。



「姉さんはもう恋人作らないって言ってたんだから! 男のアンタなんか尚の事望みゼロ! わかったらせめて男らしく諦め―――――――

「そうだな」



 それば同意の言葉だった。

 ふえ?と朱里が目を見張れば、先程まで自分をからかっていた男の表情は一瞬目を疑うほど無表情。


 蒼助はシャワーを止めると立ち上がり頭をガシガシ掻いて水を飛ばすと、



「お前の姉ちゃんは……俺にゃちょっとハードル高かったみたいだわ」 

「え……ちょ、」



 突然何を突飛なのことを言い出すのか、戸惑う朱里の頭に手を置き、



「お前、髪の事何か言われても気にすんなよ。この真っ白い髪、似合ってるぜ」



 濡れた大きな手が脳天の髪を濡らして、離れる。

 呆然と蒼助が風呂場から出て行くのを見届け、ドアが閉まった後、座り込むように湯の中に沈みこむ。 



「何なのよ………一体」



 あれだけ姉に気があると素振り丸出しだった男が突然、諦めるなどと言い出す理由がわからない。

 わからない、と思った直後、理由が脳裏をリフレイン。



「その気がないからって………たったそれだけ、普通あきらめるっ?」



 なんだかそれはそれでムカつく。

 成り行きとはいえ、自分と姉の世界に入り込んでさえみせたくせに、こんな簡単に諦めるなんて。

 ムカムカッと怒りが膨れ上がる中で、ふと熱が冷めるように思い直す。



「別に……いいじゃない」



 これが自分が望んだはずの結果だ。

 悪い虫な邪魔者はいなくなって、また姉と自分の生活が戻ってくる。

 これでいいはずなのに。 


 何だ、この胸の奥でもやもやと漂う感じの悪い気分は。


 あの男は嫌いだ。

 男を重視した、他人を近づけない気質のあの姉が驚いたことに気を許している。

 今日の買い物の最中、楽しげに会話している様子に危機感を覚えた。

 このまま姉を取られてしまうのではないか、と。


 そんなの許せない。 

 やっと手に入れた幸せをたった一人の人間に横から取られてしまうなんて、我慢ならない。


 けれど。



「………髪、似合ってるのかな」



 湯に浸かって、濡れ細った白の長い髪を一房摘む。

 初めてだった。

 姉以外に、この髪を誉められたのは。

 子供には白髪とからかわれ、大人には薄気味悪いものを見るような目で常に見られてきたロクなことを招かなかった大嫌いな髪。  


 水面に映った自分の顔を見る。 

 大好きな姉に似てると、先ほど言われた己の顔を。



「似てる、かな」



 それも初めてだった。

 キョウダイであることを疑われるばかりだった、この顔を似てると言われたのも。

 耳に残る言葉に口が緩む。

 嬉しい。

 よく考えてみれば、姉があれだけ親しく接する人間が悪い人間なわけがない。

 自分とて、"ある意味"姉以上に他人の善し悪しを識別に長けている。



 それで、あの男は、



「……悪い奴じゃ、ない」



 自分を雪ウサギなどと呼んでからかうが。

 子供相手にムキになって向かってくる大人気なさだが。

 悪い奴ではないが善人とも言い切れない。



「………でも」 



 言いかけて、ぼんやりとしていた頭をぶんぶんと振って、もやのように思考にかかる霧を払う。 

 まだ、足りないと湯の中に頭ごとすっぽり潜る。  



 認めたくない。

 心の何処かで、あの男を好きになりかけている自分を。

 認めたくない。 

 姉に関心をなくしたあの男に会えなくなるのが寂しいなどと思う自分を。



―――――――ぷはぁっ!」



 ザバァッと大量の水分を纏って湯から這い出る。

 そのまま湯船から出て、容器から出したシャンプーを手に乗せ、頭でガシガシと泡立てる。

 もやもやしたものをこそぎ落としたい一心で朱里は痛いのを我慢して指先十本を駆使して掻き回す。

 

「〜〜〜〜っ!」

 

 シャンプーが目に入り、悶絶。

 声無き悲鳴がバスルームに響いた。 














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