意識が眠りの底から浮上し、その水面近くまで来た。
そして、朱里の目覚めかけの意識は、追い討ちをかけるように窓から差し込む眩しい朝日によって完全に起こされた。
「…ん゛………んー」
瞼の下で闇に浸っていた二つの眼に慣れない光は痛く、逃げるように布団の下に潜り込んだ。
今日は土曜日。週に二日しかない学校に行く必要のない日。せっかくの休日なのだから『隣にいる人』と一緒にもう少し惰眠を貪っていたい。
同じ上にいるはずの温もりを求めて、手探りに探すが、
「……………んぅ?」
首を傾げた。
いくら手を伸ばし、動かそうと何の手応えもない。
いつもなら、手を伸ばせばすぐそこに、
「………いない」
呟き、起き上がりバッと布団を捲りベッドの中を露にしたが、そこには『いるはずのその女(ひと)』の寝ている姿形はない。
ベッドには朱里一人だけだった。
「姉さん?」
尋ねに答える声は当然のことながらない。
おかしい、と思い、昨夜の記憶を振り返る。
久々に夜中に目が覚めて、トイレ帰りに姉の部屋に行ったのだ。
以前は毎晩姉と寝ていた。しかし、姉がもう五年生なんだから一人で寝ろとうるさく言うので、夜中に目が覚めた時だけ途中から姉のベッドに潜り込んで寝るに押さえた。
そうして、ベッドに潜り込んでふくよかな胸に顔を寄せて二度寝した。
その時は、姉は確かにこのベッドにいた。
「む、名残り惜しいけど………」
姉の残り香が僅かに残るベッドを降りて朱里は姉の部屋を出た。
大して長くない廊下を歩いて、遮りであるドアを開ける。
広いリビングに姉はいた。
ソファでこちらに頭を向けて寝ていているようだった。
何故、こんなところで寝ているのかはさて置いて、大事な人の姿を確認してようやくホッと一息するかと思ったが、
「…………え?」
おかしなものが視界に入った気がして朱里は眼を擦った。
もう一度凝視。
更にゴシゴシ。
凝視。
何度同じ事を繰り返そう、見えるモノは変わらない。
一人しか寝ていないはずのソファから腕が、一本はみ出して垂れ下がっている。
それも不自然な方向で。向きからして明らかに姉の腕ではない。
不審と嫌な予感を同時に感じた朱里は、そろりそろりと姉を起こさないように歩み寄った。
「―――――――っ!!!」
眼にしたものの衝撃は予想を遥かに上回り、そしてデカかった。
すやすやと安穏とした様子で姉は眠っていた。
ただし男の姿でだが。
いや、姿に関して何かおかしな点はない。寧ろ、以前はこれが当たり前の姿だった。
問題は眠る姉の上に―――――――【乗っかっているモノ】だ。
「な……な゛………っっ」
思考は混乱混雑。声はろくに声にならず。
眼は、ただただ今目の前で続いている光景を直視するしかない。
最愛の姉の身体の上に―――――――【男】が覆いかぶさっている覚めない悪夢を。
「………―――――――っんの」
慄いていた精神がついにぶち切れた。
タガが外れて飛び出したものは、
「朝から一体全体何なのよ、これぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――――っっ!!!!」
とりあえず、惰眠を貪っていた大人(?)二人を眠りから引っ張り出し、外のベランダで屯(たむろ)っていた雀達を空へ散らせた。
◆◆◆◆◆◆
いきなり甲高いキンキンした絶叫に近い怒鳴り声で起こされたかと思ったら、何コレ今の状況。
そんな蒼助の気分は本日の外の晴天の青空と引き換え、どんより曇り空のような感じだった。
しかし、その隣には更に上回る気配が。
こちらは言い表すなら雷雨が適切か。
その最悪の天候を気配で表現するのは今朝、これ以上にない騒々しさをもって起こしてくれた少女。昨日、最悪の出会い方をした千夜の妹。
きりり、と眉を吊り上げて眉間に皺を寄せて、あからさまな『不機嫌』を装っている。
心なしか、自分と少女の周囲だけ空気がピリピリ放電しているように感じれた。
絶対に気のせいではないだろうが。
「…………」
「……………………」
辛い。
この異様に張り詰めた空間は非常に居辛い。
場を和ませてくれる唯一つ可能性を秘めた千夜は、現在キッチンで朝食を作っている。
孤立無援。今の己の状況を言い表すには、これ以上の言葉はない。
「………ぃ」
ん?と小さな音が聞こえた右を振り向くと、そこには少女がいた。
気のせいか、と思いもう一度捻ろうとした時、声は今度こそ確かに響いた。
「変態」
がん、とコンクリートの塊が脳天にぶち当たったような衝撃とショック。
がくりと倒れ込みそうなところをぐ、と堪えて蒼助は自分に言い聞かせた。
確かに、今朝のアレはそう貶されても無理はないだろう。
寝相のせいだかなんだか知らないが、例え意識のない状態でもあの体勢は上になった人間が悪いに決まっている。
一晩経っても完全には引かなかった熱のせいか、いつもなら自分に非があっても簡単にぶち切れる理性の糸はたるんでいた。
しかし、
「変態変態変態変態変態………―――――――ホモ」
こんな状態でも許せない、譲れない一線だけは存在する。
「………ヲい、ガキ。てめぇ、人が下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
「フン、何よ。男に覆いかぶさって寝てた変態を言い表すには他にないじゃないホモ」
「っ、二度も言いやがって……大体、俺は男には興味もなけりゃ勃ちもしねぇよ。お前こそ、その若さでそんな言葉自然と出てくるなんざ頭湧いてじゃねんじゃねーのか、ああ?」
「はっ、馬っ鹿じゃないの。小学生どころか幼稚園児だって無邪気に使ってるよ、それぐらい。てゆっか、近づかないでよ口臭い」
「お前こそ、その上越えるなよ。小便クセェ」
ここを境に、二人の中でエンジンにアクセルがかかった。
「大体、私と姉さんの愛の理想郷に何で、アンタみたいな男が土足で踏み込んでいるわけっ!? 出てけ馬鹿ぁっ」
「この状態で出来るか、タコっ! そもそも此処に来たのは俺の意志じゃねぇ!」
「うるさいうるさい! 姉さんにアーンしてもらうのは朱里だけの特権だったのにぃ!」
「見てたのかよ! その歳で覗き趣味か、このませガキっ」
「ホモの強姦魔に言われたくないわよっっ」
「ホモじゃねェっつってんだろっ! 手ぇ出すなら女の時にするに決まってんだろ!」
一瞬の沈黙。
プルプルと朱里の身体が震えたかと思うと、
「いやぁぁぁー、両刀使いぃぃぃっ!!」
「待て待て待てつーかホモ要素からいい加減離れやがれってんだっっ」
更に加速。
そこへ、どうにも止まらない口論を止める女神の声が間に入った。
「朝から盛り上がっているところ悪いが、朝飯できたぞ」
ぴたり。
「……一時休戦」
「腹が減ってはなんとかって言うしな」
食は偉大なり。
しかし、朝御飯を求めて隣のダイニングテーブルに移動する蒼助を千夜が引き止めた。
「そうだ、玖珂」
「ん?」
「お前、ホモって本当なのか?」
「………………」
久々に心の底から泣きそうになった。
◆◆◆◆◆◆
テーブルに並べられた朝食を前に会話が始まった。
「まぁ、まずは改めて状況の説明と個人の紹介だな………って言ってる側から一斉に食べ出すなそこの大小二人」
ちゃきちゃきと空腹を満たすべく箸を動かしていた朱里と蒼助。
「いいじゃねぇか、食べながらでも」
「そうよ、姉さん。こんなのの説明なんて食べる片手間で十分だよ」
「んだと」
「何よ」
紹介するまでもなく既に一触即発の関係を作っている双方を溜息を付きつつ、千夜は口を開いた。
「まず玖珂。そっちの白いのは私の妹の朱里だ。ほら、挨拶しなさい朱里」
「………………………………初めまして」
どこか釈然としない間が気になったが、何か文句を言うより先に蒼助の番が来た。
「次に朱里。こっちの目つきの悪いのは私の友人の玖珂蒼助だ」
「悪かったな、目付き悪くて。……まぁ、よろしくな雪ウサギ」
「なっ……誰が雪ウサギよっ」
「あー………なるほど。なかなか的を射てるな、それ」
「―――――――っ!?」
最愛の姉のまさかの裏切りに、朱里はプルプルと小刻みに震えた。
見つめる目がウルウルと涙目になってきたところでハッとし、
「あ、いや……いいじゃないか。私は好きだぞー雪ウサギ可愛いし」
「……っっう゛ー」
何故か特に問題のなかったフォローはトドメになった。
オロオロと蛇口を捻った水道のように涙を駄々漏れさせる妹を必死で泣き止まそうとする千夜のその様は、普段からは想像もつかないほど滑稽に蒼助の目に映った。
家族の前ではこんな表情もするのか、など。
意外と姉馬鹿なのか、など。いろいろ思わされる。
あれこれして何とか朱里を泣き止ませた千夜はふーと一息つき、
「話が逸れたが………朱里、このお兄さんは土日の間体調が整うまでうちに泊まることになった。仲良くしろよ」
「え」
明らかに不満そうな顔をする朱里のその反応は蒼助にとってはもはや予想の範疇だった。
「姉さん………正気? 本気で、それ言ってんの?」
「至って正常だよ。構わないだろう。犬猫と違って帰る家があるんだから、長期間居座ったりしない」
「明らかに犬猫よりタチ悪いよっ!!」
バン、と叩いた両手が揺れた。
「今朝のこと考えれば絶対反対っ! 姉さん、起きた時自分の上に何が乗っかってたか忘れてない!?」
「乗っかってただけだろ。別に妙なすっきり感も下着も下ろされてなかったし。なぁ?」
「そこで何で確認するかのように俺に聞く。信用してねぇのか」
「してるとも。一応」
最後の一言だけがどうにも腑に落ちなかったが、ともわれ千夜は自分が無実と思っているだけ救いがあった。
「朱里、私がそんな奴と拘り合うと思うのか? 変態色魔絶滅希望者のこの私が」
「う………そりゃぁ、そうだけど……」
「コイツはそんな奴じゃないよ。それに玖珂は男じゃなくてふつーに女が好きなんだ……多分、きっと、恐らく」
「何で確率がどんどん低くなっていくんだ。つーか、余計だその部分」
というかホモじゃないから安心というのもおかしくないだろうか。
普通、健全な男だからこそ一応は女の身として警戒すべきなのが正しいのでは、と蒼助は口にはせず心で呟く。
「まぁ、女たらしだからこそ逆に安心なんだよ」
「………?」
言葉の意味をわかりかねているのか、怪訝な表情で眉を顰める朱里。
「大きくなったら、朱里にもわかるよ」
なぁ、と何故かこちらに同意を求めてくる。
自分が出会って数分の見知らぬ女を躊躇もせず抱いても、友人には手を出さないことを知っていて言っているのか。
しかし、その予想は残念なことに外れている。
確かに自分は、玖珂蒼助は友人には手を出さない。
だが、千夜だけは別なのだと。
あらゆる枠を超えた、この唯一人は除くのだと。
今は理性で欲望を抑えていることを彼女は知らない。
「さて、話が長引いたな。朝飯が完全に冷めてしまう前に片付けよう」
◆◆◆◆◆◆
朝の十時という大分遅い朝食を終えた後、蒼助はベッドに戻された。
シーツはいつのまに取り換えられたのか、汗で湿っていたそれではなくさらさらと手触りのいい新しいものに換えられていた。
寝心地のいいその上に転がり、蒼助はしばらくゴロゴロと暇を持て余していた。
「……暇だ」
一晩経っても完全に引かなかった熱は、まだ胸焼けのような焦れったさを蒼助に与えながら残っている。
微熱程度だが、千夜は安静にしていろと言う。
なりゆきとはいえ面倒見てもらって身で嫌だとは言えないので大人しくしているが、こうしていても一向に眠気はやってこない。
こういう時に限って、人間というのはやたらと動き回りたくなる。
ジリジリと時計と天井を見つめて過ごして、ようやく二時となったところで蒼助の限界が来た。
「……だーっ、くそ。……退屈で死んじまいそうだ……」
そんなわけがないのだが、それぐらいこの無意味な時間はきつい。
何か退屈しのぎは出来ないだろうか、と怠惰の中で緩んだ思考を働かせる。
とりあえず、ここは千夜の部屋だった。
さすがは元は男の部屋。
普通の女がするようなゴテゴテした無駄なものが置かれも貼られてもいない。
必要以上のものがないシンプルなレイアウト。
アイドルのポスターが壁や天井に貼ってあってもヒいたが、これでは暇を紛らわすネタも見つけられない。
「せめて、ゴテゴテのクマのぬいぐるみでも隠してありゃ、からかうネタになりそうなんだが………」
と、呟きながら先ほどから気になる配置物をちらちら見る。
この部屋に唯一千夜の私物が仕舞われていると思われる机の引き出し。
さっきから蒼助の興味を惹いて仕方ないそれを前に、手が疼く。
人の部屋で勝手に私物を漁るなんてのは、恥じ入るべき行為だというのはわかっている。
「ま、下着漁るわけじゃないんだからな。………ちょっと、見るぐらいなら」
良いワケないのだが、若い男の好奇心はここまで来たらそう簡単には収まりが付かない。
意気揚々とベッドから起き上がり、机の前に立つ。
「さーて、何が出るかなー……と」
カタン、と軽い手応えで引き出しは開いた。
中に入っていたのは、
「………アルバム、と……写真立て?」
その二つだけがしまわれていた。
奇妙だ。アルバムはともかく、写真立てというものは普通は立てかけておくものだろうに。
他にないのかと他の引き出しも開けてみるが、ノートや教材などしかなく、興味を惹くものはこの二つだけだった。
「本当に一切無駄なもんがねぇな………まぁ、収穫がないことはなかっただけマシか」
手始めにアルバムを拝見することにした。
パラリと表紙を開けてまず最初に現れたのは千夜一人の写真。
どこか照れくさそうな表情で映っている姿は学ラン。
角のある体型の印象からして、中身が男であることは目に明らかだった。
「うちの学ラン……なわけねーか。……つーことは、前の学校の制服か?」
即ち、このアルバムに映っているのは転校以前の頃のモノか。
大物を当てた。
嬉々として次のページを捲る。
今度は三人で映っていた。
真ん中に千夜がいえ、左右を挟むように男子生徒と女子生徒が立っていた。
絆創膏を頬に貼り付けた男は面白くなさそうにブスっとしており、可愛いの分野に入る女の方はほんのり頬を染めて千夜に寄添っていた。
「ふーん……前の学校のダチってところか………」
暫く、三人で映っている様子のモノが続いた後、二三ページ捲った先で雰囲気が―――――――変わった。
そこから先は少女と千夜の世界となった。
二人だけで写っている写真しかない。
それらの写真を見ているうちに、蒼助はある感情を抱いた。
罪悪感。
それは、アルバムの中で孤立した彼らの聖域に土足で踏み込んでいることに対する後ろめたい気持ち。
何故なら、まるでこの二人は―――――――。
「……―――――――」
その中の一つの写真を見つけて、蒼助は息を呑んだ。
それもまた、二人きりの写真だった。
背景を見る限り、何処かの遊園地で撮られたものだと判断出来る。
格好といい色合いといい、写真の中でも一番新しいもののようだ。
二人は手を繋いでいた。
千夜の大きめの手は、少女の手を包み込むように。
少女の小さな白い手は、千夜の手に縋りつくように。
添えられているだけかのように緩く絡んだそれは、決して切れない二人の絆を体現しているようだった。
何があろうと、互いはこの手を離さない。
そう見る者に訴えかけているかのように見えた。
たかが、写真は蒼助の心を酷く抉り、傷口から何かを溢れさせた。
嫉妬。
黒く灯ったそれは、蒼助にその写真を千々に破り捨ててしまえと促す。
「…………っ」
不意に我に返り、写真を抜き取ろうと動いた右手を左手で押さえた。
何を馬鹿なことを、と一瞬でも邪な考えを働いた自分の思考に叱咤する。
こんな事実は想いに気づいた時から覚悟していたことだ。
今更、動揺してんじゃねぇ俺。
そう言い聞かせる中、思い浮かぶのは江ノ島の海岸での千夜の台詞だった。
『―――――――昔、ここに来た時に私がある人に同じ質問して教えてもらったんだ』
自分と来る前にあの場所にこの女と行ったのか。
自分に教えたことを、この女が千夜に教えたのか。
自分よりも先に、千夜の世界に足跡をつけたのはこの女なのか。
「………―――――――玖珂」
不意を突くように部屋の外で千夜の声が割り込んだ。
蒼助は反射的にアルバムを飛び込ませ引き出しを閉めた。
そして、見事な手際でベッドの中に飛び込んだ。
返事はそれからだった。
「な、なんだー?」
返事の後、ドアが開いた。
顔を見せる千夜に隠し事の後ろめたさに心臓をバクつかせながら表面的には平常を装う。
「今から夕食の買い物に行くんだが……留守番を頼んでもいいか?」
「……あのクソガキ……じゃなくて妹も連れてくのか?」
「お前と一緒にしたらまた喧嘩するだろ。本人も一緒に行くって言ってるしな」
「そうか………じゃぁ、気をつけて―――――――」
言いかけて、考えを切り替えた。
「いや、やっぱ俺も行く」
「え………でも、お前熱がまだ……」
「買い物の荷物持ちするぐらいの体力はあるって。家の中でじっとしてるのいい加減飽きてきたところだしな」
「病人はそれを耐え忍んで病気を治すんじゃないのか………」
考え込むように少し黙り、
「ま、元気そうだしな。お前が平気だと言うなら」
「よっし」
「ってその格好で行く気か」
「別におかしかないだろ。一応、外着だぜ?」
「いやそーゆー問題じゃ………まぁ、いいか。それしかないし」
こうして同行を許された。
先程の不快と後悔を忘れたい。
そんなチンケで身勝手な理由から出た行動だった。