帰って来て早々、少女は小さな幸せを見つけた。
いつもは鍵がかかっているドアが開いた。
たった一人の家族である彼女は、常に小学生である自分より帰宅が遅い。バイトや都合が入ると尚のこと。
それでもどんなに遅くなっても、夕飯は一緒に食べるという約束は守ってくれているが(待ちくたびれて寝てしまうのを除いて)。
少女の頭の上で、天使のラッパが鳴り響いた。
一人留守番続けてどれほど孤独と闘い続けたか、ようやく姉が自分におかえりと帰りを迎えてくれる日が巡ってきた。
理由などどうでもいい。
いつもより姉と長く過ごせる。その至福が待っているかと思うと、何も考えられなかった。
脱ぎ散らかした靴について怒られることですら、頭の片隅に押し込めた。
ランドセルを自分の部屋に放り投げ、リビングへ向かおうとしたところで姉の部屋の扉から物音が聴こえたのを聴き取った。
部屋のドア前まで戻り、開けて覗くとベッドの掛け布団がその下に人がいることを知らせるように盛り上がっていた。
寝ているのか、と思い部屋に入り、気配を確認。目標から聴こえる寝息は確かに本物だ。
起こしてはまずいかとしばし次の行動に悩んだが、次に少女に中で悪戯心が芽吹いた。
起こさないように、ゆっくりとベッドから距離を取るように後ろに退がる。
目標との距離を充分に見測ると、その助走を一気に駆け、
「―――――――ただいまぁねーさぁぁんっ!」
盛り上がり部分に身を躍らせ、飛び込んだ。
◆◆◆◆◆◆
潤んだ双眸。その奥で揺れる瞳。
切なげに寄せられた眉。
真っ赤に熟れたように紅潮した白かった頬。唇から漏れる湿った吐息。
その艶めいた眼差しは、自分に向けられていて、
「玖珂………」
胸元まで開けられていたボタンがその手で更に外されていく。
白い下着に保護された豊かな二つの膨らみが露にされる。
チェック柄のプリーツのかかったスカートが腰から足先まで降ろされて、足先から抜き取られた。
「……ここから、先は……」
仰向けにベッドに身を沈ませると、両手を頭の下の枕の下に忍ばせる。
じっと、乞うように向けられる視線に応えようと、こちらを迎える彼女の上に覆いかぶさる。
そのまま無防備に捧げられた体を抱き締めるように腰と背中に腕を回し、身体を密着。
「んっ……」
胸板に押し潰される胸の刺激に、鼻を鳴らすような吐息が耳元で漏れた。
それに刺激された興奮が沸き立つ。
もはや抑え切れない衝動に背中を押され、左手で後ろの上を、右手で下の下着をずらしにかかり、次の段階へと―――――――
◆◆◆◆◆◆
はっと目が覚めた時には、蒼助自身が仰向けになっていた。
しばしの理解の時間を要してやって来たのは、
「うっわなんだよ……夢かよー。……ちくしょう俺がっかりだー」
夢ならせめて最後までイかせろよ、などと手で両目を覆い内心ぼやいていたところ、息苦しさに気付く。
手を退かし、重みを集中的に感じる自身の腹の辺りを頭を上げて見た。
「あ……?」
ちょこん、と布団越しに腹に乗っかっている子供が一人。
蒼助は確認した途端、少々面食らった。
年は十歳くらいか。眠気の残滓も跡形もなく吹っ飛ぶ程の真っ白な髪の毛で作られたツーテールと、通常のそれより白い肌。極めつけが、普通の人間では有り得ない左右二つの血のように赤い瞳。
特徴的な外観の少女が、腹に跨ってその大きなくりくりした赤い両目で蒼助をキョトン、と見下ろしていた。
目覚めて最初に目にした少女の衝撃から立ち直りかけて、新たな疑問を発見。
「つーか……ここ、何処。……なぁ、お前」
見覚えのない部屋を見回しつつ、とりあえず手近な手がかりとなる少女に尋ねようと思った時だった。
不意に前に視線を戻せば、少女は何故かプルプルと震えていて、
「……い……」
「い?」
蒼助が恍けた声を漏らした次の瞬間、
「いやあああああぁぁぁぁ―――――――っっっ!!!!」
甲高い声が、つんざくような勢いと至近距離で少女の口から放たれた。
この小さな身体のどこからこんな声が出せるのか。ぐわんぐわんと耳から入った超音波紛いの高音絶叫によって、脳の機能が一時麻痺に陥る。
目を回しかける最中の蒼助に構わず、少女は怒濤の勢いで蒼助に詰め寄った。
「何で、何で、姉さんのベッドで男が寝てるのッ!? しかも上半身裸ッ!? 姉さんは何処よ!? てゆーか、アンタ誰よっ! 朱里と姉さんの愛の巣にナニ勝手に上がり込んでんのよー!!」
ぶんぶん、と少女は蒼助の首根っこ引っ掴んで揺さぶる。
加減もへったくれない容赦のなさで、前へ後ろへ揺れる揺らされる。
このままじゃ殺される、と気が再び遠くなりかけたところで蒼助は反撃に出た。
「ぐぅっ……でぇぇいっやまかしいっ!」
首を絞める少女の両手を振り払い、蒼助は負けじと叫び返す。
「殺す気かっ! つーか、姉さんって誰だよっ」
「姉さんは姉さんよっ」
「答えになってねえよこの糞ガキ!」
埒が明かないことに苛立ち、暑苦しい布団を払いのけた。
少女は隠れていた下半身が、思わぬ形で露になったことで更に喚いた。
「っ、きゃーっ! パンツいっちょへんたーい!!」
「うおっ!? ……だぁーっ、知りてぇことたくさんだがまず俺の服何処だよッ」
いつのまに脱がされたのか。
そもそもここは何処なのか。
蒼助の中で対処し切れないほどの膨大な疑問が次々と湧きあがってきて溢れかえる寸前のところへ、疑問を一挙に解答してくれる人間がこの混乱の場に現れた。
「何だ、今の悲鳴はっ!」
バタン、と騒々しくドアを開けて入ってきた聞き覚えのある声。
はっと振り向いて蒼助は固まった。
同じく白髪赤眼の少女も喚くのを止めて固まった。
部屋に入ってきた第三者―――――――千夜はじっと自分を見てくる二人を様子に首を傾げた。首にバスタオルを引っかけた『全裸の姿』で。
奇妙な沈黙が降りる。
そして、
「うおおおあああああっ!?」
「キャァァぁぁぁぁぁぁ―――――っ!?」
その場は。更にどうにもならない状況へと転がって行った。
◆◆◆◆◆◆
一段落してその場が落ち着いた後。
小うるさい少女は千夜によって部屋を出され、千夜は服を着てようやくじっくり話が出来るようになった。
「いやー、悪かったな驚かせて。アレがそろそろ三途のところから帰って来る時間だというのを、すっかり忘れててな」
「………いや、それよりも…………―――――――ここ、何処なんだ?」
「ん? 私の家だが」
千夜の住むマンション。
外まで来たことはあったが、中には入ったことがなかった。
しかし、何故自分が千夜の家にいて、ベッドで寝ていたのだろうかという疑問が自然と湧き、
「俺……何で」
「散歩してたら通りかかったボロい神社で倒れてるお前を見つけた。見かねて私が家に運んだという経緯だ」
並べられる説明に引っ張られて、蒼助の中で記憶が段々甦ってきた。
思い出しなくない部分までも。
「………制服は魔性の返り血を浴びて汚れていたから、勝手に洗わせてもらっている。この前借りたままだったお前の服、持ってくるから少し待って……」
「千夜」
呼び止められ、千夜は足を止めた。
振り向いた先では、蒼助がベッドの上で俯いていて、
「何だ?」
「悪かった」
唐突な謝罪。
何のことか、千夜は一瞬耳にしただけではその真意を理解しかねたが、すぐに何に対する謝罪か蒼助が言葉を続けたおかげでわかった。
「昨日は………その、俺が……」
「…………何で私が怒ったのか、ちゃんとわかって謝っているんだろうな」
「ああ」
「反省の態度として、もう変な首は突っ込まない決心もあるか?」
「それは…………」
口籠もる様子から千夜はその気がないことを悟る。
「………なら、その謝罪は受け取らない」
「……………っ」
「折角の私の親切心を無下にしてまで譲れない事情があるなら、中途半端な謝罪など考えずに意志を押し通せ。じゃなきゃ、今度こそ見放すぞ」
バッと顔を上げ、蒼助は千夜の顔を見た。
こちらを振り返るその顔には微笑があり、
「せいぜい死にそうな思いをするがいい。―――――――死なないように、私が見張ってやるから」
蒼助の心に大きく氷塊としてなっていたシコリが、急激な速さで氷解していく。
「………まったく、あの学校には馬鹿しかいないのか? とんでもないところに転入してしまったみたいだな、私は……」
先が思いやられると溜息をついてはいるものの、嫌悪の色が表情にないことに蒼助はホっとする。
「と、ちょっと待て……何だ、もう既にいたみたいな言い方は」
「久留美にも警告無視された。しかも、胸倉掴まれて告白紛いな台詞浴びせられた………まさに類は友を呼ぶ」
「オレを見て言うな」
久留美と同じ枠に当てはめられたというのは気にくわなかったが、とりあえず怒りは解けて何よりだった。
肩の力が抜けていく蒼助に千夜は言った。
「あと、―――――――今日はこのまま泊まっていけ」
「ああ……―――――――ああっ!?」
目を剥いて蒼助は声を裏返して叫んだ。
泊まっていけ、とはどういうことだ。
それは単なる仲直りの親交を深める目的があってか?
それとも別の真意があってのことか?
個人的には後者の方がいろいろ期待出来るなどと雑念に近い探りを入れていたが、
「ああって………まさか、帰る気なのかその状態で」
「あ、いや、この状態にしたのはお前じゃねぇのかっつーか………いや、な? お前がいいっていうなら一晩でも二晩でも仲直りするけど………って、世間一般の常識と違うじゃねーか迦織のやろうっ」
「なに一人でわけのわからんヒートアップをしている………。―――――――熱があるくせに興奮するな」
ピタリ。
妄想の展開が止まった。
「ね、つ?」
「三十八度五分。世間一般の常識ではベッドで安静の度合いだな」
ほら布団かぶれ、と千夜が端に追いやられた布団を蒼助に頭から被せる。
「傍目健康優良児のくせに、意外なことに風邪をひけるんだな」
「…………」
「食欲あるか? あるならお粥でもつくるが………」
世の中そんなウマイことがホイホイ転がってるわけないでしょー若ったら、などと笑っているある女の顔が安易に浮かんだ。
「……いらね。食欲ねぇ」
「そう言わず何か食え。というか食わすからな」
拒否権なしときたか。
なら最初から聞くな。
「安心しろ。私はお前と違って病人にレトルトなんて手抜きはしないから」
「嫌味かこのやろう………え、お前作んの?」
「私以外に誰がいる?」
千夜の手料理。
お粥とはいえ手料理。
二作目も米かよ。でも手料理。
熱で若干ぐらぐらする思考回路が『手料理』の言葉を何往復も巡らせ、
「……………食べマス」
◆◆◆◆◆◆
ほっかほか。
そう主張せんばかりに白い湯気を立ち昇らせるのは、取っ手付き鍋に入ったよく煮えた粥。
そして目前には、
「ほれ。あーん、だ」
レンゲに盛られた粥を差し出して食べるように促す千夜。
「あーん」するのは非常に羞恥を感じずにはいられないが、これはまさに夢にまで見た(見てないが)状況だった。
ちんけな男のプライドなど捨てて、蒼助はちゃっちゃと口を開けてレンゲを向かい入れた。
湯気の勢いは伊達ではないくらい熱かったが、幸い猫舌ではない。
「………」
もぐもぐとよく味わうように租借している蒼助に、千夜が尋ねた。
「どうだ、味は。病人用に濃すぎないように味加減には気をつけたが」
「……いや、うまい」
嘘でもお世辞でもない。
本当に美味いのだ。
もともと蒼助は米オンリーのお粥は嫌いだ。
ろくに味もしない上にぐにぐにと頼りない歯ごたえが、どうも好きになれない。
風邪を引いた時もこんなものを食うぐらいなら、何も食わない方がいいとほぼ断食している。
「本当にうまいな。味がする粥って初めてだぞ俺」
「味付けてるんだから当たり前だろ」
「いや、俺のお袋が面倒くさそうにつくった奴は何の味もしなかったぞ。つーかあれはもう米の形が見る影も無く砕けてドロドロの糊みてぇになってたな」
「…………手抜き根性は遺伝だったか」
鍋から既にとってあるお椀にあるそれを掬い、また差し出す。
「ん……なぁ、さっきの子供って」
「ああ、さっきは騒がせて悪かったな。私と間違えたんだろう、悪気は無いんだ」
「誤解が晴れてからの後半はどうだろうな………じゃなくて、あの白いガキは何だって言いてぇんだ俺は」
「妹」
ぐっ、と蒼助はお粥を吹きかけた。
「い、妹ぉっ?」
「何をそんなに驚く。私に妹がいるのがそんなにおかしいか。つーか、前に話したろ」
「いや、そーゆー問題じゃぁねぇだろ………だって、―――――――」
少女のあの常識から離れた異様な容姿に触れそうになり、蒼助は思わず口を噤んだ。
不自然に口を閉ざした蒼助の様子を見て、千夜はゆっくりと微笑んだ。
「……気を使ってくれてありがとうな。容姿はああだが、立派な私の妹だよ」
「………アルビノっつーんだよな、あれって」
「お前がそんな言葉を知っていたのは驚きだ」
「お前な………」
「母親似なんだ、あの色素は」
それは母親もアルビノだったということか。
しかし、妙だと蒼助は思う。
アルビノは突然変異で現れる二万人に一人と言われるぐらい珍しいらしい。
遺伝することなど有り得るのだろうか。
ましてや、千夜は普通だというのに。
蒼助のそんな心内を知ってか知らずか、
「ほら、早く食え。お粥は冷めるとまずいぞ」
「お、ああ……」
急かされ、蒼助はレンゲに食いついた。
食事が進む中、蒼助は千夜には謎が多いと改めて認識を深めた。
◆◆◆◆◆◆
また聞こえる。
沈め、というあの男の怨嗟の声だ。
気がつけば、あの無の空間に自分はまた居て、足はいつものように水の中に沈んでいく。
もう何度目といった事象に慣れることは出来ない。
そして、また足掻くのだ。
それでも、『玖珂蒼助という存在』をあの男に盗られたくないから。
「―――――――っは」
夢の終点に着き、蒼助は身体を跳ねさせてベッドで飛び起きた。
荒い息遣いを繰り返し、蒼助は前髪を掻き上げる。
指の間を通る髪はしっとりとした感触。額は汗で濡れていた。
魘されてかいた冷や汗ではない。頭が若干ぼんやりする。此処―――――――千夜のマンションで目が覚めた時には、睡眠不足とそれによる疲労で身体の健康状態を崩したことで熱を出していた。
夜中である今が、その最高潮といったところだろうか。
「……あっ、ちぃ……」
だるさに加え、身体に籠もった熱でくらくらする。
首筋までビショビショで、来ている服は汗で湿っていて気持ち悪い。
こんな状態ではとても寝れたものではない。
「………水」
喉の渇きをどうにかする必要もあった。
蒼助は不安定な身体を鞭打ち、借りている千夜の寝室を出た。
消灯後の真っ暗な廊下を壁伝いで歩き、キッチンに辿り着く。
食器棚から適当なコップを選び手に取ろうとするが、手に掴んだと思ったコップは手の平の中をすり抜けて―――――――
ガシャァンッと。
重力に従ってガラス製のコップは床に叩き付けられ、割れた。
不揃いな大きさに割れたそれを見て、舌打ち拾おうとする。
しゃがんだところで、声が聞こえた。
「……こんな夜中に何してる」
顔を上げれば、前にはいつの間にかタンクトップと短パン姿の千夜が明かりの点いたキッチンに居て立っていた。
「喉が渇いたから水を飲もうと思ったんだけどよ……わりぃ、コップ一つダメにしちまった」
破片を拾おう伸ばした手を押さえられ、
「ここはいいから。ソファに座ってろ、辛いだろその身体じゃ」
病人はおとなしくしていろ、という暗黙の含みを受け取った蒼助は、その気遣いに甘えてふらふらとソファに背中から倒れ込むように腰を下ろした。
高そうな弾力のある感触に受け止められた後、熱い息を、は、と吐きだした。
早々に片付け終わった千夜が水の入ったコップを持って蒼助の側にやってきた。
「ほら、水」
「サンキュ」
今度は落とさないように、と倦怠感漂う手になけなしの力を込めてしっかり受け取った。
汗になって流れ出た水分を取り戻す勢いで、一気に飲み干した。
空になったコップを千夜に渡し、そのままソファにもたれかかり息を吐いた。
「ベッドに戻らなくていいのか?」
「……いい。汗で湿ったベッドになんか今更戻る気ねぇよ……」
「そのお前が湿らせたのは私のベッドだぞ、こら」
明日にでもシーツ換えなきゃな、と呟きながら自分の氷の入った水を飲みながら、千夜も蒼助の隣に腰を落ち着かせる。
「……お前は」
「トイレで起きて来たんだがな、さっきの騒音ですっかり眠気が失せた」
「…………悪い」
「別にいいさ。このまま病人放って寝床につくほど非情じゃないしな。………眠気が戻ってくるまでは一緒いてやる」
何処か恩着せがましい台詞だったが、正直ありがたかった。
起きていても、独りは安堵など少しも沸かないから。
「熱さで眠れないなら冷却シートでも持って来るか?」
「いらね……どーせ熱で魘されたわけで起きたんじゃねぇから……」
千夜はその言葉に、そうか、と頷いて沈黙を生む。
しかし、それを僅かにして終わらせ、
「………何か別の原因でも抱えているのか?」
「…………だったら、何だよ」
「無理強いする気はないが…………聴く耳ならお前の隣にいる」
わかり辛い気遣いだと蒼助は思った。
だが、この少女はもう見抜いている。
自分が、何か身体に負担になるモノを溜め込んでいることを。
そろそろ限界だ、と喉まで言葉が来ているのを感じ、蒼助はついに吐き出した。
「………昨夜から……奇妙な夢、見てんだ……さっきも、それで起きた」
夢?と聞き返す千夜に対して頷き、
「夢の中で……気が付くと、変な空間にいるんだ。………足元は水が張ってて……周りどこ見ても誰も、何もなくて………地平線まで真っ暗な場所で俺一人で立ってる。……声が……"沈め"って……声が響くと今まであった足場が無くなって……足から沈んでくんだよ」
始まりの瞬間はそれほど怖くない。
本当に怖いのは、
「一気に沈まねぇんだ。……逆にそれが怖ぇ。……その、じわじわってのが……ちょっとずつ食われていく間の恐怖が……。そして………その最中に、【あいつ】が現れるんだ」
「アイツ……?」
「……水に飲まれていく俺を……ずっと眺めてんだよ……そんで、俺が水の底に沈んじまった後、アイツが俺に“成り代わり”やがるんだ………仕草とか喋りとか雰囲気とか……まんま俺で誰も気付かねぇで……俺は、何も出来ないでそれを見てるしかない」
自分を奪われる。
そして、奪われた自分は誰も気付かれず、たった独りで消えていくのだ。
これが恐ろしくなくて、一体何が恐怖なのだろうか。
くしゃり、と蒼助は髪を苛立たしげにかき回す。
もう、今にも気が狂いそうだった。
「ははっ……案外、次は夢見た後目が覚めないまま消えちまってるかも……なーんてことが」
無意識に首を押さえた。
あの男に掴まれた感触は、一晩たったというのにまだ残っている。
あれさえも、夢だったとは言い切れない。
そして、夕方のあの誰かに肉体を使われる感覚が、その不安に拍車をかけていた。
そんな不安定な蒼助の肩に手が置かれた。
ささくれ立った心を鎮めるように、千夜の手が。
「―――――――っ馬鹿か! しっかりしろ」
「千」
「お前が、お前がそんな事を言うな。消えるなんて……消えないでほしいと思う私に言うなっ。……俺は消えないでほしいのに、そんなこと言うのか!」
肩を揺さぶって訴える千夜に蒼助は顔を上げた。
さっきまで落ち着いて聞いていた千夜が、必死な表情で自分を見据えていた。
こんな感情的な表情を見たのは、蒼助にとって二度目となる。
一度目は、昨日の拒絶。
あれは怒り。
そして今は、
「消えるなんて………言うなよ馬鹿」
蒼助の中を駆け巡る一つの感情。
心配をかける申し訳なさではない。
愉悦。
この少女が自分の為にここまで感情を動かす快感。
消えるなと言って感情をぶつけてくる少女の心を動かしているのは自分。
何という快感。骨の髄まで悦に浸りそうだ。
―――――――うっわ。………俺って、結構歪んでたんだな……。
新しい自分を発見、などとさっきの悲壮な気分など軽く吹っ飛んだ状態で内心呟いた。
熱で相当頭が温まっているせいかもしれない。
何はともわれ吹き込んだ新風によって、先程の陰鬱な気分は大分霞んでしまった。
「っくく……」
「く、が………?」
「かー、もうだめだー」
堰を切ったように笑い出す蒼助に千夜はポカンと呆気に取られた表情。
先程のシリアスな空気など知らんこっちゃないと言わんばかりに、その発生源が大笑いしているのだから無理もない。
涙目になるほど笑った蒼助はひーひー言いながら、
「……マジになんなよ、夢くらいで。……いやー、つーか俺って意外と役者に向いてのかな」
そこで千夜はカチンと音が聞こえそうな顔のこわばりを見せ、
「……まさか、今まで私をからかってたのか」
「うわ、顔赤い。やべー、今俺相当レアなもん見てる?」
リンゴみたいに耳まで赤くしている千夜に興奮して、ますますテンションがハイになる。
しかし、やりすぎた。
「玖珂」
「ん?」
「前言撤回だ。―――――――消えてしまえ」
我に返るとヒュッと空気を切る音と共に放たれた拳が、目の前に迫っていた。
鬼気迫る中、場違いに蒼助は考えた。
まだ、大丈夫だと。