「何で………」

 

 蒼助は呆然としながら足下のそれを拾い上げた。

 手から伝わる質感は幻ではない。確かな実物。

 まだ甘いと更に調べると、この前落っことしてついた傷跡を見つけた。


 間違いない。本物だ。


 しかし何故、と疑問は当然芽生える。

 そしてまさか、の可能性を見いだし、

 

「………俺が、呼んだのか?」

 

 自分で言っておきながらなんて説得力のない言葉だろう、と思う。

 

 今まで術など何度試そうと成功しなかった自分が呼び寄せた?

 最下級の術を発動させるくらいの霊力すらない自分が?

 

 自分のことだからわかる。

 両親、友人、周囲の人間―――――――どんな人間に言われなくても、他でもない自分がそのことはよくわかっている。

 

 しかし、現に遠くにあった求めたモノはこの手の中にある。

 これこそどう説明すればいいのか。

 

 蒼助の思考を中断させる騒音が響く。

 我に返って見た先では、いよいよヤバイ状態に期していた。

 鳥居の柱が暴力に耐えきれず、崩れ落ちようとしていた。

 もともと誰にも世話されず放置され、古くなっていたものだ。それを考えればよく持ちこたえてくれたものだと判断すべきだ。

 

「今はそんなことに頭使ってる場合じゃねぇよな………得物が来てくれたんだ―――――――やるしかねぇ」

 

 みし、という鳥居の悲鳴を耳に入れた。

 蒼助は太刀を腰に寄せ、構えた。 

 再び同じ音がする。今度は一つ前より大きい。

 指先を押し出し唾を切る。

 

 

 

 

 その時、ズゥン、と重く響く崩壊音。 







 鳥居がついに崩れた。

 そして、聖域はその意味と力を失くし、

 

―――――――来やがれ、化物」

 

 血風舞う戦いの場と化した。









 ◆◆◆◆◆◆









 

 進行の障害が消えたことで、屍鬼たちは何の躊躇もなく踏み込んできた。

 しかし、それぞれ拒絶の抵抗による損害はあった。

 顔が眼球が丸々見えるほど焼け爛れていたり、片腕が肩の根元から千切れていたり、とどれも凄惨な有様だ。

 屍鬼たちには、その深手からくる痛みに苦しむ様子は全くない。


 痛覚がないのか、それとも、

 

「……治っちまうものだから気にしねぇってか?」

 

 憶測の問いかけに応えたかものかは知れないが、その考えは現実となった。

 損害部分が急激な速度で修復を始めた。


 焼け爛れた肌は元の死人の青白い肌に。
 欠けた腕は傷口から触手が飛び出し、あっという間に肉色の不気味な、より凶悪な武器へとなって生まれ出た。


 浮き出る紫色の血管らしきものが、心臓のように脈打つ。 

 

「ったく、災難だぜ。………ホント、こんなところで何してんだろ、俺……」

 

 千夜に頭下げに行くはずが、こんなもはや神社としての機能を失った場所で化物に追い掛け回され、闘っている。

 なにがどーなったらこんな状況に一転するのか。

 

 だが、ここを潜り抜けなくては本来の予定も遂行できない。

 

「とっとと終わらせてやるっ」

 

 蒼助が闘志を剥き出した時、屍鬼も本性そのものと思える凶暴な表情を露にして襲撃を開始した。

 先行は屍鬼。一斉と言えるタイミングで一気に蒼助目掛けて駆け出す。

 瞬きの瞬間、その凶爪は蒼助の首を狩る距離まで来ていた。 

 

―――――――っ!」

 

 咄嗟に仰け反り、爪は空間を掻くに終わる。

 蒼助は後ろに傾いていた上半身を無理矢理前に戻し、太刀を横一線に振り抜いた。

 目の前にまとまっているところを一気にカタをつけようとした一撃だったが、掠ることもなく空を斬っただけだった。

 渾身の速さで振り抜いた一刃をまるで予測されていたかのように飛び退かれたのだ。   

  

(はや)い……っ?」

 

 前に相手にしたものより、俊敏さと切れの良さがこの相手は上がっていた。

 明らかに強くなっている。

 何故、と疑問を胸に今度は己から攻撃に飛び出そうとするが、

 

「っ……」

 

 踏み出した右足首に鈍い、されど確かな痛みが走る。

 

 ………さっきの跳躍で。

 

 全力疾走の後の更なる酷使が祟ったのか。

 或いは、着地をしくじったか。

 

「……ちっ、さすがに十五段一気越えは、今の俺じゃちと無茶すぎたか」

 

 以前ならば何でもなかったはずだった。

 以前なら。

 

 ………アンタしか、そーゆーことで張り合える人間いなかったからな。

 

 ふてぶてしいまでに不敵な笑みを湛えた女の姿が蒼助の脳裏を通り過ぎた。

 息が上がってヒーヒー言っている子供に平然と勝ち誇ってみせている、そんな懐かしい一場面と共に。

  

「……って、アンタとの思い出に浸ってる場合じゃねぇんだよ」 

 

 現実を直視する。

 敵は以前の同種の相手より戦闘力が高い。 

 引き換え、自分の足は通常より自由に動かせない。

 逆境だ。

 

「……くそ、視えて(・・・)んだけどなぁ……」

 

 悔しげに唇を噛む。

 それだけではダメだ。

 視えている【モノ】を―――――――この手でどうにかできなければ。

 

 

 

 

 

 ―――――――何を手間取っている。

 

 

 

 

 不意な虚脱感が蒼助を襲った。



 目の前に敵がいるというのに、何もする気が起きない。

 ただ、この【声】を聞くことにのみ身体が機能している。

 

 

 

 ―――――――本当に使えん奴だ。……あの程度如きに苦戦するか。

 

 

 

 

 気楽に言ってくれる。

 そういうお前なら、この状況をどうにか出来るのか。


 貶された怒りを仄めかせた蒼助の反論に【声】は嗤う。

 

 

 

 ―――――――見るか?

 

 

 

 勿体ぶるような言葉を最後に、蒼助は我に返った。

 虚脱感は消えていた。

 しかし、僅かなその間に一体が目前に迫り、爪を振り上げていた。

 

「げっ……―――――――

 

 死、という言葉が脳裏を過ぎったときだった。

 視界で何が残像を残して動いた。同時に、顔に冷水のように冷たい液体が迸った。









 ◆◆◆◆◆◆









 一瞬、蒼助は自分がどの(・・)よう(・・)()状態(・・)()いる(・・)のか理解しかねた。

 しかし、徐々に甦る自分の行いの感覚が蒼助に現状を知らせる。

 己の身体が柔らかい肉を突き破り、切り開き、潜り抜ける生々しい感触。

 溢れかえる液体で皮膚が濡れる。 



 腕は真っ黒に染まり、貫通して肉の向こうで生えて(・・・)いた(・・)



 

―――――――、?」

 

 袖に染みた黒い雫の滴り落ちる様子が、異様に夢心地に思えた。

 だが、紛れもない事実だった。

 いつのまにか突き出された腕が、襲いかかってきた屍鬼の―――――――心臓部分を貫いていることは。 

 

 

 ―――――――どうだ、簡単なことだろう。

 

 

 子供に見本を見せた親のような口ぶりの直後、腕にぶら下がっていた屍鬼の身体が黒い霧のようになって散り爆ぜた。

 蒼助は枷のなくなった手を呆然と見つめた。

 黒血も一緒に消えて、手は元の肌の色だった。衣服には血痕もない。

 けれど、それらと消えなかったものが唯一つ。

 

 この手で肉を突き刺した感覚だげがこびり付くように残っていた。

 

「今、何が………」

 

 

 ―――――――司令塔である支配者を消さずとも、奴らには【核】となる御魂(みたま)がある。いくら腕や足を削り取ろうと、再生するのは全身に回す霊力の源泉である核があるからだ。元を潰してしまえば、再生も利かない。

 

 

 貫いた瞬間に、感じた異物感。

 あれが御魂だったのだろうか、と考えに至った時はひやりと嫌な寒さを背筋に感じた。

 

 御魂を破壊した。

 それから繋がる答えに至った。

 

―――――――ってめぇ、何てこと」

 

 蒼助は眼に見えない【声】の主に対し、声を荒げた。

 

 御魂とは魂。

 生きるモノ共通の存在するにはなくてはならない命そのもの。


 それの破壊が意味するのは、

 

()しちまいやがったな……元は人間だった魂を」

 

 完全なる消滅。

 輪廻に帰することも巡ることも叶わなくなる。  

 修復の利かない完全なる終わり。

 

 それをこの【声】はやったのだ。

 よりによって蒼助の手で。

 

 

「自分が何したのかわかってんのかっ! 消しちまいやがったんだぞっ! 奪いやがったんだぞっ!


 ―――――――巡った未来でまた人間として生きる権利も可能性もっ!!」 

 

   

 ―――――――………それがどうした?

 

 

「なにっ」

 

 

 ―――――――知ったことか。(おれ)にとってはカミもヒトも取るに足らん存在(モノ)だ。消えようがどうなろうが、吾の知ったことではない。

 

 

 心底興味がない、という意志が伝わってくる言葉が吐き捨てられた。  

 罪悪感の欠片もない、本当にどうでもいいと思っているこの見えない相手に蒼助は反論を返そうとするが、

 

 

 ―――――――貴様も吾に説教できるほど他人を大切に思える人間ではあるまい。違うと言うなら問おう、ここでこの成れの果てどもの為に殺されてやれるか?

 

 

「、……それは」

 

 

 痛いところを突かれ、蒼助は口を噤む。

 酷い質問だ。  

 答えられないと、わかって問いかけてきているのだから。

 否定できない悔しさに言葉を出せずにいると、

 

 

 ―――――――ふっ……仮にそうだとしても、吾の存在も拘ることだ。死なれては困るのだからやることは変わらないがな。

 

 

「……っ!?」

 

 まただ。



 先程のように、再び腕が、身体が蒼助の意志関係なく動いた。

 右腕の動きに合わせてぐるり、と身体が反転するように背後へと振り返る。 

 右手の五指が鷲掴んだのは、屍鬼の顔だった。蒼助の意識が逸れているうちに、背後へ回り接近していたのだろう。  

 腕はそのまま地面に屍鬼の後頭部を叩きつけた。

 ぐしゃり、と何かの粉砕音が鈍く聴こえた。

 人外なだけそれぐらいでは死ななかったが、しっかり地面に押さえつけられているせいで起き上がることが出来ない。

 そこへ、追い討ちをかけるように左腕が振り上がった。


 心臓めがけて。

 

「っやめ―――――――

 

 制止の言葉も虚しく黒い飛沫(しぶき)が、蒼助を漆黒に染め上げた。 

 真紅の月明かりがその手が貫いたモノを赤々と照らし出す。 

 骸に戻ったかのように動かなくなったそれを、流す黒いそれが人の赤いそれと錯覚した。

 

 人を殺した、という錯覚を。 

 

「あ、あ……」

 

 手に伝わる液体と肉の感触。
 それが尚一層と蒼助を人殺しの幻覚に陥らせた。



 しかし待つことなく、自分の意志以外のモノで手が引き抜かれ、

 

 

 ―――――――さぁ、あと一匹だ。

 

 

 【声】は、まるで目障りな蝿を叩き潰すくらいの行為を行っているような感覚としか思っていないようだ。

 不意に顔が仰ぐように上がる。



 その向かう先、月の逆光を背にしてこちらに飛びかかってくる屍鬼が落ちてくる。

 

「……せ、」 

 

 腕が構える。

 

「この、よせって」

 

 力が込もる。

 

「ヤメロよっ……」 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉっ!!!!」

 

 

 

 悲痛な叫びが夜に空に木霊した。









 ◆◆◆◆◆◆









 

 千夜はふらふらと普段は通ることもない道を、なんとなく歩いていた。

 久留美と別れた後、本日の予定はなくなった。


 しかし何故か、すぐに家に帰る気にはなれなかった。


 今すぐ帰れば、まだいつものように三途のところで長い間一人で待っているのは嫌だと時間を潰している朱里を先に家で出迎えて、ささやかなサプライズを与えてやれる。

 いつもならそうしようと迷うことなど欠片もなく、そっちを選んでいた。

 だが、そうではなくこうして用もないのにただふらついている。

 たいした理由はなかった。

 ただほんの少しだけ、静かな一人の時間を欲した。ただそれだけのことだった。

 

 すっかり宵色に染まった空を見上げる。

 乱れのない円を描く赤い月が浮かんでいた。 

 

 良い月夜だが、千夜はあの血のような紅さの月は好きではなかった。 

 それに赤い月夜には魔性が多く出歩く。

 だから、この月は千夜にとってあまり良い事を運んでくれることはない。

 

「……いや」

 

 そうでもないか、と考えを改める。

 たった一つだけ、あの月が導いた【善き出会い】がごく最近にあったことを思い出す。

 

 『彼』と出会ったあの夜もこんな月が浮かぶ夜だった。

 そして、今と同じように特に目的も行く先もなく夜道をふらりふらりと歩いていた。

 転入前日のことだった。 

 とある所用で出かけた帰り、翌日から新たに本格的に『女として』人生をスタートすることを考えていたら、無性に一人になりたくなった。

 薄気味悪いほど赤い月の下で、今までの自分の歩いてきた道の記憶を一つ一つ掘り返しながら確認していたら、ふと通りかかった公園で『それ』を見かけたのだ。

 一人の男が集団でリンチされている、という珍しいというわけではない光景。

 ただ集団の方は全員魔性であった。これから男は彼らの餌食になるところ、と判断できた。

 

 通り過ぎて、見なかった事にしようと当然思いはした。

 東京の夜では日常茶飯事だ。

 自分には関係ないし、無闇に人と関わりを持ちたくも無いと考えていた。

 

 しかし、男がいよいよとなったところを目を逸らせず見てしまい―――――――そんな考えは吹き飛んだ。

 

 手を出してしまった、と気付いたのは既に魔性を一匹残らず殺し尽くした後だった。

 敵を一掃した後に、訪れたのは後悔の念だった。

 衝動的に助ける形になってしまったが、危機は去っても男にはもう一つの危機が死の影となって身体を蝕んでいた。

 虫の息と言っても過言ではない、瀕死の重傷を負った男はもはや助かる見込みは見れなかった。

 どの道、自分に助ける手段は持たされていない。自分がしたことは全く無意味だった。

 それなのに、男は青白い顔で出来損ないの笑みを浮かべて礼を言って来た。

 

 ああ、だから厭だったのに、と目の前で死に逝く男を見ながら嘆息した。

 

 しかし、男に最期に何か飲みたいと強請られて右のポケットに手を突っ込んだ時に触れた中にある【物】の感触で一つ思い出したのだ。

 今日の店のバイトの時に裏商品の整頓を言いつけられて片付けていた時に見つけた薬品だった。あの魔術師は霊薬の調合の腕も秀でているらしく、【えりくしーる】とかいう万能薬のモドキが作れるらしく、それもそっち系も人間に売っているようだ。

 お駄賃に、と多額のバイト料を貰っておきながら我ながら図々しくも一つくすねていたのだ

 オリジナルの完璧なものなら瀕死の人間を全快させることはおろか不老不死にでもできる代物で、モドキでもあっても三途ほどの腕前なら傷の治癒や解毒くらいの効能はあるらしい。

 

 途中、男がふざけたことを言ってきたが、案外それはこの場において最も適切な方法だった。

 薬の量もそれほど多いというわけでもなかったから、無駄にしたくなかった。

 ただの手段なのだ、と考えを割り切りながらそれを実行して、それでも尚ここまでして助けなければならないのだろう、という疑問が芽生えもした。

 

 ワケがわからなかった。

 だが、もうそうすると決まってしまった。 

 なんだか悔しく釈然としなかったから、せめて理由は自分で決めようと思いああした。 

 

 ただの気紛れだ、と。今晩は月が綺麗だったから、と。

 そう嘯いて嫌いな赤い月に全てを押し付けた。

 正体不明の何かに突き動かされるこの衝動も、理由も何もかも。

 

 そうして、千夜は『彼』を救けた。

 一夜だけの邂逅だと。これきりの拘りだと踏まえて去った。

 この月夜の出来事は自分と赤い月しか知らない。他は消したし、相手の男も霞む意識の中の一連の出来事は朝目覚めれば夢だと思い、すぐに忘れるはずだ。

 明日は新たな日常の幕開けだ。 

 新しい環境で、新たな多くの人間に出会う。

 そこで、自分は必要以上に近づかないように距離をもって生きる。

 面倒はもう御免だったから。

 

 そうなるはずだった。

 その新しい環境たる学園で一夜限りだったはずの『彼』と再会しなければ。



 初日から全ての予定を狂わせていった。 

 仮面の下の自分も一部の予定外に見られ、思わぬ関係を持ってしまったり。 

 魔性と化した同級生の不良が起こした封鎖された校舎での騒動で、更なる予定外に走ったり。

 その後日、救けた『彼』に今度は助けられ、運と時期の悪さが重なり男である自分のことも知られたり。

 そして、流れに流れていつの間にか、一人の人間のことで頭の中を満たす今となっている。

 

 甦るのはケーキ屋での久留美の言葉だ。

 彼女は男嫌いかどうかと自分に問い、理由を聞いた後こう言った。

 

 何故、『彼』は平気なのかと。

 『彼』は自分が嫌う男そのものではないか、と。

  

 千夜は不思議ことを耳にした気分になった。

 何処が、と問い返したくなった。

 彼女ほどの洞察力を持つ人間が気づかなかったのだろうか。

 

 『彼』は違う。

 『あの男』とは違う。

 自分が嫌と言うほど知る男たちとも違う。

 そう断言できる理由だって無論ある。

 何も無闇に自分の直感だけで否定しているのではないのだ。

 彼女の知る限りの『彼』の素行を聞かなくても見かけからなんとなくそういうイメージはあった。そのままなのだろう、と。

 

 だが、確信に至れた要因がある。

 同じ部屋で寝ていたというのに、『彼』が自分に手を出さなかったというのもある。

 自分の秘密を知った後も、驚きはしていたが態度は出会った時から微塵も変わっていないのも。  

 

 そして何より、あんな真っ直ぐな眼で見てくる男は、千夜は知らない。

 今までそんな男はいなかった。

 唯一違うと認識してきた【育ての親】を除いて、そんな男は千夜の周りにはいなかった。

 

 この欲望の強い人間の溜まり場でそんな出会いが出来たのは、かけがえのないことだと自負している。

 しかし、その相手とは今―――――――

 

「……さすがに完全無視は、やりすぎたか……?」

 

 先日のいざこざで、千夜は昂ぶった感情に任せて絶交発言に近い言葉を一方的に『彼』に叩き付けた。

 そしてその翌日である今日、帰りに偶然廊下で顔を合わせた時はそこに相手がいないという前提の態度を通し、そのまま無視の形で素通りした。 

 今思い返すと、酷く子供じみた態度だと我ながら呆れてしまう。


 だが、と衰えかけた怒りがむしかえる。 

 悪いのは向こうの方だ。

 首を突っ込むな、と。危ないから、と。振り払ったこっちの気も知らずにいらないことをするから。

 ふつふつと煮立ち、沸点を上げていく怒り。

 吹き出るまでに達するかと思ったところで、不意に過ぎる無視した時の絶望の淵に突き落とされたような情けない表情をしていた『彼』の顔。

 急激に温度が衰えを見せた。

 

「……とはいえ、私にも問題があったかもしれないな」

 

 立ち聞きで耳に入れた「依頼で調べている」という発言で多額の報酬に釣られたと、勝手に決め込んだ。

 責めた時、彼は明らかに何か言おうとしていたが己の感情を優先して無視した。

 理由は別にちゃんとした、それこそ譲れない意志によるものだったかもしれないのに。

 時間の経過で自分の悪い点も見えてきて、千夜の怒りはもはや弱々しげに揺れるキャンドルの火のように小さくなっていた。  

 

「………理由は納得のいくものだったら………許して、やるか」

 

 許す側を譲らないのは、最後の意地だった。


 何はともわれ、貴重な存在を失うのは気が引ける。
 だから、明日にでも顔を合わせたら何事もなかったように挨拶して拍子抜けさせてやろう、と思った時。



  

 誰かの悲痛な慟哭が聴こえた。









 ◆◆◆◆◆◆









 熱い。

 熱い。

 熱い。

 熱い。

 

 頭から足先まで。全身の血管を流れる血がマグマのように煮えたぎって、骨を焼かれているような気分だった。

 煉獄の炎に骨の髄まで焼き尽くされるのでは、と思わせるには十分過ぎるほど。 

 

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 

 心臓の脈動が信じられないくらい速い。一拍も間も関係ない、めちゃくちゃな動き。

 

「ぐっ……ぁぎ」 

 

 耐え難い苦痛にもがくように蒼助は胸を掻き毟るが、無駄な足掻きだ。

 

 …………どうし、ちまいやがったんだっ。急に、身体が……っ。

  

 危機が去り、声も聞こえなくなった直後にこの異常事象は起こった。

 自分の身体を介して行われた事の余韻をただ呆然と受けて止めていた身に、突如降りかかった苦痛と焼け付くような熱さ。

 

―――――――うぅぐぁっっ」 

 

 胸を押さえ蹲って耐えたが、一層深い痛みが蒼助を襲い、たまらず仰け反った。

 天上の月はそんな苦しむ蒼助を静かに傍観していた。

 地獄の苦しみとも例えられる苦痛に苛まれる中の蒼助には、それは嘲笑っているようにさえ見えた。

 生まれてこのかた体験したことのない痛みに、蒼助の精神はいたぶられ、弱った。

 助けて欲しい、と心の底から救いの手を求めた。

 

 ………まるで、喰われているみたいだ。

 

 内側から沸いた言葉に一瞬だけ痛みを忘れ蒼助はハッとする。

 その通りだった。

 これは、まるで(なか)からジワジワと苦痛を伴って侵食されているようだ。

 【何か】に。

 

 ………そういう、ことかよっ。

 

 何か。それは考えずともわかることだ。

 アイツ以外に誰がいるというのだ。あの声の、悪夢の男以外に。

  

「………こ、うやって、俺の身体を……乗っ取ろうってか……っざけやがって!」

 

 侵食されていく恐怖よりも自分のモノを勝手に奪われていく怒りが勝り、振り上げた拳を地面に叩き付けた。

 

「ふざけん、な。……乗っ取られてたまるか、乗っ取られてたまるかよ―――――――っ!!」 

 

 がむしゃらに額を地面にぶつける。

 がち、と硬い音がし、額を何かが伝う感触がしても蒼助は止めなかった。

 痛い。この苦痛を感じれるうちは、まだこの身体は自分のものだという証拠だ。

 だから、より多くそれを感じようと蒼助は必死だった。

 

「……っ、くしょ……っ」  

 

 やるせなさに蒼助は立てた両腕を崩し、横倒れになった。

 そして、ぼんやりと意識が霧のかかったような状態。視界は、テレビの砂嵐のように視界の映像を乱し出す。  

 絶望した。あの化物にとって、結局自分の抵抗など露ほどでもない程度なのか。

 ただ、無抵抗も同然でただ食われるしか道は残されていないのか。

 

 視界がまたぶれる。

 終わりが近い、と思ったとき、脳裏をある人物の面影が通り過ぎた。

 

 ふと笑いたくなった。

 こんな時でも自分の心を支配するのはあの女なのか、と。

 そこまで自分は彼女にイカれてしまっているのか、と。

 

 だが自分はここで終わってしまう。

 諦めたくない。

 でも、終わりだ。

 それでも。

 


 諦める。諦めない。




 矛盾した思いが、蒼助の中をぐるぐると回る。

 そうして二つの思いが格闘している合間に、霞み行く意識と視界が視線の先で何かを捕らえた。

 しかし、それが何かを視界が明確に捉える前に、意識が認識する前に。



 蒼助は力尽きた。









 ◆◆◆◆◆◆









 前にもあった状況だな、と千夜は目の前で倒れているものを見下ろしながらしみじみと思った。

 

「しかし、こーゆー場合慌てて駆け寄ったりするんだろうが……」

 

 生憎、その手の王道的感覚は千夜は死んでいた。

 こういう厄介な拾いものに遭遇することが、あまりにも多すぎたせいだ。

 何だかんだ言おうと、こういう場合では冷静を保ち対処することは決して間違いではない。 



「血は……ない、な。今度は薬じゃ……」 

 

 指先を首筋に当てる。

 

「………何とかなりそうもないな。つーか、持ってないし」

 

 押し付けていた指先を離し、じっと見つけ触れていた人差し指を初めとして中央三本を見つめる。

 こうして離した後も、高温の熱の残滓がいくらが残って消えない。

 本当に厄介だ、と倒れる『彼』の頭を腹いせにつん、と小突いた。

 

「明日でよかったのに……………やっぱり、アンタは嫌いだ」

 

 暗い夜空を呑気に泳ぐ赤い月を忌々しげに睨み付けた。

 

















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