―――――――女の機嫌を直す方法?』








 回線の向こうで迦織がこちらの質問を繰り返した。

 そうだ、と言えば、

 

『若ったら……また、ドジ踏んだの? もしかして、俺様と思わせて隠れへタレ? そこんところ伯父さんに似ちゃったのかしら……』

「言ったなこの野郎。お前、いつか覚えてろよ。マジで、後悔させてやるその発言。………と、話がずれちまったじゃねぇか。いいから教えろよ、女の機嫌直す巧い方法。

出来れば、手っ取り早くて一番イイの頼む」

『若。ついでに聞くけど、セフレと拗れた時ってどーしてたの?』

「あん? 大抵、他の女といるところ見られて文句言われてた場合だったからな。段々彼女気取りになってきやがるからコイツももうー御開きだな、と……………何だよ、

溜息なんかついて」

 

 受話器越しに聴こえてくる深い深い溜息の音の後、迦織は僅かな間を置いて気を取り直すように口を開いた。

 

『ちょっと過去を振り返って自分のした事を後悔してただけ。――――――ん、わかった。不甲斐ない若に迦織おねーさんのワンポイントアドバイスその2、教えてあげる。

それはズバリ、女の子なら誰もが持ってる弱点を突くことっ! ―――――――多分」

 

 最後に付属した一言がイマイチ不安を拭わせてくれなかった。









 

 ◆◆◆◆◆◆









 ―――――――お買い上げありがとうございましたー。





 店員の声をバックに、蒼助は早々と店を出た。

 湧き上がる羞恥と人の視線に耐えながら。

 

「ちくしょー……何で俺が」

 

 ケーキなんぞ買わなきゃならんのだ、と蒼助は手に持った確かな重みを感じる箱を睨み小さく呻いた。

 そして、こんなアドバイスをした迦織を憎憎しく思いながら、

 

「これで上手く行かなかったらマジで呪うぞ、あのアマ……」

 

 電話越しに聞いた迦織の熱弁を脳裏で甦る。





――――――美味しいケーキかお菓子を持っていって、ひたすら土下座っ! 口じゃ何と言おーと、これやられたら大抵のことは許してくれちゃうわっ。ちなみに、贈り物

は美味しさの上に高いと有り難味増して尚グッドっ! お店は、私がオススメする一押しの【アラカルト】よーん。それじゃ、善は急げレッツゴーっ』





 ―――――――と、急かすような迦織の言葉に背中を押され、その勢いでいざその店へ行ってみれば驚愕の場面を迎えた。 



 トリュフやらプラリネやら何だかヘンテコな名前の付いたチョコレートが、セットで最低千円最高五千円以上の値段を付けられて店頭に並んでいたのは甘いものを食べな

い蒼助にとって未知の衝撃だった。

 セフレの何人かが自分に買ってくることはあったが、まさかこんなカカオ豆のペーストと砂糖の塊に五千円も注ぎ込んでいたのかとはショックはデカかった。

 常に貢がれる側で貢いだことのない蒼助は、贈り物を選んだこともした経験も薄く浅い。実父の誕生日すら一月過ぎて「あ、そうだったったけか」と一言でまた翌年まで

忘れる始末だ。 

 何を選んだらいいかさっぱりわからなかった蒼助だったが、とりあえず値段の上下の間をとったトリュフの詰め合わせを買った。

 

「はー………こんなんで本当に上手くいくのかよ」

 

 不安が溶け込んだ溜息が口から駄々漏れる。

 それもそのはず。

 敵は普通の女ではない。三ヶ月前までは自分と同じ男だった人間だ。

 女の喜ぶもので果たして怒りを解けるのだろうか。

 もはや、これは賭けだった。それも人生最大級の。多分。

 

「……くそ、こーなりゃ当たって砕けろだ」

―――――――砕けちゃダメでしょ」

 

 独り言に対する乱入が背後で起こった。

 蒼助は奇声を上げて、危うく箱を落としかけた。

 何故、自分はこーも背後を取られることが多いのか、と己の力量に嘆きつつ大きく脈打つ心臓を押さえつけ振り返る。

 

「うっわ、びっくりした………止めてよね、大げさに悲鳴なんてあげるなんて」

「久留美……?」

 

 放課後、千夜と何処かへ行ったはずのクラスメイトの登場に、蒼助は目を瞬いた。

 

「何だよ、驚かすんじゃねぇよ………」

「声かけただけじゃない。……それはそうと蒼助、アンタ今【アラカルト】から出てこなかった?」

「……っ、何のことだよ」

「誤魔化しても無ー駄。ちゃんと見てたし、じゃなかったらその後ろに隠してる箱は何よ」

 

 しっかり見られていたようだ。

 チャンスの神とやらはこの女に一体何回己の前髪三本掴ませる気なのだろうか、と蒼助は見当違いな的に怒りを向けた。

 

「アラカルトって言ったら、私たち高校生が手を出すには財布が適わない渋谷でも有名なチョコレート専門店じゃない。私だってまだ入ったことないのに。アンタ、甘い

もの嫌いなのに何で………」

 

 言葉の途中、久留実は嫌な表情をした。

 蒼助がよく知る何かに勘付いた面だ。

 

「……なーるほどねー、そーゆーことかぁ」

 

 にまぁー、とこれまた嫌な予感をぷんぷん臭わせる笑みを久留美は顔一杯に浮かべる。

 

「な、何だよ」

「千夜のご機嫌直しってわけ。これは驚きだわ、アンタにそんな健気な一面があったなんて」

 

 蒼助はポカンとした後、何故それを、と我に返る。

 

「ちょっと待て、何でお前」

「その反応。やっぱり、アンタがあのコの不機嫌の原因なのね」

 

 そこでやっとこれが誘導尋問だったということに蒼助は気付いた。

 絶対包囲。逃げ場はない、と。

 

「女に貢がれてなんぼのアンタが女に貢ぐ日が来るなんてねー。………明日は槍でも降ってくるのかしら」

「うっせー……つーか、何でお前が知ってんだよっ。……アイツが話したのか?」

「違う。今日、なーんかピリピリしてるからさりげなく話をずらしながら聞いていってアンタの名前が出たら、突然不機嫌まっしぐらになっちゃった。それで、ね。

……その代償はあまりにもデカかったけど」

 

 遠くを見て久留美は早々と切り替え、蒼助に詰め寄った。

 

「で、何したのよアンタ。あの千夜をあそこまで怒らせるなんて……ある意味表彰ものよ?」

「お前には関係ないだろ」

 

 迂闊に話すとろくな事はないのは今までの付き合いから十分承知している。

 

「あ、そ。じゃ、さっき店出てくるところを取った写真を今度の記事に使わせてもらうけど」

「わかった話す」




 もはや手遅れだった。










 ◆◆◆◆◆◆










 弱みを手にした久留美にせっつかれ、簡潔に経緯を聞かせると、

 

「へぇ………そんなことでねぇ」

 

 そんなこと。

 久留美に言われて気付いたが、そんなに悪どいことを自分はしただろうか、かと蒼助は思い直す。


 確かに、千夜の言葉を無視したことは無礼だったかもしれない。

 だが、こちらにも都合というものがある。

 何もシカトするほどのことでもないのではなかろうか。

 それでどーして自分がこんなに振り回されなければ鳴らないのか。

 振り返ってことで沸き始めた怒りがふつふつと沸点し始めた蒼助のをよそに久留美は納得げに呟いていた。

 

「聞いて真実味ましたわー。………やっぱ、アンタ結構大事に思われてるのね……あのコに」

「は?」

 

 何でそーなるよ、と怪訝な顔をする蒼助に久留美が説くように言った。

 

「だってそーじゃない。警告ってね、時の場合じゃいろいろパターンあるけど………大抵その人が危ない目にあってほしくない人にする行為なのよ。恋人とか家族とか友人

とか。まぁ、いわゆる特別な存在に対するちょっと不器用な愛情表現なの」

 

 答えを見つけた気がした。

 つまり千夜は自分のことを心配してあんなことを言った、と。

 その心配を無視した自分に腹を立てた、と。

 

 ………じゃぁ、完璧俺が悪いんじゃねぇか。

 

 一瞬でも灯らせた自分の怒りこそ理不尽に値する。

 改めて己の反省の蔵に入ろうとしている蒼助をよそに、久留美が忌々しげにぼやいた。

 

「じゃぁ、私とあの連中はアンタのイライラぶつけられたってわけ? 冗談じゃないわよ、私の小遣い返しなさいよもーっ!」

「………あの連中?」

「放課後、私の行き着けのケーキ屋でナンパされたのよ。ほら、千夜ったらあの顔でしょ? いっぺん追い払ったと思ったら、店出た後も待ち伏せしてて……まぁ、結果的

には阿鼻叫喚の地獄絵図?」

「…………」

 

 やはり、その手の連中に関しては引く手数多らしい。

 安い連中が、あの体に指一本でも触れたかと思うと腹の底からマグマが沸きそうだった。

 

「…………あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」

「んだよ」

「アンタ、千夜に惚れてるでしょ」

 

 ギクン、と蒼助の全身が一度思い切り強張った。

 それを目撃した久留美は半目になりながら、

 

「案の定ってやつ……か」

「………何のことだ」

「あからさま過ぎる反応の後にそれは見苦しいわよ。素直に吐きなさい、どうなの」

「………まず録音テープをしまえ」

 

 チッと未練がましそうな舌打ちのあと、久留美は素直に鞄にそれを戻したのを確かに見届ける。

 蒼助は深呼吸を間に置いて、言った。

 

「………ああそうだよ、何か文句あるかこの野郎」

「んー別に。ただね………いつもの遊びでアイツの気持ち踏みにじる気なら、今まで貯めてきたアンタの裏事情の全部次の記事で出してやろうって思ってただけ」

「……をい………」

「怖い顔。冗談よ、そんなことしないわよ ―――――――モノはあるけど」

 

 どこまでが冗談なのかわからない台詞の後、久留美は感慨深げに、

 

「それにしても【(レディー)殺し(キラー)】のアンタが一人の女に入れ込む日が来るなんて………世界滅亡が間近なのかしら」

「……喧嘩売ってんのか。そーゆーなら、お前だって随分とアイツと親しいじゃねぇか。【秘密(プライベート)殺し(キラー)】のお前が。他人との付き合いは……浅く広くがモットーなんじゃ

なかったか?」

 

 奇妙な名称の呼び合いの後、蒼助の問いに久留美は押し黙った。

 僅かな間を置いて、決まり悪そうに言い放った。

 

「気が、変わったのよ。将来に備えて一人くらい……気心許せる人間を……つくっておこうかなって」

「それで、何でアイツなんだよ」

「……それはぁ…………強いし、頭よさそうだし、機転も利くし、いざって言う時本当に頼りになりそうだから………それに」

 

 言いずらそうに口篭り、

 

「………アンテナ、立ったから」

「突然の電波発言だな………妖気でも感じ取ったか?」

「やかましい。………言い方変えるわ。"退屈な世界に一条の光あり"って感じ」

「もっとわかんねぇよ。まどろっこしい言い方止めろって」

「ったく、これだから学のない単細胞は。…………例えて言うなら、【本】かしら」

「本ー?」

 

 結局まどろっこしいままだが、久留美は面倒くさそうな蒼助をそっちのけで語り始めた。

 

「とある図書館で読む本を探しているとするわ。本棚には、数え切れないほどの本が上から下まで端から端まで隙間なくぎっちり詰め込まれている。私はその中から読む

本を探すんだけど、どれもこれも読む気が起きない。根気よく探してはいたものの、そろそろあきらめちゃおうかなって思い始めて。―――――――そこで、ようやく一冊

の本に興味を示して読み始めようと思うの」

「………」

「私には何故か途中から読む癖がある。中途半端なところから読むくせに、それで面白くないって判断していつも放り出してた。ところが、その本はそんなめちゃくちゃ

な読み方をする私の気をひきつけるの。先が知りたいと思う……けれどその前も知りたい。本好きの人間見れば冒涜としかいえない本の扱い方をしていた私は、こうして

やっと読みたい本を見つけた、とさ」

「………訳せ」

「図書館は世界。本は人。内容はその人間の中身と人生」  

 

 あ、と蒼助は声を漏らし、ようやく理解した。

 久留美が言いたいことを。

 

「興味わいたってことか。………他人を記事のネタ生産工場くらいにしか思ってなかったお前―――――――新條久留美が一人の人間に」

「そ、女を性処理道具くらいにしか思ってなかったアンタ―――――――玖珂蒼助が惚れた女にね」

 

 ふぅ、と久留美は溜息を吐き出し、

 

「本当、正直不思議よね。………あんな触らぬ神に祟りなしな奴の……何処かいいのかしら」

「……だな」

「性格破綻してて」

「羊の皮被った狼で」

「容赦ないし」

「底意地悪くて」

「本当に食えない」

「厄介な女なんだけどよ」

 

 二人はふと足を止め、向き合い互いにジッと顔を見た後、

 

「でも、なんでか」

「……気になるんだよなー」

 

 妙な意気投合だった。

 出会って以来、そりの合わないとばかり思っていた互いは、ここでようやく共通の思いを得た。

 それは恋の始まりでも、友情の芽生えによるものもなく。



 ただ一人の人間を通した共感だった。 





「ま、私はともかく問題はアンタよね」

「あ?」

「知らないの? 千夜、極度の男嫌いなのよ」

「なにっ」

 

 初めて聞いた、というのがわかる反応に久留美は更に続けた。

 

「んー、昔信用していた人に裏切られたとかなんとか。………その恨みが相当根深いらしくて。何しろ言うに事欠いて"世界で生まれて初めて憎んだものが男"だったなんて

言ってたし。あの千夜を一時期人間不信に陥らせるほどのトラウマになったらしいから」

 

 それを聞いた蒼助は、驚愕と絶望の嵐のど真ん中にいた。

 なんだそれ、初耳だぞ。

 つーかなんでそんなこと知ってんのよ久留美さん。

 

 例えようのない絶望を頭から浴びせられ、自失に陥りそうになる。

 そんな蒼助に、久留美は何を思ったのか唐突に話題を変えるような言葉をかけた。

 

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」

「………なに」

「アンタ、私や都築ちゃんとエッチしたいって思ったことある?」

 

 その発言にずっこけそうになった。

 

「うわ、失礼しちゃうわね」

「失礼ってお前………いきなりなんだよ、薄気味悪ぃな。…………欲求不満か?」

「殺すわよ」

 

 マジな殺気を眼に宿して鋭い眼光を放つ久留美。

 なら言うなよ、と思っていると、

 

「いいから、無駄口叩かず正直に答えなさい」 

「正直にって………」

 

 正直に答えても殺されそうで怖い。

 

「さぁ、さぁっ」

 

 射殺さんばかりに睨み、覇気の込もる迫力で迫ってくる久留美に恐れをなした蒼助は、ついに白旗を揚げ、

 

「わ、わかった………思ったことはない。つーか、何でお前らとする必要がある?」

「は?」

「セックスするセフレはもういるのに、何でダチのお前らに手ェ出す必要があるんだよ」

「何でって言われても、聞いてるのこっちなんだけど……」

「チッ……だからよ。俺は…………嫌いなんだよ、そーゆーごちゃごちゃ見境ないのは」

「人妻にまで手ぇ出しといて見境なくないなんて……よく言えるはねこの口は」

「るせぇ、黙って聞け。俺はセフレはセフレでそれ以上の関係にならねぇし、ダチはダチで手ぇ出さない。めんどくせぇだろ、あっちもそっちにも中途半端な関係作って

ゴタゴタするの………そーゆーはっきりしねーの、嫌いなんだよ」

 

 わしわしとかき乱しながら蒼助が紡ぐ言葉に、久留美は思わず眼を丸くした。するしかなかった。

 同時に、驚愕するこの事実を見抜いていたここにはいない千夜に賞賛を送った。  

 

 言葉はぞんざいであれど、言いたいことはわかる。

 千夜が久留美に聞かせたとおりの話だ。

 やはりこの男の認識を改めようと思った。

 馬が合わないからといって、少々この男を軽く見ていたかもしれない。 

 

「ま、仮にダチでなくてもお前みたいにうるさい女は御免だけどよ」

「奇遇ね。私もアンタみたいな品のない無神経な男となんて絶対ありえないわ」

 

 ギリギリと睨み合い、やはりそれはやめておこうと固く思う久留美だった。

 

「ま、腹の立つことにアンタは異例らしいから……せいぜい頑張ってみれば?」

「何だよ、異例って………」

「ムカついたから教えてやんなーい」

 

 ぷい、とそっぽ向いたかと思えば、にやりと悪巧みするような笑みを浮かべて蒼助の耳を掴み、

 

「いろいろ聞かせてもらったからにはこっちも情報提供しないとね」

 

 ごにょごにょと耳に小さく声を吹き込んだ。

 数秒静止した蒼助は、

 

「んだとっ? それ、本当か?」

 

 驚愕の声をあげ、なんらかの真偽を確かめる為に久留美に詰め寄る。

 

「マジマジ。さっき本人から聞いた話よ。前も後ろもまだ清いってさー。頑張った暁にそーゆーご褒美もついてくるんだから、努力しなさいよー」

 

 じゃーね、と手を振りながら久留美は背を向けて蒼助の前から去って行った。  

 闇の中へその姿が消えたところで、

 

「……あの女、もうちっとTPOつーのをわきまえた方がいいんじゃねぇーかぁ? ……つっても、人も時間も場所も問題ねぇけど………なぁ」

 

 くるり、と振り返り、









―――――――そこの通行人A気取りさんよぉ」









 振り返る蒼助の見遣った先―――――――今しがた通り過ぎて行ったOLがいた。

 自分に声が掛けられたのか、と立ち止まる女の足。そして、振り返った。



 しかし、
そう(・・)した(・・)()()その(・・)()一人(・・)()()なかった(・・・・)


 OLの向こう先に私服姿の女性が二人。

 性別以外の共通点の見れない彼女等に、一つだけ確かな共通点があった。

 それは蒼助の目にもわかる覚えのあることだった。




 こちらを見る目―――――――それが、赤い。

 

「三度も前から同じやつが来てたら、おかしいと思わねぇわけねぇっての。つか、眼ぇ血走ってんぜアンタら……………男日照りなのか?」

 

 女たちの血のように赤い、焦点の定まりの見れない虚ろな眼。

 加えての正常とはとても見れない不自然な身動き。

 

「覚えてるぜ……お前らに似た連中のことは………あんまり薄気味悪かったから、忘れるに忘れられねェよ」

 

 同じだ、と本能が訴える。

 あの夜、校舎を徘徊していた化物と特徴と死人の臭い。

 

「ちっ……二度と会いたくなかったぜ、その不気味な真っ赤な眼には」  

 

 悪態をついた後、蒼助はその場を走り去る。

 女たち―――――――屍鬼はぎょろり、と眼球を動かして蒼助を視線で追うと、血に飢えた獣の本性を剥き出しにして人間離れの速さでその後を追った。










 

 ◆◆◆◆◆◆











 走りながら、蒼助は昂ぶる神経を動かして思考を巡らせていた。

 何故、またあの怪物が自分の前に現れたのか、と。 

 

 全ては、元凶たる人の道から外れた神崎を倒して終わったはずだった。

 千夜はそう言っていたはずだ。



 なのに何故、

 

「俺が追っかけられなきゃなんねぇんだっ……!」

 

 応戦するにも、得物である太刀は今持っていない。


 通常の退魔師なら霊力を以って【()ぶ】が、蒼助にはそれをするほどの霊力もなければその技術もない。
 術の名が付く類を全く身につけていないのだ。

 

「くそっ……こんなことなら、才能ねぇからとか開き直ったふりして面倒臭がらず真面目に術の習得しとくんだったぜっ。………ぬぉっ!」

 

 足音がしないと思っていたら、敵は建物を足場に高速で壁伝いしていた。

 両手両足を使ってのそれは、まるで蜘蛛のようだ。

 一度振り向いて、もう二度と振り返らないと誓う。

 

「っっ不気味な移動してんじゃねぇぇっ!」

 

 不満をぶちまけながらも、蒼助は周囲を見回した。この通りは日が暮れても人はまだまだいるはずだ。通常なら。 

 それにも拘らず、幾ら走っても人影一つ見かけない。

 答えに繋がる可能性があるとすれば、

 

「……結界かっ……範囲は何処までだよ」

 

 とりあえずまだ結界の"境"にぶつかっていない。

 この分では、相当広く囲われているようだ。

 

「野郎ッ……何処のどいつか知らねぇが、見つけたら絶対にぶっ殺してやるっ……」 

 

 と、言ってはみたものの、その殺す道具はおろか術すら今の蒼助にはないのだった。

 まずは、この無防備な状態をどうにかするのが第一だ。

 

「攻めることが出来ないなら守り…………っと、そうだ、護りだ!」

 

 思い立った蒼助は走る速度を上げた。

 目指す場所を定めて。



 それは、

 

「神社だ、神社っ。……神域である場所に入り込めば、魔は鳥居の邪魔されて先に進めねェはずだっ」

 

 この近くに、古びた神社があったはずだ。

 既に人から忘れ去られ祀られていた神も去ってしまっているような予感がするが、その残り香としての神気はまだ効力は落ちていないかもしれない。

 

「イチかバチか………賭けるしかねェ、おりゃぁぁっ!」

 

 恐るべき速さで徐々に距離を詰めてくる化物。

 それが蒼助の精神を恐怖で煽り追い詰める。

 無視して蒼助は、目指す場所に辿りつくことにのみ神経を集中させた。



 そして、

 

―――――――見えたっ……ラストスパぁトぉぉっ!!」

 

 鳥居が見えた前方の視界に見えたことで、蒼助は速度の自身の限界値まで上げた。 

 肺がいまにも破裂しそうだが、それさえも無視。

 着々と古びてくすんだ赤の建物が視界に大きく映っていく。

 

「ど、りゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 足にかかる負担を後回しにして、蒼助は石段直前でしゃがみ、それを反動(バネ)に跳んだ。

 二段抜きで上っても遅かった。何しろ全力で走ったに限らず、既に敵はすぐ背後。

 捨て身の最終手段に出る他ない。

 

 僅か数秒にしかならないはずの浮遊している間は長く感じた。



 そして着地。

 その場所は、

 

「ぐっ……は」

 

 頭を庇い咄嗟の受身をとったが、勢いは殺せずそのまま転がり、

 

「ぐぼっ」

 

 何か固く平べったいものに脳天が叩きつけられた。

 しばし、悶絶。 

 目尻を緩ませながらも顔を上げると、目の前には黒ずんだ茶の色の壁―――――――ではなく板。

 尻をついて後ろに下がり、視界を広げて確認。それは、ボロくなっても頑固に丈夫な硬さを保つ賽銭箱だった。

 と、いうことは、

 

「つー……へへっ、俺の勝ちっと」

 

 ズキズキ疼く頭を押さえて後ろを見遣れば赤い鳥居が立っていた。その向こうに、あの化物が中に入ろうとはせず立ち往生している。

 賭けは蒼助の勝利だった。

 予想通り、神社はまだその役目たる力を失っていなかった。

 

「よっし、これでひとまずは安心だな。次は昶を呼んで来てもらう………」

 

 携帯を取り出し、親友のアドレスを開いた時だった。

 鳥居の方から奇妙な音がするのだ。それは、電気が帯電するような響きに蒼助には聞こえた。

 とてつもなく嫌な予感を胸に、蒼助は恐る恐るその音の発信源を見た。



 答えは―――――――ドンピシャだった。



 鳥居の外にほっぽり出されている化け物たちは、驚くべきことに結界の抵抗を受けながらもそれを越えて神社の敷地内に入り込もうとしていた。 

 うち一体は、正面から力づくで押し切ろうとしている。激しい抵抗によって傷がつこうとお構いなしのようだった。

 そして他二体は、結界の媒介となっている鳥居そのものの破壊にとりかかっていた。

 拳を叩き込みへし折ろうとしたり、見るも恐ろしい形相で噛り付いて柱を削ったりとがむしゃらな勢いで邪魔な障害物の排除に総員でかかっている。

 これは蒼助も唖然とするしかない。

 

「おいおい、確かに女の恨み腐るほど買ってきた自覚はあるけどよ。…………ここまでしつこい女どもに手ぇ出した覚えはねぇぞ」

 

 軽口を並べる声も僅かに震えていた。

 敵の勢い壮絶そのもの。このままではまさかとは思うものの、やってしまうかもしれない。

 昶への救援もこれでは無理だ。間に合わない。



 実のところを言えば、"闘う術は無くはない"のだ。

 ただし、勝ち残るとなると、得物がなくてはそれへと繋ぐ条件が揃わない。

 太刀さえあれば、それさえここにあれば恐れるものはないというのに。

 

「くっそ……こんな時になって未練がましいが、本気で召喚法くらい死ぬ気で覚えとくんだった」

 

 ぼやいた時だった。

 近くでゴトリ、と重苦しい音が響いた。

 反射的に背後を振り返った何事もない。それが間違いと気づき、足下に視線を引き戻した。

 

 目を見開き、【不思議なもの】を見た。

 足下に転がっていたのは蒼助にとってとても親しいモノで、ここはあることは有り得ない、

 

 

 

 最近、相棒となった太刀だった。















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