放課後の職員室。

 今日一日の授業は終わり、部活の顧問などで何人かの教員が出払っているそこのある一カ所で、 






「聞いてくださいよ。昨日、エラい夢見ちまって」

「ふんふん」

「セフレとヤってる最中の夢だったんですがね、いざ突っ込もうとしたら下の女がムキムキのマッチョ野郎にすり替わってて。幸い、俺が逆に突っ込まれそうになった

ところで目が覚めたんすけど、その後は続き見そうで怖かったからほとんど寝てなくて」

「ははっ、そりゃ災難な夢だな。――――――だ、そうですよ堀田(ほった)先生」 

「ふ、ふざけるなっ!」 

 

 顔を赤くして――――――実際左頬が赤く腫れている――――――頭部の毛が儚いご様子の中年教師が、蒼助と蔵間に向けて唾を飛び散らせながら怒鳴った。

 怒りに震える教師・堀田はビシリ!と蒼助を指差し、

 

「玖珂ぁっ! そんなデマカセが居眠りの言い訳として通用すると思っているのか! 嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をつけっ!」

 

 教師が嘘の洗練を要求するのもどうもな話じゃないのか、と聞き耳立てる周囲の人間は思ったが、表面では素知らぬ顔で静かに荒れるその場から退室していく。

 己の独壇場と化したそこで、堀田の熱はヒートアップする。 

 

「日頃の行いの悪さが夢に現れるんだ! 寝ぼけていたとはいえ、貴様は教師である私を殴ったんだぞ! 停学……いや、即刻退学だ退学っ!」

 

 無茶苦茶言う堀田に聞く耳持たずもう帰ろうか、と蒼助が逃亡を図ろうと思い始めた時、

 

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ。悪意があったわけじゃないんですから、夢見た衝動じゃ不可抗力ですよ、不可抗力。大目に見てやりましょうよ」

 

 抑えて抑えて、と対照的に呑気に笑う蔵間に堀田がギッと睨む。 

 怒りをぶつける標的を変えたようだ。 

 

「そんなことだから生徒に舐められるんですよ。生徒と仲が良いのも良い事ですが………貴方も、もう少し教師としての自覚をもって対応を改めたらどうですか? 少なく

とも、こんな自分の分も呑みこみ切れない出来損ないをきちんと管理出来るくらいには」

 

 この手の人種は口先だけしか能だけに嫌味が非常に達者だ。

 しかし、頭の固い古株教師連中から若くて生徒に人気があるというのが気に入らないことから、散々グチョグチョ言われている蔵間にはもうこれくらいじゃ琴線を揺らす

ことすら出来ない。



 だが、この男の説教の長さとねちっこさは、生徒と引けをとらないくらい重々と目をつけられている蔵間も知っていた。 

 それが、これから一時間ほどかけて始まろうとしていることも。

 冗談じゃなかった。



 だから、

 

「堀田先生、説教は勘弁してくださいよ………それよか今日って木曜ですよね?」

「それがどうしたっ」

「良いんですか? 木曜は"あのコとしっぽりお楽しみの日"でしょ」

 

 底意地の悪い笑みを浮かべて蔵間が放った言葉に堀田の顔が赤からさー……と青に変色する。

 

「く、蔵間先生……一体何を」

「心配しなくても、ちょっと顔が変形してても向こうも気にしはしませんって。どうせベタ惚れなのは、アンタがくれるお小遣いなんだろうし」

「ま、待てっ何の話を……」

 

 先程の上から見るような嫌みを言っていた口は何処へ行ったのか、可哀想なくらい言葉をつっかえながら蔵間の言葉を遮ろうとする。

 脂汗かきながらの必死な堀田の姿に、蔵間はそのみっともない様子が楽しくて仕方なく、容赦なくトドメの一撃を放つ。



 左手首の腕時計を見ながら、

 

「そろそろ四時っすよ。早く行かないと乗り替えられちゃいますよ――――――パ・パ」

――――――………っっ!!」

 

 お、お先に失礼するっと堀田は大急ぎで自分の机の上で鞄に荷物を詰め込み、逃げるかのように脱兎の勢いで職員室から飛び出していった。

 ぽつんと二人だけに取り残される。腹を抱えて爆笑している蔵間に目を遣り、蒼助は訊ねた。

 

「なんすか今の」

「ははっ……あー腹いて。あのオッサンな……普段俺らに散々偉そうな口きいてるけど、ここだけの話――――――実は、自分の娘と同じくらいの女子高生とエンコー中」 

「うえ、マジで?」

「マジマジ。新條筋の情報だから間違いない。実際、聞いた待ち合わせ場所に確かめに行ったし。"パパ"、なんて呼ばれて腕組んで鼻の下伸ばしてさー。……全く、傑作

だったぜありゃ」

 

 それは良い事を聞いた。

 今後はそれをエサに奴の説教から逃れるとしよう、と蒼助はほくそ笑んだ。

 

「で、蒼助……本当のところはどうなんだよ」

「あん?」

「顔色悪いぜ。ただの寝不足ぐらいで、そんなになるか。魘されて無意識に堀田殴ったくらいなんだ、大層おっかない夢だったんじゃないのか」

 

 目でわかるほどか、と顔を何気なく撫でる。

 

「ま……ちょっと、夢見が悪かっただけっすよ。後味の悪い奴でさ……」

「さっきの冗談よりも性質(たち)の悪い奴か?」

「ああ……――――――っっ」

 

 突然、何の前触れもなくこめかみに走る鋭い痛みに、蒼助は言葉を噤んだ。

 苦痛に歪んだ表情を見た蔵間は、気遣うように訊ねた。

 

「おい、大丈夫か?」

「あ――――――何でも、ねぇ……」

 

 そう言う内心では、何だ今のは、と蒼助自身も正体のわからない頭痛に驚いていた。

 しかし、先程の痛みは後を引くようなことはなく、状態は至って疼く前と変わらぬ正常。

 続く第二弾もない。 

 ほんの一瞬の刺すような激痛。

 

「……あ、俺………もう帰ってもいいすか?」

「別にいいが…………本当に大丈夫か、お前」

「平気だよ。夢だって思い切り疲れてふかーく眠りゃ見ねーっしょ? 今夜は大丈夫ですよ」

 

 根拠も自信もない話だが。

 夢なんてものは相談して解決するような問題ではなさそうだから、無駄なことはしたくなかった。

 ふーん、と変に訝しむことなく後に続けて蔵間が言う。 

 

「まぁ、お前が平気だっつーならいいんだが………ただ、もしもあんまり続くようなら精神科医に行って診てもらえよ。夢ってのはその人間の心理状況の表れだって言う

らしいからな」

 

 どうも、と短く礼を言い、背を向けて職員室を出た。

 扉を閉めて、一息。

 下駄箱に向かう途中で、蒼助は蔵間の助言を脳内で反響させた。

 

 夢はその人間の心理状況の表れ。

 

 蔵間の何気ない言葉は意外なことに的を射ていた。

 そう思うには十分なほどに蒼助の心情は掻き乱れていた。



 一昨日の夜から見続ける奇妙な夢。

 光のない、足下に張る地平線の向こうまで続く水一面以外は闇に覆われた世界。

 それ以外何もない空間で、【あの男】は忽然と姿を現す。

 そして、男の出現と引き換えとでも言うかのように蒼助の身体はいつの間にか足場の無くなった水の中へ沈む。

 どれだけもがいても抗いにはならず、むしろ落ちていく。その感覚はまるで蟻地獄のよう。



 蒼助が沈んでいくその様は【あの男】は、ただ見ている。  

 惨めに無駄に足掻く自分を、心の底から嘲笑うように。



 そして、男が()()()成り代わる(・・・・・)のだ。

 身体も、存在も、仕種も、何もかもを蒼助から奪い取り身につけ、周囲の人間から『玖珂蒼助』として呼ばれ、認識される。

 そして、彼女も笑うのだ。

 蒼助の皮を被った、まんまと玖珂蒼助になった男の横で違和感すら抱かず――――――

 

 

「あたっ」 





  胸に当たる軽い衝撃と共に声があがった。

 我に返った蒼助の下げた視線の先には、

 

「つー……ちょっと、どこ見て歩いてんのよっ」

 

 鼻頭を押さえて涙目の久留美が、恨みがましく蒼助を睨んだ。

 

「………なんだ、久留美かよ。てめぇこそ、そのかけてる眼鏡は伊達かオイ」

「いきなり喧嘩腰ぃ? いいわよ、この際場所がどーこーなんて知ったこっちゃ無いわ。トコトンやってやろうじゃないのぉ〜、このスケコマシー」

 

 んぎぎー、と激しい睨み合いの中で視線がスパーク、火花が散る。

 普段ならまともに取り合わない蒼助だったが、今は呼び出しや悩みの悪夢のおかげで腹の虫の居所が悪く、ちょっとした喧嘩の種ですら惜しまず買ってしまう状態に

煽られていた。

 まさに一触即発の空気をまとった二人。

 周りの人間が逃げるように急いで通り過ぎていく中、触ると怪我しそうな二人に拘る勇敢な人間が一人いた。

 

「久留美、無闇に噛みつくな」

「たっ」

 

 こつん、と久留美の頭の天辺を小突いたのは、怒りのあまりに意識と視界に入っていなかったその倍後の人間だ。

 声を聞いて蒼助はハッと我に返る。

 

「誘った人間をほったらかして、廊下で喧嘩とは………なかなか良い度胸だな」

「だぁって、こいつが……」

「まさかこうなるたびに一々突っかかっているんじゃないだろうな。…………いいから、こういう時は向こうから絡んで来ない限り、一言誤って素通りするのだが礼儀だ」

「絡んできたら?」

「望み通り骨一本ぐらい折ってやれ」

 

 急降下で物騒な会話に変貌させたその人――――――千夜は蒼助に視線をやった。

 跳ね上がる心臓。



 しかし、視線はすぐに外され、

 

「ほら、行くぞ。お前が奢ってくれるというケーキ屋に連れていってくれるんだろう?」

「ちょ、ちょいまちっ、奢るっていう覚えのない事項が私の知らぬ間に約束の中に含まれてる気がするんだけど!?」

  

 気にしなーい気にしなーい、と想定外に焦る久留美の言葉を軽く無視して、千夜は蒼助の横を通り過ぎた。

 蒼助にちらりとも視線をやらず。



 足音が遠くなっていく。

 見せ付けられた静かな拒絶に、蒼助は歯を噛み締めた。

 

 

 

 己の意志と関係なく離れて、開いて行く距離間。

 蒼助自身が最も恐れていた事態が、じわりじわりと迫っていた。






















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