――――――遡るは二十年前。

 それは年号の代替わりを二年ほど先に控えた冬に起こった、とある事件が全ての始まりだった。






 東京のある一角で一人の民間人が殺された。

 その人の手によるものとは思えない猟奇的な有様から、魔性の仕業であることはすぐにわかった。

 一つ奇妙な点が残ったが、その時点では誰も気にしなかった。

 日本を影から支える退魔代表機関である降魔庁は表で警察が動く中、裏で通常通り捜査を進めた。

 何の変哲も無い事件、と誰もがそう思っていた。 

 



 しかし、事件の翌日に違う地区で事件は起こった。

 その翌日も、その次も。全て違う場所で、何の接点も無い人間が殺されていった。



 

 そして、最初の事件から二週間、被害者が十人を超えたところで降魔庁は事のおかしさに気付いた。



 共通する奇妙な点。



 それは、降魔庁の眼である【天上の眼】が魔性が出現しているにも関わらず、事件の連なるどの場所にも魔性探知の反応を示さなかったということ。

 明らかな"異常事態"だと、誰もがここでようやく認識した。

 

 事態の深刻さに降魔庁は捜査を強化に特殊部隊を出動させ、元凶たる魔性を追った。

 毎夜続く東京中の捜索と巡回の結果、ついに魔性を発見するまでに至ったが、倒して終わり、という終結は追跡者達には待っていなかった。

 

 魔性を追い詰めその場に居合わせた特殊部隊のメンバー計十六名。

 一人残らず、その魔性を前にその命を散らした。

 唖然とする降魔庁をその後待っていたのは獲物の逆襲だった。

 夜な夜な降魔庁の退魔師が襲撃され、惨殺された。

 これに焦った降魔庁は各退魔組織に助勢を求めた。

 

 お互い不可侵の条約を張っていた各退魔組織はこの事態を見兼ね、一時それを解きそれぞれ実力者達が魔性討伐に乗り出した。

 結果、実力を兼ね揃えた各一族の当主や候補が集い奮闘した末にその魔性を討ち滅ぼす事が出来た。

 しかし、倒したそれは、これから都市を恐怖のどん底に突き落とす脅威の先兵に過ぎなかった。

 

 現代の退魔の暦に暗黒時代と刻まれることになる、十四年間の始まりでしか――――――










 ◆◆◆◆◆◆










 こぽこぽ、と三つのカップに注がれるコーヒー。

 二つは蒼助と千夜。三つ目は、三途自身の自分のもの。

 

「暗黒時代というのは言葉どおり、不安と絶望の隣り合わせが続いた十四年間のこと。表の方ですら一般人の間では、口裂け女などの都市伝説がいくつも産み出され飛び

交う。それくらい誰もが、見えずとも恐怖を感じ取っていた。いつしか、誰も日が暮れて夜が訪れると誰も外を出歩く事はなくなった。家に閉じこもったからと言って、

安全だったとはお世辞にも言えなかったけどね」 

 

 三つ目のカップに注ぎ始めた三途に、何故と蒼助は尋ねた。

 答えたのは千夜だったが。

 

「お前な………化け物に人間相手の対策が通用するわけないだろう。運の悪い悪連中は、三匹の子豚の兄二人と同じ道を辿ったに決まってる」

「…………レンガの家は?」

「狼だったら助かっただろうな」

「…………」

 

 蒼助が沈黙したのを確認すると、三途は続きを語った。

 

「夜は悪鬼邪霊の大行進、と比喩しても言っても誰も否定しなかったよ。何しろ、当時の東京の異名は、【百鬼夜行都市】………皮肉なくらいぴったりだよね。その悪しき

の巣窟では、退魔師も決して安全ではなかった。十四年の間で死亡した退魔師の数は、地方から呼ばれ遠征してきた者も含めて総勢およそ二百を超えた」

 

 蒼助は三途の口から出た事実に、唖然とした。

 現在では有り得ない死亡数だった。

 大昔よりも比較的に力も数も減ったとはいえ危険に変わりないこの役目には、よく訓練し実力を積んで一人前になってつくものだ。

 ちゃんとした実力を兼ね揃えていたはずの退魔師すら、それほどの数だけ魔に敗れたというのか。

 

「そして六年前、東京を恐怖のどん底に陥れていた元凶は退治され、再び以前のバランスが取り戻せた今に至るってところだね」

 

 湯気を昇らせるカップ三つをおぼんに乗せて、歩み寄って来た三途は席に着く蒼助と千夜の前に二つを置き、自分の分は手に取った。

 

「と、おおまかな説明は以上だけど………どう?」

「やっぱり、その時の元凶っていうのも……その、【禍神】って奴なのか?」

「そう。アレはまさに人と魔の対立バランスを崩したと言ってもいい。相容れないながらも、戦い続けてることでとれていた常にギリギリとれていたバランスを……ね」

 

 置かれたコーヒーには手を付けないまま、蒼助は更なる質問を飛ばす。 

 

「結局のところ………そいつは、【禍神】って一体何なんだ?」

 

 重要な点だ。

 そもそも、自分はそれを調べに来たのだから。

 

「魔性………と言ってしまえばそれまでなんだけど、そういう単純なもんじゃないんだよね。どうなってあんな怪物が生まれたのか……。それは私も知らないし、誰も知ら

ないよ……おそらくね」

 

 おそらく、と言うのは――――――"それを知っているかもしれない人物"に心当たりがあるからだろう。

 それは蒼助も同じ。思い浮かぶのはあの黒一色のただ一人だけだった。

 

「ただね、昔……その当時、ある人がこんな事を言ったんだ。"澱はカミが沈む世界。なら、この澱に侵食された街に巣食うあの連中も、きっとカミだ"、とね」

 

 突然、三途が言い出した言葉に蒼助は眼を丸くした。

 

「あれが、カミ?」

「ふふっ、蒼助くんったら………その時の私と同じ反応。もちろん、信憑性は限りなくゼロだったから私も信じてなかったけど………でもね」 

 

 三途はコーヒーカップに口付け、一口飲むと、

 

「今なら、その言葉もあながちぽっと出のデマカセとは思えないんだよね。神は仏と違って祟ることだってある。民話で人身御供をさせて人を食う神も目にする。神話には

世界を終焉へ誘おうとした神だっている。全てのカミが善きと、全能の者が魔に堕ちることが無いと本当に言い切れるのか………とね」

 

 ことり、と三途の手によってテーブルの上に降ろされたカップの音が、沈黙の中で妙に響いたように蒼助には思えた。

 水を打ったような訪れた静寂。

 その中、蒼助は口を開きそれを破った。

 

「………アンタ、魔術師だよな?」 

「そうだけど?」

「何でこんな事情を知っているんだ? この国で起こる裏のこと全てに絶対不可侵であるはずの魔術師が………何で、資料から消されていることを……」

「昔、ちょっとある一部の退魔師とつるんでその件に首を突っ込んでいたんだ。と言っても、解決の年の僅かな間にだけどね………二十年前じゃまだ三歳。しかも、七歳

から十六歳までの間には日本にはいなかったからね」

「………退魔師とって………魔術師であるアンタと……?」

「信じがたいって顔だね。……でもまぁ、世の中に数いる人間の中にちょっとズレた変人がいるだから、退魔師にそーゆー変わったのがいてもおかしくはないんじゃない? 

現に、ココに自分から"澱"に飛び込もうとしている命知らずな変人がいるし、ね」

 

 ぎくり、と蒼助は肩を強張らせた。 

 触れて欲しくない部分を最後に出したのは、ワザとなのか。



 蒼助は、慎重に視線を三途からテーブルのすぐ向こうにいる千夜に映した。

 カップを片手に目線は伏せられていた。

 話が始まってからというものの、千夜は蒼助の思慮の浅い質問に口を挟んで以来、それからは質問はおろか相槌すら打とうとしない。

 質問に対するフォローするの声も、何処か棘を感じた。



 そして、沈黙と無表情が逆に怖かった。

 

「………三途」

「っ」

 

 震えた後、自分ではないのにビビっている己が情けなくなった蒼助だった。

 

「この答えにはあまり期待はしていないんだが……いいか?」

「どうぞ」

 

 黙っている間に随分飲んでいたのか、中身が半分ほど減ったカップを置き、

 

「それほどの大事件を降魔庁は何故、資料から記録を消したんだ? 今回のような事の為に、後世に残しておくべきだったはずだろう」

 

 確かにその通りだった。

 あの組織の記録はどんな小さな事件も明確に記される。

 それも十四年も続いた大惨事。

 記録ミスなど有り得ない。

 

「………さぁ、ね。降魔庁という組織に関しては完全な部外者の私には何とも言えない。………まぁ、国家を裏で支える程の大組織なんだから、内側で穏便ではない事情も

いろいろある。…………知られたくない、残すべきではない事でもあったんじゃないかなぁ」

 

 知られたくないこと――――――

 歴史に残すべきではないことこととは――――――

 

 問われた質問は膨らみ、二つの疑惑に分かれて蒼助の中で膨らむ。  

 喉が酷く渇き、置かれてから大分経ったコーヒーにようやく手を掛けた。  

 口に注いだ一口は、

 

「にげぇ……」

「あれ、ブラックは嫌い?」

 

 注文聞かなくてゴメンねぇ、と謝る三途と視線すら向けない千夜はブラックを平気で飲んでいた。

 蒼助は、この場において疎外感を感じずにはいられなかった。










 ◆◆◆◆◆◆











 日が暮れ始めた五時過ぎ。

 真っ赤に染め上げられた空の下に出た。



  

「情報、どうもな下崎さん。……あと、俺……午後の営業時間も丸々潰しちまって……」

 

 そんなことないよ、と三途は笑って片手を振った。

 

「まぁ、半分は私の居眠りだし。こっちの経営なんてカモフラージュのほとんど形だけだから、気にしないで? それより、私の情報は役に立ったかな?」

「ああ、充分なくらいに。助かった、サンキュー」

 

 礼を言う裏で、蒼助の心の中では複数の糸が複雑に絡まりあっていた。

 結局、本筋である【禍神】そのものの正体には辿りつけなかった。



 その変わりに出てきた、いくつかの予定外の疑惑、疑問。

 蒼助は謎の一つである三途を見据えた。



 下崎三途。

 魔術師であるにも関わらず、記録にも残されていない退魔師の事情を知る女。

 そして、穏やかさの裏に狡猾な本性を隠し持つ澱の領域に立つ底知れぬ実力者。


 【禍神】そのものについて確信を持って答えられる事は知らないと言っていたが、恐らく嘘だ。


 彼女の口から語られた話は、悪魔で二十年前の事件にまつわるものだけ。 

 何だかんだ言って【禍神】については、何一つ語っていない。 

 何より、あの黒蘭が目の前の魔術師を勧めたということは、己が知ることを代わりに語る存在であるからではないのか。

 そもそも、何故彼女が二十年前の詳細をあそこまで詳しく知っていたのだろう。

 当時の三途は物心もつかない子供のはずだ。



 しかも、七歳から十六と問題の十四年間の殆んどを日本ではない何処かにいたのに、何故日本の事情を知っていたのだろうか。

 いや、それは仮に海外に届くほど日本の事態が悪化していたと考えれば、大した事ではない。



 問題は、それほど危険な場所となっていることをわかっていて――――――何故、日本に帰国したかだ。

 

 そんな危険で厄介な国に訪れようなどと、誰が思うだろう。

 それにも関わらず、この国にやってくる理由とは一体何だったのか。

 そして、事件が終わった後も、こうして喫茶店を模して隠れ住んでまで魔術師に優しくない日本に留まっているのは何故なのか。

 

 謎は明るみになるどころか更に深まった。

 深みに嵌まっていく感覚。

 これが、"澱"に拘るということなのか。

 

「蒼助くん?」

 

 ジッと顔を見つめて来る蒼助に三途はきょとん、としていた。

 何かを探るように指先を頬や鼻、口元に滑らせ、

 

「あ、もしかして……顔、何か付いてたりする?」 

「いや……やっぱ美人だなって見惚れていただけ」

「上手だね。残念だけど、お世辞で商品安くしたりはしないよ?」

「そんなんじゃねぇって……ひでぇな」

 

 何であれこの女は、これからも眼を光らせておく必要がある。

 ようやく見つけた"澱"への扉の鍵になるかもしれない存在だ。

 親しくなっておいて損は無い。

 身体でたらし込んでおくというのも有りだろう。

 

「ねぇ、蒼助くん」 

「ん? ……なんすか」

 

 黒い目論見を胸の内で巡らせていた蒼助は、三途の顔を見た。

 思いの他真剣な表情を浮べていた三途に、蒼助は今度は何だ、と目でわからない程度に身構えた。

 

「ここまで話しておいて今更だけど、"澱"には拘らない方がいい。これは、本当に君の為に言っていることだから」

 

 余計なお世話だ、と言いたいところだったが、そういうわけにもいかず沈黙で曖昧に応えた。

 

「俗世の君が"澱"に来るということは、君自身の世界が変わる。それで、そこから見えるものも、変わる。……知らなければよかった、と後悔することも知る事になる。

そして、元の世界にあったものを失う。大切なもの、かけがえのなかったもの、続くと信じてやまなかったもの………それら全てが、己の意志に関係無く周囲から取り

去らされる。それが、澱に沈んでいくということなんだよ」

 

 遠くを見透かすように手の平を見つめる三途。

 先程までの姿とは打って変わった儚い様子に蒼助は驚き、そして悟った。

 彼女は、澱に来ることで何かを失ったのだと。

 失った果てに、澱に辿り着いたのだと。

 

 彼女が何を失ったかは知れないが、自分はこの先を進み、引き換えに何を失うのだろう。

 

「三途」

 

 思考を切り、声のほうを見遣ると、ちょうど入り口を塞ぐように立つ三途のすぐ後ろには千夜がいた。

 

「今日は帰らせてもらってもいいか? ………接客が出来るような気分じゃない」

 

 そんな千夜の言い分に蒼助は呆れる。

 普通のバイトで、そんな無茶苦茶な我侭が通るわけがない。

 体調が悪いながらともかく気分じゃないなどと。



 しかし、

 

「そう、じゃぁ今日は帰りなさい」

 

 通った。

 当然のように要求した千夜も千夜だが、同じようにすんなり応じる三途も三途だ。

 これが雇う者と雇われる者の関係なのだろうか。

 それ以上の、何か特別な関係性があるように思えて仕方なかった。

 疑問が、また一つ増えた。

 

「蒼助くん、途中まで千夜と一緒に帰ってくれないかな?」

「は?」

「は、じゃないでしょ。男の子なんだから、それぐらい引き受けてくれない? 一応、このコ女の子だから」

 

 一応、という部分への含み。

 この人物も、千夜が男だった過去を知っているのか。

 

 しかし、今のこの状態での二人で帰るという行為は、自分の首を絞めるような気がしてならない。立場として、蒼助は非常に弱いところにある。そして、千夜は蒼助に

対して不穏な態度を保ち続けている。

 こうでなかったら底知れなく嬉しくてしょうがない絶好の機会が、今は心苦しい。 

 

「え、ああ……その」

「そうだな。逢魔ヶ時はいろいろと危険だからな。………一緒に帰っても構わないか? このまま一人で帰るのは心細いんだ。………お前さえ良ければの話だが」

 

 作られた伺うような笑みと共に紡がれる言葉。

 断る自由は無い、と暗に言われていた。










 

 ◆◆◆◆◆◆










 帰路。

 東京の灰色の空で濁った朱色が頭上のある。

 互いに無言を保ちながら帰路を辿っていた。

 途中、数名の同じ高校生と思われる集団がすれ違う。

 通り過ぎた後、ちらりと後ろに視線を送れば揃いも揃ってこちらを興奮気味に見ていた。正確には、千夜単体をだろうが。

 

 じろり、と睨んでやると慌てて素知らぬ顔を作って誤魔化し、早足で遠ざかっていく。

 

 溜息を一つつく。

 これが初めてではなく、五回目くらいの出来事。

 若者だけじゃない。いい歳超えた脂の乗った四十過ぎのオヤジですら、年若い女子高生相手に頬を染めて振り返っていた。

 その度に威嚇をして追い払っていた蒼助は、すっかり不機嫌だった。

 

 黙っている千夜を視線だけ下げて見下ろす。

 どの角度から見ても千夜の美貌は見事なものだった。

 しかも、化粧などの飾り気はないにも拘らず年不相応の天然の色気まで漂っている。

 魔性の女、とはよく言ったものだ。

 

 そんな極上の女を傍に置いて歩いている蒼助は、満足感や優越感などを抱いてはいなかった。

 あるのは、誰かにこの少女を欲望対象として見られていることへの嫌悪感と怒り。

 一言で言えば独占欲だった。

 

 女どころか、"何か"に対してこんな感情を抱いたことは無かった。

 縛りつけたいほど大事だと思ったことなく、渡したくないほど惜しいと思ったことは今までなかった。 

 身体の結びつきという見かけだけの浅い関係しか知らなかった蒼助は、この恋にどっぷりはまってしまっていた。

 考えてみれば、千夜に出会わなかったら、何も変わらずつまらない日々をただ食い潰して生きていたかもしれない。

 

 ………いや、かもしれないじゃねぇよな……。

 

 仮定ではなく、間違いなくそうだったに違いない。

 何故なら、あの夜から全てが始まったのだから。

 

『俗世の君が"澱"に来るということは、君自身の世界が変わる』

 

 世界ならとっくに変わっている。

 千夜という"澱"に出逢った、あの時から。

 そして、【禍神】という存在が、蒼助自身を更なる"澱"の深淵へと導き引きずり込む。

 

 ………ここまで来て、今更後戻りなんか出来るかよ。

 

 もう決めた。

 己の隣を歩くこの少女と対等になるのだと。

 俗世と澱を隔てる"壁"を決壊させるのだと。

 

「……………」

 

 店を出てから千夜は一言も喋らず、幾度も向けられるすれ違いざまの視線すら気にもかけず、ただ蒼助の隣を歩いていた。

 気まずい。何処かプレッシャーを感じる沈黙を伴って、蒼助も歩調を合わせるという自分にしては珍しい気を遣いながら、口を開くことなく千夜の隣を陣取って歩いた。


 空気が重い。

 この前の休日に、同じように歩いた和やかなあの時が、今は酷く懐かしくて仕方ない。

 何故こんな沈黙が己と千夜に付きまとうかは、理由はわかっている。

 その理由が、千夜を今静かに怒らせていた。

 情報はいくらか手に入ったが、その代償は蒼助にとっては非常に大きかった。

 何か話題を、とさりげなくピリピリした空気を和らげようと蒼助は考えを巡らせ、

 

「……あ、のさ……野暮なこと聞くみたいだけどよ」

「なら聞くな」

 

 会話のキャッチボールは受け止められず、思い切り打ち返されて蒼助を通り過ぎた。 

 

 ………なにくそっ。  

 

 これぐらいで折れてたまるか、と蒼助はやや強引に会話を繋げた。

 

「……下崎さんとお前って……随分親しいよな。雇い主と店員っていうよりは、なんかダチって感じがするんだけど」

「………保護者みたいなものだ」

「ふーん。………まぁ、アレは確かにそんな感じだよな」

 

 うんうん、と頷き。

 あの甘やかしっぷりは親ばか顔負けだ。

 

「にしても、どうなったらあんな風に溺愛されるようになるんだよ。……もしかしたら、お前に気があんじゃ………」

「どうだっていいだろう。お前には関係ない」

 

 有無を云わさずの一刀両断。

 手酷い仕打ちに、元々あまり丈夫ではない蒼助の忍耐の糸もピンと張りつめ、

 

「っ……あのなぁ、何でそんなに怒んだよ。………確かに、お前の警告無視したのは悪かった。けどな、俺にだって譲れねぇ事情って奴があ……」

 

 千夜の足が止まる。

 それにつられて止まった蒼助の目に飛び込んできたのは、冷たく突き放すような千夜の眼差しだった。




「……お前は、もう少し利口な奴だと思っていた」




 凍えそうなまでに低く下げられた声。

 それに蒼助の中で嫌な予感が募り出す。

 

「か、千夜?」

「譲れない事情とは、依頼に組み込まれた報酬のことか? たかがそれだけの為に、命を危地に立たせるような愚かな男だったとは……思わなかった」 

 

 待て、と誤解を解こうとする声は、千夜のそれを許さない視線で遮られた。

 

「説教をする気はない。そんなことをできるほど偉い立場ではないからな。だから、最低限の言葉をくれてやる」

 

 緋色の影に帯びた千夜が形の良い唇を動かす。

 そして、ただ言い渡した。

 説教でもなく叱咤でもない、





――――――見損なった。………お前など、もう知らない」





 拒絶の言葉を。









 ◆◆◆◆◆◆









 紺一色の空になった頃。

 白い病室で氷室はベッドの上、渚は折り畳み式椅子に腰掛けて見ていた。




 ――――――世にも奇妙な珍獣を。




「………」

「………」

 

 二人の沈黙の中、珍獣は唇を動かし言葉を紡ぎ出す。

 その声はかなり小さく、速い。聴く側にはあまりにも苦しい。

 氷室と渚は互いに顔を合わせ、目で会話する。

 

 あれは何だ、と。

 

 そして、再び視線を戻す。

 聞き取れない言葉を続ける珍獣――――――蒼助に。

 

「……以上、調査報告は終わりだ。で、何か質問はあるかお前ら」

 

 渚と同じように椅子に座り語っていた蒼助が顔を上げ、二人に対して言う。

 その声も、小さく頼りない。

 聞き取りにくい事この上ない喋り方をする蒼助に渚は、"その様子"に引きつつ、下手な刺激は与えないようにと、警戒体勢に入っている小動物を相手にする要領で控えめ

に手を上げ、意見を主張する。

 

「あー、えっと……ちょっと、声が」

「何を言っているかさっぱりわからなかった。もう一度、一から内容を語れ。今度は大きくゆっくりと聞き取れるようにだ。わかったら、イエスと言え馬」

 

 鹿、と最後の一言を言わせる前に、渚は光の反応速度で両手で口を押さえた。

 空気は読めているだろうが、気遣う気がまるでない相棒の言葉に冷や汗かきつつ、半分ではこのおかしな珍獣がいつもの友人に戻るのではないかと期待した。



 が。

 

「ああ、悪かったな。………それじゃぁ、また最初から」

「わぁーっ、もういい、もういいからっ!! 聞いた、聞こえたよちゃんと」

 

 悪かった、と言いつつもちっとも改変の様子のない声量から、この天敵の喧嘩上等を固めたような言動でも効果はなかったと渚は判断した。

 

「あのさ……なんか、あった?」

「何が」

「いや、何か……落ち込んでるみたいだからさぁ」

 

 落ち込む。

 そんな言葉とは無縁だとばかり思っていた男が、今目の前でそれを体現している。

 

 奇妙。 

 不思議。

 不気味。

 恐怖。

 

 様々な言葉が混ざり合って、ミックスした結果が"珍獣"だ。 

 これは蒼助をよく知る人間であればあるほど、深く浸透するだろうと渚はしみじみ思う。

 

「………………別に」

「いや、そんな腹の底から溜息吐きながら言われても説得力ないし」

 

 かつてない落ち込み様に、渚は戸惑いっぱなしだった。

 氷室も同様。見た感じではそうは見えないが、なっがい説明が終わるまで突っ込めなかったのが事実だ。  

 

「別に、何でもねぇよ………心配なっしんぐ」

「その言動がこっちの不安を煽るんですが」 

 

 本格的にヤバいのでは、と思った矢先、

 

「今の話を聞く限りでは、肝心のあの魔性………【禍神】という存在については、まだ何一つわかっていないようだな」

「ああ。だが、今日話しを聞き出した魔術師は、まだなんか隠してると俺は見ている」

「その根拠は」

「あの魔術師自身にも謎が多すぎなんだよ。最初の事件の頃はまだガキで、事件が多発している間はほとんど日本にいなかったのに……何でこんなに詳しく知っていると

思う? それも、日本においては不可侵条約に縛られる魔術師が、だ。そもそも、何でそんな危ない時期に日本にわざわざ帰ってきた? しかも、事件が終わって六年も

経っているにも関わらず日本に隠れ住んでいやがる。………どう思う、氷室」

 

 沈黙をおいて、

 

「………その魔術師の名は?」

「下崎三途。一歩間違ったら、"下先三途"だぜ? すげぇ名前だよな」

「……さん、ず?」

 

 確かめるように、氷室が呟く。

 それを見た蒼助が怪訝な表情を浮べる。 

 

「何だよ、どうかしたのか?」

「いや、何でもない。………引き続き調査を続ける際は、その魔術師から目を離すな」

「言われんでもそうする。じゃ、今日は帰るぜ」

 

 と、蒼助は椅子から立ち、颯爽と部屋から出て行こうとする。 

 それを見ていた渚はホッと一息ついていた。

 見間違いではないのは確かだが、何だかいつの間にか蒼助の調子が戻っている。

 何があったかは知れないが、この調子ならきっと大したことではないのだろう、と渚は踏んだが。

 

 

 ――――――ゴンっ。

 

 

 硬質物同士がぶつかり合う。  

 足が縺れた蒼助が閉まったドアにバランスを失った勢いで、前のめりに倒れ頭を打ち付けていた。

 間抜けな光景に、氷室と渚は言葉が出なかった。

 音の割にはさして痛くなかったのか、蒼助はずるり、とそのまま顔をこちらに向け、

 

「………じゃあな」

 

 活気の無い声を残した蒼助は取っ手に手をかけた。開いて、閉じるドア。

 蒼助がいなくなった後、

 

「本当に何があったんだろ………」

「知らん」 

 

 そして、病室に謎が残された。









 ◆◆◆◆◆◆









 頭の中でリフレインする言葉がある。



 

 ――――――お前など、もう知らない。




 氷のように冷たい眼差しに拒絶を込めて投げつけられた突き放し。 

 あれから何時間経とうと、初めて言われた時と同等の疼きが蒼助に訪れた。

 

「………どーすんのよ、俺」

 

 ベッドの上で、黒のランニングシャツとズボン姿になって天井を見つめながら、蒼助は自分を責めた。

 三途のように演技や冗談ではなかった、容赦ない怒り。

 言って千夜がさっさと帰ってしまった後、蒼助は五分ほどその場で凍り付いていた。 

 何とか立ち直って、気分なおしに収穫した情報を片手に氷室のところへ行ったが、受けた傷は時間の経過と共に癒えることはなかった。

 寧ろ、時間が経てば経つほど痛みがより増していく。

 

「俺って意外とデリケートだったのな………知らんかった」

 

 脳裏に浮べるあの時の千夜の顔。

 本気で突き放す表情に、胸の奥がジクジクと痛む。

 蒼助の中の問題は、今や"澱"とは別のものにすり替わっていた。 

 千夜との関係に入った亀裂をどう修復するか、だ。

 今の蒼助にとっては、そっちの方が優先地位が上である。 


 自嘲する。

 女一人にこんな風に一喜一憂するとは、昔の自分が見たらどう思い何と言うだろう。

 

「くくっ………きっと、こんなの俺じゃねぇって認めねぇだろうな」

 

 手で額を押さえながら思い浮かべた想像に笑いを漏らす。

 一人の女に夢中になるなど、こうなるまで想像もつかなかった。

 ここ数日、女をひっかけることも、セフレの誘いにも乗っていない。

 今の蒼助にとって、そんなものは全て眼中になかった。

 この腕に抱きたいのは、ただ一人。 

 

「なぁ、神崎………今なら、お前の気持ちちったぁわかるぜ」

 

 今はいない、かつて千夜に妄執的なまでに執着していた男。

 人を捨ててまで力を求め、その果てに滅ぼされた。 


 今気付いた。

 あの男と自分は根源は同じだ。

 現に、彼女が手に入るなら悪魔に魂を売り渡したって構わないとすら思っている。あの神崎のように。


 欲しいものは何がなんでも手に入れたい、という貪欲な神崎の本質が自分にもあったのだと思うと非常に腹立たしいが。

 だが自分がこれが初めてだ。欲しい、と何か求めるのは。

 後にも先にも、こんな欲を抱くのはこれを最初にして最後にする。

 この手に既に荷物があって抱えられないなら、そんなもの捨ててやる。

 彼女が手に入らないなら、必要(いら)らない。

 だから、

 

「………なぁ、神でも悪魔でもいるなら叶えてくれよ」

 

 誰にかけるわけでもない言葉を懇願として紡ぐ。

 

「全部くれてやるから」

 

 だから、千夜を。

 

 

 

 

 

 

 

『ナラバ、引キ換エニ汝ノソノ望ミヲ……叶エヨウ」

 

 

 

 

 

 

 室内で響いた濁った声。

 同時、電灯の明かりが不自然な点滅を始めた。

    

――――――っ!?」

 

 蒼助はベッドの上から跳び起きた。

 辺りを見回すが部屋の何処にも"声"を発した存在らしきものは見当たらない。

 何が起こっていると、警戒心を募らせたその時、蒼助は視界の端で"異常を捉えた。

 

 振り向いた先では空間にぶれが生じていた。 

 まるでモニターに映る映像が砂嵐によって荒らされているように、『何か』がそこで姿を乱されながらも――――――"()た"。

 僅かに特徴として確認できるのは、辛うじて人の形を留めている【それ】の顔や全身に巻きつく黒い布のようなローブ。

 まるで、己の存在を不穏と誇張するかのよう。

 

 全身を駆け巡る悪寒。

 空間の乱れによって明確な姿が見れない存在に対する、人為らざる者への恐怖だった。

 吐き気をもよおす嫌悪感。それは、あの夜学校を覆った結界から感じた良からぬ力の"質"。  

 悪しき存在。脳裏に駆け巡る一つの言葉。

 

「……ま、がつ……かみ?」 

 

 だが、形が違う。

 神崎が【禍神】だったなら、これは違う。

 物の存在としての大きさが、違いすぎる。 

 

「ケ、イ……ヤク……ッ……ヲ……」

 

 雑音交じりの声が紡いだ。

 契約。 

 一体何のだ、と蒼助は声にならない疑問を放った。

 

「我ハ、……ナン、ジノ……望、ミヲ……聴キトメタ………叶エヨウ、故ニ契約ヲ……結ボウゾ……」

 

 【それ】はじわり、と蒼助ににじり寄る。

 蒼助はベッドの上で引き摺るように後ろに下がる。

 頭と背中に硬いものがぶつかる。壁。

 これ以上下がれないところまで来た蒼助は戦慄しながら、ただ止まる気配のない【それ】を瞬きさえ忘れて両目で捉えるしか出来ない。

 

「……契約ヲ、今一度望ミヲ………。汝ノ全テト引キ、換エ、ニ………汝モ……ア、ノ、男ノ……ヨウニ…………人デアルコトナ、ド……棄テヨ……」

 

 肉が腐乱した臭い。それを嗅がされいるような感覚に陥る。 

 黒布の中から青白い筋張った手が伸ばされる。

 振り払わなければならないと思うのに、本能がそれを抑える。

 受け入れろ、と心のどこかで底知れない闇を招きいれようとする自分がいる。

 

「サァ、今一度………ノゾ、ミヲ……」

 

 骨を皮で包んだような手が眼前まで迫る。

 

 

 

 

 

 

――――――何をしている」

 

 

 

 

 第三者の声。
 あるはずのない、声。

 

 手の進行が止まる。

 蒼助は見た。

 異形の背後に立ち、その首を片手で握り締める新たな見知らぬ男を。

 【それ】は、突然現れたその男の存在に僅かに怯んだ様子を見せたが、負けじと威嚇する。 

 

「……ッ? ……ナニ、ヤツ………ジャ、マダ、テ、ヲ……スルナ……」

「邪魔は貴様だ、落ちぶれが。戦局を動かす手駒を増やしたければ、他を当たれ」

 

 男が握りつぶすようにその首を絞めた。

 この世のものとは思えない絶叫が鼓膜を突き破る勢いで響き、黒布が千切れ飛ぶ。


 部屋の明かりの点滅が止み、完全に消えた電灯。

 暗がりを照らすのはもはや窓から差し込む外の淡い光のみ。


 男は宙を舞う一切れを掴み取り、手の平に乗せた。 

 布切れは煙のようにそこから消失した。

 

「…………迂闊に欲望を曝け出すな。もはやこの街では心内で願うことすら自殺行為に等しい。僅かな隙も奴等は見逃さん」 

 

 人目を惹く闇の中でも映える青い髪。

 長いそれと部屋の暗さで顔は見えない。 

 現代には似つかわしくない古い時代に取り残されたような異国情緒漂う、全体が青に強調された衣服と両肩を覆う青の鎧。

 まるで誰かが夢見た幻想から飛び出てきたような民族衣装を纏った男は蒼助に向けてそう言い投げた。

 

「お前……一体――――――」  

 

 次の瞬間、襲った衝撃。 

 首がもげるのはではないか、と思うほど勢いよく首を掴まれた。


 その魔手の相手は、一人しかない。

 

「っっ……がっ……は、」

 

 器官を締め付けられ、僅かにしか取り込めない酸素。

 ギリギリ……とジワジワと徐々に強められていく握力。

 突然のことに蒼助は状況を飲み込めず、目を見開いて自分の首を片手で絞める、"自分を先程救った男"を見た。

 長い醒めるような蒼く長い髪の下に隠れた顔として、唯一見える唇が凶悪に歪む。

 

「何だその目は……何故、とでも言いたそうだな。ならば、逆に問おう。何故、(おれ)が貴様を助けたと思った? この吾が、何故?」

 

 息苦しさに意識が霞み始める。

 その中、ふいに降りた追憶からある事を思い出す。

 

 屋上で死に掛けていたあの時に響いた声。

 己の意識を最終的には沈めた、あの声と男の声は同じだった。

 思い出すと同時に意識を覆っていた霧が一気に晴れる。

 再び正気に戻った瞬間、蒼助の視界に映ったのは自分が見知る部屋ではなかった。

 

 ――――――っ…んだ、これは………!

 

 見上げる先は何処までも暗闇。

 そして、下は膝まで足が浸かる水が張っていた。

 突然、周囲から消え去った現実。それとも自分が現実から切り離されたのだろうか。 



 異空間に青髪の男の声が木霊する。 

 

「驚くか。まぁいい、そのうち慣れろ。これからお前は、この躯が朽ち果てるまでこの下で沈み続けるのだからな」

 

 直後、蒼助の足下がぐらついた。

 ガクン、とバランスを失う感覚。水の下にあったはずの足場が突如無くなっていた。

 底なし沼のように、ずぶずぶと身体があるかどうかもわからない底に沈んでいく。

 腰まで浸かった蒼助に対し、男は何の異変もなく首を掴んだままだ。

 

「く、ははははははははっ、沈め沈め! お前が身体を使っている間に、吾が沈み続けた沈み続けた常闇の底に!」

「てめっ……がぼっ……っっ!」

 

 藻掻き暴れているせいで立つ波に呑まれかけた。

 もう肩まで来ていた。

 

「先程あれを追い払ったのは、貴様が浸食されると吾にも及ぶからだ。くだらぬ契約を呑み、ようやく得た身体だ。魔性に堕とすわけにはいかなかったからな……」

「何を……わけのわかんねぇことばっか言いやがって……っ一体何なんだよ、てめぇはっ!!」

 

 口に入り込む水を吐き出しながら放った激昂の言葉に男は笑みを深くし、身を屈めて首から下が水の下に沈んだ蒼助に囁いた。

 

 

 

「このような表現は些か不愉快だが……まぁいい。吾は――――――

 

 

 男の告げた言葉に見開いた瞬間、それを最後に蒼助は水の中に堕ちた。 

 









 ◆◆◆◆◆◆









 息苦しさが一転し、押さえつけられていたような圧迫感からの開放によって肺の急激な酸素の吸入に咽る。

 それが蒼助の意識の覚醒だった。

 

「っげほっ……げほっ……ぐぇ……」

 

 身を撓らせ、横になっていた体が跳び起きる。

 酸欠状態から呼吸が落ち着くまで時間を置き、蒼助は我に返ったように周囲に目をやる。


 自分の家。見慣れた部屋。ベッドの上。


 電気が消えた薄暗い部屋で蒼助は、自分がいる環境を呑み込んだ。

 そして、記憶を巡らす。

 嵐のように起こり、過ぎ去って行った出来事。

 今、それはまるで無かったかのように蒼助の記憶の中にしか痕跡が無い。

 眠りの中の夢のように。

 

「夢……?」

 

 思ったことを声に出して繰り返した。

 口にしたことで、それは幾らか現実味が増した。

 

「そうだよな、夢だよな……だよなー」

 

 繰り返すことで疑問を抱くもう一人の自分を丸め込む。

 額に滲んだ汗を拭い、もう一度寝直そうと蒼助は身体を仰向けに横たえた。

 壁の時計を見る。

 まだ二時過ぎだった。

 いい夢を見直す時間はまだ充分ある。



 そう言い聞かせ、蒼助は目を閉じた。

 夢と済ませるにはあまりにも生々しく残る記憶も。

 首の痛みも。 

 全て覆い隠すように。

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、眠った蒼助を待っていたのは、安らかな眠りではなく同じ悪夢だった。

 

 
















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