千夜は深く後悔していた。









『ねぇねぇ。朱里、お台場のパレットタウン行きたーい。そんでね、夜の大観覧車に姉さんと二人で乗りたいっ。それでそれで、日曜じゃなくて土曜日に行こうよぉ。

いいでしょぉ、姉さん』







 

 ある一件で、約束を破ってしまった埋め合わせに好きなところに連れて行ってやる、と約束した。

 それが――――――後悔の始まりだった。



 別に何処を指定されても、必ず連れて行ってやるつもりだった。

 彼女との約束は、可能な限り守るつもりでいる。

 日曜日から土曜日への変更というのも、絶対指定日に行くとこだわりは持っていなかったため、彼女の言うとおりにした。

 東京レジャーランドでボーリングやったり、スポーツゲームやったり、お化け屋敷に入ったり。

 とにかく、子供の体力というものは際限がなかった。


 しかし、ほとんどのアトラクションを回り夜の大観覧車に乗る頃には、彼女は疲れが出ていたのか既に眠そうにしていた。











 楽しい休日の終わり。

 ふとしたことで訪れる穏やかな幕閉めが――――――待っているはずがなかった。








 降りるときにはすっかり夢の中の彼女を背中に背負って、夜の渋谷に帰って来ると待っていたのは――――――"招かれざる客"。



 一日中引っ張り回されて疲れている矢先に、迷惑なことこの上なかった。 

 背中に背負っている彼を、恐らくはいつものように遠くで自分を見ていたであろう"二人"に持ち帰らせ、千夜は"客"の相手をした。

 難なく終わるはずだった。

 だが、やはり自分は疲れていたのだろう。


 二日目に自分の身体を侵した瘴気は、生活に支障がないほど綺麗に清められていた。

 だが、まだ若干しぶとく身体にこびり付いている。だから、疲れに便乗して体力の限界が通常よりも速かった。


 そうでなければ、不意打ちなど喰らわなかったはずなのに。



「………やっぱり、観覧車は勘弁してもらうべきだったかなぁ……」



 夜まで出歩いていた事も、敗因だったかもしれない。

 そうでなければ、限りなく後から後から湧いては寄って来る夜の獣達から隠れる為に、こんな路地裏に逃げ込むこともなかっただろうに。


 千夜は、深く後悔を吐き出した。

 ズキンと刺すような痛みが腕を痛めつける。 

 来ているGジャンは滲み出た液体で黒ずみ、てらてらと湿った部分を光らせていた。



「っ………ったく、とことん運がないな、『俺』は………」

(ぬし)様………ご無事でございますか?』



 自分の唯一無二の愛剣が、心底気遣う"声"でこの身を案じてくれる。



 

「無事とは言い難いが…………大した事はない。……だが、また瘴気を取り込んでしまった。………暫く動けそうにない」



 直刀だけは、ほとんど意地で握って離さずにいる。

 これを手放しては、もう後がない。 

 動けない今、この【夜叉姫】だけが敵を近づけないでくれる。


 それにしても参った。

 このままではこんなところで日曜の朝を迎える羽目になる。

 しかも、無事に迎えられるがどうかも怪しい。


 ふぅ、と一息。  

 そもそも路地裏に逃げ込むなど。夜は何処にいても魔性が出歩くが、奴等は闇の深い場所を好む。路地裏などまさにその穴場。

 何で、こんな場所にうかつに逃げ込んでしまったのだろうか。



「………後悔先立たず、とはよく言ったもんだな……ん?」



 ふと湧いた()視感(ジャヴ)に千夜は首を傾げた。


 この状態。

 この状況。


 忘れようと思っても忘れられない――――――何か覚えのある体験。



 

「……………ああ、そうか」



 こんな状況は昔にもあった。


 あの時もこのように手傷を負っていて。

 こんな風に路地裏で一人蹲っていて。

 雪が降っていた。



 帰る場所はなく。

 行く場所もなく。



 全てが自由だったが、どうすればいいかわからなかったあの時。

 いっそこのまま、雪の中に埋もれて消えてしまうのアリかもしれないとすら思っていたあの時。




 目を閉ざして、耳を閉ざして、全てを拒絶して眠りにつこうと思ったあの時。



 『彼女』が現れて、微笑んだ。



「ふふっ………ははは………」



 自嘲し、夜空の見上げた。

 雪はない。

 代わりにあるのは、雲の晴れた夜空浮かぶ灯り。

 "優しい光を纏う月"は、変わらずそこに浮かんでいる。 



  

「また………救けに来てくれないかな………」



 無理な話だ。

 『彼女』はもうこの世にいない。

 二度と自分の前に立つことは、絶対にない。



 ぐらり、と視界が揺れる。



  

「っ……やばい……眠くなってきた」



 瘴気に後押しされた疲れが、眠気となって千夜を襲う。 


 まずい、と舌打つ。

 ここで眠ったら、終わりだ。


 魔性が寄って来ても、深い眠りの中では察知も対処も出来ない。

 そんな必死に現実に噛り付く千夜の耳に、砂利を踏み擦る音が届く。


 ふと、顔を上げれば、もうぼやけ始めた視界に人影が映った。


 どんな姿なのかを識別できるほど視界に自由はなかった。

 ただ、わかるのは大きくなる立体像でその人物がこちらに近づいてきていること。



 もういないその人がまた来てくれた気がして、そこで意識はぷつん、と音を立て切れた。











 ◆◆◆◆◆◆











 ――――――好きになるなら、ずっと離さないでくれる人がいいわ。

 

 それは彼女の口癖だった。

 まるで自分の経験を振り返るように、これから先に自分にそうするようにと言い聴かせるように。

 彼女と出会って、彼女といる間に何十回と聴かされた言葉。

 そして、決まって彼女はその後言うのだ。 



 ――――――愛している人を二の次にするような人は………絶対に、ダメよ。



 何処かここではない何処かを見て、哀しそうな眼差しでそこを見つめていた。

 自分を通して、そこにいる誰かを。










 ◆◆◆◆◆◆










 記憶に焼き付いて消えない残像を最後に、千夜の意識は深い暗闇から上昇を始めた。

 浮かぶような感覚の後、眩い光が飛び込んで来た。



「………ん……」



 眩しかったのは電灯の光だった。  

 視界を閉ざした闇に慣れた目を擦り、改めて見て映ったのは見知らぬ部屋だった。

 そして、自分の身体はベットの上に寝かされていた。

 記憶の途切れからは繋がりようのない今の状況を把握するべく、右手を支えに身体を起こす。



「……っ! …つぅっ……」



 

 突き刺すような痛みが二の腕の外周に奔る。

 怪我の事を思い出し、見るとそこには丁寧に包帯が巻かれていた。 

 緩くそこを摩り、部屋に眼を移す。

 見たところ自分がいるのはリビングのようだ、と千夜は判断した。

 仕切り無しでキッチンがあり、その横には冷蔵庫。 

 更に、ど真ん中にカーペットを敷いた上に足の低いテーブル。

 自分が住むマンションの部屋よりはずっと狭い。


 そして、



「………汚い」 



 部屋のそこらじゅうに散らばる紙くずやら散乱する衣服。

 ここの家主は整理整頓がなっていないようだ、と千夜はその光景を一瞥した。

 ベッドから這い出て床に足を付ければ、何か踏んだ。

 布のような感触を足の指で摘んで、引き上げる。



 

「…………パンツ」



 女物。しかも赤でレース。

 しかも、得体の知れない染みが付いているところがなんだかリアルだ。

 妙な連想を掻き立てられて、嫌な気分になる。



「お前、足にパンツ引っかけて何やってやがんだ」



 背後で聞こえた声に振り返ると、そこには、



「玖珂………?」 



 二日前、とある一件に巻き込まれた友人が、黒のタンクトップとズボンの姿で、リビングへの入り口と思われるドアを半開きにして立っていた。

 千夜にとって、数少ない今の学校で本性を知り見せることができる存在。



 何故、この男がここにいるのだろう。

 当然の疑問を内心から取り出し、



「なんでこんなところにお前が?」

「んなもん、俺んちだからに決まってんだろ」



 玖珂の家?と思考が弾き出し、意識が途切れる寸前の記憶を探る。

 白く暈けて揺らぐ視界に映った最後の映像だった人影。

 あれが目の前の玖珂蒼助だったとすると、ここに自分がいる理由が千夜にようやく見えてきた。



「お前が私を助けた、のか」



 無意識に出た状況に対する理解の言葉に、蒼助はようやくわかったかと言わんばかり一息吐いた。

 そして、千夜のところまで歩み寄り隣に腰を下ろした。



 

「感謝しろよ。俺が通りかからずあのままだったら、魔性の餌か公衆便所にされてたぜお前」



 足先にひっかけている情事の残骸に続いて、ますます不快な気分に沈まされた。

 もう少しマシな例えはないのか、と思っていると怪我をしている腕を引っ張られる。



 

「拾ってきてから二時間、お前ずっと眠ってたんだぜ?」 



 言われて時計を見れば、時刻は既に十時半ばを過ぎていた。

 交戦を始めたのが、七時過ぎ。彼女と別れてから三時間以上も経っていた。

 恐らくあの様子からして明日の朝までは起きないだろう。

 もし起きた時は、留守の間を『あの二人』が傍にいてくれるはずだから心配はない。


 そう思っていると、腕を締め付ける加減が緩くなった気がした。



「………何、してるんだ」



 視線を落とせば、蒼助が巻いてあった包帯をシュルシュルと解いている。 



 

「包帯取り替えんだよ。魔性から受けた傷ってのは性質(タチ)が悪いからな、細かく取り替えねぇと穢れが溜まって膿んじまう」

「いや、その心配はない。あれから二時間なら、もう治ってる頃だ」

「はぁ? ナニ寝ぼけたこと……い、って……」



 しゅるん、と赤い染みが出来た包帯が取れる。

 容態を診るのに邪魔なソレが取り去られたそこには傷はなく、元から怪我などなかったような二の腕が曝されていた。

 驚いたように腕と自分の顔を交互に見てくる蒼助に千夜は訳を教えてやる。

 少々の"嘘"を含ませて。



「生まれつきの特異体質でな、自己治癒力が他の人間よりも高いんだ。おかげで生まれてこのかた入院知らずだ」

「けどお前………瘴気とかはどうすんだよ。さすがにそれは……」

「お前が来る前に処置した。お前を助けた時に使った薬、あれは知り合いの薬師が調合したもので瘴気を浄化する効能を持っている。事前に持ち歩いていたおかげで、

あの時のお前も、今回の私も助かった。そういうわけだ」 



 半分は嘘で半分は本当の話。 

 特異体質なのは本当の事。ただし、いろいろ知られてはまずい部分を省いてはいるが。


 嘘なのは薬に関して。

 確かにあの時はたまたま持っていたが、いつも持ち歩いているわけではない。となると、瘴気は今だ身体の中で燻っているわけだがそれには心配は及ばない。時間は

かかるが、それを過ぎれば瘴気は体内で中和され消える。


 それも
自分(・・)()よう(・・)()特異(・・)体質(・・)によるものである。


 千夜のこの話に、蒼助は「……ふーん」と、僅かに信じ難いようだったが納得したように頷いた。



「ま、それでもこっちまではその特異体質とやらも防げなかったみてぇだけどな」



 そう言って蒼助は千夜の前髪を指先で掻き分け、額に掌を押し付けた。

 突然の行動に瞬くが、その手が妙に冷たく、気持ちが良くてとろんと目を閉じかける。 



「三十八度二分。熱あんだぞ、お前」

「熱………?」



 自分では熱いかどうかは全くわからないが、身体がだるく感じるのはわかっていた。

 瘴気の浄化の際に体内の霊気が活性化する為、自然と体温が上がっているのだ。

 風邪ではないとわかっているので、いつも我慢して普通にしていた。



「………お前、腹へってねぇ?」

「あまり。小腹程度には」



 蒼助はその返事に暫し考え込むように眉を顰めた。



「ちょっと待ってろ、何か作るから。食ったら寝ろよ」



 冷蔵庫を開けて中を覗き込む蒼助の背中を、千夜は遠慮の言葉をかけることすら忘れて、ずっと見ていた。











 

 ◆◆◆◆◆◆











 前に出されたものを見て、千夜は顔に不満の二文字を浮べた。

 

「さけ雑炊か……しかもレトルト」

「なんだよ、文句があるならはっきり言いやがれ」

「自炊くらい出来ないのか一人暮らし」 

「皆が皆出来た人間だと思うなよこのヤロウ、ちくしょー貧乏学生舐めんなよっ!!」  

 

 涙目になってきた蒼助を哀れと思ったのか、せっかく出されたモノを勿体ないと思ったのか。

 ふぅ、と息を一つ吐き、千夜は雑炊の丼と一緒に盆の上に乗せられたスプーンを手に取り、



「まぁいい……下手に食えない代物を出されるよりはマシだと思って食ってやるよ」



 元の場所に捨ててきてやろうか、と本気で思い始めていた蒼助の心情など知らない千夜は、憎まれ口の後にぽつりと呟いた。 



「それに、誰かにこんな風にしてもらうのなんか………久しぶりだからな」



 懐かしげに、そして何処か哀しげに紡がれた呟きに蒼助は毒を抜かれ、怒る気も失せて肩を力を抜いた。



「俺だって初めてだぜ………人にこんなことすんの」



 周りは病気知らずの健康児だらけで病気の看病などする機会などなかった。

 セフレが風邪を引こうとも見舞いに行ったことはない。向こうの神経が逆立った状態で相手をしても機嫌とりが面倒くさいだけだし、無理して青白い顔で微笑まれても

気味が悪いだけだから。


 しかも、料理も家事も不得手の自分では何も出来ないのだから尚のこと始末が悪かった。


 だが、今回何故かこの女には何かしてやらねばと思考がせかせかと動き、身体もそれに従う。倒れていたのを見つけた時は本当に心臓に悪かったし、彼女が気が付いた

時にはそれまで落ち着かなかった心が平常を取り戻すなど、この終夜千夜という人間は蒼助の心を酷くかき乱してくれる。



「いただきます」



 かちゃかちゃと食器を動かし、千夜は電子レンジで暖められた雑炊を口に運ぶ。

 その動作に目を奪われ、暫しそのままじっと見つめる。

 不意に千夜の視線がこちらの眼と合い、我に返り慌てて目線を逸らす。 

 自分の行動に奇妙な後ろめたさを感じ、誤魔化すように話題を振った。



「そ、そういえばよ……お前なんで昨日休んだんだ?」

「んっ……ああ、先日の一件で瘴気を喰らってしまってな。大事はなかったが、浄化し損ねた僅かな瘴気のせいで一日ベッドで寝て過ごす羽目になった。妹に泣かれるわ、

見舞いに来た友人には嫌味言われるわ、勝手に上がり込んで煎餅食い散らかしていく連中がいるわ……散々だったなぁ」



 はふぅ、と溜息。

 よっぽど辛かったのだろう。特に後半が。

 

「それはそうとあの後、お前の仲間どうなった?」 

「あ?」

「重傷負ってヤバい感じなのが一人いただろ。アイツは生きてるか?」



 それが氷室の事を指しているのに気付き、



「ああ、アイツか。……生きてるぜ。一時は相当ヤバかったらしいけどよ……久留美が持ってた札のおかげで出血を抑えて一命を取り留めたって、アイツの相棒から連絡

もらった。ま、問題があるとしたら、上の命令に逆らって勝手に行動した責任をどう問われるかだよな。お前が気にする事じゃねぇけど」

「そうか」



 それだけ言うとまた雑炊を口に運ぶ。

 それ以上聞こうとしないのは一応気になっていただけ、だからなのだろうか。

 

「………なぁ」

「ん?」



 口の中の柔らかく煮えた米を租借する千夜に蒼助は今度は自分が気になっていたこと訊ねた。

 

「俺、屋上で化け物になった神崎と殺り合って不意打ち喰らって、意識失くしちまったんだ。で、気がついたらお前も神崎もいなくて………結局、あの後どうなったんだ」



 千夜は少し目を見開いた。

 僅かな動作に蒼助は気付かず見逃された。その間に、微かな動揺はすぐにもみくちゃにされて消えた。

 疑問を投げかけた蒼助に返ってきたのは、起伏のない返事と解糖。



「神崎は………死んだ。角を折ってやったら急に逃走を図ってな、混乱の中で奴の結界は解かれ、私はすぐにその後を追い…………トドメを刺した」

「………お前が倒したのか?」

「それ以外に誰がいる」



 そこで生まれる、とてもなく大きな違和感と不自然。 

 蒼助はその言葉を撥ね除けた。



「んなワケあるかよ。お前、瘴気受けて身動きとれなかったから神崎に捕まっちまったんだろうが。そんな奴が闘えるわけあるか、ましてや勝つだと? 終夜………お前、

一体何隠してんだ」

「……………」

「終夜っ……答えろよ」

――――――玖珂」

 

 追及すると、千夜は射るような視線を向けてきた。




 ――――――ぞわり、と背筋が震えた。




 全身の神経が凍り付くような感覚。

 それは言葉に言い換えれば、恐怖と表現すべきものだった。




「神崎陵は死んだ。もう、終わったんだ」




 声が出ない。

 それどころか、指先すらろくに動かせなくなっていた。



 まるでさっきとは違うこの空間を漂い、支配する空気。

 それは突然異世界に放り込まれた気分に似ていた。

 一刻も早くここから出たい、そう思った瞬間、



「それでいいだろう」



 千夜は目を逸らし、瞼を閉じた。

 

 途端、張り詰めていた薄ら寒い空気が消え去っていく。

 指先がカタカタ小刻みに震えるのを、何とか抑える。



 

 ………何だ、今の?




 恐怖のせいか、心臓の鼓動が通常のそれよりより激しい。

 比べて千夜はと言うと、何事もなかったかのように素知らぬ顔で雑炊を食べている。目で殺すという行為をやってのけそうなさっきまでの勢いは、そこには一切ない。

 力ずくで捩じ伏せるような威圧感籠る視線と、有無を言わさない言葉。それは一方的な警告だった。何かを知っている者が、無知なる者へ警告する時のような雰囲気が

あった。
まるで、火遊びをする子供に親が注意するような。



 ………やっぱり、何か知っているのか?



 今、自分に対して話した事の他に、何かを隠しているかもしれない。

 そう思わせるだけの材料が、蒼助の中では揃っていた。

 

 あの見た事もない異形を明らかに知っている素振り。

 校舎内にいた時の言動の中での不可解な言葉。

 そして、今の強い拒絶。

 

 千夜は知っている。この事件の裏にある何かを。

 

 と、そこまで考えて蒼助はふぅー、とりきんだ力を抜くように息を吐いた。



 ………って、こんなヤバそうな事に何で深入りしようとしてんのよ俺。



 

 あんな目に遭ったというのに、これ以上危ない橋を渡ろうなど何を考えているのか。興味本位で命を危うくするなど絶対御免だ。なのに、どうしてこんな真似をしていた

のだろうか。 



「おい、玖珂」 



 突然の声に蒼助はビクッと肩を震わせて我に返る。



「な、なんだよ」

「御馳走様」



 盆ごと空になった器を差し出される。

 いつの間に全て平らげたのか。



「薬、飲むか?」

「いらん。一般の薬品は効かないんだ」



 便利なようで不便な部分を持ち合わせている身体のようだ。

 食器を片付け、ふと振り返ると千夜は横にならず、訝しげに着ているシャツを摘んで見ている。



「何だよ」

「……これ、お前のか?」

「ああ、そうだが」

「お前が着替えさせたのか?」

「…………」

「で、見たのか?」



 沈黙。

 それを肯定ととったのか、



「このスケベ」

「なっ……血で汚れた奴をそのままベッドに乗っけられるかよ! 大体、手当すんのに服脱がさなくてどうしろってんだよ!」

「うんうん。下着は脱がさなかったみたいだな、えらいえらい」

「……人の話聞けよっ!!」 



 喚き散らす蒼助をちろり、と何処か白い目を向ける千夜。



「大体、何でこんなシャツ一枚しか着せないんだ。趣味爆発じゃないか。生足好きなのか、お前」

「趣味爆発ってなんだ! シャツだけで十分隠せてんじゃねぇか。それに俺のじゃデカ過ぎるだろっ! あと俺は生足よりも何も着てねぇ方が」



 そこまで言って蒼助は固まった。

 うっかり地雷を踏んでしまったようである。



「は、正直な奴だ。まぁ、こんなの置き土産にさせているんだから当たり前か」

 

 と、さっきまで足に引っかけていた派手なパンツを摘み上げ、観察する。

 大分前にセフレが来た時に置いていったものだった。 

 別にあっても見つかって困る相手などいないから放っておいたのだ。

 だが、やはり捨てておけば良かったと、蒼助は今になって激しく後悔した。



「べ………別に、裸ぐらいなんだよ。んなもん飽きるほど見てるし、今更同級生の身体見たくらいじゃ何とも思わねぇよ」

「うわ、開き直ったな」



 そんな蒼助の見苦しい言い訳に呆れた様子だった千夜は、断固と罪悪感を見せないその態度に微笑を浮かべ、



「まぁ、いいだろう。逆にこれで安心だ」

「あ?」

「それだけ欲求と女に不自由していないなら、無闇に私に手を出すことはないだろうからな」



 言って、千夜は布団の中に潜り込んだ。

 肩まで潜ったところで声が放たれた。



「おやすみ」



 向けられる信頼。

 千夜の勝手な憶測に過ぎないはずなのに。

 蒼助は、何故か妙なこそばがゆさを覚えた。










 ◆◆◆◆◆◆











 草木も眠る深夜二時。

 電気も消えて、蒼助もベッドで眠る千夜のすぐ下で物置から引っ張り出してきた布団を敷いて床に着いていた。

 いや、寝ようとしていた。

 それも必死に。



 そして、一つの事をずっと懺悔していた。

  

 ………嘘ついてすみませんでした。本当はめっちゃくちゃ欲情してました興奮してました。だって、めっちゃエロい身体してんだもん、勃つでしょ、男なら普通は

勃つでしょ、正常な機能してんならアレは勃つでしょ。



 目を閉じると甦る艶めかしい場面。

 

 妖しいまでに白くきめ細かな肌。ブラジャーに吸い付かんばかりにフィットする張りのある平均基準を遙かに超えた胸。腰から足先までの歪みのない滑らかな曲線(ライン)

 全体的に豊かな体型と対照的に頼りないまでに線が細い首筋というアンバランスさ。


 しかも、熱のせいで肌の表面に浮かぶ汗がエロさを更に煽り立てる。



 現在、蒼助の頭の中ではそんな妙に明確な光景がぐるぐる回りながら、理性と欲望が脳内聖戦(ジハード)を繰り広げていた。 

 もはや眠るどころの話ではない蒼助と引き換え、戦いの引き金となった原因をつくった本人は不公平なまでにぐっすり寝付いていた。



「ん……」



 

 ごろり、と寝返りを打ち、蒼助に背中を向ける。

 挙げ句の果てに寝息まで聞こえて来る。



「ちくしょー………こっちの気も知らないでぐっすり寝やがって」



 自分で寝ろと言っておきながら恨めしげにその丸まった背中を恨めしげに睨む蒼助。



「……どうするよ、これ」



 見下ろした先では自慢の昂りが熱を持ち出している。

 こんな状態では眠れない、と苛立ち頭を掻き毟る。


 外を歩いて鎮まるのを待つか。それとも、強引にセフレ宅まで押し掛けるか。

 しかし、病人を一人残して家を留守にするわけにはいかないので両者却下。

 自分で処理はプライドが許さないので即却下。


 良い解決打法が見つけられない合間にも身体は火照る一方。

 ふと、何気なく眠る千夜を見る。それが蒼助に思わぬ解決策を与えてしまった。



 ………ヤれるか?



 その"術"は幸いか不幸か、手を伸ばせば届く場所で寝ている。

 今まで友人に手を出した事はなかった。

 セフレはセフレ、友は友と割り切った関係を望む蒼助は、一時の迷いや気紛れでその関係を壊したくなかった。



 だが、今は何故か。


 そんな事はどうでも良くなり始めていた。

 このまま天秤が傾いて手を出してしまえば、一時の快楽の後に待っているのは厄介で面倒な今後の展開。

 そんなのは御免なはずなのに。



 抱きたい、と蒼助の中の熱が疼くのだ。

 身体はもちろん、その奥に灯った熱も。 



 立ち上がり、寝息の聞こえるベッドへと歩み寄る。ゆっくりとベッドに乗り、そこで眠る身体の上に被さるように乗っかる。

 さすがに起きるか、と気構えたが警戒とは裏腹に千夜は起きる気配を全く見せない。 

 調子に乗って、右向きになって眠る身体を肩を掴んで仰向けにさせるが、それでも起きる様子はない。 



「………ちったぁ、身じろぎくらいしてくれよ………夜這いかけられかけてんだぞ」



 つん、と指先で頬を突いてみるがピクリとも反応はない。

 眠る彼女の顔を目の当たりにして蒼助はゴクリ、と生唾を呑んだ。

 隣の窓から射し込む月明りが蒼助の下で眠る千夜を淡く照らす。



「………やべぇ……」


 今更だが、腕の下にいる女は、あまりにもイイ女だった。 

 『水も滴る良い女』という言葉が使える女は見た事がないが、『月光が映える良い女』なら今ココにいる。 

 


 もう、何だって良い。 


 蒼助はヤケになって心の中でそう叫んだ。

 今、この女を抱けるなら後の事などいくらでも背負ってやる。



「宿代と看病代だ…………悪く思うなよ」



 今更押し付けがましい言い分だと思いつつも、一度決めた考えはそう簡単には変わらない。

 信頼されていたのに、という罪悪感もあったがそれも今の蒼助を曲げられはしなかった。

 布団を剥ぎ取れば、曝け出される千夜の上半身。 

 シャツとブラジャーと、か弱い武装。



  

「………ん?」



 一瞬、蒼助は自分の眼を疑った。


 眼に映ったのが、自分が知っているものとは"違う"ように見えたから。


 しかし、気のせいだと言い聞かせ気を取り直し、千夜の身体を探る為に手を伸ばす。

 布団の下に隠れているシャツの裾を引っ張り出し、その下に手を忍び込ませる。

 するすると指を滑らすと、少し汗ばんだ肌が吸い付くような手触りを覚えさせた。

 その手応えに興奮し、その上にある更なる心地よさを求めて上る。


 がしかし、探す二つの膨らみはいつまで経っても見つからない。

 否、あるはずのそこに"無い"のだ。


 蒼助は暫し、"そこ"を撫でるように摩る。





 ――――――平たく堅い感触。 





「……おい、待て」



 蒼助は衝動的にシャツをたくし上げた。

 そして、眼に飛び込んで来たのは、



「な゛」



 蒼助に低く潰れた声を吐かせたモノ。

 それは女の裸とは言い難い光景。



 真っ平らな胸板。

 しなやかな筋肉が付いた胴。



 紛う事無き男の身体をした千夜の姿だった。

 

 唖然とする蒼助の手は自然とその下へと向かう。

 布団、その下の下着に手を入れる。

 

「………あった」



 モノの手応え、感触。探ったそこには確かにあった男の象徴と誇り。

 『女にはない部品』が、蒼助の手の中にあった。

 呆然としている蒼助の下で、その時その人物が動いた。

 びくっと震え、千夜の顔に視線を落とす。

 眠たげに半開きする千夜が、焦点を合わせようと自分の顔を見ていた。



「…………」

「…………」



 なんとも言えない沈黙が降りる。


 言葉の浮かばない蒼助。

 ぼんやりと露にされた自分の上半身と蒼助の顔を交互に見る千夜。


 そして、



「ああ、見たのか……――――――それじゃあ、おやすみ」

「っっ待て!! 今、その後半の台詞にどう繋がったんだ!?」



 揺り起こそうとする蒼助に千夜は煩わしげに片目をしょぼしょぼと開き、



「うるさい」

「おぶっ!?」 



 横っ面に勢いよく叩き込まれた蹴りを興奮状態で予測出来るはずもなかった蒼助は、為す術無くベッドから落とされた。



 そして、彼は運が悪かった。

 頭から絨毯の範囲が及ばない床のタイル部分に、







 ――――――ゴンっ







 寸止めも勢いの軽減もなくブチ当たった。

 堅いモノ同士がぶつかり合う打撃音は既に再び眠りの中に落ちていた千夜には届かなかった。 




 こうして、蒼助宅は夜分相応に静かになり、夜は更けていった。






















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