鼻孔をくすぐる香ばしい匂い。

 それによって蒼助の意識が覚醒した。









 

「う………」






 ぼんやりする意識の中でズキズキと頬が痛むことを認識。

 目を開けると、窓から射し込む光で明るくなった天井――――――見慣れた朝の部屋が映る。


 ただし、逆さまで。


 正しい理由としては蒼助がベッドからずり落ち脳天を床に付けていること。

 何故だ、と理由を探るべく昨夜の記憶を展開。

 しかし、逆さまのせいか朝のせいか思考回路が上手く働かない。



「…………うーん」

「なに上下逆になって唸っているんだ玖珂」



 突如かけられた声とドアが開く音に、蒼助は聞こえた方向に不自由な頭を無理矢理捻る。


 息を呑むほどの美麗な『男』が逆さまに映った。

 艶やかな長い黒髪を背中に流す『男』は何故か、蒼助のシャツとズボンを来ていた。


 悠々とした足並みで目の前まで歩いて来て、しゃがみ込み、



「起きろ。てっぺんが禿げるぞ」

「禿げるか。つーか、てめぇこそ人んちに上がり込んで服漁りやがるなんて良い度胸し……」



 蒼助は目の前の男の顔を見た。

 遠くに居た時は長めの前髪に隠れてよく見えなかった眼が、今その間からはっきり見れた。

 黒く澄んでいても尚強い光を宿した双眸。

 その眼を知っていたが、蒼助は自分の判断と目の前の事実を疑った。



「お前……まさか――――――終夜か?」

「やっとわかったか。まぁ、この姿じゃ無理も無いが」

「……お、おまっ」



 昨夜の記憶が一気に思考回路の中を駆け巡る。

 ベッドから完全に落ち、すぐにガバっと起きた。

 胸、肩、腕、と蒼助はせかせかと千夜の身体を触った。 

 やや華奢で細身だが、今の千夜のそれは男の体つきだった。 



「どうなってやがる………お前、女だろ?」

「今は男だ。今は、な」



 ワケが解らない。

 呆然とする蒼助を捨て置いて立ち上がり、テーブル前の床に腰を下ろす千夜。

 テーブルの上には、先程の香ばしい匂いを立ち昇らす炒飯が乗っていた。

 

「勝手に冷蔵庫にあったものを使わせてもらったぞ。ロクなものがなかったからこんなものしか出来なかったが、病み上がりの朝飯には充分だろう」



 スプーンで焼き色の付いた溶き卵の絡んだ飯を食べ始めるその姿に、流されかけた蒼助だったが、



「ん? どうした、食べないのか」

「こんな状況もロクに呑み込めてねぇ状態で、飯なんか喰えるか」

「ああ、それもそうか」



 蒼助の言いたい事が何なのかがわかるのか、千夜はスプーンは下ろさないもののこのまましらを切る気はないようだった。

 もぐもぐ、と租借を終えて、千夜は開口を切った。

 










 ◆◆◆◆◆◆











――――――三ヶ月前まで、私は"男"だったんだ。身体はもちろん戸籍もな」







 さらりと、あまりに唐突な言い出しは蒼助を唖然とした。

 



「は?」 

「だーから、私は元はお前と同じ性別だったんだと言っている。前の学校では学ランも着ていたし、男子トイレも使っていた。一人称だって"俺"だったんだ」

「…………」

「さっき触ってわかっただろ? 昔、そして今、私は正真正銘…………って現実逃避しようとするな、布団から出ろ」



 すごすごと床に敷かれた布団の中に潜り込む蒼助の気持ちも、千夜はわからなくもなかった。

 誰だって、突然昨日まで女だった人間が朝起きたら男になっていれば驚くし、実は元は男だったなどと言われても鵜呑みにするのには無理がある。



「きっと、これはまだ夢の中なんだな。夢の中で寝るってのは妙な気分だが、次に目が覚めりゃこのおかしな夢も終わってるはずだ、多分」

「生憎、現実だ。今寝て目が覚めても、状況は何にも変わらないからとっとと観念して続きを聞け」



 手元のチャーハンをスプーンでぐるぐる掻き回しながら千夜は問答無用で続行する。



「三ヶ月前………去年のクリスマスイブに私の身体は"異常"を起こした。肉体が男のそれから女の身体へ変わり出したんだ」



 千夜は眼を閉じて、"初めてのあの瞬間"を瞼の裏に思い描く。

 クリスマスイブの夜、日付が変わる午前0時にそれは起こった。

 突如身体が焼け付くような熱さに襲われ、骨が溶けるような感覚の中に突き落とされた。

 灼熱地獄にいるかのような熱さによる苦しみは意識を失うほど長く続いた。


 そして、気が付いた時"異常事態"は既に身体に現れていた。

 違和感に不安を抱き、洗面所の鏡と向き合った時、愕然として自失に陥った。



 

「最初の変化は次の日には元に戻っていた。二度目と三度目は二週間後、それから十二日、十日……と回数を重ねる毎に苦痛は軽減されていったが、変化が起こる間隔が短くなっていった。そして同時に女でいる時間が増え、男でいる時間が減った。そして、気が付けば………私の身体は女でいることが常になっていて、五日おきに一度だけ男に戻れるようになっていた」

「………転校の理由ってそれか?」

「………………ああ」



 "それだけ"ではなかったが、大半の理由がそれであるのは間違いではなかったので千夜は頷いた。

 いつの間にか、布団から出ていた蒼助は無言で千夜を見つめて来る。

 千夜は蒼助の眼からゆるりと視線を逸らした。

 今の蒼助がどんな風に自分を見ているのか、知りたくなかった。

 異物を見るような目を想像し、心が重く沈んでいくのを感じた。

 もう慣れたはずだったのに、この男にそのような目で見られるのは何故か胸が抉られたように痛む。


 しかし、何故か胸に蒼助の手が伸び、摩った。 


 まるで確かめるような手付きに千夜は暫しポカンとした。



「………堅ぇ……ああくそ、マジで男だ」

「……お前」



 男になったり女になったりすることなど、程度の問題としか思っていない蒼助に、それに過剰な心配をしていた自分に千夜は何だか力が抜けた。

 同時に、理由は解らないが内側に安堵が広がった。

 

「なぁ、何で突然そんなことになったんだ? 中国で呪泉郷に落ちたとか……お湯かけたら元に戻るとか……ないのか?」

「わかれば苦労しない。言っただろう、突然だったと。………それと、後半のお前の言っている事がさっぱりわからん」

「知らねぇなら聞き流せ、こっちの話だ」



 蒼助が胸を触り続けていた手をようやく諦めたように離し、



「その状態ってよ………どれくらい続くんだ?」

「きっちり一日だ。今夜の0時にはまた女に戻って、次にこの身体になれるのはまた5日後だ」



 僅か一日でまた分かれなければならない本来の男の身体を惜しむように千夜は掌で二の腕を撫でた。

 憂いた表情が、ほとんど女である状態になっても、まだ男である事に固執していることを明らかにしていた。 

 それが何故か蒼助の内を波立たせた。



「お前、やっぱり………元のちゃんとした男に戻りたいか?」



 答えなど決まっているのは目に見えている問いかけ。

 だが、蒼助は聞かずにはいられなかった。



「………正直のところは、な」



 予想していたのにも拘らずぐらりと来た。

 しかし、まだ続きがあった。

 だけど、と、



「……もう、元には戻れない気がする。あの日以来、私の中で確実に"何か"が変わった……それまで無かった何かに。変化を遂げたモノはもう二度と元の形には戻らない。物が壊れて、例え直しても以前とは何処か違うように見えるように。間隔が五日になってから……もうそれ以上時間が増えたり減ったりすることはなくなった。この中途半端な状態が続いているということは……これが安定した状態なんだ、今の私の……」



 

 翳りを見せる笑みとその言葉は蒼助の心境を複雑な状況に追い込んだ。 

 千夜は今ほとんど女も同然。だが、僅かにまだ男の名残も残っている。

 どちらにも傾かないその状態に、蒼助は奇妙な苛立ちを覚えた。



 ………何の問題もねぇじゃねぇか、そのまま女になっちまえば俺は……。



 苛立ちの中でふと出た思いに蒼助は自分を疑った。


 今、自分は何を考えていた。

 千夜が完全な女になってしまえば何だと言うんだ。

 男だろうが、女だろうが、千夜が友人であることには変わりはないはずなのに。



「あっ!」



 突然あがった千夜の叫びに蒼助は我に返り、叫びの根源を思わず見た。



「話し込んでいる間に炒飯が冷めてしまった……悪かったな、長話になって」



 冷えてしまったそれをぱくぱくと口に押し込む千夜に気を抜きつつ、いつの間にか湯気と熱気が消えた炒めた飯に蒼助も取りかかった。

 自分の中で渦巻く"ワケのわからない想い"は、とりあえず無理矢理隅に押し込んだ。










 ◆◆◆◆◆◆











 

 千夜のつくった炒飯は冷めていたが、なかなか美味かった。

 少なくとも、コンビニで買って来る弁当よりは遙かに。

 たまに家に押し掛けて自分の夕食などをつくるセフレはいたが、余計なお節介程度にしか感じていなかった。

 だが、今は寧ろ嬉しくすらあり、米粒一つ残さず全て食べきった。


 カチャン、とスプーンを皿の上に放り、

 

「ごっそさん………ところで、お前熱はもう下がったのか?」

「ああ。すっかりな」

 

 皿を流しに持っていこうと膝を立てた千夜の長い髪が、さらりと流れる。
 男とは思えないほどの艶の出た髪はまだ束ねられず、自由に流れるそれは若干湿っているように見えた。  

 

「……お前、風呂入ったのか?」

「汗をかいたからシャワーだけな。勝手に借りた、すまない」

「いや、別に良いんだけどよ………」

 

 流しに立つ千夜の背姿が、何故か異様に目に入る。 

 腰より下まで伸びた髪は大分渇いたのかさらっとしているが、風呂上り特有のしっとりした感じを残していた。

 仕草のたびに髪が動くその様がとても心惹かれる。 

 こうして見ると、千夜は男としてもかなり魅力的な存在なのだと同じ男としても認めざる得ない。無駄な脂肪や肉がなく、華奢なようで実は引き締まった筋肉を纏う体躯。中性的な美形の顔立ち。

  

 ………別に女っぽいってわけじゃねぇが……なんか、コイツ……。

 

 男のくせに妙に色気がある。 

 色気といっても、オカマがしなを作って無理矢理醸し出す気色悪い拒絶感を催させるものではない。

 かと言って、女が出すそれとも違う。


 なんと表現すべきなのか非常に頭を悩まさせるが、あえてストレートに最も捻りの無い言い方をすれば『独特』だ。

 老若男女問わず惹き付ける不思議な魅力。 


 冷静になって考えてみれば、男である今の状態に限らず出会った時から千夜に感じていたことだった。



 ………"存在として"の魅力……って奴か。 

 

 ようやく導き出した答えに満足しかけ、蒼助はハッとする。

 思い出したのは昨夜のこと。

 欲望に負けて千夜に夜這いをかけたという。  

 

 ………よく考えてみりゃ、あの時男だったんだよな……。

 

 記憶が正しければ、思い立った時には既に午前0時だったはず。

 蒼助にざっと衝撃が走る。

 

 ………つーことは、俺は……男に欲情しちまった変態ってことかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??

 

 受けた衝撃はあまりにも大きく、蒼助は床に手を付いて項垂れた。

 ショックで真っ白になっていく蒼助を千夜は怪訝そうに見つつ、触れたら崩れてしまいそうな蒼助の儚い様子に、良心の囁きを聞き入れ放っておくことにした。

 流しに食器を片付け、やることがなくなり手持ち無沙汰になった千夜の視界にある物が入った。

 

「玖珂、得物を代えたのか?」

 

 部屋の隅で壁に立てかけられた太刀は、校舎で見た時のそれとは異なる品だった。

 

「ん? ……ああ、長年の相棒は折られちまったからな………仕方ねぇから【SHOP】で一番良さそうなの買ったんだ」

「ほぅ……」

 

 蒼助の新しい太刀に興味が湧いたのか、千夜はそこまで歩み寄り手に取る。

 鞘を抜き、刀身を拝見するが、

 

「……これはダメだな。こんなものを店で売るとは……ぼったくりも良いところだ」

「なに?」

「ロクな打たれ方をしなかったな、この刀。もう、刃先は刃こぼれを始めている………これは保って魔性五体くらいでボッキリ折れるぞ」

 

 何だか説得力のある解説と同じ刀を扱う人間の言う事と思って、先程のショックを振り払い問題の刀を観察する。 

 千夜の言う通り、まだ一度しか使っていない太刀は既に刃こぼれを起こしていた。

 

「うわっ……マジかよ、くそっ。……苦しい経済状況の中無理して買ったっつーのに………」

「こうなってから言っても後の祭りだが………ちゃんとした刀が欲しいなら、刀匠に打ってもらうのが一番だぞ」

「んなこと………コネも何もねぇ高校生に出来るわけねぇだろ」

 

 そこで千夜は訝しげに眉を顰め、首を傾げた。

 

「玖珂家と言えば剣神と名高き武道系統の一族……古くからの繋がりを持つ刀匠ならいくらでもいるはずだが……」

「ああ………俺は二、三年前あの家出ててな。………そういうとこ頼れねぇんだ」

「……そうか」 

 

 と、それだけ言って千夜は理由を聞こうとはしなかった。

 千夜自身にも似たような節があるからだった。

 

「……まぁ、あと五回くらいは保つんだろ? 賞金首とかちまちま狩って、折れたらまた買うなりして食いつないでいくしか……って、おい!?」

 

 蒼助は目の前で起こっている事象に声を荒げ、目を見張った。

 千夜が持つ部分から刀が――――――腐り(・・)()()なって(・・・)いく(・・)

 

「え、あっ……しまった」

 

 そう言い終わる頃には、刀は既に原形を残さないほど崩れてしまっていた。

 千夜の手の平に僅かに残った黒い塵を唖然と見つめ、蒼助は驚愕に震える声を絞り出した。

 

「な、何なんだよ……今のは」

「えっと……とりあえずすまん。これは私のせいだ………忘れてた……」

 

 意味がわからない。

 

「私の刀……【夜叉姫】はちょっと特殊な武器でな。武器として非常に優れているんだが……極度に嫉妬深いんだ。他の武器を手にすると、種類問わず完膚なきまでに破壊してしまう」

「武器のクセに独占欲丸出しかよ………」

 



 ――――――退魔師が扱う【霊装】には上位クラスとなると自分の意思を持つ物が存在する。





 作製の際に差し出された生け贄の魂が宿ったなど、憑喪神が生じたなど――――――といろいろ曰くじみた説があるが、年月を重ねるとその意思は人格を持つようになるという。

 もちろん、使用途中で壊れてしまうことなど星の数ほどある。そこまで保ち堪えて上級入りする【霊装】はそうはないから、数はごく少数だ。

 その数少ない貴重なそれらは、強力になると引き換えに一つの面倒が生じる。

 長年連れ添った亡き使い手に固執するパターンが数多く存在し、その相手と比べて持ち主を選り好みするため次代への継承が一筋縄では行かないのだ。

 中には所有者に恋慕する例もあり、武器としての一生をその相手に捧げ、他の人間に使われる事を拒み二度と使えなくなるものをあるらしい。


 千夜の場合、それに近いケースなのだろう。


 

「あーくそ……どーすんだよ、これじゃ金稼げねぇじゃねぇか………」

 

 武器を無くしては退魔師として商売あがったりである。

 よもや、家計が火の車どころの話ではない。

 

「…………そー恨めしそうに見るな。責任とってなんとかしてやるから」

「なんとかって………どーすんだよ」

「まぁ、とりあえず支度しろ。出かけるぞ」

「はぁっ?」

 

 一体何処にいくのか、と問えば千夜は玄関へ向かうところを振り返り、




「責任とってやると言っただろ。

 ――――――
【SHOP】なんかよりずっとイイところ紹介してやるよ」




 そう言って千夜は自信ありげに笑った。

 




















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