骨が折れる音に近く、より生々しい音響が千夜の耳に響いた。
「あ……あ……あ、あ」
絶望の淵に立たされたの如く青ざめた神崎の顔は、恐怖に引き攣っていた。
がたがた震える身体。股間からどぼどぼと溢れた出し、コンクリートの上に広がる黄色い液体。
酸っぱさ際立つ異臭が鼻孔を突き刺す。
「……あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!!!!」
神崎は闇に染まった天を仰ぎ、絶叫をあげながら地面に縫い付ける刀身から無理矢理手を引き抜いた。
新たに飛び散る黒い飛沫。
そして、脅威から逃げるかのように背を向け、大きく跳躍し屋上から飛び降りた。
『男』はそれを追うことはなく、寧ろ興味を失くしたようにそこを動こうとはしない。
「………逃げたか。まぁいい。……例え逃げても末路は変わらん」
その通りだ。
あの【角】を折られたからには、死は確実に神崎を捕らえる。
追わずとも"この件"はカタがつく。
だが、
「………もう、離してくれ。あの死に損ないを追う」
「放っておいても死ぬ。それにアレは…………"本体"の駒でしかない木偶だ」
「関係ない……あの男は利用されたとはいえやり過ぎた。おかげで………あの化け物の存在が【澱】の外に明るみなった。これから随分とやりにくくなる。八つ当たりくらいしてやらなければ…………"俺"の気が済まない」
しっかりと身体を抱く腕から逃れようと試みるが、身体の麻痺だけはまだ引いていなようで、力が入らない。
それだけではないようだが。
「…………何のつもりかは知らないが、頼むから離してくれ」
「なら本気で振り払え」
男はしっかりと抱いているが、それを振り払えないほど力は込もっていない。
しかし、千夜はそういう気にはなれない。
「………何でかな。……どうにも、そういう気にはなれない」
「……ほう、まさか助けられたから………などと、浅はかな考えでいるわけではあるまい……?」
皮肉げに薄笑いを浮べる男にそうではない、と否定。
助けられたからといって、気を許すなど自分にはありえない。
そう、ただ――――――。
「…………お前は、大丈夫な気がする……だけだ」
その発言に男は目を見開いた。
予想外、と語る反応だと千夜は読んだ。
しかしそう言った千夜だって驚いている。
見知らぬ正体不明の相手の腕の中が心地よく、安堵するなどと。
ましてや、名残惜しいなんて。
「っ……今のは無しだ。忘れ――――――」
言葉は最後まで紡げなかった。
ぐいっと一層強く身体を抱き寄せられ、足が少し浮いたと思ったら目の前が――――――突然暗くなった。
唇に触れる柔らかく暖かい触感が思考を停止させ、再び再起動。
キスされている、と思考回路が答えを叩き出した。
「ん、んぅっ」
突然の展開と息苦しさに千夜はもがくが、男の腕がそれを許さない。
身体を強く押さえつけるように男の抱く力が強くなり、身動きが取れなくなる。
半開きだった口に覆いかぶさった唇が、更に深く合わさる。
妨げるもののないその入り口にするりと舌が入り込み、存分に弄る。
「ふ……んっ」
口内の犯すような愛撫に、腰から力が抜けていく。
それでも、意地でも意識は手放すものかと男の腕を掴み、現実に縋る。
短くも長くも思えたその時間は、男がようやく顔を離したことで終わりを迎えた。
「……っ、もう起きたか。………さすがに……最初はまだ意気がいいか…………。まぁ、いい…………いずれ」
額を押さえ、痛むのか顔を歪める男が何か呟くその目下で、千夜は荒くなった息を整えていた。
羞恥に千夜は男を突き飛ばしてやろうと、男の腕を掴む腕に力を込めるが。
突然、男の身体の重心が千夜に圧し掛かった。
咄嗟のことに対応できるはずもなく、ましては千夜の身体よりも大きい体格の身体を支えきれるはずもない。
「うわっ」
受身すらままならない千夜は、そのまま後ろに倒れ込んだ。
頭はなんとかフォローしたが、しこたま背中を打ちつけた。
「あつつ………。このっ……一体何だ、おま……――――――?」
視界の片隅に映った薄茶の髪。
あの長い青髪はもう何処にもなく、
「……玖珂?」
上に被さっていたのは、今まで腰を抱いていたあの男ではなく――――――何故かいる玖珂蒼助。
もはやワケがわからない。
「全く……次から次へ。………おーい、玖珂。起きて状況を説明しろ」
無理難題を申し付けつつ、ベシベシと頭を叩く。
ふと、そこで気付いた。
叩いていた手を見つめ、
「身体が、動く。………瘴気が完全に浄化された?」
一体どうして、と思ったところで、最大にして唯一の心当たりが脳裏に浮かび上げられる。
あの男に口を通して清浄な霊力を流し込まれた。それしか考えられない。
しかも驚異的なスピードでの浄化。
そこに疑問の印が打たれる。"他で貰う"霊力と何に差が出ているのだろうか。
千夜は、目の裏に焼きついた鮮明的な青い髪と瞳を思い浮かべ、
「………青、だからか」
千夜は意識のない蒼助の身体を退かし、枷のなくなった体をゴキゴキと動かして慣らす。
一息つき、立ち上がる。
屋上から見える景色を見据える双眸は、獲物を狙う狩る者のそれとなっていた。
「行くか」
一言残し、その場から千夜の姿は消えた。
◆◆◆◆◆◆
屋上の神崎が倒された頃、五階では今だ昶達は倒しても倒しても甦ってくる【屍鬼】を相手に戦っていた。
しかし、終わらない戦いに対して、防戦一方の昶と七海には体力の限界が近づいてきていた。
残り数少ない矢を、渚たち非戦闘者達に向かおうとしていた一体の頭部を目掛けて射り、七海はすぐ後ろで他の一体を真空波で切り刻む昶に声をかける。
「大丈夫か、昶っ」
「そろそろ疲れてきたと言いたいところだが………そういかないだろっ!」
死角から迫って来ていた【屍鬼】の首に昶は回し蹴りを叩き込み、あらぬ方向に首を曲げて壁に叩きつけられるそれに目をくれる事なく、次の標的に拳を突き出す。
鳩尾に吸い込まれた拳は疾風を起こし、それによって生み出された風圧は真ん中から上半身と下半身を引き裂いた。
僅かに空いた空白の瞬間に、昶は思い切り空気を吸い酸素を確保する。
顔中に伝い落ちる汗を拭う事すら忘れて、ひたすら呼吸を整えて少しでも動けるように肺の中に酸素を出入りさせた。
素質を見抜かれて幼い頃から後継者として他人とは比べ物にならない程、厳しい修行と稽古に鍛えられて来た昶ではあったが、どれだけ鍛えようと人間の体力にはいずれ尽きが来るのは当然。
しかし実際、昶は充分なほどに奮闘していた。
今、この場で接近戦が出来る唯一の人間である昶は、たった一人で数多くの敵を薙ぎ倒した。
もう一人、七海がいたが、彼女の武器は弓で数に制限がある。
今、自分たちがしなければならない事は自分たちと後ろに庇う渚達を守りながらこの場を持ち堪える事なので、下手に矢を消費すればそれこそ後がない。
その為に、七海は出来るだけ矢を節約させる為に援護に回っていた。
戦闘開始からまもなく三十分が経過しようとしている中、それもそろそろ限界を迎えようとしていたが。
「……っち、危ないやろがボケっ!」
向かって来た【屍鬼】の爪を咄嗟に避け、少し頬に掠る。
これだけ近くては矢が放てない七海は、腹に思い切って押し出すような蹴りをくれてやる。
壁に叩きつけらた衝撃ですぐには次の行動へ移れない敵に、七海は矢を放とうと背中の矢籠を探るが。
「げっ!?」
打ち止めだった。
しまった、と思ったときには体勢を整えた先程の【屍鬼】が、ギロリ、と血走った目でこちらを見定めていた。
追い討ちをかけるかのように左からも来ている。
二体が牙を剥いて襲い掛かったのは同時だった。
後ろで座り込んで見ていた渚と一体を蹴倒していた昶が気付いたが、既に遅かった。
「都築っ!」
「っ七海ちゃん!!」
重なる叫びも虚しく兇刃に引き裂かれる、と予想して反射的に固く目を閉じた七海。
しかし、いくら待っても迫っているはずの衝撃も痛みも来ない。
妙に思った七海が恐る恐る目を開けて見ると、そこに【屍鬼】はいない。
あるのは青白く光る球体――――――【魂魄】がゆらゆらと上昇し、天井をすり抜けていく光景だった。
それだけではない。
周りを見回せば、凶暴な血肉に飢えていた【屍鬼】達が青白い光を発し、その人の姿を粒子へと変化させていた。
「な、何やっ?」
「これは…………」
次々とすり抜けていく青白い魂魄を、その場にいる者達は呆然と眺める。
そんな中、初めてそれを目にする文子。
「……何よ、これ」
「浄化、しているのか? ………ひょっとして、呪縛から解放されて?」
渚の言葉を継ぐように、七海が呟く。
「ちゅー事は……」
七海は、後ろで肩で息をしている昶を振り向いts。
「………やったか、蒼助」
頬を伝い落ちる汗を拭いながら昶はようやく一息ついた。
◆◆◆◆◆◆
頬に当たるひんやりとした冷たさが、蒼助の意識をゆっくり引き起こした。
最初に意識が認識したのは、自分の身体が俯せに倒れているということだった。
「……………う……」
蒼助はズキリ、と痛む腹を押さえ上半身を起こした。
神崎に蹴り飛ばされた際の痛みだった。
と、思い当たった先で蒼助の意識を失うまでの記憶が、一気に頭を駆け巡る。
「そうだっ……神崎! ………って」
屋上を見回すがそこには誰もいない。
神崎も、千夜も。
今、屋上に居るのは蒼助ただ一人だった。
「何で………一体何処に……」
逃げられた、という考えが巡る。
ザッと身体の血が急激に冷えていく感覚を覚えた。
しかし、その考えは一度踏み止まる。
「逃げたっつーなら………何で、俺生きてんだ……」
あの化け物に喰い殺される寸前だったはずなのに。
あれほどの殺意を向けていたのにも拘らず、自分を殺さず逃げたというのはどうにも腑に落ちない。
しかし、全てがなかったことかのように静けさを取り戻しているこの場では、何も見出せない。
「あー……くそっワケわかんね……ぇ?」
地面に手をついた時、何かが指先に当たる。
見遣れば携帯がぽつん、と転がっていた。
「俺のじゃん………と、メールが」
携帯はメール着信を表示していた。
気になり、そのメールを開く。
『もう終わった。だから何も心配しなくていい 千夜』
と、それだけ書いてあった。
「あいつ……俺のアドレス勝手に………」
終わった。
それは神崎は倒したということなのだろうか。
自分が意識を失った後、彼女がハンデのある状態を押して闘い、倒したのか。
事実を聞き出すべく返信しようかと思うが、すぐに止めた。
問い出そうしても、今までの反応を見る限りあの女が返事を返すとは思えなかった。
「……ん? …………あれ」
蒼助は胸を摩った。
そこは神崎の不意打ちによって貫かれた箇所であり、シャツも破れていた。
なのに、
「傷が………ない?」
瀕死は間違いない傷が、跡形も無く消えていた。
◆◆◆◆◆◆
彼は死にかかっていた。
彼の言う『化け物』に【角】を折られた彼は、かろうじて残っていた意識を逃げるという選択に委ね、あの『化け物』の注意が向かなくなった隙をついて、死にものぐるいでその場を逃げたのだ。
途中で力尽きた彼は近くの公園で踞っていた。
力が入らない。
それもそのはず――――――"力"が彼の身体から、蓋を開けた直後のシャンペンのような勢いでどんどん抜けているのだから。
原因はその蓋とも言え所有する力の蓄えられる場所、【角】を折られた事にあった。
言わば弱点なのだが、見た感じそれは石よりも硬い程度にしか見えないそれは、実質的は通常の鋼よりも遥に硬い物質だ。
相等の霊力を込めた一撃なければ、皹すら入れる事もできない。
それを、『あの怪物』は素手で折ったのだ。
まるで小枝を手折るように。
思い出しただけでも身震いがする。
「…ま、まだだ……まだ終わるわけには…い、か…ね……ぇ……っ」
彼はまだここで終わる気はなかった。
死にたくなかった。
何とかしなければ、と周囲を見回した。
人を、獲物を探して。
その時――――――生暖かい不気味な風が一陣吹いた。
振り向けば、空に浮かぶ月の紅い月光をバックに照らし出された1人の少女。
見かけは十代に入るか否か。
月の光がなければ周りの暗闇に溶け込んでしまいそうなまでに深い艶やかな漆黒が少女を彩る立った一つの色彩だった。
髪も、瞳も、服装も。
透き通るような肌以外の全てが。
しかし、彼にはそんなものどうでもよかった。
少女は彼にとって、極限の飢えに理性を忘れた獣である己の前にまんまと現れた獲物でしかなかった。
「があああああああっ!!」
彼は襲いかかった。
がむしゃらに。
生き残る為に。
ただただ、それだけの為に。
だから気付かなかったのだろう。
少女が何者であるかに。
「――――――――――――こんばんわ」
少女はにこり、と花のような笑顔を浮かべた。
彼のすぐ隣に立って。
そして次の瞬間、彼の残っていた腕が本体と別れを告げた。
「――――――あ?」
肩からすっぱり切り落とされた――――――本来、そこにあるはずの腕がない事を最初は理解できなかった。
次の瞬間に襲った痛みで、彼はようやく理解し、絶叫した。
「あら、イイ叫び」
少女が鋭く長く伸びた爪に滴る血をぺろり、と舐める。
痛みに耐えきれず地べたをのたうち回る彼を、涼しげに見下ろした。
怯えの色を露にした表情で、己を見上げる彼を見て、
「あの娘の近辺に潜んでいる魔性は、きっちり定期的に狩っているつもりだったんだけど…………ちょっと気を緩めすぎてたかしら」
でもまぁ、と少女は続けた。
「おかげで"彼"の覚醒の手引きをせずに済んだから……終わりよければ全て良し、よね?」
悪魔のような少女は天使のような笑みを浮かべて、彼の意見を伺った。
当然、恐怖で震える彼には、そんな余裕などあるわけがないのだが。
彼のその反応を楽しげに見つめていた少女の白い手が、折れた角をするり、と撫でる。
「この角、"彼"に折られたのね? ふふっ……あの娘を好き勝手にされた事、相当頭に来たみたいね」
その言葉に彼は凍り付いた。
何故、この少女は『あの屋上で起こった事』を知っている?
「だって見ていたもの――――――全部ね」
彼の心を読み取ったかのように少女はその疑問に答えた。
脳細胞は既に崩壊寸前に追い詰められていた。
泣き崩れそうな彼の顎を掬う。
「――――――ねぇ」
さっきとは打って変わって、身も凍りつくような冷えた声だった。
「ふふ………そんな顔ないで。感謝しているのよ? あなたがでしゃばってくれたおかげで、私が手回しする手間が省けたし。
――――――――――――でも」
添えられた顎に力が込もる。
「あの娘に手を出したのは………やりすぎたわね」
凄絶な笑みを間近で見せつけられ、彼の喉が恐怖でひくっと鳴る。
思い知れ、と言わんばかりに少女は語る。
「あのコはとても綺麗よね。そして強くて気高い。いつまで眺めていても厭きない美しさを持った、私にとっては至高の輝き。それがこの上なく愛おしいの。だからね…………今は分不相応にもあの輝きを穢そうなんて、愚かで身の程知らずな貴方を――――――八つ裂きしてやりたくて仕方ないの」
ひぃっと情けない悲鳴を挙げた。
「い、嫌だ……死にたくな……」
「無理ね、角を折られてはもう時間の問題…………あなたは死ぬわ」
だから、と爪先を彼の目先に差し向け、
「せめて、前者の感謝と後者の断罪の気持ちを込めて殺してあ・げ・る」
まるで悪戯をしようとしている子供のように無邪気で、残酷な微笑。
彼は戦慄き、懇願するように左右に首を振った。
決して越えられない壁を二度も見せつけられた彼は恐怖の感情に囚われ、声にならない叫びを上げかけていた。
「さぁ、戦きながら」
じわり、と少女の爪が彼の額に沈み込む。
「ひ、やめ」
「途方もない絶望の海に沈みながら」
「やめてくれええええぇぇぇぇぇぇ――――――――――――っっ!」
美しく残酷な笑みをくくっと形の良い唇から漏らし、少女は圧倒的な力をもって手を、
「この耳に心地よく響く……素敵な悲鳴を奏でて死になさい」
「――――――ストップ、黒蘭。タンマだ、タンマ」
振り抜いた少女の手を止める者がいた。
いついたのか、と言われれば誰も答えられはしない。
両者、今気付いたのだから。
「あら、千夜………いつ来たの?」
「今。間一髪だな」
「ええ〜……なんでぇ?」
不満げに唇を尖らせる黒い少女。
自分の獲物を間に挟んで少女の手を止めている千夜は、はぁ、と溜息を付いた。
「あのな、お前がコイツを八つ裂きにしてしまったら………」
「ひぎゃぁっ!!」
「――――――私はこの怒りを、何にぶつければいいんだ?」
会話の間に注意が逸れていることを良い事に、ずりずりと下がっていた神崎の右太股を千夜の振り抜いた直刀が貫く。
「この期に及んでもまだ逃げる気でいたのか。………呆れるほど生き意地の張った奴だな……」
「ち、ちくしょう……何でだよ、俺が……俺は無敵じゃなかったのかよ。………王者になれるんじゃなかったのかよ……」
泣きじゃくりながらの台詞に、千夜は驚いたように少し目を瞬いた。
次に表れたのは呆れ返った表情で、
「お前………本当に自分が何なのかわかっていないのか? 自分が"神崎陵"だと……思っているのか?」
「な……に?」
今度目を見開いたのは彼の方だった。
驚いたのは後半の部分に対して。
「その紛い物の躯………よく出来ているな。最初は解らなかったよまさか――――――" 角付き屍鬼" を創って私に差し向けてくるとは。………上手く行けば『俺』を手に入れ、失敗なら様子見として終わらせる気だったか、お前の創り手は」
何を言っている。
この肉体は神崎陵だ。
自分は神崎陵だ。
神崎は叫び、主張した。
「嘘だっ! 俺は……俺は……」
「そうか。………なら、生年月日、両親の名前、その他一つでも良いから自分の事を言ってみろ」
すぐに答えてやろうと彼は口を開いた、が。
言葉が出ない。否、言葉に乗せる事がない。
「そ、そんな馬鹿な………ことが……」
考える。考える。
しかし、何度思考回路を働かせ、記憶を探ろうと。
神崎陵の"思い出"が見つからない。
絶望し、放心する彼に千夜は冷たく見据えたまま口を開いた。
「やっと解ったか………影武者。なら、還ったら伝えておけ。………今度はお前が直接来いとな。王者気取りのお前が抱く下らない夢ごと寸刻みにしてやるから、と」
突き刺していた得物が太股から引き抜かれ、次の瞬間、銀光が閃く。
同時に、彼の身体は真ん中から真っ二つに切り裂かれた。
事切れた彼の身体は、黒く腐食していき、やがて吹いた一陣の風によって崩れて消えた。
「お見事。いつもながら、素晴らしいわ」
「やかましい。勝手な事ばかりして…………どうしてお前は動いて欲しい時に動かないでこういう時ばかり……」
「まぁまぁ、そんな年寄り臭い溜息つかないで。綺麗な顔が台無しよ」
くすくす笑うばかりの少女に、千夜は怒るだけ無駄だと悟る。
マトモに取り合わない相手には、これ以上なに言ってもつけあがらせるだけなのである。
話を切り替えることにした。
「さっき消したあれは………何だと思う」
「自分の思念の複製を核に作り出した劣化疑似存在。まぁ、ようはオリジナルのコピーといったところかしら。屍鬼よりは強かったんじゃない? それにしても……随分手間取ってたみたいねぇ。……油断した?」
「ハプニングがあっただけだ」
「それにしても……彼らも災難ねぇ。………土御門の彼、ヤバいんじゃいの?」
「死にはしない筈だ。噂の大陰陽師の再来なら………あの程度で死ねる肉体ではないだろう。俺と、同じように…………っ」
言葉の途中、視界がぐらついた。
更に、傾く。
「姫様っ」
倒れるかと思われた身体を、誰かに支えられる。
顔を上げれば、見覚えのある厳つい顔が目に入る。
「………姫と呼ぶなと何度言わせる気だ、上弦」
「私にとって貴方様はそうであり、そうに呼ぶ値する御方です。……全く、無茶を為さいますな」
「ああ……さすがに浄化直後の激しい運動はきついな………」
「どうか、そのままで。部屋まで御運び致します故」
「いいよ、子供じゃないんだ。放せ、歩ける」
「そう言うなら子供みたいな事言わないの、その世話焼きさんには、貴方に甘えてもらえるのが至高の悦びなんだから」
少女に言われ、千夜は分が悪そうに大人しく丸太のような腕に身を任せた。
ふと見上げれば、空には無数の星が点々と鏤められていた。
あの中のどれかが、星読みに唯一異なる未来を教えた。
「………青の助け、か」
小さく呟き、千夜は目を閉じた。
僅か二日後に、千夜は思いがけない邂逅を迎える。
先の事など知る由も無い千夜は、暫しの安らぎに身を委ねていた。