信じられない、と久留美は現状において怒りを覚えた。
否、明確にその対象を絞れば、それは目の前の人間に限定する。
先程までと打って違うにもほどがある180度逆転した態度を見せる女に。
「―――――――自分でも何でそうなっちゃうかなぁって感じだよ、今の今までの行動を振り返ると。まったく、暴走機関車おそるべしって感じだよなっ」
おそるべしじゃねぇ、と久留美は叫びかけたが無理矢理飲み込んだ。
しかし、アハハ、と暢気に笑う女への苛立ちは隠しきれず、口端と目尻が引き攣るのを感じる。
しばらく久留美は、やり場のない怒りを何処に向かわせればいいのかと扱いに四苦八苦していたが、それも呆れという脱力感に変換された。全くもって無駄でしかない
からだ。悪気やその気のない相手に怒っても、相手に求める反省は得られないのだ。
「………つまり……正気だったら、あんたの知り合いとか仲間とかそういうのに手ぇ貸してもらって、もっとうまくことを運べたかもしれないのよね?」
千夜曰く【暴走状態】でなかったら、単独で勝機の薄い相手に挑もうなどという無謀な行動に出ることはなかった。
どうすれば勝利を確実にもぎ取れるかを思考して、他の人間を頼ることも出来た。
もっと他に、それも上等な手段はあったのではないか。
少なくとも自分に刺されず、かつ自分を殺さずに神崎を倒す方法が、単独行動という制限さえなければいくらでもあったのではないか。
久留美は、それらの意味を込めた言葉を発した後、それが自分の都合のいい言い分であり、なおかつ自分が言える筋ではないことに気付いた。
自分が千夜を責めるのはお門違いだ。そして、千夜が自分に責められるのも同じ。
一つの嫌悪が、次の事柄に嫌悪を芽生えさせる。
悪循環ともいえる連鎖反応が、久留美の中で始まろうとした時、
「―――――――それは……ない、かな」
久留美の外側で、それを断つ力を持った呟きが落とされた。
否定。
千夜は確かにそういったのだ、と久留美の中で落ちかけていたところ、急激に立ち上げられた思考回路がそう判断を下した。
「もう少し慎重に手段を選べたくらいの違いだ。正気でも、俺は一人で来ることを選んでいたよ……きっと」
信じられない言葉を、千夜は更に投下した。
それは久留美の内部に驚愕という爆発を起こす。
「……何でよ」
「タイミングは最悪でな。あいつには、俺以外の奴はまともに太刀打ちできないんだ。この都市には、”俺しかいない”。……下手に数を集めても死人が増えるだけだ」
「でも、あんただってそんな状態じゃない。…………私の、せいで」
控えめに、されど除去することは出来ない確か事実を後付けした。
「気にするなよ。傷を負ったのが、俺でよかった。もう血は止まったから、あとは傷がふさがるまでじっとしていれば大丈夫だから」
安堵の言葉。
しかし、それは何処か異常を孕んでいるように聞こえた。
否、気のせいではない。
何気ない口調で、彼女は常識とは程遠い言葉を口にした。
確信が徐々に心を侵食し、硬くしていく。
「こんな奴のそばにいるのは気味が悪いだろうが、もう少し我慢してくれ」
そんな久留美の内心の変化を見透かすような言葉に、久留美は咄嗟に我に返り、
「違うわよ、馬鹿………そんなこと、どうだっていいわよ」
「どうだってよくはないと思うが。……やっぱり、変わってるなお前」
「あんたにだけは言われたくないってば」
異常な状況下において、他愛無い会話を交わす自分たちは、異常なのか正常なのか。
その判断すら危うくなってきたところで、久留美の中では先程感じた畏怖にも似た違和感はどうでもよくなっていた。
既に形すら保てなくなっているものを切り捨て、久留美は一拍の呼吸を置いた。
そして、問う。
「……傷がふさがったら、その後どうするつもりなの?」
「とりあえず、さっきやろうとした通りにやるさ。ここで待機して……神崎を仕留める」
予想したとおりの返答だった。
「それで、私は……」
「いくらお守りがお前を守っていても、限度がある。ここは生身の人間が長くいられる場所じゃない。だから、今度こそ……」
わかっている。
その後に、何が続くのか。
だから、
「―――――――それで?」
久留美は、千夜の言葉を遮った。
己の言葉を踏み敷いて現れた問いに、千夜は目を丸くする。
最低限の口数で成形された問いは、そこに内包された中身を不明瞭なものとしていた。
見えない真意に千夜が戸惑ったのは当然だった。
それを承知の上で、久留美は言葉を重ねた。
「その後は……?」
問いかけは沈黙に呑まれた。
打ち返ってこない言葉。不安を胸に、それでも久留美は待った。
すると、
「その後って何だ?」
カッと目が熱くなった。
わかってるくせに、と口から飛び出しかけた言葉を噛み潰して、
「……神崎を片づけた後のことよ!」
しらばっくれる千夜に声を荒げて突きつけた。
しかし、その直後の沈黙に心臓がスッと冷えた。
「何で、黙るのよ……」
沈黙は続いた。こちらの不安を知っていてわざと煽っているのではないかと思うほどに、ただ千夜は黙っていた。熱を感じない冷静さを一定させた眼差しを、何も言わず
に向けてくるのみだ。
怖くなった。
次に千夜が口を開いた瞬間に、そこから何が飛び出てくるのか。
想像するのも億劫になるほどに、恐ろしくなった。
「………帰ろうよ。一緒に」
たまらなくなって、思わず縋る声が出た。
そんな自分を恥じる余裕も無い。
縋る自分は、紛れない本心であることを久留美はあっさりと認めた。
もう、なんだっていい。
「別に、あんたじゃなくても……いいんでしょ? こんなこと、他にも任せられる人がいるんでしょ? ……こんな……ボロボロになってまであんたが戦わなくたって、
本当は……大丈夫なんでしょ?」
問いかけた全ての問いに求めた答えは決まっていた。
否定して欲しい。
小馬鹿にしてもいい。
当たり前のことを聞くなよ、となんでもないように返してほしい。
「大丈夫だって……言ってよ」
一縷の希望を込めて、最後の問いを放つ。
「……仮に、俺がお前とここを出て戻れば……神崎も追ってくる」
これすらも沈黙に埋もれるのか、と思った矢先の言葉だった。
しかし、それは希望には繋がっていなかった。
「そうなれば、東京は終わる」
現実味のない、突飛な話である。
そう笑うことが出来ればよかった。
だが、感情は凍りついた。
「事態は、結構来るところまで来ている。あれだけ肥えていたんじゃ、どの道……孵化するだろうな。倒すなら一刻を争う。もしここで孵化しなくても、俺たちを追って
あいつが外で孵化したらアウト。倒す前にここで孵化してもアウト。……だが、お前が出ることはできる。あいつの狙いは、俺だ。俺がここに残りさえすれば、お前を追う
ことはないはずだ」
千夜は、自分がなにを言っているのかわかっているのだろうか。
考えて、愚問であると久留美は己の思考に対して下す。
わかっているのだ。
自分などよりも、誰よりも。
わかっていて、言っている。
わかっていて―――――――他人事のように言っているのだ。
「―――――――久留美、さよならをしようか」
◆◆◆◆◆◆
厄介なところは一つだけではない、という黒蘭の発言に蒼助は訝しんだ。
「正気を失っているのなら、正気を取り戻してやればいい。結構イチかバチかになるけどね。……まぁ、ポンコツテレビを叩いて直す程度の単純さに、ちょっとコツがいる
みたいなことをしてやりゃいいのよ」
なにやら紛らわしい上まわりくどい言い回しだが、つまり―――――――
「……荒療治か」
「いっえーす。―――――――正気を失っているなら、ね」
後付けが、何かよくない違和感を抱かせる。
「………正気で凶行をやってのける人間っていうのは、それぐらいじゃすまないから………厄介極まるのよね」
案の定、黒蘭は不吉な呟きが後に続いた。
◆◆◆◆◆◆
掌がくぐもった声を読み取る。
己が塞いだ口は、おそらくこう発したのだ。
離せよ、と。
「……離したら、あんた勝手に言ってさっさと終わらせる気でしょうが。そうはさせないんだからね」
さよならをしよう、と言った次の瞬間、咄嗟に己の手が動いたのだ。
考えるよりも先に身体が動くという、反射的な行動だった。
最初はされるがままであった千夜も、手の領域が鼻にまで及んでいるため呼吸が出来ず、いよいよ苦しくなってきたところで抵抗を表し出した。
最終的には、千夜が無理矢理ひっぺ剥がして、
「ぷはっ………そんなことしないよ」
「…………」
「睨むなって。こういうのは、相互交換しなきゃ意味がないだろ。……だから、ちゃんとお前から受け取ってから行くよ」
久留美は、顔を渋く歪めた。
「……私、言わないわよ」
低く唸った後、それだけでは足らなくて、
「あ、あんた……さっきあんなこと言ってたけど、まだ正気戻ってないんじゃないの? ほんと、この後に及んでふざけるのもいい加減に……」
「―――――――あれ、な。……ごめん、ちょっと訂正する」
「……は?」
途中で入ってきた横槍に久留美は目を瞬かせた。
「暴走していたと思うよ。自制がきかないくらいに。……でも、それだけだ」
それだけ聞いただけでは、意味を汲みかねる言葉だった。
理解に時間はかかったが、
「……それって、最初から正気だったってこと?」
「多分な。そうだって自覚したのは、こうして冷静になってからだったけど」
くくっと、千夜は何がおかしいのか小さく笑い声を立てて、
「鈍い鈍い、と散々言われてきたけど………本当だったんだな」
思わず唖然としてしまうほどに、千夜の口ぶりは他人事を語るそれだった。
そんな風に聞こえている自分の方がおかしいのではないか、と久留美が思うほどに。
一瞬の間に、久留美は千夜の言葉を反復させる。何度も何度も。
繰り返した行為は、納得いう形で答えを生んだ。
そうなのだ、と。
彼女は、本当に己自身のことを―――――――
「久留美。ひょっとしたらお前は…………あの時の言葉に、責任とか罪悪感を感じているのか?」
略された内容や、隠された部分が何であるかはすぐに察せた。
他ならぬ久留美自身が言った言葉だ。そして、久留美自身も苛み続ける言葉だ。
お前が死ねばよかった、と。
つい言ってしまったでは片付けよう無い失態だ。
「……あの時、お前がどんな状態だったかは察しているつもりだ。本気じゃなかったというのも。何処かに怒りをぶつけずにはいられなかったというのも」
顔に出ていたのか、千夜は労わるような言葉をかけてくる。
しかし、後についてきた言葉が、それをぶち壊しにした。
「だがな………お前に言われたからこんなことをしているわけじゃない」
「……ぇ?」
話が妙な方向に傾いた。
そんな揺らぎを久留美は感じ、嫌な予感が思考を掠める。
「じゃぁ、どうして……」
口にしてからハッとする。
この促しが齎すだろう言葉が、どんなものであるか。
悪寒のようなものが、遅れを取りながらも現れた。
もう遅い、と嗤うように。
そう。
―――――――もう、遅かった。
「……久留美。俺は、な…………ずっと、生きたいと思って生きてきた」
告白のようだ、と感じた。
しかし、次の出る言葉でそれが違うのだと知る。
「―――――――ただ、それと同じくらい何処かで死にたいと思って……生きていたよ」
互いの距離は遠く無いのだとわかって、初めてわかることがあるに久留美は気付いた。
それでも尚、結局のところ自分は何も理解していなかったのだと。
彼女のことを、何一つ正しく見えていなかった、と。