止めどない泣くという衝動に突き動かされるがままだった久留美は、傍らで起きた動く気配に、思わず手を退けて顔を上げた。
「……千夜?」
力なく横たわっていた千夜が上半身を起こしていた。
長い前髪が表情を遮るせいで、そこから感情や心情を読み取ることは出来ない。
両腕で身体を支え起こす千夜は、
「……久留美。【アレ】、持ってるのか?」
「へ?」
何のことだかさっぱりわからないと至極当然の反応を返す。
それでも尚、千夜は、
「ポケットの中、探ってみてくれ。……多分、あるから」
「何言って……てゆか、何があるっていうのよ」
「いいから」
有無も言わさずの後押しをされ、久留美はズボンについた左右両方のサイドポケットを上から触れてみた。
「……ぇ」
確かな異物感が、右のそこから感じ取れた。
手を突っ込み、その異物を取り出す。
異物の正体は―――――――
「……これって、お母さんの……」
羽根の形を象ったバレッタ。
見間違えるはずがない。
これに対して向けた感情は、一つや二つではなかったのだから。
「どうして……ポケットに」
気絶するまで手にしていたことは覚えている。
だが、ポケットに入れた覚えはないし、攫われる時に自然と手から離れないはずがなかったというのに。
「……お前のものだからだよ」
「え……?」
「それはお前のものだ。……俺がいくら手元に置こうとしても、いつの間にか手を離れている。部屋にいれば、知らずと玄関先に落ちていることもあった。……理由はすぐ
にわかった。お前のところへ行きたがっているのだと。だから……俺は、夕方にお前のところまでそれを置きに行ったんだ。そうか……ちゃんと、お前のずっと張り付いて
いたのか」
「……私のじゃない。お母さんのよ」
「お前の母さんが、自分がいなくなったら所有者をお前と望んでいた。なら、それはお前のものだよ。―――――――……【憑喪神】って知ってるか?」
「つく……?」
「大事に扱われ続けたモノには、森羅万象の加護が顕れ……そこからカミが生じることがあるそうだ。多分、その前兆なんだろうな。……カミが生まれるまでの時間ほどに
は至らずとも、大切にされたという事実が……持ち主を守る有象無象の意志を生んだんだ。いや……ひょっとしたら、お前の母さんが……想い続けたからかもしれない」
母親が持ち出されたことで、久留美は話題に食いつきを見せた。
「お母さんが、何を……想ったって?」
「……お前を、だ。お前を、ずっと……何年も。いつか、渡せる日が来るように、と。そのバレッタには、お前の母親が込め続けたお前への想いが詰まっている。だから、
それはお前を守る。………神崎の呪詛を軽減したように」
「………っ―――――――!」
久留美は、寄せるように胸にバレッタを抱いた。
無意識が導いた行為は、本当に求めたモノを手にする事は出来ない。
わかっていた。だからこそ、久留美はそれを強く、大切に包むように両手で抱いた。
千夜は、それを見つめながら告げる。
「……向こうに帰っても、絶対にそれを手放すなよ。病院につくまでは、両手で持っていた方がいい。とにかく、ずっと持っていろ」
息むように呻きながら、立ち上がる。
その姿に久留美は、ハッとしたように目を開きながら、
「ちょっ……寝てなくて大丈夫なのっ!?」
「痛いさ。寝ていても起きていても変わりなく。なら、起きてやることをやってしまうに限るだろう」
「そういう問題じゃ―――――――」
ヒュン、と風を切る音。
言葉を切り落とした遮断音と共に、千夜の手にはいつの間にか白い武装があった。
既に振りかぶられた体勢が、その刀を振るったのだと教える。
しかし、それは一見として真空を切ったに過ぎない。
少なくとも、視界が映す事実はそうだ。
だが、千夜は、
「久留美。……こっちへ来い」
手招きは、自分の側まで来いと言っている。
久留美は有無を言わさない雰囲気に引きずられるように、腰を上げた。
そろりそろり、と足をずるように動かして、千夜の隣に立つ。
「……―――――――っ、あ!」
空間の歪み。
壁に穴が出来ているように見えたが、違う。
”空間に穴が出来ている”のだ。
人間一人がそのままくぐれそうなアーチ状の歪みが、ジジッと映像のブレが生むような雑音を立てて顕現する。
まじまじとそれを見つめる久留美に、千夜は、
「……出口ってこうやってつくるもんだから、入るより楽なんだ。ここを通れば、すぐ外だ。さっき影の中に潜った時よりは違和感も軽いはずだから、調子を崩したりも
しないだろう。………帰ったら、病院へまっすぐ行くんだ。外は夜だから魔性がうろついているだろうが……お前の心を奴の障気から守り続けように、お守りがこの先も
お前を危険から守り続ける。いいか、絶対に片時も離すんじゃないぞ」
「……わかった。わかったわよ」
くどいほどに繰り返される言葉には、たっぷりと注がれた安否の念を感じる。
だが、気にかかる点が、久留美にそれを安易に受け入れさせない。
「……あんたは、どうするの?」
失言とわかっていながらあえて口にする気分だった。
反応が怖い、とこれほどまでに思った瞬間はないだろう。久留美は、この一瞬をそう感じた。
千夜の顔は、見れなかった。
ただ、『出口』という見当違いなところを見つめたまま、返答を待った。
「言っただろう」
重くは無い。
だが、決して軽々しいわけでもない。
避けることも、跳ね除けることも選択させない。
受け止めるしかない重みを持った言葉だった。
「―――――――やらなきゃいけないことが、あるんだ」
ああ、そうなのだろう。
ただその言い方には誤りがあるのではないか。
久留美は、思った。直感した。
それでも、その直感を拒否するように、
「……無茶よっ! ……そんな、そんな……フラフラな状態で、勝ち目なんてあるの? 無いでしょ、ねぇっ!」
「わからない」
「ウソ! ……わかってるくせにっ」
指摘し、非難を上げても、
「……けれど、これは俺の義務だから。勝てなくても、終わらせなきゃいけない」
千夜は淡々と自分のこれからについて理由を述べるだけだった。
久留美が可能不可能について糾弾したところで、変わらない。
変わらないのだろう。
その意志は。
「―――――――、っ!」
突然だった。
動悸が。脈拍が。急速に活動を激しくし出したのだ。
焦燥。
恐怖。
困惑。
怒り。
突如、胸の中を渦巻き出したこの感情は、いずれに値するのか。
ひょっとしたら全てなのかもしれない。
だが、その正否よりもわけがわからないのは―――――――
「……時間が経つと出口は消える。だから、早く行けよ」
言葉の終わりは、千夜の動作に繋がった。
久留美の隣からその気配は遠のく。
驚いて首を向ければ、千夜は玄関へと歩いていく。
何処へいくかは、明白だった。
「あいつのところに………行くの?」
「いや、待つ。多分、結構遠くまで逃げてきたから……奴に来てもらうとするよ。つか、来るだろうな。それなら、俺がわざわざ長い距離を歩いていくより、あいつから
にじり寄ってきてもらう方が体力面でも精神面でもリスクが少なくて助かる」
ここから外の偵察をしようと思って、と言い捨て、千夜は後ろ手で手を振った。
別れの挨拶のつもりらしい。
そう思った矢先、
「……久留美、最後に一つ頼みがある」
『―――――――頼みを聞いてくれ』
どくん、と鼓動が一際大きくその音色を刻む。
今、聞こえたのは幻聴なのか。
だが、千夜の言葉に被って、もう一つ声が聞こえた。間違いなく、聞こえたのだ。
「俺を許さないでくれ」
今度は、千夜の声しか聞こえない。
けれども、この感情は何だ。さっきから、何だというのか。
沸き立つ不安は、本当に自分のものなのか。
だとしたら、この何処かで他人事のように捉えているような感覚は何なのだろう。
何だか自分が自分ではないようだ。
いや、正確にはそれもこの状態を言い表すには相応しくない。
自分という存在の中に、【自分とよく似た別の誰かの感情】が流れ込み、乱雑に掻き混ぜられたまま溶け切っていないような。
そんな奇妙な気分だった。
自分が自分なのか。それとも、こう思っている自分は、自分の中に感じる誰かなのか。
これも、神崎に仕込まれた何かの罠なのか。
湧き上がり、とぐろを巻く感情は千夜に向いている。それは、先程までの状態と一緒。
しかし、これは殺意や破壊衝動とは違う。
形容し難い何らかの感情。
その正体不明の情念に久留美が戸惑う中、
「………あ、やっぱり一つ追加していいか?」
なに、と言う前に千夜は矢継ぎ早に要求を繋げた。
「生きろよ。奪っておきながら、こんなこと言える立場じゃないのはわかってるけど………でも、これからも生きていてほしい。失って欠けた部分を埋められないことは
わかっている。その寂しさと孤独を紛らわせるほどの幸福を得るまでは辛いだろうが………。
―――――――それでも、お前には……いつかまた幸せだと言って、笑ってほしい」
『―――――――生きろ、くいな』
その瞬間、久留美の全てが止まる。
感情や思考を生むそれを始めとした何もかもが、その機能を停止した。
それは決して長くない停滞時間だった。
作業の怠りは、すぐさま再起動することで取り戻せる程度のものだった。
そして、復興の瞬間。
「―――――――」
久留美の身体は、動いた。
正体の見えない感情に指導権を握られて。
否。久留美は同意したのだ。
全力の肯定を以ってして。
行動は、向かう。
既に言うことはないと語り遠のく千夜の背中に。
伸ばした手が届く瞬間、久留美はふと気付いた。
―――――――違和感が消え、得体の知れない感情はいつの間にか【自分のもの】になっていることに。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――ぇ、どわっあ、あっ!?」
衝突の瞬間、腰の上で完全無欠の不意打ちに間の抜けた声が上がる。
しかし、久留美の身体は勢いを止むことなく前進の力をそのまま千夜にぶつけた。
タックルをかまされた千夜の身体は、
「ぶっ……!」
前倒しとなった。転倒直後の呻き声は、おそらく顔から突っ込んだのだろう。
「ってぇ……く、るみ……いきなりなにす」
「―――――――あんたってのは……どうして……」
腰の抱きついたまま千夜を敷くように倒れ込んだ体勢で、久留美は低く唸る。
はぁ?と千夜が訝しんだ。
そして、
「……どうして、”いつも”そうなのよっっ!」
久留美から激しい憤りが放たれ、爆発した。
「あんたの自己満足だっていうのは知ってるわよ! 何か見返りがほしくて、私みたいな”無能の村娘”を助けたんじゃないっていうのも、哀れみとか同情でもなかったって
のもわかってるわよ!」
「むら……? おい、くる」
「あんたが、どんな薬でも治せない身勝手でどうしようもないお人良しだってことなんか……いやというほど思い知ってんのよ! 私は、あんたのそういうところが……
嫌気がさすほど好きでしょうがなかったんだから!!」
怒涛の勢いに、千夜の制止も呑み込まれるしかない。
この場の勢いは、圧倒的に久留美へと傾いていた。
「……捨てるくらいなら、あの時見捨ててほしかったなんて……そんなみみっちい済んだことを言いたいわけじゃないのよ。そんなことが、許せないんじゃ……ない。私が
許せないのは……自分がいなくても大丈夫だなんて言ったあんたの手を離した………私っていうあんた以上の大馬鹿野郎よ!」
腰に押し付けるように顔を伏せ、巻きつくように抱く腕は、言葉に込もる力と共に自然とその力を強めた。
駄目だ。
離してはいけない。
【あの時】のように、今度こそ離してはいけない。
そうだ。手を離すべきではなかった。
自分を見ていながら自分を映していないことに絶望しても、それでも離すべきではなかったのに。自分では救えないのだ、と諦めるのはなかったのに。
「あんたを恨んでいるわけでも、許せないわけでもない。……でも、死ぬのは許せない。それだけは絶対に―――――――許さない!!」
声を張っているせいで、喉がヒリヒリしてきた。
だが、それが何だ。
あの時言えずじまいだったことを、今ここで言わなくていつ言えばいいというのか。
「拾ったやつに、拾われたやつの気持ちなんてわかりゃしないでしょうけどね………私は、あんたに助けてもらった時に………行く場所もいる場所もなくなって一緒に来る
かって言われて……あんたについていくって決めたんだから! 何処までも、いつまでも、よ!」
なのに、
「なのに……あんたは責任放棄上等で私を置いて逝きやがりくさって……あの後、私がどんだけ後味悪い余生送ったと思ってるわけぇ!?」
「久留美……さっきから、一体どうし」
「うっさい、仏の顔も三度までなんて甘いこと言わないわよ。二度も見逃してやるなんてこともね! あんたがいつまでもそういうつもりなら、こっちだって受けてたとう
じゃないのよ! 目には目、歯には歯………身勝手には身勝手よ! あんたがどんだけ死にたいなんて思っていようが知ったことじゃないわ。逆に、本当は死にたくないと
思っていようがいまいが同じことよ! なんと思っていようが、私はあんたを死なせてなんてやらないんだから!!」
渾身の叫びとばかりに叩きつけた訴えが、千夜の身体を突き抜けた。
そして、互いに呆然という不動の時間が訪れる。
殆ど息継ぎなしで怒鳴り通しだった久留美は、ここに来てどっと押し寄せる脱力感に自分の疲労を知らされる。
伏していた顔を上げ、久留美は両手を地面について、千夜を見た。
その目は、何処か焦点があっていない。
千夜は、正気ではないのか、と疑う。
だが、
「……そりゃ、私はさぁ……あんたと違って、全然使えないよ。団子作るしか……能のない、出来損ないの……死に損ないだよ。でも……そんな出来損ないを拾ったのは、
あんたじゃない。死に損ないにしたのも……あんたじゃないかぁ……。私が、死んだら……悲しいって……言ったじゃない。……私だって、そうだったんだから……死んだ
ら悲しいって、言ってくれた人が……死んで……悲しかったんだから」
息を切らせながら、熱に浮かされるように。うわ言のように。
正気と錯乱の境目にあるような状態で、尚も言い募る。
「文句があったって……知らないんだからね。私みたいなろくでもないのを助けたりするから悪いんだぁ……。だからぁ……だから、私は……あんたが死ぬなんて絶対許し
てやらないんだからなぁっ……」
目は潤みを持ち出す。
表面を覆うだけでは抑えられなくなったそれは、目尻へ溜まり、決壊と共に零れ落ちる。
「……死なないでよぉ。……死なないで………死なないでぇ」
千夜は、子供のように駄々を捏ねて泣き出した久留美を、腰を捻って見つめた。
久留美はその動きに気付くこともなく、
「死んじゃ……やだああああっ!」
わぁわぁと声を上げて泣き喚く久留美。
手のつけようが無いとはこの事としか言いようが無いほどに。
そんな久留美に乗っかられたままの千夜は、心情を読み取れない表情で暫しその様を凝視していた。
そして、何かを思ったのか、
「だから……泣くなって。わかったから」
片手を伸ばし、
「……もう行かないか―――――――ら」
撫でようとしたのか、前かがみになった頭部に届きそうだった。
しかし、突如それは力を失い、目的地をすり抜けて―――――――落ちた。
「…………ぇ」
目の前を何かが通り過ぎた気配に、久留美はそこで我に返った。
そして、見た。
「………千夜?」
横たわる姿に、生気を全く感じない千夜を。