身体の感覚が無い。

 

 

 呼吸をしている感覚。

 目を開けている感覚。

 声を出している感覚。

 腕を動かしている感覚。

 

 およそ五感の全てが機能しているか、自分ではわからなかった。

 

 感じない。

 何も感じないのだ。

 

 こうなってからどれほど時間が経ったかさえも。

 何故、こうなったかさえも。

 

 

 ………ここは、何処?

 

 

 理由が原因はわからない。

 だが、その直前のことだけは寸前で捉えることができた。

 

 

 ………確か、足元が。

 

 

 沈んだのだ。

 それこそ、沼や泥濘(ぬかるみ)に足を踏み込んでしまったときの感触だった。

 

 

 それを感じ、何が起こっているのか確認しようとした中で、事態は起きた。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 

 何も、わからない。

 

 

 果たして自分は生きているのか。

 それさえも久留美の中で実感が消えようとしたその時、

 

―――――――っ、!」

 

 浮遊感。

 否、重圧感だ。

 失われ、忘れかけていたモノが全て肉体に元に戻ってくる。

 その重みだ。

 

 奇妙なその感覚に喫驚してすぐに、最後に遅れてきた感覚が変わる世界と共に訪れる。

 

 明るい。

 直感的にそう感じた刹那、

 

「………きゃっ」

 

 久留美の身体は、地面へと放り出された。

 どさり、という軽い衝撃と共に舞い上がった砂と埃が相まって久留美の鼻と呼吸器官に侵入する。

 

「っげほ、っぐぇ……ふ………―――――――っう」

 

 たまらず(むせ)ていたが、そこに横槍を入れるように吐き気が襲いかかる。

 更に眩暈(めまい)まで。

 

 不快の三重奏によって、久留美はしばらく蹲ったまま動けなかった。

 咳はすぐに治まったが、酒で悪酔いしたような感覚はしばらく抜けなかった。

 

「……はぁ、っ……は……」

 

 ようやく眩暈だけでも一足先に治まったところで、久留美はようやく現状把握へと行動を移せるようになった。

 

「……ここ、は……?」

 

 周りを見渡す。

 光は無い。少なくとも神崎といた時よりも闇は薄いようだが、それでも薄暗い程度のそれは変わらず存在し、空間を支配していた。

 工場ではない。

 思考が経験という記録データと照らし合わせて、それらしき情報を打ち出す。

 

 それから判断するに、ここは、

 

 

「アパートの……部屋?」

 

 

 部屋はそれほど広くない。

 そして、仕切りや間取りを見る限り、それは人が生活ことを意図して設計されたつくりであることはわかる。

 そうであると理解するのに時間を要したのは、そこに生活感がないからだった。

 ガラン、と何も置かれていない殺風景な様は、引越し前のモデルルームを彷彿とさせる。

 

 身体を見回せば、服はあちこち埃だらけだった。

 両手は汚れていない部分を探す方が難しい。

 

「……っ、千夜」

 

 幾分の余裕と均衡を得た意識は、ようやくすぐ傍らで倒れている存在に気付いた。

 仰向けに倒れ、目を閉じて動かないその姿を目にして、内臓がスゥッと冷えていく。

 

「千夜……千夜っ!!」

 

 久留美は身体を揺すり、声を上げてその名を何度も呼び続けた。

 

 すると、

 

「……っ、う………久留、美……か?」

 

 気絶していたのだろう。

 瞼が僅かに痙攣した後、ゆっくりと開いた瞳が久留美を映す。

 

 安堵。

 しかし、それを顕す言葉は口から出なかった。

 

 代わりに飛び出したのは、同時に生じた別の感情だった。

 

「……何で、避けなかったのよ」

「…………」

「何で、助けたのよ……っ! どうして、こんな……こんな逆恨み馬鹿に刺されたりなんかしたのよっ!?」

 

 怒りだった。

 非常に理不尽なものだったが、それでも久留美にはそれを抑えることはできなかった。

 

 現状に対する激情。

 それは、久留美ではなく千夜が深手を負ったこと。

 そして、更には久留美が望み、図ったものとは異なる結果となった現在へもそれは向いていた。

 

「侘びのつもりなの? 馬鹿じゃないの、私なんかほっとけばっ……」

―――――――久留美」

 

 止まらなかったはずの勢いは、鶴の一声であっさりと停止した。

 その声は、ビクッと久留美を怯ませ、一気にその熱を下げた。

 

 怒鳴ったわけじゃない。

 寧ろ、静かだった。穏やかだった。

 

 いっそ異様なほどに。

 千夜は、久留美に対し優しかった。

 

「……話を、聞いてくれないか? 泣いたままで……いいから」

―――――――っ!」

 

 指摘されて、久留美は己の頬が濡れていることを知った。

 汚れているにも拘わらず、服の袖で拭う。

 しかし、それでも決壊したダムは濁流を止めない。

 

 神崎の支配下にいた時の反動なのか。

 それとも、目の前の事実がそうさせるのか。

 

 だが、理由など久留美にはどうでもいいことだった。

 どうしてもこの涙を止めたい。

 自分には泣く資格などないから。

 

 だが、

 

「………いいから、久留美。怖かっただろう?」

「……ちがっ………そうじゃなくて……」

「何だっていい。出るものは出るんだから……放っておけ。……だから、俺の話を聞いてくれよ。こんな時に……こんなことを言うのもなんだが。………きっと、俺の声も

俺の言葉も……もう聞きたくないかもしれない。でも……聞いてくれ。……これが、最後になるかも……しれないから」

 

 最後。

 その言葉が、今はこの上なく怖い。

 そんな言葉を優しく口にした千夜を、久留美は仇敵のように睨んだ。

 

 涙を絶やすことなく、双眸を濡らしたまま。

 

 千夜は、それを聞く体勢と判断したのか、一度力を抜くように大きく息を吸った。

 

 深い呼吸が前置きとなり、

 

「……俺たちは………多分、最初から…………始めからずっと、間違えていたんだ思う」

「まち……がい?」

 

 久留美の反復に対し、千夜は「ああ」と頷いた。

 

「…………あの時、お前が俺にインタビューを持ちかけてきたことも、俺がそれを受けてしまったことも………もう一度持ちかけて、それをまた受けたことも。……白紙に

戻そうとしてそれを拒否したお前を受け入れてしまったことも。……ああ、やっぱりだな」

 

 千夜は、何かを確認したように低く笑い声を立てた。

 

「最初を躓くと……ずっと引っかかりっぱなしだ」

「…………」

「……それで、どうしようか考えているうちに………このままでもいいんじゃないかと……思えてきちゃっていたんだよな。そしたら…………こんな、有様だ」

 

 久留美は顔を歪めた。

 千夜はそれを見ても、何となしに続ける。

 

「小さな間違いは、たくさん積み上がって……どうにもならない大きな間違いになってしまった。……最初が肝心って、本当なんだな」

「……だったら、何で」

 

 それまで黙って聞いていた久留美は、そこで耐えかねたように切羽詰った様子で口を開いた。

 

 

 

―――――――あのまま私を殺さなかったのよっ!!」

 

 

 

 それは自ら望んで吐き出した言葉であったというのに、久留美の胸は告白の瞬間にきつく痛みを持った。

 自虐の言葉であった。

 だが、この言葉と対極となる結果が、久留美の最後の本望だった。

 

 手に入らないのなら、相手に何かを残したかった。

 何も遺していってくれないのなら、遺したかった。

 連れて行ってくれないのなら、傷つけたかった。

 

 身体の自由が、暴走した殺意と憎悪に支配されている最中でも、千夜を殺せるとは思えなかった。

 

 ただ、それでも遺せるものはあると思ったのだ。

 そして、同時に自分の中にも遺るはずだった。

 

 殺したという事実を相手に。

 殺されたという事実を自分に。

 

 絶対にして不動。

 どんな強い想いすら霞むほど、消えない事実(こと)

 

 代償が命であっても、それでも構わなかった。

 なりふりなど気にかけられないところまで、久留美自身は来てしまっていたのだから。

 

 なのに、千夜はそうしなかった。

 それすら叶えてくれず、今―――――――

 

「昨日だってそうよ! 私があんたにとって間違いだっていうのなら、あのままなかったことにしちゃえばよかったじゃない! あんたの人生の汚点だっていうのなら……

どうして……どうしてっ!」

―――――――それは、無い」

 

 自分の言葉を遮った否定の意味を、久留美は理解できなかった。

 間違っていた、とさっき言ったばかりの相手の更なる否定の言葉が。

 

「……絶対に、無い。そうじゃ……ない」

「何よ。何が違うって言うのよ……。だったら……何だって言うのよっ!」

 

 苛立ちをぶつけるように久留美は、答えを求めた。

 千夜はすぐにそれに応えようとしなかった。

 僅かな沈黙を置いた後、千夜が口にした言葉も久留美が求める答えとは異なる内容のものだった。

 

「………答える前に、ちょっと抜いてくれないか」

「は……?」

「コ、レ」

 

 指差したのは、腹部に刺さったままのナイフ。

 深く刺さったそれは、既に柄しか見えず、刃は全て埋まっていた。

 

 抜いたらどうなるのか。

 想像し、久留美は要求に拒否感を覚えた。

 

 しかし、千夜は、

 

「……頼む。抜かないと……いつまでたっても傷が塞がらない」

「………治る、の?」

「そうじゃないなら、わざわざ刺されたりしないよ。……お前には悪いが、俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ。……だから、抜いてくれ。俺じゃ、力が入らない」

「……………わかったわ」

 

 死ぬわけには行かないという目的が、うっすらと久留美には見えた。

 故に、久留美は千夜の言うことを信用することにした。

 

 言われたとおり、腹から突き出ているようにも見える柄の部分を持つ。

 躊躇しながらもそこを抜くことを意識して、動かしてみる。

 

「……っ……」

 

 千夜の顔が苦痛に歪む。

 それを目にした久留美は、一気に迷いを溢れさせる。

 しかし、それを千夜が咎める。

 

「……駄目だ。余計な気を遣わず、一気に抜け」

 

 それが正しいのかわからなかった。

 しかし、他に何が正しいのかもわからない。

 

 迷った。

 迷い、そして―――――――

 

 

「……―――――――っ、っ!」

 

 

 悲鳴はなかった。

 ただ、綺麗に並ぶ白に赤が滲んだ上下の歯がきつく食いしばられた。

 

 ずるり、と抜けた刃は真っ赤だった。

 千夜の血。

 自分が刺した傷から零れたもの。

 

 己が仕出かした事を見つめ、久留美は望んだはずのことが今は恐ろしくて仕方なかった。

 

 腹部から溢れ出た血が、地面に広がる。

 しかし、水溜りは少ししてその規模の拡大を止めた。

 

「……血が、止まった?」

「皮膚が塞がったのさ。……さすがに、中身はしばらくかかるだろうがな」

 

 事情を語る千夜の額には、脂汗が滲んでいた。

 呼吸も荒く、乱れている。

 

 胸が絶えず大きく上下し続ける中、千夜は、

 

「………それじゃぁ、さっきの続きしようか」

「いいよ。……もういい。……いいから!」

「駄目だ。聞いてくれ」

 

 強い口調は、頑として譲らない。

 そして、久留美は折れた。

 

「……出会いは、間違いだった。そのまま関わってしまったことも」

 

 耳を塞ぎたい、と久留美は強く思った。

 しかし、

 

「……それでも、俺にとって―――――――【お前】は間違いなんかじゃないんだ」

 

 続いた言葉は、そんな久留美の防壁をあっさり看破した。

 

「全部なかったことになんかしたくない。苦しくても、痛くても……間違っていても。お前と出会ってからあったことを……なくしてしまうのは、イヤだ」

 

 これは都合のいい夢なのだろうか。

 それとも、幻聴か。

 

 いずれにせよ、これは現実なのだろうか。

 

 拒絶された。

 ずっと、全部、突っぱねられてきた。

 

 なのに、今―――――――彼女は何と言っているのだろうか。

 

「間違っていたかもしれない。正しくなかったかもしれない。でも……俺は……一生、忘れたくない。お前と………出会ったことや、お前からもらった思い出も……お前を

なくすことで、なかったことになんかしたくないんだ」

 

 そこまで言い切ると、千夜は一呼吸をついた。

 ただそれだけを言いたくて、息継ぎにも詰めていたのだろう。

 そして、補給を終えると、

 

「何もくれてやれなくて……ゴメン。本当なら、お前に殺されてやるのがせめてものことなんだろうけど、まだやらなきゃならないことがあるから無しな。……それに」

「それに………何よ」

「お前は……俺なんかで汚れてほしくなかったんだ」

 

 この期に及んで、何を言い出すのかと思えば。

 

 久留美は、場違いとはわかっていても呆れるしかなかった。

 

「なに……言ってんのよ、馬鹿。………こんな、ヨゴレなんか……今更何しようとこれ以上汚れようがないわよ」

 

 千夜は笑い話を聞いた風に苦笑した。

 

「そんなわけあるか。お前は俺の友達なんだぞ? 俺は、これでもえり好みが激しい上、綺麗なものが好きなんだ」

「あんた、見る目なさ過ぎ……」

「失敬だな。お前に言われたくない」

「何でよ」

「俺なんかに、変な意地張って拘わり続けるから」

 

 久留美は、首を振った。

 髪が乱れ、涙が飛び散るのも構わず、

 

「あんた、すごく綺麗よ。あんまり綺麗で……手が届かなくて、悔しかった。届かないってわかっていても諦められなかった。あんたを見てると、月を見てる気分だった」

 

 久留美は、父親と母親を失う前夜に見た夢を思い返す。

 そして、あれはこんな己の心境を暗示していたのだと気づいた。

 

「……ごめんなさい」

「どうして………謝るんだ?」

「やっと……わかったの。全部……何もかも、私の勝手な思い込みだったんだって。……手を伸ばしても届かないなんて、一人で勝手に思って……やんなくてもいいこと

ばっかりしてた……」

 

 こんなに近くにいて、当たり前のように手を伸ばしてよかったのだ。

 つまらない拘りを捨てられなかったせいで、彼女を勝手に遠くに感じていただけだった。

 

 勝手に一人で焦って。

 勝手に飢えていた。

 

 距離を作っていたのは、自分の方だった。

 

 彼女の気持ちをわかろうともせずに、どうしてわかってくれないのかと駄々を捏ねて喚き散らしていた。

 

 彼女は、確かに久留美という存在の居場所を内側(なか)につくってくれていたというのに。

 

 否。

 千夜だけではない。

 あの黒蘭という女が言っていたことが正しければ、きっと『彼女』も―――――――

 

「ごめん………ごめん、なさい……ぃ……」

 

 

 やっと、わかった。

 

 こんなところまで来て、ようやく理解できた。

 

 

 かつての魔法使いが、何を思って自分を置いていったのかも。

 

 

 千夜の言葉を聞いて、ようやく―――――――正しく()()れた気がした。

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 表面上は繕った患部に手をやりながら、千夜は己の体内で行われているはずの修復作業の様子を感じようと試みる。

 

 

 ………まずい、な。

 

 

 遅い。

 再生速度が、思っていたよりも下回る。

 

 やはり、『夜叉姫』の使用した後に、『影』の移動。

 霊力の消費の激しさは、この治癒の速度で察することが出来た。

 

 ………いや、予定通りか。

 

 久留美が神崎の下にいるのはわかっていた。そして、駒として何らかの有効活用をするつもりで何かされることも想定の範囲内だった。

 

 たとえ、神崎を追い詰められても、久留美という弱点が敵の手の内にある限り、トドメを刺すまでには至れないだろう、と。

 

 ………久留美は助けた。

 

 ここまで順調に進んだ。

 あとは、神崎だ。

 

 ………俺に身体に副作用が出始める前に。

 

 久留美をここから帰還させ、神崎と今度こそ決着をつける。

 残る霊力は、決して多くは無い。少なくとも、先程のように召喚される屍鬼を全て足止めすることはもう出来ない。

 

 仮に出来たとしても、肝心の神崎にトドメを刺すだけの力は残らないだろう。

 それでは、意味がない。

 

 ………そうだ。だから、コレしかない。

 

 確認するように、千夜はこの隔離世に来る前に己の武器と交わした『約束』を思い返した。

 

 

 ――――――― そのお命が絶えられる前に、夜叉に自壊を命じて下さいませ。

 

 

 互いの願いを同時に叶えられる術が、幸い千夜にはあった。

 

 残った霊力を全て注ぎ、夜叉姫に自壊を兼ねた暴走を命じる。

 なけなしの霊力は夜叉姫によって何倍にも膨張し、神崎を逃がすことなく呑み込み、塵一つ残さず消滅させることが出来るだろう。

 

 

 ………こういうの、なんていうんだっけ。

 

 

 あれはいつだったか。

 朱里と日曜日の朝に見た子供向け番組のナントカ(名前忘れた)戦隊とかいう特撮もので、登場人物の一人が自らの身も顧みず敵ごと自滅する光景が浮かぶ。

 

 

 ………自爆技……じゃなくて、捨て身の攻撃だったかな。

 

 

 あやふやな記憶と己がこれから実行しようと考えている行為を重ねながら、千夜がふと移ろい考えたのは、己と同じ行為に甘んじた者のことだった。

 

 テレビの中で、自分のかけがえの無い者たちのために死んだあのキャラクターも、目前とした瞬間に抱いた気分とはこんななんとも言い表せないものだったのだろうか。

 

 

 閉じた瞼の裏で問うように思った後、千夜は目を開いた。

 

 

 その瞳に、濁りは一切無かった。

 

 

 

 



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