今まで気配すらなかった存在は、闇の奥から姿を現した。
山積みにされた木材の裏に隠れていたのか。
それとも、
「………生きて、いるのか?」
投げかけられた問いの含みを感じ取ったのか、神崎は気持ちよさげに笑みながら、
「そいつは屍鬼じゃねぇよ。……生きてなきゃ、意味ねぇだろ?」
返しに含みを持たせる神崎に、千夜は注意を移した。
それは、ただ言葉に引かれただけではなく、神崎が始めて動いたからだった。
決して動こうとしなかったその高い足場から、神崎はそれまでが嘘にように何の躊躇も惜しみもなく飛び降りた。
派手な着地音もなく静かに降り下った神崎は、立ち尽くす久留美に近づいた。
「……この女、お前に置いてかれたって泣いてたんでなぁ。可哀想に思ったんで、わざわざこの俺が直々に連れてきてやったんだよ」
「……………」
「なかなか見れねぇ光景だよなぁ。うるせぇ女だとばかり思っていたが、黙ってこうしてみてりゃぁ、なかなか……」
「―――――――触るな」
「……ああん?」
顔を近づけ、輪郭をなぞっていた神崎は、制止の声の方を見た。
険しく顔を歪め、剣呑に目を吊り上げた千夜がいた。
「薄汚い手で、そいつに触るんじゃない」
「……薄汚い、ねぇ」
神崎は面白いことを聞いたように、舌の上で抜粋部分を転がした。
「……俺の手が薄汚いっていうのなら、お前はどうなんだよ? ……人殺し」
「―――――――っ」
急所への攻撃に、千夜は返す言葉を見失った。
怪我人をいたぶるような嗜虐的な笑みを浮かべ、神崎は尚も嘲笑う。
「……そら見ろ。さっきまでのイイ目はどうした」
「っ、黙れ」
「こいつのせいか? ……だから、言ってるだろ。お前はまだ本調子じゃねぇんだよ。……こんなゴミ屑を前にして動揺するようじゃなぁ」
「お前……っ」
殺気に満ちた視線を受けても神崎は少しも応えた様子無く受け流していた。
寧ろ、それこそ望んでいたとばかりに快く受けているようだった。
「俺の言うとおりだっただろう? ……じゃなきゃ、どうしてそんなに動揺してる? 何で、そんな不安定な殺気飛ばしてる? ……お前の中で毒が回っているんだよ。
この女を前にして、ナカで巣食っている平和で生ヌルて明るい世界への未練がグルグル頭の中駆け巡ってお前を掻き乱してるのさ」
「………久留美に、何をした」
神崎の言葉などどうでもいいとばかりに跳ね除けて、千夜は問い詰める。
「ちょっと遊んでやったさ。……なに、大した事じゃねぇ。こいつ、親を殺された恨みよりもお前への未練を優先しようとしやがってたからよぉ。……ちょいと言葉責め
してやったんだ。イくまでなかなか手こずらせてくれたが………なかなか可愛かったぜ? こいつの泣き叫ぶ姿はよぉ……」
心底楽しそうに述べられる言葉に、千夜は奥歯を強く噛み締めた。
「……何のために、そこまでそいつを巻き込む。久留美が、お前に何をした……神崎っ!」
「………決まっているだろう? こいつはお前を穢す。お前を、俺の理想から貶める。こいつには、落とし前をつけてもらわきゃならねぇ」
「落とし前……だと」
声を低める千夜に対し、神崎は声を高らかにして、
「殺せ」
「―――――――」
「そのための生贄だ。この女を殺せよ、千夜」
目を開く千夜に、神崎は追い討ちをかける。
「……玖珂を捨てて俺のところに来たまでは上出来だ。後は、お前が自分を取り戻すために獲物の味を思い出すだけだ。肉の味を、思い出せ。この女の命を蹂躙し、貪り
尽くせ。そうして、お前はようやく………本来の姿に戻れる」
「ふざけるなよ、神崎……っ!」
「ふざけるかよ。……なぁ、そうだろう?」
虚ろな久留美に語りかける神崎は、何処からともなく手にしていたナイフをその手に握らせるように固定しながら、
「……ほら、見えるか? あいつだよ。お前の両親を細切れ肉にしやがったのは。あの時お前はどう感じた? 助けてくれた恩か? 違うだろ」
「……ぁ」
「お前の両親は助けられた。助かるはずだった。死なずに済んだはずなんだ。……なのに、あいつはどうした?」
「……ぅ、あ………ぁ」
「忘れちまったのか? 忘れていいのか? 忘れられるのか? ……よく見ろ、あいつは何だ? あいつはお前に何をした? お前から何を奪った?」
「……………っ」
空虚の眼に、何かが宿った。
灯火のように揺らめいた仄かな暗闇。
それは最初だけで、どんどんその濃度を高め、
「……殺した」
「何を?」
そして、
「―――――――私の、家族を……あいつがっ!!」
血の気の無い唇が、はっきりとそう発言した。
無の表情には、憎悪という名の極彩が滲み出ていた。
憤怒。
嫌悪。
鬱屈。
焦燥。
絶望。
あらゆる劣情が織り交ぜられ、憎悪が織り上げられていた。
それが、久留美の感情の全てであることを示している。
神崎は、思惑通りに言ったことを喜ぶように口端の笑みを強くし、
「……そうだ、そのとおりだ。イイコだ。……それで、お前はあいつをどうしたいんだ?」
「……殺す。殺す。殺して。殺したい。殺し―――――――」
爛々と目を血走らせ、一心に千夜を見つける久留美は、うわ言のように殺意を口走る。
「………そうか。いいだろう。俺が手助けしてやる。ほら、こいつをやるよ」
握らせているナイフの存在を久留美に気付かせるために、手の甲をピタピタと叩く。
形だけの握る手に、力がこもった。
「……復讐の時だ。お前の憎い相手は眼の前にいる。親の無念を晴らすこれ以上に無いチャンスだぜ? 違うか?」
「……っ!」
鼻息を荒くする久留美を見て、けしかけるのは十分ととったのか、
「……行きな」
促すように、久留美を押し出した。
背中を押された勢いの名残で、数歩前へ進む久留美は、それがなくなると止まった。
足取りは変わらず不安定のままだった。
だが、眼差しとナイフを握る手だけは違った。
確かな殺意をたっぷり染み込ませた視線を放つ双眸と、皮膚が破れるほどナイフを強く握り締めた手だけは。
両者の向かう先は、千夜一人に絞られていた。
「……久留美」
零すように口にされた名前にも、反応は無い。
ただ、飢えにも見た焦燥を宿した眼差しが、殺意と共に千夜に向けられる。
「……俺を殺すのか」
答えは無い。
「俺が、憎いか」
答えは無い。
「俺を……殺したくて仕方ないんだな?」
答えは、無い。
ただ視線だけが全てを肯定し、言葉なくとも語っていた。
答えるまでも無い、と。
千夜は、何かに区切りをつけるように目を閉じた。
数拍にも満たない僅かな閉眼の後、
「………そうか」
開いた眼には躊躇や動揺は一切残っていなかった。
代わりにあるのは、強い眼光。何かを堅く決意した者の目だった。
覚悟。
千夜に目に宿るそれは、一つの揺ぎ無い意志の塊だった。
二つの固い意志のぶつかり合いは、視線を介して実行された。
どちらも譲る様子なく、逸らすこともなく。
ただ、互いが互いの存在だけを見つめていた。
「……なら、一撃だけ。一撃だけ許してやる」
千夜は右手を前へ差し出し、人差し指を立てた。
「チャンスは一度だ。好きなところを狙え。……先手はお前のものだ」
先手。
それを譲るのは、相手に優位性を明け渡すこと意味する。
だが、この場において、この対立において―――――――そんなものは意味が無いに等しかった。
本当に残酷を極める絶望とは、ほんの少しの希望が垂らされたものだ。
この希望を掴もうと必死になり、藁にも縋る気持ちでそれに全てを託す。
そんな蜘蛛の糸が切れた時、人が得る失望と喪失とはどれほどのものかは計り知れない。
千夜の行う行為とは、それに値するものだった。
観戦者と化していた神崎は、その行為の意図をどうとったのか、酷く楽しげに、嬉しげに笑う。
まるで、この相対がどう転ぶかを。どのような結末を迎えるかを予知しているかのように、優越感に浸った様子で。
誰が圧倒的な優位性を持ち、誰に勝敗が傾くかが決められているも同然の組み合わせ。
予想する結末は、神崎にとってこの上なく理想的なものだった。
観戦者一人と、対戦者二人の場は、暫しの膠着状態が続いた。
が、
「……来いよ」
沈黙を破る千夜の投石が、冷戦に終りを告げた。
絶えず睥睨を続けていた久留美の目が、大きく開いた。
そして、
「ぅ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……―――――――っっ!!!」
絶叫をあげながら、威嚇から特攻へ移った。
両手で握り締めたナイフの先端は、突進と共に千夜へと向かう。
距離は三メートルにも満たない極短の疾走だった。
千夜には迎撃の様子は無い。
そして、防御や回避も同様だった。
無防備。
ただ、向かってくる久留美を見つめている。
そこある感情は計り知れず、見透かすこともできない。
無表情であることは、無感情であることなのか。
姿勢は非武装でも、精神面におけるガードは鉄壁であった。
二、三秒にも満たない。されど、一瞬と呼ぶほどの刹那でもないこの間に、千夜は一歩も動かなかった。久留美の目を見つめていた。
そして―――――――
「甘い」
切っ先が胸に触れるかの瞬間、触れるように手首を掴んで静止させた。
視線は、久留美の目に固定したまま。
ナイフを掴んでいる手首を握って、刺し込む際の勢いを補強しているにも拘わらず、久留美のナイフはそれ以上先へと進まない。
千夜の片手が、久留美の全てともいえる渾身の一撃を捻じ伏せていた。
希望を摘み取る絶望の手は、抗うように突き進めようとする久留美の意志すら叩き伏せるように力を込める。
「……っ、この、この、このこのこのこのこのこのこのこのこのぉぉ……っ!!」
「………心臓か」
千夜は、久留美の標的の名を静かに呟き、
「わかりやす過ぎて、駄目だ。……確実に殺せるだろうが、それを真正面から突っ込んで成功させるのは……不意でもつかない限り不可能だ」
何処までも冷静に分析し、解説を述べる。
とても殺されかかった者とは思えない沈着さで。
千夜の目は穏やかだった。
表情は無くとも、瞳は虚無ではなく静寂を住まわせている。
それを見ていた神崎は、得体の知れない違和感を感じた。
そんな外野で起きている反応など千夜は見えていないのか、それも承知の上なのか、
「……久留美、それでなくても相手が憎くて殺したいと思ったら………心臓は駄目だ。あっけなさ過ぎる」
己の命を狙う相手に、千夜は教えを説く。
「じっくり苦しませるようにしなければ。例えば―――――――」
抑止されていた久留美のナイフがその切っ先をずらす。
久留美自身の意図ではなく、その手首を掴む千夜の手によるものだった。
その先端は、胸から下へ。
徐々に下げられ、不意に止まる。
そこは、
「―――――――内臓を抉るように脇腹を刺す。刺殺で狙う場所で言えば、簡単でベストな選択肢だ」
引き入れるように迎えられたナイフが収まる場所となった。
◆◆◆◆◆◆
ずぷり、と沈み込むように皮を破り、内臓を切り開く感触。
それが己を刺し貫いた事実であると共に、千夜はもう一つ抱きしめなければならないものがあった。
そして、両手を伸ばした。
自ら招いたナイフはそのままに。
久留美を。
久留美の体に両腕をまわして、引き寄せた。
「……つかまえた」
息づくような小さな呟きに、抱きしめた体がビクリ、と震えた。
そうして、体がガタガタと痙攣するように小刻みに振動を始める。
震えが拒絶ではないことを、千夜は耳元で聞こえる嗚咽で気付いていた。
即ち、それが示すのは、
「……無事か、久留美」
「………っ」
反応として、大きく震えた。
その際に久留美の手に握られたままのナイフも僅かに動き、内臓を掻き回すことになる。
「……っ、結構効くな。誰かにここを傷つけさせるのは、久々だからかな」
「……な、んで」
「何でって………その質問はいくらなんでもないんじゃないか」
何を問いかけているのかを理解した上なのか、茶化すように返答を曖昧に濁す。
「……こうなっても仕方ないと思った。だから、だ」
「だからって……っ!」
「それに久留美は、あの時もっと痛かっただろう?」
千夜には見えない死角で、久留美の目が凍りつく。
「……お前に対しては償いきれないほどのひどいことをした。……償いに足るとは思わないが………迎えにきた。―――――――帰るぞ、久留美」
「―――――――、――――」
答えは無かった。
ただ、顔を肩口に押し付け、抱擁に包まれるがまま、久留美は嗚咽を零す。そんな久留美から了解や了承を得ようと言葉を続けることなく、千夜もまた腕の中の存在から
温もりが絶えず失われていないことを確認するように、抱擁を解かなかった。
「―――――――っっっっっ、ざけんなぁあああああああああああああああっ!!!!!!」
ささやかな安息を破ったのは、神崎の怒号だった。
怒りと苛立ち。そして、裏切られた者の目をして、二人から少し離れた距離から、
「何だ、何なんだよそりゃぁっ!! てめぇ、何考えてやがるっ!! 俺が、この俺がせっかく整えてやっていうのに……台無しにしてくれやがったなっ!!??」
「……俺が久留美を殺せば、目が覚める……とかいう寸法だったわけか」
千夜は、久留美が神崎の声に怯えているのを見て、振り向かせないように後頭部に手を添えながら神崎と向き合う。
「お前は、俺が蒼助を捨てて、後は久留美も俺自身の手で片をつけてしまえば、お前の望むような姿になると思ったわけだ。そうなったら、お前の王国にも興味を示して、
お前への愛に目覚める………なんて、本気で考えていたのか?」
腹部に重傷を負う者のする口調とは思えないほど、明瞭にして流暢であった。
それは、神崎に思わず怯ませるほど虚勢とは程遠い確かな威勢だった。
「……正直しんどいから、手短に答えるぞ。これ以上失わないために、わざわざお前なんぞを心中相手に選んだんだ。ここまで来て、間違ってたまるか阿呆」
「んだとぉ……」
「俺は言っただろう。言ったはずだ。……頭ごなしに力づくで人を押さえつけようとしても、決してなにも手に入らない。何故か? 答は簡単だ。……足掻くからだよ」
千夜は言葉どおり、押さえつけようとする神崎に、抵抗の眼差しをもって足掻きを示した。
「押さえつけられれば押さえつけられるほど、人は己の意志を高め反旗を翻す。俺は、お前が気に入らない。もっと明確にすると、嫌いの前に大が幾つ付いても足らない
くらいだ。……聞け、神崎。ここまでだよ。ここから先は、もうおまえの好きにはさせない。手加減も容赦もかけてはやらない。憐れみも情けも、お前には持ち合わせて
いない」
「千夜……」
久留美の声も無視し、千夜は仕上げとばかりに声を高らかに張った。
「俺は、世界が己の思うように動かない事実を知っている。だから、それを突きつけて思い知らせてやろう。……この世界は、お前の思うようにはならないと!」
千夜は久留美の身体に対する抱擁を「抱え込む」というより強固なものへと替えた。
そして、じりじりと後退する。
その行為に対し、神崎は糾弾を飛ばす。
「逃げる気か、てめぇえええええええっ!?」
「人聞きの悪いことを言うな。戦略的撤退と言え。……戻ってきてやるから、それまでせいぜい断末魔のマスターベーションでもしていろ」
それだけ言い捨てると、千夜は抱擁を片手にのみ残し、解いた手を肩よりも高いところまで上げた。
掲げた手では、親指と中指を擦り合わせる動作が行われ、
―――――――パチン
小さな音が弾けた。
その瞬間、
「―――――――なんだっ」
「―――――――っ!?」
白光だ。
闇を満たす空間に目も眩む閃光が、その場における闇と光の勢力の形勢逆転を顕現させた。
それは、視界を持つ者たちのそれと闇を駆逐する。
「……久留美」
「え、ぁ」
「しっかり掴まっていろ。絶対に俺から離れるな」
言葉の意味を理解するに追いつかないが、久留美は不可解な事態に怯えて無意識のうちにその要求に応えた。
その時だった。
「じゃあな、神崎。―――――――また、"後で"な」
ずぷ、と沈むような鈍い落下の感覚。
久留美は咄嗟に薄く目を開けて、その異変の場所―――――――足元を見た。
しかし。
その直後、久留美の視界は闇一色となった。