―――――――『鬼の爪』。
確か、自分にこの技を教えた人間は、そう称した。
通常、退魔師が基礎的な霊力操作として、全身の運動神経を向上させる霊力の練り上げによる【強化】。
それを、部分的に行うもの―――――――といえば簡潔な話だが、それは明確な詳細ではない。
正しくは、全身の強化に加えた―――――――部分的な【硬化】である。
その教えを授与される際に、硬化だけでは駄目なのか、と聞いていた。
質問は悪いことではない。悪いのは、わかったつもりで済ませて、わからないままで終えることだ。
それを良き行動として受け取ったのか、教え手たる存在は責めることも失望することなく淡々と解答した。
『―――――――狩りをする獣が特化されているのは、その爪だと思うか?』
解答ではなく、意味深な質問だったと思い出す。
質問に質問で返すな、と言われている普段を考えると複雑な反抗心が芽生えたが、この後に答えが控えていることを考えて、大人しく自分で思考し、答えた。
否、と。
『そうだ。獣は、そのしなやかな筋肉があってこそ、牙も爪も獲物の脅威となる。この技も、それと同じことが通じるのだ。わかるか?』
問われたあの時、己なりの結論を出したのだ。
爪も牙も道具。
それらは使えなければ意味が無い。
すなわち、全身の強化は、道具を使える状態となるため―――――――獣の戦法をモノとするための下ごしらえ。
だが、その理解の後に一つの疑問を覚えた。
強くなりたい、という申し出に答えた彼は、何故この方法を教えることを選んだのか。
武器の使い方ではなく、このような方法を教えるのか。
『何故……か。お前は、強くなりたいと言っただろう』
頷き、肯定した。
『……ならば、まず―――――――人であるという理念を捨てろ』
それが、答えだった。
◆◆◆◆◆◆
………まさか、最後の最後という時に原点に還る羽目になるとはな。
肉をもぎ取る感覚。
仮初の身体を与えられた屍鬼相手といえ、その殺す感覚に違いは無い。
目の前の切り裂いた屍鬼が、それを実感させる。
だが、それに気を取られている暇は無い。
背後に、二体の気配。
千夜は、振り返り様に腕を振りぬいた。
高速による空気を切り裂きと同時に軌道が生まれ、その余波が斬撃へと昇華する。
五指のいずれも届かなくとも、それが二体を食んだ。
胴が裂かれて上と下が分かたれる。
が、それを確認することなく新たな敵意と向かい合う。
「―――――――っ」
しかし、それを隙と見た別の一体が、死角となる方向から飛び出してきた。
このまま向かいの屍鬼を倒しても、その直後に来るであろう一体の攻撃は躱せない。
思考し、判断する猶予は一瞬。
その一瞬で、千夜は対処を打ち出し、
「っち―――――――!」
前進の体勢を無理矢理後方へと戻し、重心をそのまま傾けて僅かに後退。
衝突するはずだった向かいの攻撃は空を切り、そこへ障害となったもう一体が鉢合わせとなる。
千夜は腕を振り上げた。
狙いは、目の前にちょうどまとまった二体。
一撃で屠る。
それを意図し、
「―――――――弾けろっ!」
それは敵への手向けの言葉ではなく、『命令』だった。
そして、相手も目の前の二体の屍鬼ではない。
腕を振るう。
硬化された指先はかすりもしない微妙な距離があるにも拘わらず。
だが、それでいいのだ。
硬化によって霊力をまとった手で触れたかったのは、屍鬼ではなく―――――――その周囲に漂う霊質粒子だ。
霊質粒子に、意志はない。
そして、外部からの干渉に影響されやすい。
つまり、『破裂』という意志、そして霊力をまとった手で触れて伝達すれば―――――――それらはあっさり従う。
命令は霊質粒子に”炸裂”した。
叩きつけられた命令によって無数の霊質粒子が弾け、爆発を生む。そして、それが更に誘爆を引き起こした。
二体の屍鬼は、その大規模な爆発に呑みこまれた。
その被害を被る前に、千夜はそこから一線引いた場所まで跳び退いていた。
「―――――――ハァ、っ……は、ぁ」
矢継ぎ早に襲い来る屍鬼を相手にろく息継ぎを出来ていなかった代償が、ここで来た。
だが、気を緩めることはない。
周囲は、依然と四方を埋め尽くす勢いの屍鬼が襲撃の機会を伺っている。
千夜は一層気を張りつめ、その観察に防衛線を敷いた。
「……どうした、まだ三十分しかたっていないぜ? 息上がってるじゃねぇか」
下卑た声が、嘲弄するのが聞こえる。
三十分。
その間、千夜は息をつく間もなく神崎の屍鬼からの猛攻に対し防戦を続けていた。
数では圧倒的に勝る屍鬼は、加えて疲労を知らない。
そして、痛みも知らない。
人間であれば、致命的な弱点となるこれらは屍鬼にとって寧ろ最大の強みとなる。
痛みによる怯みや躊躇は期待できず、完全に破壊しなければならない。
だが、それでも足らない。
彼らには”集団”となることで、無敵となりえる”武器”があるのだから。
「……ん? おかしいなぁ、こりゃ。……あんだけ殺られているつーのに、俺の屍鬼たちはちっとも減ってねぇみたいだぜ?」
ニヤニヤと確信めいた笑みを浮かべるその顔を潰しにいけないこの距離間が、歯痒かった。肉体と共にフル回転させ続けて疲労した思考には、無視できない程度には
癇に障る。
殺しても殺しても、それは【殺した】という事実へは繋がらない。
それが、屍鬼という敵を相手にする障害だ。
復活を手伝う親玉がいる限り、屍鬼は完全に倒せない。
そんな相手に、交戦を続けることなど―――――――はっきり言ってしまえば、無意味なのだ。
それを理解できず、受容できず、それでも挑めばどうなるのか。
数の暴力が叩き出す計算の答えは一つしかない。
「しかし、まぁ……武器は出さねぇっつーから、何を腑抜けたことを抜かすかと思ったが………そんなことまで出来るのか。いいじゃねぇか……全くもってお前という
やつは、俺を飽きさせない」
「……光栄だな。褒め言葉として頂戴しておくぞ」
言葉を交える中、倒した分だけ気配が増える。
”補給”が行われたのだ。
また、スタート地点に戻された。
「安心しろ。俺は言葉しかやらないなんて安い男じゃねぇ。その貢献に免じて、ご褒美をやろうじゃないか」
「……褒美?」
「ああ、そうだ。……そいつらを退けてやる。堂々と相対しようぜ」
己の兵を退ける。
それは、攻守共にその姿勢を解くこと意味する。
まったくの無防備になるも同然だ。
「………どういうつもりだ」
「何もねぇよ。これ以上お前をいたぶる必要はない。……そうだろう?」
それは、優しい声色だった。
神崎という男からは想像もできなかったその態度。
だが、千夜は眉を顰めるだけだった。
「お前が落ちぶれていないことは、今の戦いぶりで確認させてもらったしなぁ。これ以上こんなこと続けても無意味ってもんだろうよ」
「ほぉー。……で、何が言いたいんだ? 生憎お前とは以心伝心できるほど心の距離は近くないのでな。わかるように教えてくれ」
呼吸が整いつつあるものの、額に汗を滲ませ疲労は軽減されていないことを明らかとしている千夜は、それでも強気の姿勢を崩さない。
それは神崎には虚勢として映り、己の優位性を一際強く確信づかせる。
気分が向上したのか、神崎は憎まれ口を叩く千夜が気に障った様子もなく答える。
「……強がるなよ。お前だって本当はわかってるだろう? 認められなかっただろうが……もう、認めざるえないってことをよぉ……?」
「お前の勝ちは揺るがない……そう言いたいのか」
「なんだよ、やっぱりわかってたんじゃねぇかっ! ……そうとも。見ろよ、その俺の下僕たちの数を。そいつらは、戦闘力そのものはお前には圧倒的に劣るだろうさ。
だが、倒されても死なないという最高の武器の前には、お前がいくら強かろうがそれこそ無意味。……無意味だろう、"最初から勝ち負けが決まっている勝負"なんてなぁ」
勝敗がどちらに傾いているか。
それはいうまでもない。
状況を受け入れられているのなら、それがわからないはずがない。
「それで? お前の言う……負けが決している俺は、勝利を掴んで離さないお前にどうしろというんだ?」
「理解ってるじゃねぇか。……ただ、ちと足りねぇな」
「………」
「焦らすなよ。……だが、まぁいい」
にぃ、と神崎は両の口端を吊り上げた。
開かれた口の奥で赤い舌が踊る。
「―――――――絶対服従だ。誓えよ。平伏せよ。跪けよ。この俺に……屈服するんだっ!」
声に、わずかな震えが加わる。
歓喜による興奮が込み上げてくるがためか。
この瞬間は、神崎にとって待ち望んだ時だった。
何者も超越した力ある者となり、それと同等に望み執着した女を掌握する。
この二つは神崎の何にも替え難い悲願であった。
「ふん、もう勝った気でいるのか?」
「勝っているんだよ! 違うのか、んんぅっ!?」
「この屍鬼の数が、お前の強さであると?」
「……違うっていうのかよぉぉぉっ!?」
興奮のあまりに声量を加減する箍が外れている神崎は、己の勝利を、千夜の敗北を信じて止まない。
だが、
「―――――――なら、大したこと無いな。お前の得た力というヤツは」
声を張り上げたわけではないのに、それはよく響いた。
その凛とした響きは、言葉を虚勢とは程遠く感じさせる。
声高く主張し、己を誇張しても得られない自我が、そこで確立していた。
疲労し、劣勢という逆境に置かれたはずの千夜によって。
「……七十六か。存外少ないな。建物という仕切りがあるせいで多く見えただけか」
ふん、と鼻を鳴らす。
「お前がマメに注ぎ足してくれるおかげで、数を確認するのに三十分もかかってしまった。まぁ、そのおかげで”明確な数”がわかったから卑怯などと咎めはしないさ」
顔を上げた千夜は、確信づいた何かで表情を彩って、
「……しかし、随分と少ない。前にやりあったヤツは、百はいっていたというのに。ここが個々のポテンシャルで開く格差というやつなんだろうな」
「なにが、言いたいんだぁ……?」
「もう言った。……聞こえなかったのか? ―――――――お前なんぞ、大したことないって言ったんだよ。いくら燃料がありあまっていても、一回に出せる限度がコレ
じゃなぁ……」
神崎は笑みを消した。
消して―――――――再び、点火した。
「……ああ、そうだなぁ。……そうか。ただ、闇雲にそいつらを相手にしていたわけじゃなかったってのか。確かにな。その通りだ。……七十六。俺は、いくら踏ん張
ってもそこから先には行けねぇ。……認めたくねぇことにな」
己の欠点を指摘され、それでも神崎は怒りも焦りも見せない。
否。そんなものありはしない、と振る舞っているのではない。
それは、
「だが、それは俺の勝利を曲げる欠点にも弱点にもならねぇ。俺の屍鬼を上回る数で当たってこられたら駄目だったかもしれねぇ……だが、お前は一人だ。いくら倒して
も甦る七十六の屍鬼相手にお前が何度挑もうと結果は同じだっ!」
「そうだな。……”倒そうなんて考えて、挑めば”……な」
神崎が己の不動の勝因を酔いしれるように告げる神崎の言葉に、千夜は何故か笑みで返した。
「だったら―――――――倒さなくともいい。とどのつまりは、そういうことだろう」
当たり前のことを述べる千夜に、ここで神崎は初めて不可解を思う表情となった。
「………何を言ってやがる?」
「別に。……ああ、それとさっきの話はナシだ。こいつは退けなくていい。
―――――――お前が来なくとも、俺が行く。こいつらを退けてな」
不敵に笑みながら、千夜は己が状況において不可能の行為を宣言した。
神崎はそれを重々承知の態で受け止め、跳ね返す。
「退ける……か。そいつらを無視して俺のところへ突き進んでくるってか? はっ……馬鹿か、オイっ!? そんなことすりゃ、そいつらは一斉にお前を……」
「―――――――そうならないようにするって言ってんだよ」
想定を突きつけ、手の内を見透かそうとする神崎の言葉を叩き切ると、千夜は動いた。
それは―――――――些細な動作だった。
右手を上げたのだ。
頭の上に。
天に。
否、先には灰色の空を空間から隠す天井がある真上に向けて。
神崎は、思わず目で追った。
「千変万化参之式―――――――【飛燕】」
「―――――――っ、なに」
静かに呟く千夜と喉を引き攣らせる神崎の図は一つの対比を表す。
それを導き出したのは、
「なん、だと……っ」
神崎が見たのは、
「―――――――堕ちろ、千刃鶴」
鳥だった。
無数の白い鳥が天井で物を言わずにたゆたっている。
否、千夜の言葉から神崎はその一瞬の初見にてそう錯覚したのだ。
鳥ではない。
それは―――――――剣だ。
大小種類をそれぞれ疎らに異なえど、それらは剣だった。
同じであることは、一つ。
全てが等しく、その切っ先を直下へ向けていること。
真下へ。
「っ、っ、ぉ、お前らああああああああっ、散れ、散れええええええええっ―――――――!!」
断末魔のような叫びが命じる。
しかし、
「遅い」
その足掻きを一蹴する千夜の言葉が、剣の浮遊状態に終りを告げる。
ガクン、と落下の気配を見せた直後。
千の刃が無数の銀光と化して降り出した。