ほろ酔いは一瞬で冷めた。

 突然、キンキンに冷えた酒を頭にぶっかけられたということもある。

 



 だが、それ以上に精神を揺さぶったのは―――――――

 

 

「なんかいろいろクダ巻いてたがよ……ようはフラれたってことだろ? お前はあいつから見れば、弱くて、頼りなくて、口ほどにもねぇヘナチョコ野郎だった。

 ―――――――
だから、捨てられた。そんで、その負け惜しみを俺相手にグチグチネチネチ吐き連ねているって有様だ」

 

 

 さっきまでただ相槌を打つ程度の言葉しか返さなかった男。

 それが、今は何故か突然脈絡もなく酒で頭をびしょ濡れにしたかと思えば、自分を糾弾するように言葉を勢いよく紡いでいる。

 

 ポカン、と口を半開きにして唖然とした蒼助は、現状を処理するのに時間を要した。

 

 しかし、この状況の原因たる男―――――――蔵間は、それを待たない。

 

「はっ、くだらねぇな。つーか、よくよく考えてみりゃ、お前はただ単にてめぇのプライドと自信をこっぴどく傷つけられて怖じ気づいちまっただけじゃねぇか。昔から

妙にプライドと態度だけはデカかったもんなぁ、お前は。手を離してほしいと言われたから、離した? いいや、違うね。お前は―――――――自分から離したんだよ」

 

 不本意な台詞が出てきたことで、蒼助はようやく我に返り始めた。

 

 自分から、あの手を離した―――――――と。

 蔵間は、今確かにそう言ったのだ。

 

「……これ以上つながっていて、てめぇ自身が再起不能どころか修復不能のボロボロにされるのが怖くて、お前は自分から手を引いたんだろうが。何せ、全部否定されち

まったんだ。これ以上自分の何に自信が持てるんだって話だな。自分と意見、考えが異なる相手からお前は逃げ出しちまったんだよ、蒼助。

 

 ……はっ、つまるところお前は―――――――立派な負け犬ってわけだ」

 

 黙れよ。

 あんたに何がわかる。

 

 それが反論となって言葉に出る前、そして琴線が弾けとんだといいう自覚が訪れるよりも早く蔵間の胸倉を掴んだ。

 

 が。

 

 

―――――――伏せろ(・・・)、【玖珂蒼助】。()が高ぇんだよ」

 

 

 冷静に、沈着とした調子で紡ぎ出された言葉。

 強い口調ではないというのに、妙な圧迫感を感じた。

 

 普段は呼び捨ての己の名が姓名で呼ばれたことで、蒼助は気付いた。

 それがただの命令ではないことに。

 

 発動する。

 そこまで考えた時には、既に体が従って(・・・)いた(・・)

 

―――――――っが、あ……っ!!」

 

 体にかかる強制力を感じたと同時に、蒼助は不可視の力によって突き倒されていた。

 傍目から見れば、自分からカウンターテーブルに頭を打ち付けたようにしか見えないような―――――――そんな形で。

 

 脳が横にシェイクされた。

 人為的に起きた激しい視界のぶれに、蒼助は一瞬だけ意識を飛ばした。

 しかし、復活に時間は重病と必要ない。

 

 沈下しない熱によって一層煽られて目の前の相手に挑みかかろうと意志は動くが、

 

―――――――固定」

「っ、な、ぁ……!?」

 

 テーブルの上から起こそうとした頭部が、接着剤で貼り付けられたが如く密着した。

 ガッチリ、と右頬から右側面の頭部にかけて。

 

「おー、なんか懐かしい光景じゃねぇか。初めて会った時のこと思い出すぜ」

「……あ、ん……時は、"おすわり"……だっ、た……けどな、ぁっ!」

 

 忘れもしない。

 初対面の人間相手に犬扱いされたことなど、忘れたくても忘れられようか。

 

 そして、今度は『伏せ』と来た。

 本当に自分の周りにはロクな大人がいない。

 そんな中でも、この男は自分が同姓として『憧れ』を抱く相手である。

 これが自分としては比較的マシな大人であるのだから、ますます始末が悪い。

 

 ちらり、とカウンターのすぐ向こうにいる店主を見る。

 目の前で荒事など見えていないかのように静かにグラスを拭いている。

 ああ、本当にロクな大人がいない。

 

「何だ、減らず口叩くくらいの元気は残ってるんじゃねぇか」

 

 口元は笑っているが、目は依然と鋭い眼光を光らせている。

 それに疑問を感じる程度の理性は戻ってきた蒼助は、訝しげに眉を顰めた。

 

 怒っている。或いは、苛立っているのか。

 だが、何故だ。

 

「…………なぁ、蒼助ぇ」

 

 一方で、蔵間はそんな蒼助の心中など露知らずのまま己を通す。

 そして、その進行の過程で振ってきたのは、

 

「お前、何で俺が降魔庁に誘ったと思う? 考えたこと、あるか?」

「………は?」

 

 蒼助を混乱の境へと追い込まんとする蔵間の不可解な言動。

 思考は高まる熱を掻き乱されて、いい加減オーバーヒートしそうだった。

 そんなぐらぐらに煮上がった脳で蒼助は、

 

「……おふくろ、だろ………?」

 

 一昨日の夜に交わした三途との会話で見出した考えを、口にしていた。

 

「最近、気付いた。いや、前からおかしな話だと……ずっと思ってたけど、さ。………あんた、おふくろに相談されてたんじゃねぇのか……俺のこと。それと……」

「それと?」

「……俺の【眼】のことも、聞かされたんだろ?」

 

 無反応。

 蒼助は、それを肯定と受け取った。

 

 いくら珍しく、貴重価値のある異能を持っているとしても、それは玖珂の家では何の意味もない。

 玖珂という一族は、良くも悪くもまっとうな退魔の血族なのだ。必要とされるのは、霊力と剣神の一族としての剣の才能。不要なオマケは、むしろ足枷にしかならない。

 

 たとえ蒼助が曲がりなりにも当主の嫡子であろうと、必要不可欠な要素を欠損しているのであれば、一族のお荷物として容赦は無く切り捨てられる。昔、父親やその一部

の理解者たちがそれをどうにかしようとして、従姉の迦織との婚約話が結ばれたこともあった。

 だが、それも一族における蒼助の立場を安全なものとして揺るぎ無きものとするには、穴がある対処だった。

 父親たちが懸命に頭を捻る傍らで、あの母親は全く別の対処を進めようとしていたのだろう。そして、それは、蒼助自身が秘めていた異能の発覚によってその決断を確固

たるものとした。

 

「……降魔庁は、何か一芸でも秀でてりゃ所属資格がある。……あんたは、あの日……話で聞かされた俺の……見極めにきたんだろ……?」

 

 母親は、一体どんな風に話し聞かせていたのか。少なくとも、国家組織の総帥の興味を引かせるべくいろいろと誇大化させて話しただろう。

 そして、結果は―――――――彼女の目論見どおりになったというところか。

 

「………正解は三割くらいってところかな、その回答は」

 

 コトリ、と空のグラスをカウンターに置きながら蔵間は、

 

「相談は受けた。けど、当人からは規定年齢になったら自分が推薦出すからって予告もらっただけだ。あくまで、おふくろさんが関与する部分の所属云々に関しては」

「……どういう、意味だよ」

「お前をスカウトしたのは、俺の意志であり俺の判断だってことだよ。なにせ、推薦状を送る前に美紗緒さんはあんなことになっちまったからな。予告は無効だ」

 

 でもって、と蔵間は素早く入れ直されたグラスを受け取り、それを一度煽ると、

 

「俺はというと……その時聞かされた美紗緒さん曰く【何処に伸びるかわからねぇ雑草みたいな息子】っていうのが妙にインパクトに残った。それで、一度は目を通して

おこうと思って仕事の息抜きくらいの気分でお前の家に遊びに言ったんだよ。親父さんに会うって口実でな……そしたら―――――――

 

 投げなりに放られていた視線が、蒼助をまっすぐに見据える。

 その視線に、蒼助はかつて出会った日の感覚を錯覚した。

 

「……スケベは父親。ツラは母親。本質(なかみ)は……どこの天邪鬼と入れ替えられたかしれねぇ捻くれたガキに遭遇したわけだ」

「……何で、どいつもこいつも【遭遇】って表現するかな」

 

 昔を思い出すたびに腐れ縁の友人も口にするその単語に、げんなりと不満を漏らす。

 

「まぁ、期待外れず美紗緒さんの言うとおりだったけどな。面白そうな奴だとも………こりゃぁダメだな、とも……」

 

 意味深な後半の台詞に、蒼助は瞬いた。

 

「……あの人はわかっていたぜ? お前が玖珂じゃ生きていけねぇっていうのは。そいつは、別にお前の霊力の問題のせいってわけでも、自分ら親子の微妙な立場のせい

ってわけでもなく………そういう器じゃねぇってことで―――――――だ」

「ああ……?」

「俺は一目見た瞬間、なるほどなぁって思ったけどな。こいつは、一族とかそういう集団の中じゃ生きてねぇだろうなぁ……とよ。これでも、並よか多くの人間を目にして

きたつもりだから、そういう見極めには自信があるぜぇ? お、れ」

 

 その後、蒼助の顔をまじまじと見つめ、何故か嘆息。

 

「……いやしかし、何であの両親からお前が生まれたのか本気で意味不明だな。親父さんはスケベで馬鹿だが良い人だし……お袋さんはお袋さんで、あんな振る舞いけど

根は世話好きの常識人だっていうのによ」

 

 後半に関しては一部聞き流せないものがあったが、蒼助はここにきて堪えていたものを開放する。

 

「……さっきから、何が言いてぇんだよ……っ」

 

 なにやら長い長い前置きが続いている。

 そんな気がした。

 



「さっき言っただろ。―――――――目ぇ覚ませよ」



 

 蔵間の目が再び引き締まるように細められた。

 射抜くように鋭い眼差しと不可解な言葉に打ち伏せられて、蒼助は言葉を失った。

 

「変われるとか、他人のために何かするとか………似合わねぇことしようとしてんじゃねぇよ」

「似合わ、ない……?」

「そうだよ」

 

 問い返す言葉すら、蔵間はバッサリと切り捨てた。

 呆ける蒼助に更なる追撃を被せていく。

 

「……お前は、他人のことなんかちっとも考えねぇし、周りがどんな思いで見ているかも気付くどころか気にもしねぇ超自己中野郎だろうが。降魔庁も勝手に辞めちまい

やがったくせに、今更なにを惚れた女なんかの為にその姿勢崩しちまうんだよ?」

 

 酷い言われようだ。

 だが、否定は出来ない。

 

 蔵間の言う『玖珂蒼助』は、間違いなく自分自身だった。

 他人のことを気遣ったりなどせず、周囲の気遣いさえも煩わしく思う。果てにはこの恩人の好意すら無下にした。

 

 本当に自分勝手な男だ。

 それを好きな女を前にして、今更な行為をしていると思う。

 

 けれども―――――――

 

「逃げるなよ、蒼助。ここで逃げたら……正真正銘の負け犬になっちまうぞ」

「………俺、負け犬じゃねぇのかよ」

「俺は、負け犬に酒奢ったりしねぇし、構ってやったりしねぇよ」

「ひでぇ」

 

 思わず笑った拍子に、貼り付いていた顔がテーブルの上から離れた。言霊はいつのまにか解かれていたが、もう蔵間に殴りかかろうとする苛立ちや怒りはなかった。

 ただ、代わりに何か別の感情が湧き水のように小さく噴き始めていた。

 

「なんか勘違いしてるみたいだから、言っておくぞ。―――――――人間は、変わらねぇよ」

 

 それは、打ち砕けた蒼助の想いを更に細かく踏み砕く言葉だった。

 蒼助はそれを黙って聞き入れる。

 その続きを、不思議と冷静な状態を保つ思考で待ち構えた。

 

「変われねぇんだよ。死ぬまでその事実と……【自分】と向き合い続けなければならないんだ。たとえ、一生そんな自分が好きになれなくてもな……」

 

 他人事ではない響きだ。

 誰よりも蔵間自身がそれを感じて理解しているからだろうか。

 その疑問を言葉にはせず、蒼助は耳を傾け続けた。

 

「………んな考えてもしょうがねぇようなつまんねぇことで悩んで悔やんでる場合じゃねぇだろ。てめぇがやりたいことは、そんなことじゃねぇだろうが。逃がした魚を

追っかけたくって仕方ねぇんだろ、違うか?」

「…………」

「てめぇが掴みかけたもんは、みみっちぃ見栄と臆病風にかまけて取り逃がしていいもんだったのかよ?」

 

 弱いところを容赦なくどつく蔵間の言葉。

 痛い。だが、不快ではなかった。

 

 求めていたのだろうか、と奥歯を噛み締めながら蒼助は己に問う。

 

 今の自分が間違っていることを誰かに指摘してほしかったのか、と。

 だとしたら、自分は本当にどうしようもない臆病者だ。

 ここまで来て尚もまだ誰かに背中を押して貰わなければならないとは。

 

 

「答えろよ、蒼助。………お前の本当の望みは、何だ」

 

 

 ピンポイント直撃。

 ど真ん中を貫く必殺の一撃。

 ラスボスだって、こんな強烈なのを喰らったらグラッとくるはずだ。

 中ボスにすら届かない小物など、一発KO瞬殺だ。

 

「俺は……」

 

 望みなど、最初から一つしかない。

 出会った時も。

 初めて経験する厄介な感情を自覚した時も。

 あの存在を遠くに感じてもどかしくて仕方なかった時も。

 身体に巣食う何かによって闇の中に落とされた時。

 

 突き放されたあの時だって―――――――己の望みは同じ形だった。

 

「……俺は、変われねぇのか」

「ああ」

「俺は、逃げているのかよ」

「ああ」

 

 まんべんなく返る肯定に、蒼助は思わず笑みを零した。

 組んだ腕に顔半分をうつ伏せて、残る半分に苦笑を滲ませる。

 

「……でもよ、本質(これ)を認めちまったら………この一線越えちまったら、もう取り返しがつかなくなる」

「何だよ、まさか今まで無自覚だったのか?」

 

 呆れたように声をやや大袈裟に誇張させる蔵間に、

 

「知ってたよ。ただ、認められなかった」

 

 誰だって自分の嫌な部分は、好きじゃない。嫌なものからは目を背けるだろう。

 蒼助にとって己の本質はまさしくそれに該当するもので、真っ向から向き合うべきものではなかった。

 

 恐ろしい、と畏怖さえ抱いていた忌々しいものだ。

 

「……戻れなくなっちまう」

 

 そう思って、決して意識して触れようとはしなかった。

 なのに、

 

「でも、何でだろうな………今は、この線を越えちまいたくてしょうがねぇと思う自分がいるんだよ。線の向こう側にいきたくて、仕方ねぇんだ」

「それが……お前の答えかよ?」

「………止めねぇの? 絶対押しちゃヤバいスイッチだぜ?」

 

 どんな愚問だ、と言いながら内側で呆れる自分を感じる。

 止めてほしいなどいう気持ちは、カケラもないくせに。

 

「その目前まで引きずってきておいて、するかよ今更。……止めてほしいか?」

「一応。……でも、止めてくれないっていうなら―――――――

 

 もう限界だ。

 ここで止めてくれないのなら、もう自分は、

 

―――――――もう、行くわ」

 

 首に巻かれた手綱を振り切るような感覚か。或いは、ガラスを叩き割るようなそれか。

 立ち上がる瞬間に、己の中において長いこと居座っていたモノの消失を蒼助は感じ取った。

 

 同時に、もう戻れないとのだと悟る。

 越えてはならない一線を、たった今をもって踏み越えたのだから。

 

 自分の中を何かが浸食していく。染み渡るように、広がっていく。

 存在を膨張させていくものは、確かに自分が忌み嫌っていたものであるはずなのに、この開放感に似た実感は心地よい。とても。

 

「……酒くせぇ」

 

 頭部に満遍なく降り注ぎ、染みたアルコールの匂いが恍惚感を煽る。

 質がいいだけに濃密な香りが鼻腔をくすぐり、蒼助の脳を酔わす。

 

「水くれよ……」

 

 その言葉が傍観者であった己にかけられたものであると理解した店主は、素早く要求に応えた。クセなのか、律儀に氷まで入れてグラス一杯の水を差し出す。

 俯いたまま伸ばした手で受け取った蒼助は、それを、

 

―――――――っ」

 

 脳天から浴びせた。

 より湿りと質量を増す髪は、ぺっとりと顔や首筋に張り付く。

 

「……は、っ」

 

 吐息のように零れた笑い声と共に、口端を吊り上げる。

 それを目撃してしまった店主が驚いたように息を呑むのを無視して、

 

「……あんた、ひでぇことしてくれたな」

「あん?」

「これで、もう……あいつのこと逃がしてやれねぇじゃねぇか」

「顔と言動が一致してねぇぞ。つか、人のせいにするんじゃねぇよ」

「しゃあねぇだろ。……これが、【俺】だ」

「まぁ最悪。…………行くのか?」

「ああ、逃がした魚を捕まえに行って来る」

 

 ちょっとそこまで出かけてくる、とでも言うような軽い口調だったが、言葉には芯が通った力強さがあった。

 それを察した蔵間は、息づくように笑い、

 

「なら、とっとと行けや。俺ぁ、これから役目終わったついでにここでゆっくり飲むんだからよ」

「……つーことは、やっぱりか」

 

 半目を向けられた蔵間は、何だよ、と眉を顰めた。

 

「………あんたも、かよ?」

「はて、な」

「……白々しいっつーの。大体タイミングよすぎんだよ、あの教室あたりのくだりが。………事実上一国の支配者が、あんな怪しいもんに肩入れしちまっていいのかよ」

「馬鹿野郎。たかが一国の支配者程度があんな化け物に逆えるかよ」

 

 これから向かう先へいるであろう存在の得体の知れなさは、一体何処まで増すのだろうか。道を踏み外した先は、とんでもない獣道であることを今更ながら再確認した。

 

「……一体何を餌に釣られたんだよ、あんた」

「そいつは、秘密だ。答えは……お前が大事なもんをとっ捕まえた時にわかると思うぜ」

 

 脅しなどに屈するイメージは、蒼助には想像もつかない男。

 自信に満ち溢れる姿は、まさしく人の上に立つ器だと思っていた。

 

 そんな男を手駒として釣り上げるほどの餌とは、一体なんであったというのか。

 

 ひっかかるものにはなったが、ここにこれ以上留まる理由にはなりえなかった。

 蒼助は見切りをつけて、立ち上がる。

 

 

 行かなければならない、と心は既にここにはなかった。

 

「……個人的に、一つ忠告しておく」

 

 背を向けたそこから、蔵間がまるで独り言のように言葉を投げかけてくる。

 何か思わせぶるようなその口ぶりに思わず足を止めた隙に、

 

「これは俺の経験を踏まえての話だがよ。……他人が他人の為に考えたことなんて、絶対に他人のためにはならねぇんだよ。逆にいらんことになって相手を貶めることに

だってなりえる」

「…………」

「まぁ、冷静に考えてみりゃ当然といえば当然だよな。何が自分のためになるかなんざ、自分にしかわからねぇんだ結局は。それは、相手にとっても同じだってことだよ。

そう考えると……わからないもんを決めつけたりわかろうとするよか、お前みたく自分のしたいこと優先して実行した方が正しいのかもしれねぇぜ」

「励ましてくれてるつもりなのか、それ?」

「皮肉ってんだよ、馬鹿。………お前が、羨ましいってな」

 

 蒼助を思わず振り向かせる言葉だった。

 驚きを隠せないまま蔵間を見れば、そこにはいつもの余裕を構えたものとは異なる微笑があった。

 言葉が嘘ではない、と明示するように。

 

「俺の時も……それがわかっていればなんか違ったのかもな」

「くら―――――――

「止まるなよ、蒼助。……この舞台の主役はお前らだ。遠慮せずにガンガン暴れてやれ。バックアップは裏方の仕事だ。面倒なところはこっちに任せて、お前はやること

やってこい」

 

 ほら、さっさと行け、と蔵間は追い払うように手をひらつかせる。

 その少々ぞんざいなエールと見送りを受けて、蒼助は再び店の玄関に向いた。

 

 もう振り返ることはなく、その扉に手をかけた。

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 外に出ると同時に生温い風がビュゥっと一吹きした。

 しかし、吹き付けた瞬間冷たく感じたと同時に、今の自分の状態を思い出す。

 

「……そういえば、頭ずぶ濡れだったんだな俺」

 

 肩までびっしょりと濡れた己の有様を顧みて、口から思わず苦笑が零れた。

 

「ま、歩いてるうちに渇くだろ」

 

 ガシガシと湿る髪を掻き、前を遮る煩わしい前髪を掻き上げる。

 見通しの良くなった視界がまず捉えたのは、

 

―――――――

 

 薄気味悪いほどに真っ赤に濡れた月だった。

 不思議と不快感が湧き上がる。

 今まで意識したことはなかった天上の飾りに、何故こうも居座りの悪いものを感じるのか。

 

 不意に、夕刻に遭遇した魔性の言葉が脳裏に過ぎる。

 

「……東京最後の夜に………紅い月、か」

 

 あの不吉な言葉を増長させるように紅くほのめく姿は、絵になる。

 終わりを予感させるように。

 

「……終わらせねぇよ」

 

 この街も。

 そして、千夜も。

 

 そう込めて呟いた言葉は、それが自分にとって分不相応な大層な代物であることを思い、

 

 

 ………あんたの言うとおりだ。俺はヒーローにはなれねぇよ。

 

 

 使命感も慈愛なんてものは持ち合わせていない。

 他人なんかどうでもいい。

 あるのは、自愛だけだ。

 

 己の欲望のままに動く心。それしかない。

 

 

 ………可哀相な奴だよ、お前は。

 

 

 こんな欲深い男に目を付けられた。

 出会う人間に愛され尽くされた彼女にとってそれが不幸でなくて、何がそうであるのか。

 

 そんなことは、これから不幸に貶める自分には思う資格などない。

 

「……とりあえず、あそこだな」

 

 歩む足には、確かな目的地があった。

 千夜を探すよりも先に行かなければならない場所がある。

 

 

 まずは、向かおう。

 彼女を連れ戻す力を与えてくれるであろう存在が待つそこへ。

 

 

 

 




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