静かな夜だ。
上弦を独り心地に思い、
「―――――――静か、だな」
呟いた。
上空漂う彼の言葉を拾うものは誰一人といるわけがなく、零した独り言は風に吹かれて掻き消えた。
静かだ、と改めて思う。
常時隣接して存在する『彼女』がいないと、より一層そう感じずにはいられない。
普段は神経を疲れさせるだけでしかないあの言葉遊びも、今ばかりは欲しいと思っている自分に上弦は気付いていた。
「この静けさ……しばらくぶり、か」
正確に言えば―――――――決して、この夜は静寂ではない。
東京という中枢都市は日が暮れても人間が多く出回る。それらが芋洗いのように擦れ合い混ざる『音』は聞こえず気付かない者にはなんら問題はないが、そうではない者
の耳には酷く煩わしい。
だが、今夜のそれは何処か物足りない。長年悩まされている煩わしさは、軽減されているように人外の超越した鼓膜は感じている。
この違和感に、覚えはある。
そして、理由もまた―――――――既にわかっていた。
「……今宵は、一層赤らんでいることだ」
エレキテルの光をそこかしこから放つ夜の都市から目を離し、視線はそのまま上へと持ち上げられる。
止まったその先には、同じ空にいようとも尚も変わらず遠くにある月だった。
歪みなく丸く線を描く満月は、今夜も紅い。否、一際濃いように見える。
「血濡れ………まさしく、鮮血」
鮮やかな紅は毒々しいまでに―――――――血の色だ。
ジッと見ていると、心を自然と不安定に傾けていく。
内側を擦るような苛立ちが湧き立つのだ。
何故なら、まるで、
「―――――――見下ろすモノを嘲笑っているよう、って?」
背後から聞こえた声に、上弦は肩を震わせた。
それはもうわかりやすく、ギクリ、と。
「こ、黒蘭さまっ! いつの間に……」
「血塗れ、のあたりから。だいじょーぶ。……心のポエムは語り始めしか聞いてないから」
口にしていないのに何故わかったのか。
それを言葉にしては思うツボであることは理解できていても、気にはなった。
大人しく無心で待っていればよかった、と己のうかつさに後悔を滲ませるが、
「……まぁ、なんにしても………静かねぇ」
何気なく呟く黒蘭の様子に、すぐさま思考を切り替える。
「魔性ども、ねぐらに引っ込んでる。……これは、いよいよってところね」
「……孵化は、いつの頃合になりましょうか」
「この分じゃ日付も越えられないわよ、きっと。……溜まりに溜まってるから、噴出したら一瞬よ。それこそ、瘴気の原爆がここを全部飲み込むわ…………人も、魔性も」
人は気付いていないだろうが、魔性は気付いている。同じく外れた者としてその予兆をヒシヒシを感じているのだろう。だからこそ、その『爆発』に怯えてナリを潜め、
夜に躍り出てこないのだ。
人外は皆、終わりの気配を感じ取っている。
だからこそ、この奇妙な静けさだ。
「ああ、今夜はやけに紅いわね……負け犬どもを嗤っているようだわ」
「……それは、あんまりでは」
「事実じゃないの。……坊やは、ヤケ酒。お嬢ちゃんは、泣き寝入り。唯一のイイ大人は、塞ぎこんで………フォロー入れられるなら入れてみなさい」
「………」
返事代わりに出たのは、溜息だった。
現状に対して、そして―――――――黒蘭に対して。
「殉死願望二人は、無自覚。坊やは勘違い……敗因はこんなところね。まぁ、なるようになった……わね」
「……まるで、こうなることをわかっていた……ように見受けられますが」
「それだけ難易度が高い壁に挑んでいるのよ。……もとより、望みは薄い。私たちのしていることっていうのは……結構無謀なのよ?」
「おっしゃるとおり、ですが………」
それでは、我らが今までしてきたことは一体何だったというのですか、という言葉はギリギリ喉の奥で留められている。
黒蘭の纏う空気がいつもよりも若干張り詰めているのが、肌と理性で感じ取れた。下手に勢いに任せて当り散らした際には、想像を絶する八つ当たりの逆襲が待っている
のは経験上わかっていること。そんな場合ではないことも、わかっていた。
更に、一つ気にかかる点が上弦を抑えていた。
黒蘭に焦りが無い。
その飄々とした井戸には、いつもよりも若干乱れはあるもののどうしようもない局面で保てるものではない。
過去に一度だけ目にしたことがあるその時と比べても、これがそうであるとは思えない。
自分たちはどうしようもなく追い詰められているはずだった。
けれども、黒蘭は、
「……"まともな駒"じゃ、勝てないのはわかっていたわ。勝負に勝つためには、真っ向から挑めばいいってものじゃないのよ。試合放棄した二人はともかく………坊やは
どれだけ全力でぶつかっても実質を欠いていたからね。力負けは当然の結果だわ。並べた言葉がどれだけ立派でも説得力がないんじゃねぇ………」
痛いところをヅケヅケと突いて回る黒蘭の口調には、危機的状況を匂わす焦燥といったものを一切嗅ぎ取れない。
今の言葉に乗っとるなら、『勝負』はまだ終わっていないとでも言いたげである。
「………どうなさるおつもりで……?」
「今までどおり。何もしないわ。………駒には自主的に動いてもらうの。知ってるでしょ?」
含みに何が込められているかは、聞かずともわかった。
無言で肯定を示す。
「……手持ちの駒は、既に使い切ったのでは?」
「あんたにそう見えるのなら、大丈夫かもね。……確かに、真正面からぶつける駒はもうないけど…………【切り札】は、まだ生きてるわ」
「切り、札……?」
はっきりと明示されているようで捉えどころの無い言葉に、上弦は怪訝な表情を黒蘭に向ける。
黒蘭は、そんな上弦の疑問を向ける眼差しなど気にもかけず、
「……ねぇ、真正面から戦っても勝てない相手に勝つにはどうすればいいと思う?」
脈絡のない質問を飛ばす始末。
ここで己を優先すれば、「私は、質問しているんだけどね」と冷たい眼差しで拒否されるのがオチであるのも経験上の話だ。
パターンを踏んだ上で、上弦は質問に対して思考することを選び、
「………手段の選択を……捨てることでございますか」
「あら、上弦にしてはイイとこ突いてるじゃない」
返答は的中はせずとも、的は外さなかったようだ。
ホッと胸を撫で下ろす横で、
「明確には、"不意打ち"ね。それもピンポイントをバッチリ狙ったやつ。……本人も気付けないような弱点は必ず存在する。そこを、無意識だろうが偶然だろうが突いて
しまえばいい。脆いところを強く触れられれば、案外すんなりオチるものよ。人の決意や意志も同じこと。……だって、人間だもの」
さすが、そうして数多く人間をオトした者の言い分には説得力があるというものだった。それを傍らで見届けてきた者としては、特にそう感じずにはいられない。
「それは、貴方ではなく【切り札】にやらせる……と?」
「ええ、もちろん。そうじゃなきゃ、不意打ちにはならないじゃない」
うっすらと不敵な笑みが口元に滲み、濃くなっていく。
「私はせいぜい―――――――"期待"させてもらうわ」
◆◆◆◆◆◆
「別にさ、今回が十四年続いた悪夢の再来とか……そういう大層なもんじゃないんだぜ?」
揺らめく意識に、蔵間のおどけた風な言葉が届く。
口にしたアルコール独特の苦味が舌に刺激を与えたが、さほど気にせず喉に下す。
これが高いブランデーの味か、と淡白な感想を胸のうちに零しながら、隣で店内に流れるBGMの中で混じるように紡がれる言葉に、蒼助はなんとなく耳を傾けた。
「実際は六年どころか……三年と保っちゃいないんだ。本物の再発は三年前。そん時は、こっそり降魔庁で処理した」
三年前、というキーワードは、今日という日に耳にして真新しい記憶だった。
しかし、さして蒼助の意識を揺さぶるだけの力は無い。
手の中で弄ぶグラスの中に入ったブランデーを見つめながら、蒼助は己の現状の経緯を振り返った。
気がつけば、教室を出て蔵間と共に外にいた。
そのまま彼が行く後ろをついて歩き、そうしているうちにここに連れてこられた。
地下にひっそりと構えていた小さなバー。とても騒げるほどの広さもないシケた店だと、若い蒼助には見受けられた。それを渋いとか雰囲気が良いと感じるには、まだ
歳が足りなかった。
蔵間の行き着けの隠れバーであるというそこで、こうして注文もしていないのに酒を飲まされている。多分、奢ってくれるのだろう、となんとなく自己解釈しながら。
そして、飲み始めると突然、蔵間は重要機密であろう内容を酒の肴にして語り始めた。
突っ込むところだろうが、蒼助にはそんな気力もやる気もなかった。
放って置かれているのをいいことに、蔵間の緩い口は閉まる気配を一向に見せないまま、
「―――――――その時、うちの処理班一課から十三課までがそれぞれ外部や自分らの伝から助っ人を呼び寄せた。その助っ人の中に―――――――"あいつ"もいた」
意識が、揺れた。
己の現金さに、蒼助は知らずのうちに嘲笑っていた。
何故ついてきたのか。今、思い出した。
教室にフラリと現れた蔵間が垂らした『餌』に自分はまんまと喰らいついてしまったのだ。そう、『千夜』にまつわる話に―――――――だ。
あんな風に切り捨てられたというのに、それでも反応してしまう自分に嫌気が差す。
潮時だというのに、そこから離れられない自分の未練がましさに。
「あん時は、まだ十三歳くらいで……しかも、男だったからな。転入生だって任された時は驚いたぜ。そんでもって、どういうわけかお前と………なんて、な。まったく、
数奇な縁が巡ってくるもんだよなぁ……?」
と、蔵間は話の合間に挟んで酒を一口流す。
一呼吸整えるようなその動作の後、
「………で、そんなお前はこんなところで俺と酒とか飲んじゃってるわけだがよ」
その声色は、何かに上塗りされていくかのように変わり始めた。
今までの陽気な口調は、そこから、
「一応、言っとくが―――――――あいつ、このまま行ったら………間違いなく死ぬぞ」
不穏を告げる警告者のそれへと変わる。
心臓に針を突き刺すような痛みを齎す言葉に、蒼助の意識は嫌でも蔵間へと向けさせられる。正確には、彼の告げた中にあった―――――――最悪の未来を匂わす部分へ。
「三年前の時のように霊力も心身も万全の状態で挑めば、もしものことも無かっただろうよ。何だ、ありゃ……どこもかしこもガタガタじゃねぇか。それこそ、もしもの
ことは……ねぇよ。運が良くて、相打ち………悪くて」
止めろ。
その先を遮る意志は言葉にするよりも行動にする方が早かった。
ダン、と叩きつけるようにカウンターのテーブルに置いた音で、蔵間の言葉は途中停止した。
穏やかな空間を震わす騒音に店主は驚いてグラスを拭く手を一瞬止めたが、すぐに何事も無かったように作業を再開した。
そして、蔵間は、
「………そんな風になるくらいだったら、何で行かせたんだよ。ついこの間までのあの猛烈な突進ぶりはどうしたってんだぁ?」
溜息を多く混ぜ合わせた言葉が問う。
思い、返す言葉として口から吐き出したのは、
「……………思い、知ったんだよ」
「あぁ?」
「……俺ってやつは、何一つ変われていなかったことを……思い知ったんだよ」
そこからは栓を切って溢れるような衝動に駆られた。
聞かせる必要の無いことが、腹で煮えくり返って、喉までこみ上げてきた。
これは、鬱憤なのだろう。
彼女にではなく、自分への―――――――
「……あんた、知ってるだろ。俺が……俺を嫌いだってこと」
「そうだっけか?」
「ああ……大嫌いだ」
怨み言を吐くかのように肯定する。
その泥のような言葉に付け足す声が続き、
「まぁ、それ以上に他人に興味がねぇんだよな」
「……ああ」
その通りだ、と酔いに揺らされるように頷く。
「自分以外に何を大事にしたらいいかなんてわからなかったし……そんなもん、ありもしなかった」
でも、と声の調子が僅かに上がり、
「やっと、出来たんだよ………自分よりも大事にしたいものが。昔みたいに強くなりたいって思った。そいつのためなら、何だって出来るように………なんだって、無茶
叶えてやれるように……ってさ」
「…………」
「そんで、結構がんばったんだぜ……? 自分でも、他人からも変わってきてるって思えて、思われて……このまま行けば、ひょっとしたらって……すげぇワクワクして」
だが、それは―――――――
「けど、さっき……思い知ったんだよ。俺は、何一つ変われちゃいなかった。これっぽっちも強くなんかなれちゃいなかった。あいつに……安心して身を任せてやれるもん
何一つ……俺は、手に入れていなかった」
握り締めていたグラスを離し、掌を仰向けにして見つめる。
変わらぬ己の手を、酷く軽く感じた。
「……俺の"死なない"は、あいつを信じさせてやれなかったんだよ。だから、あいつは行っちまった」
握り締めた手ごたえの無さに泣きたくなる。
爪が食い込み痛んだが、それが何だというのか。
「俺と違って……あいつは、めんどくせぇもんをたくさん背負い込んでいて……そんなもん捨てて楽になりゃぁいいのに、大事に抱え込んでさ……。正直、馬鹿だなぁって
思って……なんとかしてやりたかった。ちょっとでも楽にしてやれるように……なんか、してやりたかった」
別れ際の千夜の言葉を思い出す。
縋りつくように両肩を掴まれて、顔が見えない角度で告げられた懇願を。
「……あいつは、俺に出来ることがあるとしたら………手を離すことだって言ったんだ。だから、俺は……」
絶望と失望に追い詰められた思考に、その言葉はトドメとなって突き刺さった。
そうしたら、身体はどうにも動かなくなった。
どうすればいいかわからなくなって―――――――わからなくなった末に、千夜の言葉を聞き入れてしまった。
「それで、そんな風になってるってか。……その割には、随分と未練タラタラみたいだがなぁ」
未練。
ああ、そうだ。
せめてそれが残らなくては、今までが無意味になる。
千夜と出会いが無意味になる。何もかも、全て。
この未練は、彼女の足跡だ。
ここにはもういなくとも、彼女がいた証だ。
千夜がいたことを覚えていること。
自分に許されたたった一つ。
「しょうがねぇじゃん……いきなり全部ひっくるめてそう簡単に……割り切れねぇよ」
明日になったら、割り切れるだろうか。
彼女の存在も。
自分の未練も。
終わったこととして―――――――思い出として片付けることが出来るだろうか。
なら、少しでもその時に浸れるように、
「……本当は、引き留めたかったよ。足ブチ折られようと、腕曲げられようと……食いついてでも」
全部吐き出してしまいたい。
臓物も血も全部何もかも。
少しでも身を軽くして、明日を迎えられるように。
千夜がいない―――――――明日を受け入れられるように。
「でも、俺じゃダメなんだよ。……俺じゃ、あいつを救えねぇ。助けたくても、留めておきたくても……それが出来る力が、ねぇんだよっ―――――――!!」
最後の方は悲鳴に近かった。
情けなくうわずった後、蒼助は前髪を掻き毟るように掴んで俯いた。
蔵間は、それを何も言わずに見届けた。
何を思ったのか細めた眼には、冷ややかな光が灯っていたが蒼助は気付かなかった。
興味が尽きたかのように蒼助から視線を外し、話を聞く間に中身を飲み干していたグラスを店主に突き出した。
「おかわり」
常連客の注文を快く承った店主は、解けてしまった氷を一度捨てて、もう一度注ぎなおしていく。
ピィン、と氷の軋む一杯を受け取った蔵間は、それを口に含むかと思えば、
「―――――――さっきから何を寝ぼけたこと垂れ流してんだよ。目ぇ覚ませ、ど阿呆」
くるりと飲み口を引っくり返して、遠慮も躊躇も無く蒼助の脳天に注いだ。