―――――――冷たい。
それは降り注ぐ雨でもなく。
肌に纏う涼気でもなく。
身を寄せる傍らの存在の―――――――温度が。
「コージッ……」
「……すまね、ぇ」
呼びかけに対して返ってきたのは、謝罪。
謝るな、と叱咤しても同じものが返ってくる。
すまない、と己が肩を貸す怪我人は、ずっと謝り続けていた。
―――――――迷惑をかけた。
―――――――俺は、あんたを守りたかったのにこのザマだなんて。
―――――――面倒かけてすまない。
今まで並べられたそういった言葉は、全て叩き落した。
そんな言葉はいらない。欲しくない。
「すま、ね……っげふ」
「……もういい、喋るな」
視界の端を染めた真新しい赤を確認して、危険信号が立つ。
肩に抱えて引きずる男は、既に大量の血を排出してしまっている。もはやほんのささやかな言葉の吐露さえ体力の浪費に繋がる。
それに加えて雨だ。弱った体に対して最悪極まる環境が、今の自分たちに置かれた状況だった。『影』を使って移動すればなんとか避けられるかもしれないが、亜空間に
おける移動はこの男には負担だ。命の危機に瀕した状態では尚更のこと使えない。
運もツキも。
人の命運に関わる全ての要素が、この男を見放していた。
己のかけがえの無い友を。
「くそっ……!」
不可視の招かれざる『客』の気配を撥ね退けるように悪態づく。
ふざけるな。
俺はまだ見放したりなんかしない。
こいつはまだお前が連れて行く相手じゃない。
こいつは、まだ俺と―――――――
「……かずやさ、ん」
耳元で弱弱しく響いた声に、我を思い出す。
口を吐き出した血で真っ赤に染めた男が、俯いたまま己を呼んでいた。
その顔に血の気は無く、既に死人の蒼白としたものへと限りなく近いものにあった。
そして、男はそれを理解しているかのように、
「俺は……死ぬんだ、な」
「―――――――、!」
咄嗟に返そうとした否定は、喉に支えた。
男は、俺が受け入れられない事実を既に甘受して、突きつけてくる。
「っ、諦めるな」
「あんたでも……治せなかっ、た……じゃないか」
「だから、俺に教えた医者のところに連れて行く。変態で両刀の人間としてはかなり問題持ちだが、最高の医者だ。……料金はセクハラだがな」
「……なんだ、それ」
渇いた笑いが漏れる。
力の無さに顔を歪めながらも、その意識を奮い立たせるべく千夜は語りかけ続けた。
「安心しろ。お前が色眼鏡に適わなかったら、俺が引き受けてやる。お前は、治ったら俺に一発殴られろ」
「すげぇ、サービス……」
「そうだな……それならいっそ出血サービスにまで持ち上げてやる」
いつかの酒の場での話題を思い出す。
男がふざけ半分に持ちかけてきた―――――――
「―――――――無事に助かって、治ったら………一緒に高校に行こう」
「―――――――」
それは、年相応と呼ぶには少々老けた彼の外見を裏切る実年齢を明かされた時でもあった。中学を中退して、暴力団の舎弟に身を落としたという事情の吐露と共に。
酒に酔った勢いによる、かつての若さに任せた行動の後悔から出ただけのものだったのかもしれない。
だが、それがこの男にとっての心残りであるというのなら。それが、この男の生に繋ぐ鎖となるのなら何でも構わなかった。
「前に話したの、覚えているだろう? 戸籍なんて偽造すればいい。知り合いに聞いたら、私立あたりは金を積めば案外すんなり入り込めるらしいぞ? ……お前の話を
聞いたら、興味がわいてな。いろいろ調べてみたんだ」
「…………か、ず」
「ブレザーと学ラン、どっちがいい? そこでやることは同じだというのに、学校ごとにいろいろ種類があって目移りする。一緒に選んでくれよ、コージ」
震えそうな声を、自分で出来うる限り精一杯明るく持ち上げる。
少しでも、男の目を迫る死から遠ざけるために。
少しでも。
少しでも。
「……かず、や……さ」
「なんなら、俺はお前がほざいた妄想どおりに女子制服でいってやろうか? お前がしゃんとするなら、着てやっても……」
だから。
だから。
お願いだ。
頼むから。
何だってするから。
俺を、俺を―――――――
「俺……幸せ、だ……」
「死に体で……何を言ってるんだ、馬鹿」
「屑みてぇな……人生の中で、あんたみたいな……キラキラした人に、出会えて……大事なもんだって、選んで……もら、えたんだ。これが、幸せじゃなくて……何がそう
なんだか……俺、に…は、わからねぇ……よ」
「ハッ、もっと欲を持てよ。ったく、世話が焼ける。だからお前はヤクザなんか向いてないと言ってやってたっていうのに………」
もっと早く連れ出してやればよかったのか。
それとも、無駄であると割り切って傍から離れるべきだったか。
いずれにせよ、もっと早く決断すればよかったのだ。
全ては俺の優柔不断が招いたことだった。
迷い、踏み切れず。
どっちつかずな態度でいたから、こんな最悪の事態を―――――――。
「……生きろ。生きる欲を……持てっ! こんなところで満足してはダメだ……お前は、こんなところで死んでいい人間なんかじゃ……ない!」
死ぬな。
死ぬな。
―――――――死なないで。
意地も、虚勢も、全てを取っ払って懇願したい気持ちだった。
置いていかないで、捨てないで、と。
この男は、俺が救いだったという。
それを嬉しく思うどころか、馬鹿が、と詰ってやりたい。
お前だけがそうだと思っているのか。
俺だって、お前が―――――――救いだったというのに。
「……俺………あんたに、会えて………良かった、よ」
既に意識が遠くなりゆく男に、懇願は届かず意味は為していなかった。
不意にこちらを見上げた。
しかし、そこに光はなく焦点が合っていない。
もう何も映らない目で、男は俺を焼き付けんばかりに見つめ、
「……おれ、は………あん、た……が―――――――」
言葉は続かなかった。首をもたげるために、残る力を全て注いでしまったかのように男の首は静かに下を向いた。
そして、二度と動くことは無かった。
「―――――――、―――――」
抱える身体は一切力が無くて重いに違いないはずなのに、不思議と軽く感じた。
それは、この存在に確かな重みを与えていたものが失われたからである―――――――と理解が追いつくのは、そう間もない。
じわり、と己の内側で何かが滲むような感覚を覚えた。
疼くような痛みと共に、それはじくじくと広がっていく。
またか、とその感覚を受け入れる。
初めてではない。
繰り返された悲劇と、決まって訪れるこの鈍い痛み。
また置いていかれた。捨てられた。
無責任にも己に傷痕を刻みつけ、生かされたことを思い知らせて。
彼もまた―――――――俺から離れていってしまった。
「―――――――……」
涙は出ない。
泣き声も嗚咽も、喉から這い上がる気配はない。
ただ、やり場の無い怒りと喪失感だけが、身体を打ちつける冷たい雨でも冷える様子はなく、熱のように篭もり内側を滞っていった。
◆◆◆◆◆◆
水の中から浮上するような感覚が、目覚めのそれとなった。
「―――――――」
横たわるままベッドの上から見た窓の外は、暗い。
夕刻からの眠りは、それほど長くは無かったはずだ。
時計を見れば、七時半を回るところであることを二本の長さを違える針が表示していた。
睡眠時間はせいぜい二時間にも及ばない。
だが、ちょうどいい頃合だった。
眠らなければ身体はバランスを欠いていく一方だが、深く長い眠りは逆に身体を疲れさせる。後に用事などを控えている場合は、あまり長くも深くも得てはいけない。
一度染み付いた眠気で、精神と身体が鈍るのだ。もっとも、そういった泥に嵌まるような眠りは長いこと経験していない。
しかし、そうして気をつけた浅い眠りは、さして千夜を癒すことはなかった。
何故なら、夢を見てしまった。
浅い水面下の眠りは、たいてい夢へと繋がる。
己が先程まで見ていた『夢』を思い返す。
「っ、―――――――」
苦いものを噛み締めるかのように口を結び、目を閉じた。
顎の力によってかち合った奥歯が軋む音を口の中で聞く。
掻くように視界に被さる前髪を梳き上げて、千夜はベッドから身を起こした。
◆◆◆◆◆◆
暗がりのリビング。
しん、と静まったその空間にはヒタヒタと千夜の素足の踏む足音しか響かない。
電気をつけようともせず、無人のそこへ踏み込んだ千夜は、そのままソファの上でどかっと身を躍らせた。
放り出した身体が沈み込む感覚の後、一息。全身から力を全て抜き出すように。
後ろにもたれかかり、天井を見上げた。
「ここも、見納めだな……」
おそらく二度と帰ることはない。
足を踏み入れることも。
―――――――絶対に。
「……………………おい」
不意に漏れた声は、不満と不機嫌に彩られていた。
それは、独り言ではなく、投げつける相手を見据えた言葉だった。
きつめに絞られた視線が向かうのは、千夜自身の足元。
正確には―――――――行儀悪く開かれた股の間に、だ。
そこから、
「―――――――今晩ハァ」
「…………」
両脚の間から―――――――ニョキっと人の頭が飛び出ていた。
悲鳴をあげても文句はない光景だった。
しかし、千夜は呆れたように睥睨するのみの冷ややかな反応しか返さない。
何故ならば、
「なに、してる? ―――――――黒蘭」
「お目覚めドッキリ企画。ちょいホラー仕立てでお送りしておりまぁす〜」
ヒラヒラと片手を茶化すように動かす様には、既にホラーなど風味も残っていない。
「……退けよ」
「んもう、つれない。人がせっかく寝起きに刺激を提供してあげて……うむむー」
謂れの無い不満を漏らす頭部を、千夜は両脚で挟んで圧迫してやる。
が、すぐにその間にある異物感はなくなり、
「なにすんのよぉー」
股の間の存在は、いつの間にか背後に回って首に腕を絡ませていた。
「今更お前に刺激なんぞ感じるか」
「あらん。せっかく、ホラー映画見て演出を研究したのに」
「……あの借りた覚えのないレンタルDVDは、やっぱりお前か。しかも散々延滞させやがって………」
「だって、忘れてたんだも〜ん」
悪びれた様子はカケラもない。
既によく見知った反応だった。
黒蘭という存在は―――――――出会ってから、ずっとこの調子の一点張りだった。
出会ったあの日から、ずっと―――――――
「……何も言わないのか」
「ん〜?」
何を言い含めた問いなのかわかっているだろうに、黒蘭は知らぬ素振りで濁す。
わざわざ言わせたいのだろうか。
「………お前は、変わらないな」
「そりゃぁ、カミさまだもの」
そうじゃない、と内心で否定し、
「お前は、何があろうと………ずっとそんな感じだったと思って、な」
「どんな感じかしら?」
言われて、考えてみる。
黒蘭は、何も言わない。
自分が何をしようとも、咎めることも呆れもしない。
そして、何もしない。
ただ―――――――
「何時でも何処でも……俺の周囲をふよふよ埃のように舞ってやがる」
「もう、失敬な言い様ね」
唇を尖らせて不服そうにしているが、それだけだ。
昔、こんなぞんざいな態度で接しているところに居合わせた者には、冷や汗の滲んだ青い顔を向けられたものだった。
だが、それでも黒蘭は笑うだけだった。
微笑。
振り返ってみれば、黒蘭の表情といえばそればかりだった。
否。
それしか―――――――知らない。
「胡散臭い笑い顔を常備して、ふわふわふわふわ………」
「今度は、風船呼ばわり?」
「風船は人の揚げ足とったり、小憎たらしい台詞を吐いたりしないだろう」
「でも、ただの風船と違って退屈しないでしょう?」
「ふん……限度ってもんがあるだろうが」
退屈。
そういえば、ここまでそんな言葉とは縁遠い人生を送ってきた。
そう、全ては―――――――
「……なぁ、一つ聞いておきたい」
「あら、何かしら?」
「どうして―――――――あの時、俺を助けたんだ」
それは、六年間ずっと胸に留めて閉じ込めていた疑問。
この六年という年月は、全てこのカミが投じた一石なくして有り得ない。
気まぐれ―――――――だったのだと、自身ではそう結論付けていた。
自分の何を気に入り、面白いと思ったかは知れないが、この空虚な存在はあの場で死なすには惜しいと思わせたのだろう。
一柱のカミの悪戯により、生きながらえた。
だが、それも今夜限りだ。
腐れ縁のように続いたこのカミとの仲も、ここで終わることになる。
だから、だろう。
深いとも浅いとも言いがたい関係を続けてきた相手に、最後にどうしても聞きたくなった。
今の己の―――――――起源となった存在に、あの時何を思ってこの命を拾い上げたのか。
「……齢ウン百年生きて退屈を持て余すカミ様にとってみれば、こんなセミみたいな存在を拾ってみたことになんか大した理由はないだろうが………まぁ、死ぬ前に聞いて
おきたいことだった。いい機会だから教えてくれよ」
そして、同時にこれが最後の機会でもあるのだから。
言葉の裏にそう言い含めて、反応を待った。
「………月が、綺麗だったから―――――――じゃ、ダメかしら?」
「何だ……特に理由も無いのか?」
黒蘭ならなくもない返答だ、と思う反面、何処と無くショックを感じている部分もあった。癪なことに。
しかし、
「理由を聞かれたから、答えたんだけどん? ……私ね、好きなの。白い月」
「……ああ、知っている」
胡散臭い笑顔がポーカーフェイスである黒蘭には、たまにそれでいてもわかりやすくご機嫌な時がある。
それは、普段は紅い月が―――――――稀に白く浮かび上がる夜だった。
黒蘭に拾われた夜も、その白い月が出ていたが―――――――
「白い月はね……私に、幸いを運ぶから」
「幸い?」
「そう。あの真っ白な月が照らす夜は、何かしらいつも私にとってイイコトが起きるのよ。あの夜も……ね」
首に回されている腕に、少し力がこもる。
閉じるように密着を強くし、
「イイもの、見付けた」
「……そんなに珍しいものだったか、俺は?」
皮肉るように千夜は笑い、
「……悪いな。お前の退屈しのぎ……もう、してやれんよ」
「…………」
「今夜が、俺の―――――――ゴールだ」
ゴール、と自分で無意識のうちに懐かしい響きを放っていた。
六年前の、出会ったあの夜に―――――――黒蘭は言ったのだ。
『―――――――貴方のゴールは、他のところにあるかもしれないわよ? 一緒に探してあげるから来なさいな』
言葉と共に伸ばされたのは、今は抱擁に使われている手の片割れだった。
その腕は大胆に絡みついているが、そこに束縛する力は無い。こちらが身じろぎしてすれば簡単に振りほどけてしまうだろう。
己の対する黒蘭の態度そのもののようだ。
このカミが、はっきりと己に何か行動を示したことがあったといえば―――――――あの時の、あの手を差し出したことぐらいだ。
以来、のらりくらりと己の傍を漂う。
そして、それを心底疎んじることもなく甘んじていた。
ずっと。ずっと。
「今から向かうところが………貴方が見つけたゴール、なのね?」
「ああ」
「………ここで、満足?」
「随分歩いたと思う。そして、随分……行き会った」
そして―――――――失った。
知らなかったこと。
知りたくも無かったこと。
あの時、潰えていれば絶対に得ることが無かったものが、今はある。
全てが黒蘭の手から始まった。
他者との出会い、連鎖する悲劇も。
このカミは、己の辿る道を全て見越した上で生かすことにしたのか。
全ては、この永遠という退屈を持て余す存在を楽しませるための茶番だったのか。
弄ばれたのかもしれない、と考えに行き着いても、不思議と怒りは沸かなかった。
過ぎたことと切って捨てるには、出会った彼らは大きい存在であったはずなのに。
「―――――――ぁ」
疑問は、違和感へと繋がった。
だが、それは更に『答え』にも直結していた。
長いこと引きずっていた一連の―――――――謎が、解けた気がした。
「……くっ……は、ははは」
笑みが、思わず声に出た。
内側から何かがこそげ落ちていく感覚と同時に、何かが居座る。揺らぎを許さない、重みのようなものが。
そうか、と落胆なのか仄い歓喜だかわからない納得が湧く。
「……千夜?」
「黒蘭………俺は、どうやらどの道ダメらしい」
行き着いた答えに拒否感はない。
しっくりするのは当然とさえ思える。
そうだ、この身は、この存在は元より、
「……所詮、俺は……ガラクタだってことだな」
「何を言っているの?」
「今……ずっと、付きまとっていた違和感と……疑問の正体がようやくわかったんだ」
今までどうして気付かなかったのか。
否、気付きたくなったのだ。
皮肉にも、新たな環境へと踏み込んで、『それ』をふとした拍子でさえ意識せざるえなくなった。
現在を感じる際に、どうしても必要になるもの―――――――それは、過去。
そして、振り返る時、
「もう……思い出せないんだよ、黒蘭」
「何を……?」
「何もかも、だ。俺を守って死んだ連中のことも、俺と関わって死んだあの娘のことも」
先程の夢を思う。
しかし、意志による要求とは裏腹に、脳には靄がかかったように残像しか反映されない。
夢ではなく、今度は思い出を思う。
思い、そして―――――――
「……ゼロには、何をかけても………ゼロってことなのかな」
「まさか、坊やのことまで忘れたっていうんじゃないでしょうね?」
「―――――――」
心臓を直接握られたような揺さぶりと共に、体中の血液の温度が下がったような気がした。しかし、咄嗟に思った先で――――――今しがた持ち出された男の顔は、まだ
そこにいた。投影された表情は、出会ってから得られた最高の笑みを浮かべるものだった。
恍惚とした何かが胸に滲む。
もう、彼らの顔―――――――そして『あの人』の顔はどうしたって思い出せないのに、彼はまだ己の中でしっかりと形を留めて残っていた。蒼助だけではない。朱里、
三途、久留美もだ。それは、この手から確かに失ったけれども―――――――本当の意味で失っていないからだと思った。
もう記憶の断片と化してしまった彼らも、こうなることが出来たはずだったのに。
手遅れになる前に、離れるか、何処かへ逃がして見送ってやるべきだった。
けれど、それは既に過ぎたことだ。どうしようもない。
そして、そんな風にしか死んだ彼らを感じて捉えられなくなった自分が憎らしく、疎ましい。
「いや、まだだ」
「……そう」
「だが、いずれゼロになる。いい加減、学習しているよ」
一時の慰めに甘んじてしまえば、己は今度こそダメになるだろう。
本当に『あの時』に戻ってしまう。
何もなかった最初の時に。
変わっていない。
あの時もそうだった。死ぬことは恐ろしくない。
だが、今は一つだけ違う。
あの時は知る由も無かった―――――――喪うという恐怖を知ってしまっていた。
「今度こそ、俺は……間違えない」
間違えず、守ってみせる。
残してみせる。自分という空の器に、この自己の存在を証明するかけがえのない人たちを。
だから、自分はもう―――――――
「終わりにする。俺のゴールは、目前だ」
身を沈めていたソファから腰を浮かせる。
同時に、絡み付いていた黒蘭の二本の細い腕が解ける。
するり、と殆ど抵抗無く離れる様に、何故か胸が軋む。ほんの少し。されど、確かな鈍痛として。
止めないのか。
つまらないから寄せ、とは言わないのか。
そう問いたくなる自分がいた。
馬鹿な思考をしていることにすぐさま気付き、揉みくちゃして放り捨てる。
止めないのは、それだけの価値もないということだ。
このカミを満足させるだけの存在ではなくなった。
そして、もういいという許可でもあるのだろう。
思い返せば、無理を強いられた記憶は無い。一度たりとも。
それを匂わせた言動は幾度と無くあったが、それでも黒蘭はこちらの意志をねじ伏せてまで何かを強制したことはなかった。
誘われた時も、そうだった。
こちらの意志次第の選択肢を目の前に並べて、選ばせた。
だから、今度も同じことなのだ。
そして、自分は選んだ。
少なくとも、あの時とは違う選択肢を。
「……もう、行くの?」
「ああ」
「居場所は、見当ついているの?」
「随分前にな。両生類の割には頭が回るようでな……厄介なところに拠点を置きやがった。おかげで、そうやすやす手が出せなかった」
己のポテンシャルが急落している状態では、勝てる見込みは薄かった。
回復するまで、或いはどうにか打開策を打ち出すまでは、と先延ばしにしていた。
その甘い考えが、不要な惨劇を生むことになるなど想像もしていなかった少し前までの自分が今はどうしようもなく憎らしい。直接的な原因となった神崎以上に。
仮眠をとる前に用意をしていた黒いコートを羽織る。
学校という日常生活の場に踏み込む前によく来ていたものだ。
夜を歩く際に、常備していた―――――――懐かしい一着。
「……一つ、感想を聞かせて頂戴よ」
既に交わす言葉など尽きたかと思っていた相手は、不意に背中に言葉を投げてきた。
「―――――――楽しかった?」
ぽーん、と投げられたのは簡潔なたった一言。
そんな一見些細な問いかけは、千夜の心を大きく揺さぶった。
目の前がぶれる錯覚さえ覚えるほどに。
ああ全く、おとなしく見送ってくれるのかと思えば。
どうやらこの退屈虫は、骨の髄までしゃぶりつくさねば気が済まないらしい。
ならば、と千夜はその喧嘩を買うことにした。
この女の期待を最後くらいは裏切ってやろうと思った。
胸のうちにあるこのやり場のない未練の掃き溜めにしてやろう、と。
何一つ面白いものなど無い―――――――酷くつまらない告白を。
「ああ―――――――楽しかったよ。楽しかった、さ。……特に……俺は、この生活が好きだった。普通の学園生活が楽しかった。……普通の高校生、終夜千夜でいるのが
―――――――好きだった」
―――――――『終夜千夜』。
その名でいた期間は、今まで使ってきた偽名の中でも最も短い。
ほんの一ヶ月にも足らない使用期間であったのにも関わらず、何故か一番捨てるのが惜しいと感じていた。
その前に使っていた『御月千夜』でも、同じものを同じように感じて同じ生活をしていたはずなのに、湧き出る感傷の濃度が全くといっていいほど違う。
身構えだって同じだったはずだ。
浸り過ぎないように気をつけて、弁えることを忘れないようにしていた。
なのに、何なのだろう。
同じ役割を果たしていたはずの偽名だというのに、こうも執着の度合いが違う。
他と同じように、『御月千夜』が既に記憶から薄れてしまっているからか。
そして、『終夜千夜』はまだくっきりと形を残しているからなのか。
不意に、脳を掠める記憶があった。それは、とても真新しいもの。
更に、耳には残響が、
『―――――――ずっと、終夜千夜でいればいい!』
あの夕暮れの教室に置いてきた男の台詞が、甦る。
放たれた言葉に覚えた感情は、歓喜。
その理由は、今ははっきりと―――――――わかる。
「……終夜千夜で、いたかったよ」
たった四文字で表せるこの名前に、偽名以上の何かを望んでいたのだ。
探し続けていた何かになることを。