黄昏が燃える空の下。
女は、見ていた。
屋上から見下ろせる学園の絶景を。
そこに入り込む一人の少女の姿を。
校舎から出てきたその人影を見て、
「……やっぱり、ダメだったわね」
落胆を提示する言葉が、淡々と赤い唇から漏れた。
壁に靡く髪を緩く押さえつけ、
「まぁ、ああなっては坊やでも何を言おうと止められるとは思っていなかったけれどね」
金網に身を傾けて、口元には笑み。
しかし、そこから零れる言葉は、
「……わかってはいても、心臓に悪い光景ね」
何処か渇いていた。
視線は、絶えず少女の後姿に釘付けられている。
その眼差しは虚ろを孕んでいて、
「さて………どうしましょ」
くるりと反転して、焼ける天上を見上げて呟いた。
◆◆◆◆◆◆
久遠寺医院は、その日早々に営業を切り上げていた。
原因は、責任者である院長の気まぐれだった。
何があったのか、院長はすこぶる不機嫌だった。
治療に関しても、診断に関しても、この小さな医院では院長の手一つで行われるものであり、彼女の意志が医院の意志だった。
勤務する看護婦たちは訝しみながらも、院長の命令に従いいつもよりも早くに勤務から上がって帰宅していた。
側近である一人の看護婦を除いて。
「………朱里ちゃん」
医院にただ一人残留する看護婦―――――――来生は、待合席に座る白髪の少女に声をかけた。
少女は食い入るように玄関を見つめて動かない。
その姿はまるで飼い主の帰りを待つ犬のようにも見えて、来生は不謹慎とわかりながらも苦笑してしまった。
「お姉さん、遅いですね」
「………」
「……お腹すきませんか? お菓子食べます?」
「……いい」
ようやく返ってきた返事も、素っ気無いものだった。
嘆息し、来生は少女の気を引くのを諦め、見守る立場に甘んじることにした。
少女は、まるで人形のようだった。
容姿は元より、雰囲気そのものが希薄となっていた。
いつもは、姉が傍にいる時はあれほど活発で小生意気な振る舞いが嘘のようだ。
しかし、来生にとってそれは初めて見るものでも、動揺するものでもなかった。
これが、この少女の本来の姿なのだから。
この、人として壊れてしまった姿こそが。
もう二年になるのですね、と来生は懐かしく思う。
初めてこの医院にやってきた時、本当に【空っぽ】であった、と。
人ではない扱いと待遇によって、少女は壊れる寸前であった。
危うくのところで彼女の『姉』に位置する人間が少女の前に現れ、救い出さねば本当に手遅れになるところだった。
心に負った傷は大きい。
それでも、その傷を癒すようにあの『姉』が少女に己自身を与え、少しずつ欠けたものを埋めていった。
二年の月日は、無駄ではなかった。少女の世界は、彼女で満たされることで何とか復興されたのだ。
空虚そのものであった表情には、喜怒哀楽が吹き込まれ、振る舞いにも人間らしさが纏われるようになった。
しかし、それは一つの危惧を『副産物』として産み落とした。
少女の世界を支えるのは、たった一人の人間。
人間不信の病を抱える少女は、自分の深い部分には『姉』以外の誰一人と受け入れない。
『姉』が全てだった。
だが、『姉』を失えば―――――――その世界がどうなるかは考えるまでもなく明白だった。
壊れた人間は多く見てきた。
そうした経験を積むことで、来生は人間とは生きているうちに必然として何処か壊れる生き物なのだろうという考えに至った。
自分でも気付かないうちに。或いは、他人にもわかりにくいように。
自分もきっと例外ではないだろう。
そして―――――――『彼女』も。
「―――――――っ、ぁ」
物思いに耽っていた来生は、少女がふと漏らした声によって我に返った。
その声には、感情が宿っていたことを理解する。
それが何を意味するのかも。
人気の薄い空間に、静かに響くのは玄関の開閉を報せる鈍い音。
「……姉さん」
少女の声が、それを為した人間の正体を確定させる。
扉の向こうから現れたのは、来生自身もよく知る人物だった。
終夜千夜と、今はそう名乗っている者。
少女の『姉』。少女の『世界』。少女の『全て』。
「悪い、遅くなった。……待ったか?」
千夜は、後ろ手に扉を閉めて朱里へと歩み寄る。
だが、その歩みが距離を縮めるよりも朱里の方が早かった。
突進するように駆け出す朱里。
それを腰の辺りで受け止める千夜。
「姉さんっ姉さんっ……!」
「…………」
全身をこすり付けんばかりに密着する朱里を疎む様子もなく、千夜はその小柄な身体を抱きしめてやっていた。離れている間に身体からすり抜けて行ってしまった人間味
を取り戻そうとしている人形に、持ち主がそれを与えようとしている。
「………蒼助とお別れしてきたよ」
びくり、と朱里の身体が震えた。
「しばらくは………ここでお世話になりなさい。三途のところに行くのなら、少し経ってからがいい。あいつが落ち着くまでは……」
「…………うん」
力のない返事に、千夜は気付かないフリをしている。
普段の彼女であればありえないことだ。
それだけ、覚悟の意志は固いということだろうか。
「朱里……お前が最後だ」
「………」
「だが、その前にお前には伝えておかなきゃならないことがあるんだ」
向き合って話したいのか、千夜は朱里の肩に手を置いて一旦身を離そうとする。
しかし、朱里はそれを拒むように千夜の腰に噛り付いている。
別れが避けられないのなら、と一分一秒の離別すら惜しいのだろう。
朱里のその気持ちを察したらしく、千夜は諦めた様子で朱里の肩から手を離し、もう一度背中に回した。
「………ずっと、お前に嘘をついていた」
嘘。
千夜が無数と身に纏うものだ。
奇妙な話だが、彼女の抱える『嘘』だけは責められる謂れのない正当なものではないかと来生は思っていた。
真実を持たない彼女には、嘘は必要不可欠なものである。
そうでなければ、その存在は保てない。
何もない人間が生きて在り続けるには、偽りであろうとも何かしら事柄を得るしかないのだから。
嘘で足りない部分を補い、自分を作り出した千夜。
彼女は、誰も彼もに嘘をついている。
そして、それは妹である少女にも例外ではなかった。
「俺は………【本物の千夜】じゃないんだ」
千夜。
確か初めてこの医院に連れられて来た時、彼女にその名はなかった。
「……お前の本当の姉は、俺じゃない。そして、本物はもういない」
「…………」
「俺はお前の母親に救われた。彼女に、死んだお前の姉の名前をもらったんだ」
朱里の反応は、ない。
姉と信じていた人間の腕の中で、ただ沈黙に伏している。
それでも千夜は続ける。
「……この名前と一緒に、お前のことを任された。【千夜】に迎えに行かせると約束して置いて来てしまった子供がいる、と……彼女は俺に言い遺した」
次いで出るのは、
「騙し続けて……縛り続けて済まなかった。お前に、こんな偽者を姉などと呼ばせて続けて……」
二年の時を経て明かした事実と、欺き続いたことへの謝罪。
衝撃的な話だ。
信じてきたものが、全て嘘であった。
残酷なこの真実を朱里はどう受け止めるのだろう。そもそも受け止められるだろうか。既に崩壊しかかった朱里の世界は。
心苦しい光景を来生は、苦く見つめた。
「……ダメ、なの?」
謝罪の後に発生した沈黙を払ったのは、朱里の疑念の言葉だった。何処か許しを乞うような。
「姉さんが、私の姉さんじゃ……ダメなの?」
「朱里……?」
「朱里は……私は、ぁ……」
きゅっと腰に回して掴んでいた部分を握る強さが増す。
自分の想いを搾り出すかの如く。
「楽しい感情も、嬉しい感情も……全部姉さんからもらったし……姉さんといて手に入れたもん。毎日死にそうなくらい苦しくて人形みたく生きている方が良いって考え方
を捨てることができたのも、姉さんがいたからだし………一緒に過ごした二年が今までもこれからも一番大事で幸せだったのも……姉さんが、私の姉さんだったからだよ」
朱里が何を伝えたいのか。
外から見れば理解は簡単だった。
来生にはわかった。
千夜が二年間抱え続けてきた『嘘』など、少女にとっては些細なことだったのだ、と。
少女にとって、何にも替え難い真実はずっと確固たるものだった、と。
「本当でもそうじゃなくても………どっちだっていいよぉ……っ」
「あか」
「私の姉さんは、姉さんがいいっ……」
これだけは譲れない、と言わんばかりの強い言葉だった。
朱里は、間違っている。だが、正しいのも事実だ。
彼女は偽者だ。それはどうしようもない。
されど、過ごした日々も事実であることには違いない。
いつのことだったか、かつて朱里の口から零れた言葉を来生は思う。
家族のことはほとんど覚えていない。劣悪な環境から己を救い出した張本人である千夜が自分の姉であるかの確信と呼べるような記憶をもちあわせていないのだ、と。
ならどうして一緒にいることを選んだのかと聞いた時、彼女はなんと答えただろうかと思考し、思い出す。
私がそれを望むから―――――――と。
それが、来生が初めて眼にした朱里の『人間』らしい姿と言葉だった。
そして、それは現在の光景に重なる。
「ねえさんが……いい、のぉ」
「…………」
「ねえ、さ―――――――」
千夜の腕に力がこもった。
宥めるように浅かった抱擁が、朱里のしがみ付くそれに対して掻き抱く深いものへと変わる。強く。強く。
「―――――――ありがとう」
喜びに満ちた声。
しかし、揺るぎように無い別れの意思を意味する言葉と感じたのは己だけはないはずだ、と来生は朱里を注視した。
「……っ、ぁ……うぇ、ぇ……」
ダムが決壊した。
堪えきれずに泣き出した朱里に、千夜は今の己に泣き止ます資格などないと承知しているのか何もしない。慰めも、宥めもしない。
ただ黙って受け止めている。
自分の行為と決意が大切な人間を哀しませていることを。
それでも。
それでも緩まないのか。おさまらないのか。
彼女を掻きたてる死の衝動は。
「ごめん……なさ、い」
「どうした……朱里が謝る必要はないぞ?」
「……ごめ、ん……なさ……っ」
何故謝るのか。
またしても、その理由は来生には理解できた。
しかし、それを教えようとはせず来生は黙して、見届け続けた。
泣き声と抱擁によって描かれる―――――――家族の離別を。
抱きしめてあげたいと言っていた朱里の腕は、やはりしがみつくことしかできない様を。
◆◆◆◆◆◆
窓越しに緋の世界が薄く藍に変わろうとしていくことが確認できる。
千夜が去ってからの時間の経過を知らしめる。
蒼助は、乱された机の海の中に埋もれたまま動けずにいた。
否。動かなかった。
折れた肋骨は既にくっついていた。
皹の入った腕の骨も。
千夜から受けた身体のダメージは、完全に回復していた。
けれども、蒼助はその場で指一本動かさないままだった。
天井を力ない眼で見つめて微動だにしない。
動かない。
動けない。
動きたくない。
からっぽになった心は、不動とのみ命令を下す。
身体はそれに従うかのように、重くなって沈黙している。
「………今、何時だ?」
ポツリと呟いた言葉は酷く渇いていた。
そこに言葉通りに事実を追求する意志は感じられない。
ふと片手を持ち上げて、広げた掌を見つめる。
何もない。
何も―――――――
「…………なん、で」
伸ばさなかった。
掴まなかった。
止めなかった。
空の掌に問いかけようとも、返事は返らない。
ただそこには虚無のみが存在するだけだった。
握りつぶすように閉じて、蒼助は重い腰を上げる。
地に付いた足は何故かふわふわとした感覚で、何処と無く不安定に感じた。
そこから思い出すのは、いつぞやの黒蘭の言葉だ。
世界の確立―――――――だっただろうか。
「……また、壊れちまった」
く、と笑みと共に出たのは、己の現状。
この感覚を、蒼助は知っていた。
沼に嵌ったかのようなこれは、ひどく馴染み深いものだ。
ここは、『壊れた世界』の中だ。
希望も未来も何もない。
過去と現在の瓦礫が残るのみ。
同じだ。
母親の訃報を聞かされた日に、感じたあの絶望感と―――――――同じ。
そして、あの日自分を取り巻いた衝動もまた、
「―――――――っっ!!」
くそったれ、という罵倒は出す前に口の中でグシャグシャに噛み砕いて、衝動に押されて振り上げた足はその先の机を蹴り上げた。金属の耳障りな音によって苛立ちを
焚きつけられて、蒼助は無我夢中に周りの障害物に当り散らす。手で持ち上げた椅子を力一杯床に叩きつけ、机は原型を失うまで蹴り付けた。
「っ、はぁ……は、……」
内側に溜まる熱は、動けば動くほど高まる。かといって動きを止めても滞るだけだ。何をしようと微塵も冷まる様子もない熱に、意識は浮かされていく。
何から何まであの時と一緒だ。
自分は何一つ変わっていなかったことを思い知らされる。そう考えると、熱が二三度上がった気がした。
「―――――――、……」
視界の端に一瞬過ぎったものに、蒼助は俯かせていた顔をバッと上げた。
振り向いた先には、窓ガラス。
いつの間にか完全に陽は落ちていた。夜を映す窓ガラスは鏡には及ばすともそれに近しい効果を持つようになっていた。
そして、その一枚に映るのは―――――――蒼助の顔だった。
ガラスに映りこんだ己の顔を見て、蒼助は凍りついた。
そこにいるのは、母を失った時の自分だ。
何処までも腐っていくしかない死人のような人間。
見るに耐え難い―――――――かつての自分が、そこに。
気のせいか、ガラスの平面世界の中でそいつが嗤ったように見えた。
ホラ、見ロ。
結局オ前ハ何一ツ変ワルコトナンテ出来ナインダ。
惚レタ女ヲ守ルナンテ大層ナコトハモッテノ外。
所詮オ前ハコウシテ腐ッテ死ンデイクノガお似合イナノサ。
ケケッ、ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ
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ケケケケケケケケケケケケケケケ―――――――
「―――――――っ、っ!!」
熱が一気に膨れ上がり、弾けた。
理性も何もかもを吹き飛ばしたその瞬間、蒼助は腕を振り上げた。
拳が鏡の中の男に向かって唸る。
黙れ、という蒼助の憤怒の黙示と共に。
「―――――――ほい、ストップ」
その行使は、何者かの抑止によって阻まれた。
同時にかけられた声が自分の良く知るものであると自覚したのは、その人物を眼で確認した後だった。
「…………くら、ま……?」
「さん、が足らん。つか、さすがに窓ガラスは勘弁な。机や椅子は誤魔化せるが、ガラスはちと手間だしな?」
蔵間恭一。
今日一日現れなかった担任が、そこにいた。
それが、どうして今ここにいるのか。
何故、このタイミングに。
これではまるで、
「……ははっ。こりゃぁ、驚いたな。今のお前、初めて会った時と同じ顔してるぞ? ……魂半分持ってかれちまったみたいなツラだよ」
「………っ……」
図星を付かれ、掴まれている腕を煩わしげに振り払う。
蔵間はそれに気分を害した様子は無い。
それどころか、
「そんなにまでなるくらいあいつにのめり込んでいたのか……。あいつも相変わらずの凄まじい魔性っぷりだなホント」
何を言われようとも無視して、何でもねぇよと塞ぎこんでこの場を立ち去ろうと思っていた蒼助の心を、その言葉は捕らえて離さなかった。
「………何で、あんた」
まるで彼女のことをよく知っているような口ぶりをした張本人は、すげぇなこれ、と周りに散乱する壊れた椅子や机をしげしげと眺めていた。
しかし、ぽとり、と落ちた蒼助の呟きは彼の手に拾われ、
「んー………まぁ、ちょっとした拘わりと面識があるくらいだ。
―――――――三年前、降魔庁があいつを東京に呼び寄せたっつー程度のな」